13年1月〜12月のコラム          コラム11目次に戻る
初夢・1〜9    人には・1〜193   自立・1〜27
  

初夢

人には

自立


初夢 1/1〜1/9


新しい年という区切り。
特に昨日と今日と明日をダラダラ生きるワシのようなタイプ。
どこかで区切りを決める、あるいは決められる必要がある。
何しろ、人生は短いのだ。
もう、この歳になった。
ウソのように短いと思う。

まだ、ワシが若かった頃。
大晦日と元旦の違いなど無い、と本気で思っていた。
今も充分にアホだが、その頃はアホの程度が濃かった・・・
今は大晦日と元旦の違い、意味が多少は解る。
人間が欠陥だらけの弱い生物だと気づいてきたからだ。

毎日は少しずつ変わる。
そして、振り返ればたちまち年月が過ぎる。
残念だが、人間の寿命は多くない。
おおよそ100年だ。
光陰は矢の如し、なのだ。

人間の意識は弱い。
昨日と今日の違いの認識が甘くなる。
限りある年月の重要性を軽くみる。
だから、区切りが必要なのだ。
区切りは社会の潤滑の為でない。
自分の意識の為なのだ。

一年の計は元旦にあり。
ワシは長い事、この計を合計の計だと思っていた。
だから変だなぁ、と・・・
合計なら大晦日だろう、と・・・
そして、計画の計だと、やっと気づいた。

一年の始まりの元旦に計画を立てる。
目標を立てる。
すると、意識ってヤツは結構便利なのだ。
意識上で忘れても、意識下では憶えてくれている。
何となく、目標に関係する出来事があると注意する。

目標、計画が実現するかどうかは別の要素がいる。
この世は実際に動いた分が一番影響するのだ。
目標を立てても、何もしなければ何も起こらない。
い、いや、何か起こる事もあるからややっこしい。
だが、目標を立てなければ、何が起きても起きなくても分らない。
もちろん、立てなければいけないわけでもない。
自然に立つこともあるし・・・

元々、計はよりよく生きるようにするものだ。
それは必ずしも社会的に生きやすくなるだけじゃない。
自分の内部の生命力の活性につながるものでもある。
ただし個々のタイプがある。
計画を立てると、逆に生命力が下がるヤツもいる。
例えば、ワシなどはそうかも・・・

合計や計画の計。
どうやら結果とか出来上がったモノという意味のようだ。
するとワシのように、先の事はわからない、という立場には縁が薄い。
計に重みを置かないからだ。
だが、この世は計を意識し行う方が計に近づく。
夢に向かって進めば、夢を持たぬより夢が形になりやすい。

先の事は判らない、のは事実だ。
判らないが、計のパーセントは上がるのも事実だ。
つまり、ワシのように計画性が乏しいのは言い訳なのだ。
計画に沿って努力する根性が無いから、言い訳を先にしている。

遅まきながら・・・い、いや、人生に遅いは無い。
始めたら、始まりなのだ。
今年の計・・・
計は具体的な方が実現に近づく。
ワシは空想や妄想や愚想や夢想や乱想は得意だ。
しかし・・・残念ながら現実的な想は不得意だった。
気づくと、元旦は過ぎていた・・・

本来は、一年の計は春にあり、だ。
元旦という、一日限りではない。
だが、もう計を立てるのがメンドウになった。
メンドウが大手を振るうようなヤツに成功者はいない。
メンドウと思ったら、もうロクでもない人生が待っている。

ついでに・・・
このロクというのは、キチンとしているという意味だ。
キチンとは相性の悪いワシだ。
もう計を立てようが立てまいが、まぁ先は知れている。
というのが立派な人達の言い方だ。
ワシは自慢じゃないが、立派ではない。
だからそんな言い方は信じない。
信じない者は、結構救われる、ものだぜ。
疑う者も信じる者も同じだ。

というわけで、メンドウと仲良しなワシは次の手を考える。
計など立てなくても、棚からぼた餅だって降ってくる。
まぁ、ヤリとか落雷(天誅)の確率は多いが・・・
それでも人生はわからない。
たまには、和菓子とコーヒーだって出現するのだ。

どんな状況でも夢を見られるなら大丈夫だ。
夢を実現する為に一所懸命努力する人もいる。
それが生きがいなら、とやかくいうことはない。
ただし夢の内容が他に迷惑とならないならばだ。

ヒットラーだって、某大統領や某主席だって世界征服の夢がある。
夢に向かって努力するが、えらい迷惑だ。
その努力や精進は戦争行為となるからだ。
夢へ努力する人が、必ずしも立派でない証拠だ。
そもそも夢はほどんど個人的な欲望だし・・・

努力好きも努力苦手も夢をみる。
ワシも夢や空想や妄想は大好きだ。
絶望しすぎて、夢をみられなくなったら生命も萎む。
夢と現実と対比するのも勘違いだろう。
現実の中だからこそ、夢をみるものだ。
生きていくのは、結構しんどい事も多い。
夢は生きる愉しみとしても、生命を応援する。

肉体を持った存在の最高の愉しみは肉体の愉しみだ。
だが肉体があるから制限も多いし大きい。
身体は通常一つしかない。
人間は移動手段を発明して時間を短くした。
それでも一瞬というわけにはいかない。

一つの種の一つの個に生まれると変更もできない。
オスに生まれると、通常メスにはなれない。
生まれる時期や時代も変更きかない。
生まれた地域も変更できない。

人間なら空を自由に飛べない。
海中で自由に住めない。
土中でもいられない。
火星や金星にも気軽に行けない。

それらを一挙にカバーできるのが夢だ。
実現可能な夢もあるが、それらは現実に近い。
不可能な想像が夢の醍醐味だ。
そして、どういうわけか生命力を活性する。

夢の大小と生命力は関係する。
現実から遠い夢ほど生命力の底が広がる。
それは個人を超えて、国や人類の未来を広げる。
現実に近い夢も個人の生命力を活性する。
だが同時に個人の生命力も消費する。

良否の問題ではない。
両方とも役に立つ夢だ。
ただし時代により夢の大小は変わる。
個人的な夢ばかりだと、国は衰退する。
人類全体は、衰退か滅亡に向かう。
夢は大きい、バカげたほど大きいのが必要なのだ。

最近の日本人。
大きな夢をバカにする傾向がある。
子供が実現不可能な夢を語ると、両親は否定する。
学校や社会のオトナ達も否定する。
何も解っていないのは、夢を否定するオトナ達だ。
国や人類の未来は、とてつもない大きな夢に救いがあるのに。
だから、社会全体の生命力は衰退している。
子供から高齢者まで、日本人の生命力は低迷している。

夢は一つだけと決まっているわけじゃない。
ならば幾つあってもいい。
現実に近い夢も、不可能な夢も持てばいい。
生命力を上げる方法は幾つもある。
夢を持つなら誰でも簡単にできるのだ。
そういう優しい仕組みが、この世には幾つも用意されている。
宝物は、そこらじゅうに転がっているのだ。

規制するのは固定概念。
つまらぬ社会通念。
頭の良い人達の言動。
だが、夢は個々の持ち物。
しかも他からは見えない。
遠慮せず、大きな夢を持とうじゃないか。

棚からぼた餅の夢を毎日見ている。
(小さな夢だ・・・)
世界の戦争地域で、兵器を無能にする能力を使う。
(今のところ、自分に無能という能力を使っているが・・・)
ロクデナシの政治家や官僚をまとめてアンドロメダに転送する。
(これは、時々ニュースを見たときだけだけど・・・)

風習としての初夢がある。
鎌倉時代以前からあったようだ。
大晦日(節分)から元旦(立春)にかけて見る夢。
それで一年の吉兆を占う。
占いだから当然抜け道がある。
占いは言い訳を用意してないと成り立たないのだ。

単純に良い夢なら喜ぶ。
もし悪い夢なら、枕の下に置いた紙を川に流せばいい。
やがて大晦日から元旦は眠らない風習ができた。
除夜の鐘を聴いて、そのまま初詣に行くのだ。
だから初夢は元旦から二日にかけての夢となった。
それも忙しくなると、二日から三日にかけてが初夢となる。
風習は結構柔軟に変わるのだ。
いいかげんともいうが・・・

ワシは提案する。
元旦、二日目、三日目で、一番いい夢を見たら一年ラッキーとする。
あるいは、元旦から初めて憶えていた夢を初夢とする。
夢はやり直しがきくのだ。
だから都合がいい夢を初夢と決めればいい。
つまり、初めていい夢を見たら、それを初夢にすればいいのだ。
そして、今年はラッキーだ、と喜べばいい。
すると、一年は様々な出来事が起こるが、ややラッキー方面に偏るのだ。


上に


自立 7/22〜8/17


観方で大きく三つに分かれる。
経済的自立。
生活的自立。
精神的自立。
表面ではアレコレ言える。
だが、自立の範囲、定義によって難しいテーマだ。

ワシは独善である。
独訳をする。
時には毒薬的でもある。
定義を独自に勝手に決めるなど、朝飯前だ。

とろこで・・・
ワシは朝飯を食べない。
ほとんど昼飯も食べない。
夕飯も食べない。
これは、事実だ。
夜食は食べる・・・
無駄話、横道は好きだから、まだ続けるぞ。

朝飯を食べない朝飯前から話は迷路に進む。
一日一食。
ワシに厳格という言葉はない。
だから、一食と決めているわけじゃない。
昼間に腹が減るときもある。
食べたかったら食べる。
他の人と食事もする。
一日二食の時も、まぁ、ある。

食は人により違うのが当たり前だ。
同じ人でも、行動により変わるか変えるのが当たり前だ。
食により、その人の調子が変わる。
調子は常に良い状態が楽だから、そうなるようにする。
ワシは無理が苦手なのだ。
他人や社会に合わせるのも苦手だ。
問題なければ、ワシの好きにさせていただく。

そういうわけで、自立の勝手な定義をする。
ワシはいいかげんで、アイマイが好きだ。
だが、言葉の定義をしておかないと通じない。
他人に通じなくてもいいが、自分が迷ってしまう。
迷いも嫌いではないが、解明も好きなのだ。
ワシは・・・節操が無い。

自立の定義。
自立とは何ぞや?
自があるなら、他もある。
だが、自立があるなら、他立もあるのか・・・
あるといえば、あるような・・・
最初からアイマイだ・・・

立つ、がキーになるようだ。
立つとは、立たされるとは違う。
立つのは自分のみのようだ。
他は、立つのではなく、立っているのだ。
あるいは、立とうとしている。
あるいは、寝ているか、眠っている。
あるいは、横になっているか、座っているか、倒れている。

立つ、は自力で立つ。
とはいえ、この世はお互い様の世界。
自力の内は、ほとんどが他のお蔭で成り立っている。
ここに、大きなヒントがあった。

自立という言葉だけで結論が出る。
自立は他のお蔭。
ワシ流の言葉なら・・・
自立とは共存の別名。
これが理解できない自立はニセモノだ。

とはいえ、簡単に結論から話しては面白くない。
小説でも映画でも順を追って惑わすのが作者というモノだ。
ましてワシ自身が、迷い、戸惑い、なげやりが特技だ。
思いつくままの出鱈目解説は得意なのだ。
自立の意味と意義。
ワシには耳の痛い話が続く。

自立の一つ。
経済的自立。
あっ、もう無理・・・
ワシには語る資格もない。 だが、必殺技がある。
自分の事は棚に上げる・・・

経済的自立とは、社会参加が前提条件となる。
要は自分を支える収入があるか、ということだ。
扶養家族等がいるなら、含めての支える収入となる。
通常、それらを賄える働きがあるか、という意味になる。

では譲り受けた財産で生活できる場合、自立してるといえるか。
経済的自立は、あくまで経済(お金)だ。
遺産だろうが、泥棒や詐欺で稼ごうが関係ない。
当然、仕事などしないで高額給料を貰っている役人や政治家。
立派とはいえないが、自立しているのだ。
一人前の仕事をしているか、どうかは関係ないのだ。

遥か昔から、為政者や武力(暴力)で勝手に偉くなる。
そして、一般に働く国民から税金を取り上げて生活する。
働く国民よりも、立場が上の働かない人達の方が収入は多い。
宗教なども同じだ。
人の良い(騙しやすい)信者からのお金で贅沢に暮らしている。
それでも経済的自立している。
あらゆるモノや事に税金を掛けられ、アレコレ払う。
そのあげく自分の暮らしが出来ない人は経済的自立できてないわけだ。
人社会は矛盾で成り立っている。

経済的自立どころか、その収入、あるいは財産で評価する。
現代人社会は経済社会だ。
だから金額の多寡は大きな判断材料となる。
マトモな言行かどうか、よりも、持っている金額で注目する。
稼ぐ額が多いのは、それに値する仕事をしているから、などという。

嘗てのバブル期。
下品な言行と下品な人格の人でも一晩で幾億もの金を稼いだ。
多くの信者から幾百億も吸い上げる新興宗教。
そして、金を握ると偉くなる。
真心を込めて仕事をすれば、お金はついてくるものですよ、などと言う。
腹が黒いから、道徳的な言葉が好きなのも特徴だ。
でも、経済的自立という分野では、とても立派なのだ。

もちろん、経済的な才能ある、尊敬できる人格者も多い。
故御師匠様もそうだった。
要は、経済と生き方や人格は別なのだ。
経済的自立とは、現代人社会のその国だけに通用する経済観念上の事だけだ。
某国に行けば、今のままで経済的自立はクリアできる。
日本で超貧乏なワシだって、富裕層なのかも。

中身は無い経済的自立だが、社会的には最重要でもある。
生活的自立や精神的自立がアウトでも、経済的自立があればフォローできるからだ。
正確にいえばフォローはできないが、社会的にフォローできる。
現代人社会というのは金で何とかなる、という社会だ。

愛でも恋でも鮎でも鯉でも買えるし、変えることができる。
命もある程度までなら買える。
評判も買えるし、嘘も変えることができる。
夫婦の絆も家族の絆も男女の仲もだ。
全てではないが、大部分なら買えるし、変えることができる。

経済的な能力は個々で違う。
学校の勉強や仕事の内容や出来とも違う。
歌が上手い、足が速い、背が高い、といったモノと近い。
努力すれば伸びると思われがちだが、それは勘違いだ。
どんなに優秀な学者でも経済的能力は伸びない。
ほぼ、生れ付きの能力なのだ。
だから、経済的自立は能力が低い人にとっては厳しい。
能力の高い人は、自立出来ないのはナマケモノと思ってしまう。
理解できないのだ。

経済的自立は金額という数字上の話だ。
合格ラインがあるが、生れ付きの能力が大きく左右する。
ところが生活的自立は複雑な要素が入る。
その一つが肉体だ。

生活的自立とは、一人で身の回りの世話がこなせるか、という事になる。
生活的自立は教えられて、あるいは自ら学んで行えるようになる。
チャレンジして、練習して、失敗して、少しずつ出来るようになる。
だから幼稚園の時は免除される。
小学校から、少しずつ学ぶ。
学校は机上の勉強だけを学ぶ場所じゃない。
そんなの、パソコンで充分なのだ。

一人で、あるいは仲間と登下校出来るか。
自分の持ち物を管理できるか。
給食やトイレは一人でこなせるか。
他の人に、自分の考えをつたえられるか。
そういったことを、何度も繰り返して出来るようになる所だ。

やがて、中学校になる。
第二次成長期を迎える。
いろいろ、先生や親が教えてくれないことを悩みながら学ぶ。
中学校以降は、一人で悩みながら、何かをこなしていく所だ。
社会ルールからはみ出すこともある。
そして、その対処を自分で決める時期でもある。
だから、まだ、社会人ではない。

昔なら元服というのが成人の区切りとなった。
大人と子供の違いだ。
現日本では20歳が成人とされている。
だが、それは法律で決めた事。
大人と子供の違いは、肉体的、生物的が基準だ。

簡単に説明すれば、次世代を作れるなら大人。
男なら妊娠させられるか。
オナゴなら妊娠するか。
それが成人の基準だ。
そして、その時が生活的自立の始まりとなる。

親や他の人の手を借りないで、自分の身の回りが出来る。
キチンと、とか正確に、とかは関係ない。
出来るか、出来ないか、だけだ。
しなくてはいけない、わけではない。
してもらってもかまわない。
出来るか、出来ないか、だけだ。

体だけ大人でも中身は子供。
だから、成人ではない。
これは成人と社会人とを混同している。
成人とは体だけなのだ。

心も大人でないと成人とは言えない。
社会人としての自覚あって成人。
こんな言葉は成人の日とか成人式のコメントに出る。
だが、50歳、60歳、70歳になっても社会人失格はよくいる。

国民の代表、と威張る人達にも多数いる。
何しろ国民を苦しめる政策を平気でするのだ。
一部利権組織と手を組んで政治行政をするのだ。
そういう人達が社会人としての自覚があるとは思えない。
だが、成人として幾十年も暮らしている。
成人と社会人は別なのだ。

生活的自立と経済的自立を合わせて、社会的自立といえる。
精神的自立は棚に上げておこう。
何しろ精神的というヤツは、かなりメンドウなのだ。
経済的自立が出来なくても、生活的自立は出来る。
生活的自立は出来ても、社会的自立とはならない。

例えば無人島。
山奥の一人暮らし。
生活的自立が出来ないと、生命が成り立たない。
都会で暮らす人々よりも、しっかりとした自立だ。
頼るモノは自分の体と知恵しかないのだ。
だが、経済的にはゼロだから、経済的自立は無理。
結果として、社会的自立にも適合しない。

成人は肉体上だが、判断基準は生殖能力だけだ。
次世代を残せるか否か、だけの判断。
成人に大きな意味があるともいえるが、無いともいえる。
基本的には、生物は通常成体に成長するように創られている。
威張れるほどのことでもない。
サルでもムジナでもゴキブリでも成体になるのだ。
そして、種としてみれば、個々に生殖能力が無くても関係ない。
種として次世代が繋げられればいい。
例えば、アリやハチ。

成人の意義はほとんどないが、生活的自立は大切だ。
生活的自立を意識するほど、実は一人では難しい事に気付く。
無人島に一人流されたら、何とかする以外に方法が無い。
自立できなければ死が訪れるだけだ。
ところが、通常の人社会では自立が完全ではない。

私は自立している、などと言う人は勘違いしている。
家も建てられない。
服も靴も作れない。
食糧だって確保できない。
手足が動いても、一人で生活できる人はマレなのだ。

生活的自立を意識するようになると、他に支えられている事に気付く。
他のお蔭で生活できるのだ。
威張れないのだ。
自分一人では、ほとんど何も出来ないと気付く。
お互い様に気付くと、初めて自立のスタートに立てるのだ。
すると、更に多くの事に気付かされる。

一人では自立出来ないと認識する事が自立のスタート。
一見矛盾するようだが、自立はこれが絶対条件なのだ。
一人で生きていけない世界。
そこに存在意義と意味がある。
そこに、仕事、という意味と意義がある。

一人で生きられない。
今までの生活的自立は表面だけ、と気付く。
例えば肢体不自由な人達。
生活的自立は出来ないと決め付けられていた。
ところが、誰でも一人では自立できないと気付く。
肢体不自由だろうが、高齢者だろうが同じだと気付く。

何一つ自分の身の回りの世話が出来ない赤ちゃん。
だが、多くの人達の生きる手助けをしている。
深い応援をしている。
自立の意味と意義に気付くと、生活的自立の深さが解る。
表面だけの生活自立など、ほとんどどうでもいいのだ。

生活的自立とは何か?
自分で身の回りの世話がこなせる事。
そういう固定概念があった。
ところが、自分一人で自分の事など出来ない事に気付く。
根底から崩れたのだ。

一人ではほぼ不可能の生活自立。
二人なら・・・やはり不可能。
三人なら・・・やはり不可能。
五人でも十人でも、ほぼ不可能なのだ。
とても、とても多くの人が協力してくれないと無理。
自分の生活は、想像より遥かに多くの人によって支えられている。

ならば、誰だって同じだろう。
乳児でも病人でも高齢者でも同じだ。
とても、とても多くの人によって生活が成り立つ。
一人では、無人島のような特殊条件でない限り自立できない。
ならば、生活的自立とはどういうことか?

ならば、ならば、ならば・・・
そうなのだ。
人社会で生活的自立は成り立たない。
だから、人は人と組んで人社会を作る。
人の世界は、人同士が集まらないと生きられない。

人と人以外の動物の違い。
観る方向により、様々な言い方がある。
言葉を話せる。
だが、これは他の動物も話しているらしいから却下。
道具を使う。
これも、道具を使う動物は多いから却下。

理論的思考が出来る。
出来ない人の方が多いし、他の動物がしてないとは言い切れないから却下。
服を着る。
これは、採用。
必要以上の殺し合いをする。
これも採用。
自分の首を絞めて滅亡に向かう。
これも採用。
まだまだ、他の動物との違いはあるぞ。

人間種が地球上で帝王だと思っている。
他の生物は謙虚を知っているから、これも採用。
ミサイルや原子力などを開発する。
これも採用。
そして
一人では生きていけない。
これも、採用なのだ。

他の生物は個体でも生きる力がある。
生きられないのは死があるだけだ。
無人島で暮らす人間に似ているが、基本的状況が違う。
衣食住を個でこなせないのは、人間だけだ。
人間が他の生物と違う大きな特徴だ。
威張るどころか、とても恥ずかしい特徴なのだ。

一人で生きられないのが、特徴。
だから生活的自立というのは、一人で何でもこなせる事ではない。
他の世話になって生きる事。
そして、自分が他の何らかのお手伝いが出来る事。
それを自覚する事。
この自覚が、自立という意味になる。

確かに人間種は変わっている。
とても弱い生物だ。
他に頼らないと生きていけない。
お互いが共存しないと生きていけない。

共存が自立の始まり。
逆な言い方なら、共存を忘れたら自滅の始まり。
自分だけが、自分の関係者だけが、自分の国だけが・・・
人間種の滅亡は、発明や開発ではない。
便利が悪いわけでもない。
自分の仕組みを忘れたからだ。

古来、人は自然の一部だと認識していた。
その自然を神として畏れていた。
やがて、神は人の変形と勘違いするようになった。
人間は神に似た、神に近い存在だと勘違いするようになった。
本来の自然という神を畏れ(恐れ)なくなった。
当然だが、滅亡の道を歩き出した。

生活的自立は共存の意識。
個だけでは成り立たない。
だが精神的自立は個の問題だ。
共存の意識という共通認識であっても個の問題だ。

一人で生まれた事。
やがて、どこかで、一人で消える事。
有があって、無となる。
必ず、個としてだけだ。
例外はない。

生と死の間。
そこには共存の生活がある。
生活という外側の生命は共存。
内側の精神は個であり、孤である。
歩き方、生き方、観る方向、全て決めるのは個であり孤である。

精神的自立は個性と深く関わる。
社会的や、それに基づく生活的な事柄は他との協調や共存が主体だ。
ところが精神的は個の内面の芽生えであり成長だ。
むしろ、社会や生活からの影響から離れて自立できる。

逆な言い方なら・・・
社会的に深く関わる生き方は、精神的自立がし難い。
社会の常識、ルール、固定概念に縛られやすいからだ。
社会や生活は諸々の枠があり、決まりがある。
だが、精神は全くの自由なのだ。

長年の社会生活が精神の自由を束縛する。
あるいは、精神の自由を社会や生活の自由に反映させようと自滅する。
元々が、性質の違うモノだ。
社会的、生活的と精神的は別な次元。
それらを混同すると、全てが壊れる危険がある。

確かに精神的な事柄は実生活に影響する。
無意識の部分で影響する。
だが、社会的や生活的な事柄は、意識で行動するものだ。
つまり、精神的がどうであっても意思でコントロールできる。

精神世界や無意識の世界に生半可に学ぶ。
すると、ほとんどは転がる。
穴に落ちる。
道を誤る。
精神世界が大元の世界だと、最初から勘違いするからだ。
宗教にはまるのも同じ危険が大きい。

別な次元。
趣味で関わる。
それなら、自分の内側を覗くのもいいだろう。
他に迷惑をかけなければ、趣味は自由だ。
精神的世界は、このようなヤッカイな世界だ。

精神的自立。
表面の極浅い部分なら定義も出来る。
それは社会的な承認も得られる。
例えば・・・
自分の意思決定に自己責任が持てる・・・とか。
実に浅く、アイマイで矛盾している定義だ。
だが、社会的にはウケがいい。

元々精神と社会は別な次元だ。
それなのに、社会は精神内部まで共通の定義を作ろうとする。
精神の内部は完全に自由なのだ。
問題が起きるのは、社会(他との関わり)との混同だ。
一つの、あるいは複数の枠にハメる事柄ではない。
社会と精神は別だと認識することなのだ。

もし、精神的自立という意味があるなら・・・
社会と別次元だと認識できた時に使えるかもしれない。
その内容は完全に自由だ。
そういう意味では、精神は全てのモノと一体といえる。
全てのモノを神と言い換えるなら・・・
精神は神と一体ともいえる。
だが、全ては大きすぎて、深すぎて、広すぎる。
人の意識では固定できないし、とらえきれない。

社会的と精神的が別次元だと認識するのが自立。
混同しやすいのは、更にある。
精神と思考は別だ。
精神と意思も別だ。
この区別がつかないと、社会的に害が出やすい。

思考や意思は生きていく時に使う。
通常は社会生活で使うモノだ。
社会生活は多くの人々が集まる。
共同で暮らし、共通のモノが多い。
常識、法律、道徳、ルール、貨幣価値などだ。

精神は人々の常識やルールなど関係ない。
小さな例えなら・・・
夢の中の世界。
通常の思考や意思は通用しない世界だ。
だから、精神世界と社会を混同しては害になる。

精神世界には人の常識やルールなど通用しない。
人以外の意識も多種多様にあるのだ。
妖怪、化け物、魑魅魍魎。
それらの意識と接触し、時には同調し、時には混合するのだ。
落とし穴だらけの危険な世界でもある。

精神的に自立する。
言葉の響きはいい。
内容が不明だから、エラそうにも聞こえる。
底の浅い道徳家や精神世界スキスキ人間が好む。
だが、精神世界の中を少しでも体験したら、そんなことは言えない。
人の意識のコントロールがとてつもなく難しい世界だ。
しかも、例えコントロールできても、何の役にも立たない。
実生活や社会生活には関係ない世界だ。

だから精神的自立という言葉を使うなら・・・
社会生活では精神的なモノをもちださない、ということなのだ。
思考、意思、それらと精神を混同しない、ということなのだ。
それにより、思考や意思はブレなくなり、迷いが少なくなる。

精神と心は違うが、通路でつながっている。
人は心が弱い生物だ。
他の生物に比べ、迷いが多いし大きい生物だ。
それは心の働きが活発だからだ。
活発なのが凄いわけではない。
使い方を知らない段階なのだ。
だから、他の生物よりも困った存在でもある。

底に通路があり、精神につながっている。
心を通して、精神とアクセスしがちだ。
その上辺の心が未熟なのだ。
だから精神を自立させるなど、まだまだ・・・・

精神的自立が出来ない例をみてみよう。
自分の心の不安的な部分を社会に出してしまう。
混同してしまう。
精神は個のモノだから、当然社会とは軋轢を生む。
衝突するし、破壊も起きる。
犯罪の多くは、精神と心と社会の区別が出来ないからだ。

といって、心を抑圧するのではない。
抑圧しても、圧力は溜まるだけで無くならない。
徐々に大きくなるから、いずれ何らかの形で外に出る。
解消と称して、一時的に発散させても同じだ。
解消が出来ないから、溜まる速度は上がる。

心自体を小さくする。
心は迷いの別称。
心が小さくなると、心というフィルターの影響が少なくなる。
底の精神が純粋な形で出やすくなる。
底の精神は多くの時間と多くのモノたちとつながっている。
純粋な形ほど、調和がとれる。
その精神を意思や思考という表現で外に出すなら有用だろう。

精神的自立とは二つの角度がある。
使わない場合は、社会と精神の区別。
使う場合は、心の鎮静(すると小さくなる)。
いずれにしても、社会に迷惑をかけない方法だ。

経済的自立、生活的自立は他の人達との関わりで必要だった。
一人だけの空間で生きていくなら、自立は必要ない。
他がいるから自立が必要となる。
精神的自立もある意味同じだ。
個の内側のことだが、一人だけなら自立できなくてもかまわない。
輪廻というモノがあるなら、いずれは変わる。

自は他があるから。
実に単純な事実。
他がなければ、立つも座るも横になるのも区別しなくていい。
そこに価値も意味もなくなる。

自立は個人の確かな生き方の基準に思える。
だが、社会に暮らす個人としての基準だ。
社会に必要な基準なのであり、個人の価値ではない。
だからこそ、自立は大切であり、必要なものだろう。

多種多様な人達が群れている社会だ。
他を意識し、他と生きる意志が確立して機能する。
それが自立ということだ。
それが無ければ、衝突や怪我を含めて不都合だらけだ。
不都合の中では生き難い。
自立は大切なのだ。

更に深く観る。
社会という群れにあっても、個々は個々。
誰一人として同じではない。
だが、社会に暮らすのは社会に同調すること。
すると、自分という個を見失うことが多い。
自立というのは、社会に必要な生き方の確立だ。
同時に、社会に埋もれずにいる個の確立でもある。
社会と自分の両方を立たせる意味と意義がある。

子供と大人の区別は年齢ではない。
自立の意識と行動にある。
税金を大量に貰って、共存の意識もない。
お互い様という言葉も知らない。
威張る立場だから、思いつくままの行動で迷惑をかける。
そんな60、70、80の代表者という輩は多い。
人は自立できると、社会は穏やかに、平和になれるのに。



まだまだ続きます・・・


上に




      コラム11目次に戻る