人には

   
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これは2013年1月10日から7月21日まで毎日ブログに書いたものです。
自分のホームページ、楽天、ヤフー、facebook,goo,mixi,アメーバ等複数のブログです。
著作権は私、水上陽平にあり、転載、引用する場合は連絡下さい。(iiki8@ybb.ne.jp)
        

第1章
四つの基
.

第2章
商人型

第3章
漁師型

第4章
百姓型

第5章
職人型

.

第6章
属性

第7章
相性

第8章
性癖

あとがき
.




はじめに


人には型がある。
代表的な血液型というのがある。
血液型に性格が支配されているわけではない。
一人の人間は、とても多くの様々な血液型から成り立っている。
単純に性格は決められない。
表面とその下の性格だって違うし入れ替わる事がある。
下には更にその下があり、底がどこませ深いのか誰にもわからない。
その途中には、ありとあらゆる性格の素が隠れている。

それでも現在の肉体と魂に傾向というのがある。
だから顔が違うし、体格が違うし、性格が違う。
どんなに多種多様の素を秘めていても、今生には特徴が出る。
それを型(タイプ)といってもいいだろう。
もちろん一つの型でも幅がある。
大きな要素に幾つかの属性が繋がる。
だから同じA型の血液型でも同じ性格にはならない。

型は、その方向性に働くモノだが性格を決めるわけではない。
性格も多種多様の要素から作られるだろうが、環境が大きいだろう。
環境とは、時代、その時の国の流れ、家族、地域などの社会環境。
そして、深部まで染みこむ自然環境。
性格は型よりも環境や出来事で作られる。
環境や出来事の影響が大きいから、性格は変化もするのだ。
性格は変わらない、なんていうのは単なる固定概念なのだ。

性格は生きていく過程で作られる。
つまり、今生きている限りは固定されていない。
性格は変えられない、なんてのは幼稚な固定概念なのだ。
暗いとされる性格があっても、赤ちゃんや幼児時は明るかった。
つまり、暗く表面上の性格は生きてきた中で変わってきたのだ。

変わった、というよりそういう性格に変えてきたのだ。
意識的無意識的はともかく、自ら選んで性格を作った。
同じ家庭の兄弟姉妹。
血液型も同じとしよう。
それでも性格は違う。
違うが、もっと離れた観方では、やはり似ている。

どの視点で見るか、によっても性格は違う。
性格の評価は、とてもアイマイなのだ。
Aという人を、ある人は冷たい性格と判断する。
別な人はAの裏側を見て、とても温かい性格と判断する。
あるいは、判断する人の傾向から同調するか反発するか。
それによって、性格判断は同じ人なのに異なってしまうのだ。

性格は固定されていないが、人には型がある。
生き方の型だ。
型は性格に影響するが、幸不幸には影響しない。
一つの型でも、多種多様な人達に分かれるだけだ。
だから人は面白い。

生き方の型ではあるが、固定されているわけではない。
一人の人は、割合が違っても全ての型が混合している。
それでもベース(基)はある。
生まれ付きのベースがある。
宿命の一つだろう。
変えられないモノの一つとして型のベースがある。

性格も運命も変えることは出来る。
だが性別は変えられない。
時代も生まれた国も親も変えられない。
血液型も(基本的に)変えられない。
そして、生き方の型も(基本的に)変えられない。

今までも○○型という分け方は沢山あった。
陰陽という二極もある。
三極の基もアーユルヴェーダやチベット医学にある。
火、水、風、地という四極もある。
五行で代表される五極もある。
六芒星などの六極の分け方もある。
七極も八極もある。

私が今回提唱するのは、今までとは違った分け方だ。
基本的には四つの基と三つの属性の組み合わせとなる。
そこに今までの型の影響もある。
だから多種多様な人達がいる。
一つの型の分け方で人を枠にはめるには無理がある。
今までの型の分け方では足りない部分を提唱してみた。

自分の型を知り、それに沿う生き方で楽になる。
無理をして違う生き方をしても苦しくなる事を知る。
知は活かして行うことにより、初めて役に立つ。
全ては、楽になる為に生きているのだから。

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第一章 四つの基



相人型・相己型・相理型・相競型の四つだ。
それぞれが対象となる相手だ。
イメージしやすいように職業の表現を使ってみよう。
商人型・職人型・百姓型・漁(猟)師型となる。

生き方として、何を相手にしているかで分けてみた。
すると、ほとんどがこの四つに含まれる。
相手は時代の流れや社会情勢で誘導される。
家族や学校や影響を受けた人など社会環境の力が大きく影響する。

ところが、それは本来のその人の相手と違ったりする。
一所懸命努力しても空回りする。
結果が出にくい。
いつも不満と不安がある。
何か違う・・・
漠然とそう思っている。
本来の相手と後から刷り込まれた相手。

相手となるもの

人の相手は人。
そう信じている人は多い。
ところが歳を重ねると相手が変化することがある。
例えば、人よりも作っている穀物や果物や花。
例えば、海の獲物。
例えば、絵画や音楽。

どんな人にも大切な人や家族もいる。
大切なモノもある。
それでも意識の大部分は作物や漁や作品だったりする。
人相手でも、組織であったり取引相手であったりする。
人の相手は人だけではないのだ。

相手は自分の内にある。
何故か、生れ付きの相手のようだ。
人が好き、あるいは気になる。
植物や人以外の生き物が好き。
自分の作るモノだけが世界。
あるいは、研究対象だけが世界。
相手と勝負することが命輝く気がする。

いつでも相対している。
その相手の世界に自分が存在している。
相人型なら、人の世界にこそ居場所がある。
相己型なら、常に自分だけの世界が居場所となる。
相理型なら、自然の理に自分の存在を感じる。
相競型なら、競い勝つ為に自分の生きがいがある。

相人型なら、自然相手の一生はストレスとなる。
相理型なら、人社会の中では常にストレスとなる。
居場所が違うからだ。
もちろん人は柔軟性と適応力がある。
だから違う場所でも生きられる。
適応も、それなりに出来る。
でも、楽じゃないんだなぁ・・・

どんな世界でも苦楽はある。
思わぬ厳しい出来事にも会う。
悲しい出来事も起こる。
寂しさも味わう。
だが、相世界なら生きやすいのだ。

幾つもの世界がある。
幾つもの舞台がある。
そして人は一生の間に幾つも体験する。
違う世界、違う舞台を。

ある時は入り込む。
ある時は少しだけ味わう。
ある時は通り抜ける。
ある時はそのまま居座る。

いろいろな事情がある。
いろいろな考えがある。
自分に合わなくても居なければならない場合もある。
他の世界など考えられない人もいる。
生き方に正誤は無いと思う。
だが、生き方に適合、不適合は間違いなくある。

例えば夫婦。
基本的には男と女ならば誰でも夫婦になれる。
一応、どんな相手でも夫婦にはなれる。
対外的、社会的には夫婦として通用する。
だが、適合、不適合はある。

誰でも個性がある。
育ちも好みも違う。
価値観も違う。
癖も違う。
だから結婚式などで言われる。
お互い寄り添って夫婦になるのですよ。
努力が必要ですよ。

努力や根性や理解で実の夫婦になれる。
違う二人が一緒になるのだから。
だが、それには条件があるのだ。
適合と不適合という見えない型がある。

人はかなり許容範囲が広い。
人だけでなく、この世の物質の特徴だ。
多くの生物の特徴だ。
適合範囲は広いのだ。
ピッタリ合わなくても、一応は適合できる。
夫婦や恋人や友人などは、そうして出来ている。

ところが、不適合という場合がある。
どんなに近づこう、一緒になろうとしてもなれない。
努力や根性で越えられる壁ではない。
理解できても、不適合は不適合なのだ。
最初から無理な組み合わせも当然ある。
それらは最初から拒絶反応がでるから問題ないのだ。
無理なものは無理。

問題は適合した組み合わせにある。
一応適合した組み合わせにある。
許容範囲で適合させた組み合わせに問題があるのだ。
適合しても、長い期間に歪みが出る。
ひび割れが生じる。
期間は、許容範囲の位置により差が出る。
適合から不適合に変わる境があるのだ。

長い付き合いにならないのなら一応適合で過ごせる。
長い付き合いでも、実際に出会っている時間が少ないなら過ごせる。
あるいは会わない期間があるなら、不適合までいかない。
疲れなどと同じだ。
回復期間があるなら、過ごせるのだ。

毎日一緒の間柄。
例えば夫婦や仕事。
次第に溜まるモノがある。
不適合な疲れや痛みを回復する期間が足りない場合。
やがて、一応適合から不適合に変わる。

それでも人は変わる。
自分も相手も変わる。
長くいると同調する場合もある。
無理なモノが薄れ、あるいは無くなる場合も多々ある。
一応適合から適合に変わる可能性は大なのだ。

一応適合はとても貴重な体験だ。
物質(肉体)界でなければ無理な体験だ。
この世の最大の特徴だと思う。
受け止められる周波数の幅が広い肉体(物質)があるからだ。

物質や肉体の無い、もう一つの世界。
あの世だか実相界だか真実の世界だかはともかくとして。
そこでは、同周波数か近周波数でしか交流出来ない。
周波数帯は、極めて狭い。
同類しか交流できないのだ。
ある意味、天国。
とても居心地はいいだろう。

ところがこの世は下等人間のワシと高等人間の法王が会える。
下等人間のワシと超下等人間の某首相が会えるのだ。
そこで刺激が起きる。
上手くすれば覚醒する。
何かが変わる。
どう変わるかは二の次だ。
変わる事が出来るのが、この世の仕組みだ。
あの世では(簡単に)変われない。

だから一応適合は、この世のプレゼントでもある。
本来合わないモノと、一応適合できるのだ。
そこで刺激が起こる。
お互い変わることが出来る。
どう変わるかは二の次だ。
一応適合することは、大前提として積極的に認める事柄だ。

本来なら合わないし会わないモノ達。
それでも出会えば双方に変化はある。
例え片方が生物でなくても変化する。
例えば鉱物でも、出会う相手により変化はするのだ。

どう変化するかは二の次だ。
変化を認識できなくても、変化はしている。
通常の人間の認識スパンでは判り難いだけだ。
だが、鉱物や物言わぬ道具達と長く付き合う人達は判る。
心を通わすことさえ出来る。
正確に理解できなくても、変化している事くらいなら判る。

この世は合わない、会うはずもないモノ同志が出会える場だ。
とても貴重で奇妙で特殊な世界だと思う。
それにより、変化が起こる場だ。
だから時間と空間が備えられている。
時限付きだからだ。

適合する相手と出会うのが目的ではない。
そんなのは死んでからなら否応なく出会う。
肉体(物質)という広周波数帯がないのだ。
極めて狭い相手としか会えない。
つまり、適合する相手としか会えない。

せっかくこの世にいるのだ。
適合する為(能動)にいるのだ。
それを調和という。
調和を覚え、体験する為にいるのだ。
適合相手と出会う(受身)為にいるのではない。

もちろん適合の相性度は違う。
超苦労しての一応適合相手。
まぁ苦労しての適合相手。
微苦労の適合相手。
苦労を感じさせない適合相手。

それでも、完璧な適合相手にはなれない。
何しろ、この世はあの世と違う。
時間が進むのだ。
時間とは変化のことだ。
この世は諸行無常に創られている。
一時的は合っても完璧な適合相手にはなりえない。

適合(調和)を体験する為だが規制もある。
何でも、どんな相手でも適合に向かうのは無理がある。
どこかの宗教組織じゃあるまいし。
全てを愛しなさい・・・
無理があるのだ。

幅広い周波数帯とはいえ、物質は個性ある。
時間の制限もある。
相性を考慮しなければ、存在の意味が大きく削がれる。
人間など100年くらいしかいないのだ。
調和するまでに多くの時間を使うのは疑問だ。
適合を味わう間がなくては素敵じゃないのだ。

適合に向かう為とはいえ、味わう方が優先する。
努力や根性や精進より、素敵な味わいが優先するのだ。
存在意味は、苦労じゃない。
存在意味は、味わいであり、その味わいは素敵が優先なのだ。
立派な言葉を実行すれば、社会的には評価される。
だが、無理があり、自分も周りも幸せになれないのだ。

もし時間が無制限にあるなら。
そこには時間という概念さえないだろうが。
無制限なら緩急という概念もない。
早くもゆっくりも同じだ。
それなら宗教組織や経典のいうことは当てはまるだろう。

全てを愛するだけの時間がある。
全てを体験できる時間がある。
全てを理解できる時間がある。
どれほど遠くとも、時間が無制限なら遠近も意味をなさない。
遥か彼方の境地にもたどり着けるだろう。

だが、この世は時間の制限があるのだ。
それ故、強制的に変化させられている。
その中で、自分で歩くようにできている。
体験も理解も限られている。
宗教で唱える生き方は、この世では当てはまらない。
無理やり当てはめるなら、それは詐欺に近い。

制限があるから相性がある。
完璧な相性はなくても、同類同族はある。
個性ある個体だが、癖も能力も近いモノ達がいる。
あるいは、反応する相手がある。
タイプ(型)があるのだ。

やせ型、おっとり型、A型、内向型等々。
性格に影響する型も多い。
それらは生き方に影響する。
どう活かすか、が重要で型の種類で優劣は無い。
正誤も、もちろん無い。

どんな型でもいいし、問題も無い。
その型を活かすか無理するかで、苦楽が分れる。
あるいは、生じやすくなるのだ。
だから自分の型に気づくのは、かなり重要だと思う。

型を知る、というのは理解ではない。
認識だ。
分析は必要ないし、分析してもあてにならない。
ただ、知る。
そして知っただけでは意味を持たない。
知は行に活かして、初めて意味となる。

行は知を検証することにもなる。
頭で知ったつもりでも、実際は違うかもしれない。
何しろ人間の頭は悪いのだ。
い、いや、頭は結構優秀だが使っていない。
使っているのは、勘違いというヤツだ。
だから固定概念で知るのは間違う素でもある。

行で確かめる。
型を知った(と思った)段階から次の作業だ。
知行で一つのセットだ。
確かめて、納得したなら次の知行だ。
知を活かす行。
知行で一つのセットなのだ。

生き方の四つの型(タイプ)。
商人型、職人型、百姓型、漁師型。
もちろん人は全ての型の混合だ。
それでも土台、主台というのがある。
割合が最も多い。
あるいは、最も強く影響する型を知る。

知れば、仕事に活かせる。
人との付き合い方に活かせる。
今後の方向が決めやすい。
そして、何故上手く事が運ばないのかが解る。
どうして苦しいのか、悩むのかが解る。

どれにも当てはまらないタイプはないだろう。
単純に職業で区別できる型ではない。
例えとして、商人や職人というイメージを使っている。
だから同じ職人でも四つの型に分かれるのだ。

商人型の大工職人。
職人型の漁師。
百姓型のサラリーマン。
漁師型の経営者。
どんな職業にも四つの型がいるのだ。


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第二章 商人型



職業イメージでは商人だ。
商人の特徴で勘違いする場合がある。
商人は金とセットだと思っている。
ところが本来、金は二の次なのだ。
金を儲けるのが商人というわけではない。
本来の商人が少なくなっただけだ。

確かに多くの商人が金儲けを第一としている。
それは、本当の自分の仕事の姿に気づけない商人達だ。
商人は個別なモノ同士の交換に貨幣を上手く利用した。
貨幣は便利な交換ツールだったのだ。
それがいつの間にか、交換ツール集めに走った。
これさえあれば、何でも手に入る。
これを持っている者が実質一番強いのだ、と。
誰でも金の前では平伏す・・・と。

金儲け商人の欠点でもある。
金拝という思い込みが頑固な固定概念になっている。
そして時代が後押しした。
社会が後押しした。
金拝主義、政治では金権主義さえある。

金は無人島なら必要ない。
砂漠の真ん中でも必要ない。
だが人々が集まって社会を作っている枠内では必要不可欠だ。
お互いの人々の様々なモノを交換する便利なアイテムだ。
万能ではないが、実に多種多彩な使い方ができる。

貨幣というモノを発明してから人類は差を意識し出した。
自分と他人を比べるモノサシの中でも大きく意識し出した。
金額の多寡が暮らしのステータスとしている。
誰でも扱うが、特に商人は専門家だ。
上手く扱う術を持っている。

そこで時代が商人を主軸に考えるようになった。
どんな職業でも商売として考えるようになった。
ある意味、それは当たり前なのだ。
人々の群れでは、商人が一番生きやすくなっている。
商人は、人の集まりが不可欠な生き方だ。

無人島や砂漠の真ん中では商人は不要。
不要というよりも、使えない厄介者・・・
百姓型、漁師型、職人型は能力を活かせる。
だが、商人型は自然界では無能なのだ。

商人の仕事。
それは人相手だ。
人と、モノや人や出来事などをつなぐ仕事だ。
そこにお金が仲介するのが大部分だ。
だが本質はお金ではない。
人だ。

この本分を忘れている、あるいは知らない商人が多い。
人の喜ぶ顔が見たい。
本来は、そういう人が商人になるのだ。
こっちの人やモノをあちらの人に渡す。
こっちの人もあちらの人も喜ぶ。
それが商人の本分なのだろう。

その時に共通する代理品で決済する。
物々交換では不便だし、交渉が不成立する場合が多い。
貨幣というのは人と人が交わるところでしか意味を成さないのだ。
主役は人と人。
代理品として貨幣がある。
貨幣は単なる紙であり、今では架空の数字でさえある。
それらに踊らされているのが、人社会の現状だ。

人を相手にするタイプを商人型と名付けた。
だから職業の商人だけではない。
例えば先生といわれる人達。
ドクターも政治家も教師もインストラクターも。
例えば僧侶や神父。
人がいなければ、仕事にならない人達。
全て商人型の仕事だ。

人を相手とする商人型の特徴がある。
相手をする人は複数だ。
人数制限は基本的に無い。
多くの人相手をする生き方だ。
多くの人を相手にする仕事が向いている。
逆に、人が極端に少ない、いない仕事は向いてない。

今の多くの国は、人の集まりで成り立っている。
町、都市がある。
会社などの組織がある。
学校や病院のような施設がある。
全て、人相手の仕事だらけだ。

遥か昔から組織があったわけではない。
当然、国という概念は農耕文化以降だ。
狩猟文化では、大きな組織は成り立たない。
農耕文化は、多くの人が協力する方がやりやすい。
集まる人々が多くなれば、組織として運営する役も必要だ。

ここらあたりから、百姓型と職人型と漁師型ができる。
とはいえ、圧倒的に百姓型が多い。
海辺や山の中では、狩猟型が多い。
合間に物作りをする。
物作りにハマる人達が出てくる。
更に研鑽して職人型になる。

初期においては人々が集まっていても、商人型は少なかった。
作物より獲物より物作りよりも、人のめんどうをするのが得意の人達。
それが商人型となる。
その商人型の一部が現代では最も威勢が良い商人なのだ。
貨幣が万能に近づき、お金を扱うプロが商人だからだ。
そして、誰もが商人に成ろうとする。
サラリーマンといわれる人達の多くの意識は商人だ。

何の疑問も持たずに社会に出る。
当然のように商人の意識になろうとする。
出来るだけ給料の良い仕事。
そして効率の良い仕事につこうとする。
それには役職なども高い方がいい。

社会では誰もが同じ考えだと思っている。
だが、それは勘違いだ。
同じ考えは商人意識を持った人達だけなのだ。
人社会が世界だと勘違いしがちな欠点がある。
まぁ確かに現代は商人意識が大部分ではあるが・・・

誰もがお金は欲しいでしょ?
良い仕事、仕事が出来るというのはそういう事。
果ては、お金儲けの何が悪いの?などという。
何と言うツマラナイ言葉だろう。
商人意識と金儲け意識は影響あっても別モノだ。
生き甲斐や生き方と収集欲は別なモノだ。
本来の商人意識には、金儲けは入ってなかったのだ。

他の三つの型と商人型は大きな違いがある。
商人型だけ生産が出来ないのだ。
生きていく為に必要な仕事が職人型、百姓型、漁師型だ。
商人型は、それらの仕事や成果を人社会に上手く活かす為に生まれた。
フォローの役目であり、従の仕事だったのだ。

生産はしないが、人の助けになる。
心身のケアや教育や儀式の専門家。
例えば医者。
例えば教師。
例えば僧侶。
そして物品などの流通と代理販売。
人社会の中だけでしか成り立たない仕事だ。

他の三つは生きていく為の仕事。
食糧を獲り、採り、育てる。
衣服や靴や家などを作る。
人に必要ではあるが、人の社会は無くてもいいのだ。
例えば小さな島や地域や砂漠など。
遥か昔は、人がいても小さな集まりであり社会形成は無かった。
その頃は商人型はほとんど必要なかった。

多くの人が集まる社会になって商人型が生まれた。
人の発生から生まれた百姓型、漁師(猟師)型、職人型とは違う。
この三つの型は伝統(基本)を重んじる。
だが、商人型は新しい仕組みを作るのに長けている。
どうしたら、もっと便利になるか。
どうしたら、もっと大きくなるか。
どうしたら、もっと効率がいいか。

伝統を重んじる型と改新型。
当然、時代は改新型に傾く。
より便利だもの。
より大きな富にもなる。
思考法も科学の方が便利だ。
そうして、世界は近代、現代と変わってきた。

今の世界の姿は商人型が作ったものだ。
だから商人型が最も優遇される世界となった。
成果がある者が多くの富を得られる世の中だ。
それを疑問に思わないような教育にした。
今、それが当然だろう、という人達が圧倒的多数だろう。
あ、ついでに多数決が良い方法だとしたのも商人型だ。

人の集団が居場所であり相手。
自分より他人が相手だ。
自然より人社会が相手だ。
どうしたら人は幸せになれるか?
そういう思向も商人型の特徴だ。

幸せとは?
真実とは?
生き方とは?
人相手の宗教家や思想家も商人型となる。
政治家や役人のほとんども商人型なのだ。

本来は金儲けとは違うのが商人型だ。
いつの間にか、商人と金儲けはセットになったが・・・
だから本来の宗教家や政治家まで金儲けに走る・・・
現代では自分の仕事を最も自覚してない型だろう。
どこか変という感覚があるのか、やたらと道徳論を説く癖もある。
この世の法則とは?
幸せの法則とは?
成功の法則とは?
宣伝で名前を売って、それらも商売にする。

生きていくのに必要な技術や知恵。
その結果出来たモノがある。
衣食住に必要なモノだ。
それらを人社会にスムーズに活用できるようにする。
それが商人型。

人は生物としては長い期間を生きる。
生き延びるには、いろいろな不都合も生じる。
心身の病や怪我の治療や健康維持法。
人と人が集まると、様々な衝突もある。
それらを上手くまとめ、まわす役目も必要になる。
それが商人型。

生活の為の直接的な技術は持たない。
支援(サポート)であり、裏方である。
それが商人型のはずだった。
当然、割合的には最も少なくて間に合う。
はずだった。
また、そうでなくてはバランスが崩れる。

そして、現代。
都会などでは、割合的に最も多くなった。
目指す職業としても、最も多くなった。
極めて当然、バランスは崩れる。
だから、世界中の国を巻き込んでバランスをとろうとする。
人社会をスムーズにするはずの型が、戦争の素を作るのだ。

衣食住を賄う人達が優遇されない。
商人型の仕事が一番優遇される。
ならば目指すは商人型。
本来の自分の型を無視して・・・
だから、モロモロが上手くいかない。
ストレスばかり・・・

一つの地域、一つの国のバランスが崩れる。
衣食住が足りない。
ならば、他の地域から奪おう。
そうして、世界各国が領地獲りに走った。
武力で獲るのだ。
あるいは、騙して獲るのだ。
商人型の得意な能力だ。
何しろ、頭がいい。

頭がいい人達は、平和的ではない。
競争社会を作り上げる。
優劣、序列を作りたがる。
商人型は社会に必要なのだが、本来の仕事を忘れる癖がある。
そして、最も数少なくていいのに誰もがしたがる。
当然、当然、バランスが崩れ、競争は争いになる。

本来の商人型に向いている人。
人が好きなのだ。
人の笑顔が好きなのだ。
どんな種類の仕事でも、動機はそこにある。
他人が喜ぶのが、自分の生きがい。

人の為、社会の為に尽くしたい。
時には自分を犠牲にしても他人を救いたい。
奉仕の心がある。
それ自体はいい。
それぞれの好みだ。

ところが、儲けの好きな商人型も沢山いる。
むしろ、その傾向の商人型が主流でさえある。
こんな素敵な建前を利用しないはずがない。
商人型は利用できるものは、何でも利用する。
同じ商人型でもお人好しの商人型を商品とする。
そうして、人社会を煽り、全体の方向を導く。
人を導くのにも長けているのが商人型だ。
リーダー、教祖、導師、先生は商人型だ。

教祖も信者も商人型だ。
人相手だから言葉が商品だ。
美味しい言葉は高く売れるし買う。
それが神の言葉とか真実の言葉だ。
神の言葉は、紙の言葉でもある。
経典は宝物だ。

職人は神や仏は信じても、人の組織はあまり信じない。
相手は神仏や真実の言葉などでなく、自分自身だ。
百姓型も、自然という神は信じても人の作った宗教はどうでもいい。
毎日自然と向き合うのが仕事だ。
自然という理を自分で一つ一つ理解し、野菜、木、果物を育てる。
毎日変わる自然の前では、言葉の理など屁のようだ。
漁師(猟師)型は、勝負が相手だ。
経典では獲物を獲れないし勝てない。

商人型は人と人との流通が相手。
人が結びつくモノなら何でも扱う。
それが神だろうが言葉だろうが奉仕だろうが何でもいい。
それで幸せになるのなら、という建前と本音がある。
建前でも本音でも商人型だけの価値観がある。
職人型、百姓型、漁師型にはない価値観だ。

人の事を第一に考える。
それが商人型だ。
今の人社会は商人型が作った仕組みだ。
だから人の事を優先して考えない人達を自分勝手という。
その通りだ。

職人型、百姓型、漁師型は自分勝手なのだ。
そこが、商人型との違いだ。
商人型は、ある意味特殊でさえある。
生物は、自分勝手だから個体であり個性がある。
決して他と協調するだけが役割ではない。
それなら個性など無い方が団体で動ける。
本来からいえば、自分勝手でない商人型は特殊なのだ。

現在の人社会は商人型が作り、商人型の教育。
自分勝手はいけない、というのが一般常識で固定概念。
だから、ジレンマやストレスの人達が大勢生まれる。
自分勝手でないと、生物は存在価値がないのに・・・

自分勝手を知る。
それはとても大切な認識だ。
自分勝手を無理に通そうとすると衝突する。
当たり前だ。
他も自分勝手なのだ。

自分勝手を自負するのは、他の自分勝手も認めるからだ。
そこに衝突は無い。
衝突する前に、それぞれが回避する。
身を引くか、曲げればいい。
あるいは、先に相手が回避すればいい。
それだけのことだ。

ところが自分勝手を認めないとする。
個性があり、個体として存在しているのにだ。
自分を認めないから、相手も認めない。
そこで正誤を使う。
正義を使う。
善悪を使う。
その先は・・・争いだけだろう。

自分勝手を認めない商人型は多数決を主張する。
多くの人の意見で物事を決める。
決定以外をすると罪を着せ罰を与える。
少数意見は異端であり問題視される。
多種多様なモノが集まっていることの意味を考慮しない。
そして、多数決を正義とする。

個性を取り締まるという無謀な仕組みだ。
当然、法は増える一方になる。
生き方や心に無理がかかる。
一方で、合理的優先だから無駄が無い。
物質的には豊かになりやすい。
時間速度も速くなる。

モノは多い方がいい。
時間は効率が一番。
個体の都合より、大多数の都合。
何よりも、それらを決定する権力の安定。
そうして、今の大部分の国が成り立っている。
良悪ではない。
商人型の人社会の仕組みの話だ。

今では無条件で多数決が最良の方法にされている。
それを口実に民主主義が成り立つ、とさえいわれる。
固定概念と無知。
あるいは物事を観ようとしない怠慢。
大きな、そして多くの勘違いがある。
人や人以外のモノ達は、それで幸せになったのか?

それ以前の時代に比べ今は幸せだ、という。
比べる対象や見方にもよるが、以前と比べる事自体が間違いだろう。
酷い時代と未熟な時代と厳しい時代を比べて何になる。
多数決は個よりも組織を優先しまとめる方法だ。
独裁社会と多数決社会は、根が同じ世界なのだぜ。

何故、一つにまとめなければならないか。
それは効率がいいから。
一部の人達が全体を支配できるから(独裁とどっこい)。
他と対抗するには必要だから。
対抗しない、という選択はないのかぁ・・・

この多数決が最良という考え方。
それが間違いと認識しないと、他の型が理解できない。
自分が他の型なのに理解できないから苦しむ。
多数決は商人型に向いている人だけが必要な考え方なのだ。
職人型、漁師型は元々が一匹狼。
他と力を合わせる場合もあるが、個が独立している条件付きだ。

百姓型も元々は一匹狼。
広く作物を作るようになって、他の百姓と力を合わせる。
とはいえ、やはり自然との付き合い方は独自だ。
それでも職人型、漁師型よりも人々が集まりやすい。
その時に、必要に応じて多数決も使うようになった。
だが、それが最良とは思っていない。
自然界の理に多数決は無いことを知っているからだ。
多数決という考え方は人社会のみの一つの方法なのだ。

職人型、漁師型の性質の人は、多数決をアホらしいと感じる。
百姓型でも違和感を感じる。
ところが国や自治体や組織は多数決が最良とする。
だから、それに合わない型は生きていくのにストレスを感じるのだ。
良劣ではない。
善悪でもない。
合不合の話だ。

現代では人の社会が世界だと思っている人が最多だろう。
特に自称文明国という国の人達は。
もちろん世界中のニュースは人社会中心だ。
政治・経済・文化は人社会のみ。
そこで育ち、教育を受け、社会に参加する。
当然のように多数決を受け入れる。

商人型は優れた頭脳が特徴だ。
新しい仕組みや方法を構築するのにも優れている。
何よりも人が相手の型だ。
人をまとめるのは得意だ。
残念なのは、世界をまとめるのは不得意のようだ。
範囲が広すぎると、人相手の考え方では無理だからだ。

商人型の特徴を知り、自分を認識する。
すると、商人型でなくても人社会の中で住みやすくなる。
それが、型を理解する意味でもある。
ほとんどが人社会に生きて暮らす。
だから、商人型を知るのは重要なのだ。
職人型、百姓型、漁師型は知らなくてもいいのだ。
本人がそれらの型なら、血が勝手に動くからだ。

未開といわれる地域ならともかく。
人が町や都市を作り、その影響下の地域がほとんどだ。
舞台上は商人型。
そこを理解した上で、それぞれの型を活かす。
商人型という地域や時代を理解しないと苦しみの暮らしになる。

苦しむ為に生まれてきたのではない。
この世は苦しみの修行の場でもない。
どんな型でも調和は可能だ。
一人一人、一つ一つが個体なのだ。
誰一人、どれ一つ同じモノはない世界だ。
調和以外に成り立つわけがない。

例えば・・・
アメリカという地域に住んでいる日本人。
日本と同じ感覚で暮らすと無理が生じる。
い、いや、例えが悪いか・・・
アメリカという地域自体が無理をごり押しした国だった・・・

と、ともかく・・・
アメリカという地域を理解した上で日本人として生きる。
日本人がアメリカ人にはなれない。
青い目と金髪にはなれない。
雑種のアメリカ人だと主張はできるが、歪みで苦しむ。
何か違う、と本来の型がうずくからだ。

生れ付きの顔がある。
生れ付きの能力もある。
生れ付きの国や親兄弟姉妹がいる。
生れ付きの型がある。
変更は出来ない。

その上で、様々な可能性がある。
日本に生まれても、その後の一生を海外で暮らす。
能力は見えないから、得意不得意全てが能力だ。
努力で補うようにみえても、補えたのは能力だ。
変更できるのは、生れ付きからの延長上にある。
生れ付きを変更することは出来ない。

商人型なら優先して生きやすい現代だ。
あとは個人的な能力と意思と意志。
だが、商人型以外の型は工夫が必要だ。
あるいは、世界からはみ出る生き方の勇気と根性。
いずれにしても、商人型を学ぶ事は絶対ではないが、ほぼ条件だ。

一時流行った右脳人間、左脳人間という分け方。
右脳人間は直感、感覚が優先する人達。
左脳人間は理論、分析が得意な人達。
商人型は後者だ。
分析し、理論で判断、計画性がある。
だから、多種多様な人達を一つの国に治めることをしている。

百姓型も分析はするが、自然相手だ。
分析といっても微小な理しか解らないと知っている。
理論と感覚が違えば感覚を優先する。
自然相手はその方が間違いが少ない事を知っている。
左脳人間といえるだろう。

職人型は直感や感覚が最も優先する人だ。
そうでないとモノは作れない。
新たな作品は生まれない。
芸術関係は職人型そのものだ。

漁師型は当然直感と感覚を優先する。
己の生命に関わる仕事が多いのだ。
理屈などを優先すれば、生き残れない。
やはり左脳人間なのだ。

商人型と他の型との違いはまだある。
本来は他の人のお手伝いや奉仕が根底にある型だ。
多くの人と係わりたい。
多くの人の世を上手く作りたい。
その気持ちは組織、部落、町、市、地域、国へと続く。

多くの人を一つの地域や組織にする。
必要に応じて身分が出来る。
人に上下の関係を作り上げるのだ。
その方が、何かと効率や便利がいいからだ。
便利が人を幸福にする、と思うのが商人型。

近代日本に商人型の偉人がいた。
福沢諭吉という人だ。
天は人の上に人を造らず、で有名だ。
もっとも言いたいのはそれに続く言葉で、冒頭言葉は引用だ。
商人型だから、現実的だ。
実際は上下の差別や身分があるじゃないかぁ、と言っている。
その差別は、学問の有無で決まる、という。
商人型の特徴がよく出ていると思う。

商人型は頭の良し悪しを気にする。
現代の国の多くが商人型で作られ、運営されている。
マスコミや国の政策にも反映される。
学歴重視は商人型の特徴だ。
それにより、就職先や待遇が変わる。
高い給料を取りたければ勉強しなさい、となった。

多くの人がマスコミや国の言動を固定概念としている。
だから疑問持たずに、勉強するのはいい子、としてた。
勉強だろうが他の能力だろうが、個性の一部なのに。
そして、更に人の上下関係までつなげた。
勉強できると、偉い人なのだ。
多くの政治家や官僚は身分が高いのだ。
自分に都合よく作り上げたからだ。

職人、百姓、漁師に学問は必要無いわけじゃない。
それぞれに役立つ学問があってもいい。
だが、他の型はそこに身分の上下は持ち込まない。
学問があっても、そこで人を差別しない。
素晴らしいモノを作る、創る人が尊敬される。
素晴らしい手法で獲物を獲る人が尊敬される。

商人型、職人型と分けているが職業で分けているわけではない。
イメージしやすいように職業を使っているのだ。
商人でも職人型や漁師型がいる。
職人でも商人型や漁師型がいる。
だから商人型と商人を混同しないように。

学問のススメは商人型の社会には有効だ。
そして商人型は学問の優劣に価値をおく。
ほとんどの社会は商人型でできている。
だから、ほとんどは学問の優劣が影響する。
それでも職人型、百姓型、漁師型は価値をおかない。
社会の固定概念で勘違いはするが・・・

自然相手に学問が通用するのは極少なのだ。
商人型以外の型は肌で知っている。
商人型は人相手だから解らないのだ。
職人型は自身の内部が相手だから、学問など関係ない。
心や感覚や直感は学問とは別な世界だ。
なまじ小賢しい学問は邪魔になる。
社会の常識は、自然や心という広い世界相手では井の中のモノだ。

商人型は学問というより学校の名前で差別する。
学歴は学校名なのだ。
本人の才能より卒業した学校で判断する。
そして幹部候補とする。
その扱い方は確率的、効率的に高いということだろう。
まぁ、最近はその弊害の多さに修正しているようだが。

商人型は学校名、家柄などの他にも判断するモノがある。
いわゆる足元だ。
お金の有無が扱い方の判断となる。
商業的には間違いの少ない方法だろう。
これも他の型には無い特徴だ。

人相手とはいうものの、人を観る判断は外側だ。
それは社会的には有効な方法だ。
腕の良い職人や芸術家など性格が社会的で無い人が多い。
商人型にとって職人や芸術は創られたモノに価値があり人ではないからだ。
職人型なら、出来上がったモノは扉で、それを創った才能に価値をおく。
人間的に問題があっても、才能に価値をつけるからだ。

どちらが良悪や正誤ではない。
型には判断方法の違いがある、ということなのだ。
すると、自分の判断の不安定が少なくなる。
生きやすくなるには、自分の型と社会の型の同異を理解するのだ。

人の生れ付きの型を四つの型に分けてみた。
だが、第一段階として商人型か否かに分かれる。
現代の人社会は商人型が土台となっているからだ。
そこを理解しないと、自分の型を活かせない。

商人型の発生は百姓型社会からだ。
漁師型の変形で武士社会からだと思われがちだが違う。
(猟師)武士型に戦いが無くなって、商人型に移行したのだ。
日本では江戸中期からだろう。
それ以前の武士(戦士)と以後の多くの武士は生き方が変わった。
武士は商人型の変形の役人、サラリーマンに移行した。
威張る武士が商人型社会を作り出したのだ。
それが今の全世界の国のほとんどだ。

百姓社会では、人々の幸福が商人型の発生になる。
どうしたら暮らしやすくなるか。
どうしたら便利になるか。
それが商人型の発生なのだ。
その時には人の差別や上下という考えはなかった。

今の商人型土台の人社会は、純粋な商人型ではない。
人相手ではあるが、他人の幸せより自分の地位と金が優先する。
皆が便利で楽になる、というのは建前だ。
自分(に関係する人)が優位になることが目的になっている。

死を覚悟して仕事をしていた漁師型の武士。
そこには勝負が生き方だった。
しかし人相手の勝負(戦争)だった。
戦争の無い時代が続くと、生きる道を見失った。

死を賭けた争いが無くなったわけではない。
本来は自然の猟や漁だったのに、人社会にこだわった。
そして、武士社会の中で立身出世という争いを見つけた。
だが、死を賭けた争いではない。
謀略や金で争う舞台だった。
人相手の型の商人型に移行していったのが、今の商人型社会だ。

本来の商人型は人同士が仲良くなるのが仕事でもあった。
建前と本音を使い分けるのも、その方が上手くいくからだ。
名前よりも実をとるのが商人型、だった。
ところが武士崩れ(落ちこぼれ)が商人型に移行した。
本来の商人型は裏方になった。
元々裏方の仕事だったのだ。

何の能力も発揮できない、あるいは持たない武士崩れ。
威張る事しか出来ない。
そして国の代表者になりたがり、なっていった。
実よりも名前や名声が欲しい連中だ。
上に行くことだけが生きがいになり下がった。
行政のトップはこうして崩れ商人型の社会を作った。

井の中なのに、この世は競争社会だ、みたいな底の浅い考えを広めた。
上昇志向は良いことだ、みたいなアホの啓蒙も広めた。
人より偉くなりなさい、みたいな幸せから離れる社会を広めた。
全て、本来の商人型ではなくなっている。
それでも、人相手の社会は商人型だ。

商人型社会が土台だが、漁師(武士)型崩れとの混合型だ。
本来の商人型でも生きにくい社会になった。
競争や順位など本来の商人型には無かった。
役職は適正適所の人事であり、上下の区別ではなかった。
それが、今では上下が価値観になっている。
日本では明治に移行する時、崩れた武士が行政を独占したからだ。
偉くなりたい、という武士魂とは関係ない執着心からの国造りだった。

本来の商人型の例えとしては非営利団体やボランティアなどだ。
あるいは非営利の指導者や医療関係者だろう。
いずれにしても、それで暮らしは立たない。
所得は別な方法で得て、本来の商業型の血が動く人達だ。
成功者といわれる経営者は、本来の商人型ではない。
他より上を目指した競争する混合型の商人型となる。

良い悪いではない。
そういう国や社会が現実だ。
だから理解する事。
その上で、自分の型を当てはめる。
そして、どう生きるかを決める。
生き甲斐や生きる意味や目的は、土台を知らなければ無駄な消耗をする。
自分と違う土台に合わせるのではなく、活かすのだ。



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第三章 漁師型



現代の人社会の土台が商人型なら原初は漁(猟)師型だ。
生きる、というのは食糧を見つける事が最優先だった頃だ。
毎日の食事などという保証はない。
毎日腹を空かせているのが日常だった。
人類の歴史の大部分は空腹の時代だったのだ。
もちろん、今でも世界の60%は飢えているままだ。
一日三回も食べられるのは、全人口の10数%しかいない。

オナゴは出産と子育てがある。
子供は次から次に生まれる。
全て育つわけではないが、かなりの時間は出産と乳児、幼児にかかる。
そのためオトコは食糧を見つけに出かけるのが仕事だった。
まだ農耕という技術や仕組みが発生する前だ。
草と木の実と小動物、魚、獣を捕まえるのが仕事だ。
したがって、ほとんどが漁師型ということになる。

当然危険はつきものだ。
むしろ、危険を冒さなければ獲物は獲れない。
自然の中でも、勝負の部分だ。
小動物とはいえ、知恵比べでもある。
相手も必至だ。
反撃もする。
勝てば糧になる。
負ければ餓死の危険がある。
勝負が生きる相手だった。

自然との勝負、という言い方もできるだろう。
ゲームではない。
生死をかけた戦いだ。
暮らしをがかかった勝負だ。
漁師(猟師)型とは、いつも死と隣り合わせの生き方だった。

現代でも危険度は少なくなったが、基本的には同じだ。
漁師型は漁師や猟師という職業だけではない。
世界中、人と人の肉弾戦があった。
その頃の戦士は漁師型だった。
生きる為、生活の為に死をかけて戦った。
割は合わない勝負だ。
負けが一回で終わりだからだ。

やがて戦いは自分が安全な距離から離れて戦う兵器が発明される。
現代では核ミサイルなどという、全て自滅しかない兵器まである。
アホとしかいいようがないが、多くの立派な政治家は持とうとしている。
元々政治家は遠くや広くや他のモノ達まで考えられない人達だ。
その政治家達が、暮らしの為に戦う兵士に権力で命令している。
兵士は漁師型だが、常に安全なところにいる政治家は商人型だ。

漁師型が基本の職業もある。
勝負が仕事の職業だ。
多くのプロスポーツが勝負を最優先する。
だが団体戦よりも個人戦が漁師型だ。
格闘技系などは特に漁師型の資質が必要だ。
人相手のスポーツだけではない。
例えばクライマーなどの山男山女。
冒険者といわれる未知に挑む人達。
自然に対して生命を懸ける立場だ。
同じ自然に対するのでも百姓型とは立場が違う。
百姓型は自然の理解と利用なのだ。

今の時代の組織。
幾段階の役職などがある。
上を目指す立身出世という生き方。
ここにも漁師型が関係する。
前章の商人型と融合した漁師型だ。
ただし、この漁師型は勝負にこだわるが命を懸けない。
商人型と漁師型の弱点が合わさってしまった型だ。
現代は、とても残念な土台の国や組織に成り下がっている。

生物の最初の型でもある。
環境が厳しいほど割合が多くなる。
弱肉強食という長い時代があった。
基本的に人は漁師型だった。
そうでない型は、ほとんど生き残れなかった。

今でも言われるが、それはズレた考えだ。
人類は他の生物を制圧している。
生命を懸けて食糧を獲っているのは極一部の人。
生命を懸けて人と人の勝負をする人もマレ。

戦争状態の兵士は生命を懸けて勝負している。
だが、独立した本人の生き方ではない。
(嘗ては生き方としての戦士もいたが・・・)
国、組織の命令で生命を懸けているのだ。
理屈や建前はいろいろあるが、戦争は生活の為じゃない。
暮らしは生産的が絶対条件なのだ。
戦争は逆の破壊活動でしかない。
こんなに簡単な正体なのに、アレコレ言い含められて戦争は絶えない。
国の為、家族の為、大切な人の為に戦争する、と騙される。

自分の生命を賭けて生きている。
だから誰からも束縛されない。
漁師型は自立心が強い。
小さなグループはあっても、組織にはむかない型だ。
その時代は小さな小さな部族が多数独立していたのだろう。

商人型は人の集まりの中でないと生きていけない。
漁師型と商人型とは逆の側にいたはずだった。
その二つの型が融合して現代人社会のほどんどの形になった。
今やグローバル化などといわれるほど、大部分がつながっている。
本来の漁師型には生き難い時代になった。

一人一人が生死と対する漁師型だ。
当然、人の上下や役職などとは無縁だった。
偉くなる、という意識が最初から無いし不必要だった。
余計な意識は死の危険が増すのだ。
目の前の危険に神経を使う型だ。

古代では普通の型だ。
毎日の生死の前では上下関係も役職もない。
そういう意味では人は平等だった。
立身も出世も戯言でしかない。
板子一枚上では、己の勘が最優先で生き延びる。

古代では漁師型が普通の型だ。
だから今の人の中にも眠っている。
危険を察知する能力は、生物なら誰でもある。
鈍い遺伝子は生き残れなかったからだ。
現代の人も目覚めればもっと事故は減る。
今、この世に存在しているというのは想像以上に選ばれた結果だ。

勝負や戦いが好きなのではない。
生命を賭けて暮らす、という血が濃いのだ。
その為か、漁師型はオトコに圧倒的に偏って多い型だ。
オナゴには生命を守る本能がある。
守る時間や空間を確保する本能がある。
だが漁師型は毎日が勝負なのだ。
家庭向きではないオトコの型だ。

今のほとんどの国は一夫一婦制からの家族だ。
だが古代でそれはありえない。
オトコは毎日が生死の境だ。
簡単に亡くなる。
オナゴも病気や事故も多い。
だから一族の大家族制が当然となる。
オトコは消耗品だ。
亡くなれば、誰かがフォローしなければ種が滅びる。

現代の一夫一婦制家族は安全という基礎が広がって成り立つ。
保障という制度があって成り立つ。
オトコが家庭的になれるのは、社会状況によるものだ。
生れ付きの性格ではない。
人社会を充実させる商人型の世界だ。
家庭的に価値を置く。
次第に家庭的なオトコに変わっていく。

古代の漁師型の血が濃いオトコ。
現代に暮らしているのだから家庭と両立させる。
だが、その性質からいえば家庭には向いていない。
子は作っても、家庭を守るより勝負を選ぶだろう。
恋人として魅力あっても結婚相手としては不向き・・・

出世をしたがるにも型がある。
出世を求めるのは商人型と漁師型がいる。
商人型は安全策をとるし、頭脳を使う。
漁師型は伸るか反るか、一か八かという危険を賭ける。
漁師型は出世することよりも、その過程の充実感を求める。
商人型は、あくまで結果を求める。

職人型と百姓型は出世を求めない。
出世に興味がない。
出世の良さがわからない。
出世の価値を見いだせない。

漁師型は破滅型という表現もできる。
だが大きな事を成し遂げる型でもある。
いつでも捨て身覚悟で行動できるからだ。
とはいえ、ただの無茶ではない。
能力と勘は人並み以上だ。
危険に飛び込むが、生き延びるのも能力の高さだ。

いざという時。
大ピンチという場面。
漁師型が一番乗り切れる確率が高い。
ピンチに委縮しないからだ。
乱世なら能力を出せる型だ。

危険な生き方を歩いてしまう。
その為か、時には乱世を作ってしまう。
漁師型の指導者、政治家などだと人類絶滅の可能性もある。
商人型はあくまで自分や自分の利得者は安全に策を練る。
だが漁師型は破滅に抵抗が少ないのだ。
大きな危機を作ってしまう。

通常は個人の生き方として漁師型がいる。
人社会全体を巻き込むつもりはない。
個対個の勝負を好むからだ。
国対国などの戦争は商人型がほとんどだ。
そこに大きな利権がからむからだ。
いつでも死を覚悟する漁師型に利権欲は少ない。

商人型の重点は結果にある。
漁師型の重点は過程にある。
職人型の重点は内側の奥にある。
百姓型の重点は(自然との)融合にある。

漁師型は過程の満足度を追いかける。
他の評価は二次的だ。
例えば格闘技。
優勝にこだわらない。
自分が最高の力(技や心を含む)を発揮できたかが重要なのだ。
それに一位は仮ということも知っている。

だから常に挑戦する。
常に真剣に練習し研鑽する。
常に勝負の自覚がある。
勝負は最終的に己との勝負になる。
ストイック(克己禁欲的)は漁師型の特徴でもある。
ただし破滅型故に、限定の享楽も厭わない。
ストイックと享楽は対立関係ではないのだ。

勝負が相手の漁師型。
勝負の対象が見つからない場合がある。
すると生きる意欲が大きく減少する。
厭世的になりやすい。

あるいは勝ち負けだけにこだわる場合もある。
例えば出世競争に敗れて会社を辞める。
仕事より勝負に価値を置く漁師型だ。
仕事を放りだすアホなのだが、本人は実に真剣。

トップやリーダーになっても、競争相手が見つからないと同じだ。
地位ではないのだ。
勝つことに意義がある。
社会的地位では満足できない。
常に次の目標が無いと生きる意欲が無くなる型でもある。
のんびりと無意味に過ごすなど考えられない。
走り続ける事が、生きている証だとする。
燃え尽きるまで走る、戦うのが生き方だとしている。

人社会の中では裏表が薄い。
生き方としては真っ直ぐ進みたがる。
小器用に生きる事は無理。
オトコとして魅力的でもある。
思い込んだら試練の道を行くが男のド根性・・・

真っ直ぐ進みたがる人は、騙されやすい。
利用されやすい。
商人型から利用価値の高い商品とされやすい。
才能が低ければ淘汰されてしまう厳しい型だ。
残るのは才能が高い証拠でもある。
双方が上手く回ると、人社会では名が知られる存在になる。

大きな才能があっても漁師型が単独だと個人の満足の範囲だ。
だが参謀役(才能ある商人型)がいれば、人社会ではトップに立てる。
漁師型と商人型は対極であるが、組めれば最高のパートナーになる。
職人型や百姓型は人社会での上昇志向や名利志向が無い。
基本的に商人型と組み難い型なのだ。

上手く操縦するパートナー。
現代人社会では、配偶者となる人が鍵を握る。
勝負が仕事の夫には、上手く操縦する妻が必要なのだ。
スポーツ界などは特に操縦役次第となる。
監督、コーチもそれに当てはまる。
漁師型は才能があるが、世間的にはアホなのだ。
力は強いが、簡単に利用されてしまう弱点もある。

オトコの本能ではないが、誰でも資質は持っている。
社会が形成される前は、漁師型が大多数だったからだ。
現代社会になると、簡単に死を賭けては困る時代になった。
特に一夫一婦制の家庭では、出来るだけ働いて一人前だ。
そこで家庭の主婦という意味が出てくる。
極端にいえば、オトコはオナゴに操縦されて一人前でいられる。
逆の表現ならば、オトコを操れないオナゴは結婚などには向かない。
家庭の柱は主婦なのだ。

オナゴは人社会を一人でも生きられる。
が、現代社会を一人で生きられるオトコは少ないのだ。
(独身は無理という意味ではない)
漁師型といわれる(血の濃い)オトコは基本的には家庭向きではない。
家庭を持ったなら、家庭の消耗品と考える方がいい。

現代社会では漁師型は理解し難くなった。
家族、家庭という形式で人間の種を続けるようになったからだ。
だが人類の圧倒的部分は今のような社会ではない。
毎日の食糧を獲ることが、生きる事生き延びる事だった。
そこで種を連なるには、オトコは消耗品だったのだ。

何らかの成果を持って帰ってくれば合格。
不合格は死。
常時、死と隣り合わせで生きていた。
小さな共同体というグループだ。
死を賭けて、毎日の仕事がある。
だから消耗品としてオトコは存在していた。

ほとんどのオトコの原型でもある。
現代社会では暮らすのに死の危険性は極少になった。
だが原型としてあるなら、現代でも同じだ。
オトコは本来消耗品なのだ。
種を続ける為の消耗品が真の姿ともいえるだろう。

オトコの原型として漁師型がある。
漁師型でないオトコは淘汰されたからだ。
だが生物は環境で変化する。
特に環境に対応能力が高い人間だ。
自然環境であろうが、社会環境であろうが素早く変化する。

戦争状態から離れている国。
例えば日本。
オトコの漁師型は極端に少なくなった。
漁師型ばかりではない。
百姓型も職人型も極端に少なくなっている。
そして、ほとんどが変形の商人型に変化している。

それでも基本的な消耗品という立場は変わらない。
生物のオスである限り、消耗品として生まれた証なのだ。
漁師型は、それが解りやすい特徴を大きく持っているだけだ。
常に死と隣り合わせの漁師型に安定した未来は描けない。
だが、今を充実して生きる力は大きい。



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第四章 百姓型



人間の歴史で漁師型がオトコの原型となった。
毎日の食糧を生命を賭けて確保するのが生きるという事だった。
それはオナゴも同じだった。
食糧を確保する為には生命を賭けなくてはならない時代だった。
その時代が人類の時代で大部分だった。

ただ、オナゴはそれと生命を繋げる役目もあった。
単純に生命を賭けるわけにもいかなかった。
守り、育てるには安定も同時に求めた。
消耗品とはいえオトコが簡単に死んでしまうのも安定に欠ける。
オトコと違ってオナゴには生き延びる能力が高い。
そこで農耕という分野を考え、実行していった。

子供がいるのだ。
遠くまで狩りにいけない。
子供を守りながら食糧を確保したい。
どうやら、植物の種は新たに同じ植物が生えてくる。
食べられる植物なら身近に蒔いておこう。
オトコが多少死んでも、毎日食べなくてはならないのだ。

どうやら植物は条件がそろえば育ってくれる。
基本的には勝手に育ってくれる。
それ用の土地を別枠にすれば育ってくれる。
野生で一つ一つ見つけるより効率もいい。
育児しながら食糧が補給できるのだ。

やがて狩猟に向かないオトコも手伝う。
多少は考え工夫する。
野生の獣や小動物からも守った方がいいようだ。
種を蒔く時期もありそうだ。
農作はある程度力を合わせる方がいいようだ。

狩猟よりも安定して食糧の確保ができる。
危険性も少ない。
オナゴがオトコに頼らなくても出来る。
こうして百姓型は主にオナゴの原型となった。

農作だけではない。
食べられる小動物なら飼える。
子育てしながらでも飼える。
そして適当な時、食糧にすればいい。
こうして酪農の原型もオナゴが作り出した。
狩猟に適さないオトコが手伝いだしたのは、いうまでもない。

漁師型の発生はオトコだが、百姓型の発生はオナゴだった。
もちろん型としては、男女どちらもいる。
同じ自然や動物を相手にしても、その方向が違う。
それぞれの種の役割から発生したものだ。

漁師型は勝負が相手だ。
勝つことが目的でもある。
勝つことで生き延びられる。
それが仕事であり、人生だった。
百姓型に勝負は無用だ。
対立していたら安定しない。
生命を守るには、何でも活用する。
それが仕事であり、人生だった。

農作は時期がある。
種蒔きも収穫も短期だ。
個々よりも協力して作業した方が能率的だ。
そして一段落ついたら皆で労(ねぎら)おう。
その御苦労会が一つの楽しみとなった。

自然相手の農作だ。
多く作物が収穫できるように呪(まじな)いもしよう。
御苦労会と呪いが合体した。
祭りの原型だ。
農作と祭りはセットとなった。
自然を神という概念も生まれた。

オナゴだもの。
生命を生み増やすのが本能にある。
祭りは生命の祭りとなった。
人もケモノも魚も虫も植物も同じだ。
生命賛歌が祭りの基本だ。
五穀豊穣には、全ての生命が満ちる願いがある。
神楽(祭り)はセックスの奨励でもあった。

狩猟世界では毎日が死を賭けた戦いだった。
動物は魚にしろケモノにしろ、獲ってすぐ食べる。
保存は効かない。
だから皆で分けて食べる。
獲って、食べるのが暮らすという事だった。
毎日の食糧確保が生活という事だった。

農耕や畜産は育てる期間がある。
それにより、将来の食糧確保予想が出来る。
賭けの毎日から、安定度が大きく高まった。
そして植物は保存ができるのも安定につながる。
安定を求める生活は、備蓄という意識を生んだ。
計画という考え方を生んだ。
その日暮らしからしたら、大きな変革だった。

もちろん狩猟が無くなったわけではない。
ケモノの皮や骨はいろいろに加工できる。
植物に比べエネルギー値も高い。
安定できなくても、貴重な食糧に変わりはない。

狩猟は運も大きく影響する。
誰が獲物に出会うのか、獲れるのかは判らない。
農耕や畜産は人により差が出てしまう。
より植物や動物を観察し、適した条件を与えれば大きな収穫となる。
運ではなく、観察力と小まめな世話で差が出る。

年が経つにしたがい、差は更に大きくなる。
何しろ備蓄が出来るのだ。
持つ者と持てない者が分かれる。
所有という意識が出る。
貧富の始まりだ。
狩猟生活では無かった格差が生まれた。

小さな集落とはいえ、格差は地位を作った。
持つ者が命令する役をするようになった。
個人の安定は平等を崩す。
百姓型には人の格差の元があった。
それは、やがて発生する商人型へとつながる。

自然とは何か?
百姓型は観察する。
それはそのまま、生命とは何か?と同じになる。
自然を観るとは生命を観ることだ。

種が芽を出す。
大きく育てるにはどうするか。
動物が子を産む。
多く、大きく育てるにはどうするか。
人間が子を産む。
丈夫に育てるにはどうするか。

オナゴが自然を、生命を観察し暮らしに活かすのは適している。
百姓型はオナゴの性質に沿うものだった。
そして、自然は神でもあり生命でもある。
生命即神という観方ができるようになるのも、当たり前だった。
漁師型のような賭けの生き方ではない。
現実を生きるには自然との調和が繁栄をもたらす。
オナゴは生命を宿し育てる本能から確信する。

漁師型は対象が獲物との勝負だ。
勝つことが仕事であり生き方だ。
といって対象に愛情が無いわけじゃない。
相手を認めてこそ、対策がある。
だが、それはオナゴが抱く愛情とは違う。

百姓型はオナゴの愛情が活かされる。
愛情で観察し、愛情で手入れをする。
すると大きく、多く育つ。
常に愛情が大きな役割になる。
それは自然への畏れにも生命への畏れにもつながる。

どんなに苛酷な自然の姿があっても対立することはない。
自然も生命も自分より遥かに偉大なモノだと知っている。
だから神という概念が生まれた。
畏れという感覚が生まれた。
そして偉大なモノに抱かれ、調和してこそ未来があると直観している。
百姓型は、その洞察力よりも愛情の深さにより能力を高めている。

農業や畜産業はオトコの力仕事だと思われている。
現代ではそうだが、長い間はオナゴの仕事だった。
これは世界中どこでも同じだった。
農作といっても小規模だ。
畜産といっても僅かな動物だ。
それで人社会は食わせてもらっていたのだ。

オトコ共は戦いや謀略など反生産活動がほとんどだ。
その染色体と同じく、オトコは中途半端な能力しかなかった。
だから威張ってみせても、オナゴに養ってもらっていたのだ。
国取りなどしても肝心の食糧は生産しない。
専門の漁師や猟師が獲る魚肉もオナゴの食糧量にはかなわない。

この世に生んでくれて、育ててくれる。
食べるモノも生産してくれる。
男女という区別をつけるなら、あきらかにオトコはオマケ部分だ。
ほんの少ししか、役に立たないという事実は認識しようぜ。
四つの型で一番肝心なのは百姓型なのだ。
その発生から長い間、人を養ってきたのはオナゴの能力だ。

現代の先進国と自称する国々。
世界人口の少数なのだが、その消費と威張る態度は大きい。
共通して経済優先の意識だ。
世界の大部分が経済的にも苦しんでいるという事実にに気付かない。
あるいは、気づいていても無視する。
自分の国だけは勝ち組になりたい。
自分の関係者だけは勝ち組になりたい。
勝ち負けで平和と平穏と未来はやってこないのにねぇ。

その為、生命を育てる食糧も経済で考える。
安い地域から金で取引する。
幻想(経済)が崩れれば、大切な食糧を金で売るわけないのにねぇ。
とても危うい意識の自称先進国の頭の良い行政関係者なのだ。

生命を育てる根底は百姓型。
生みだし、生産する生き方。
それはオナゴの意識から始まる。
経済や勝ち負けの行政ならオトコ意識。
だが、マトモに繁栄したいのなら、オナゴを行政の主力にするべきだろうな。
ただし、百姓型のオナゴだ。

ほぼ孤立して生活していた漁師型。
個々の能力に頼った食糧確保だった。
獲物を追っていく暮らしだ。
住居も移動するのが当たり前だった。

育児の合間から始まった百姓型のオナゴ達。
お互いが協力して食糧確保をしていった。
農作だから住居を移動するわけにはいかない。
貧富も生まれるが、村の原型もできる。
生産量などにより、村の貧富も生まれる。
豊かな土地や水や気候が定住する条件になった。

農作中心の定住だ。
土地と水の確保と制御が発達する。
水の使い方、利用の方法。
同時に火の利用方法も発達してきた。
定住というのは、大きなモノ、設置できるモノが使えるのだ。
それまでのたき火程度から、煮炊きする炉というモノができた。
囲んで暖をとる囲炉裏なども発明された。

家屋が作られ、囲炉裏を中心とした居間ができた。
大家族制だが、家族という意識も生まれた。
村は幾つかの家族が集まったモノとなった。
それまでの狩猟部落では家族意識はほとんどなかった。
いつでも移動する為、家屋というモノがなかったからだ。
農作や畜産中心で家族意識が生まれたのだ。
オナゴが元だから、それらは実に自然に発生していった。

農作定住はいろいろなモノを発達させた。
収穫物の入れ物。
農作器具。
当然家屋も工夫される。
それらのモノを作るのが得意な職人が生まれた。

職人型は農作社会から生まれた型だ。
狩猟社会でも道具は多少発達した。
だが、それらは使う個人の工夫が中心だった。
農作社会は協力社会だ。
誰でも使いやすい、利用しやすいモノとして作られる。
発達度が違うのだ。
すると専門的な能力がより発達する。
職人型は農作社会から生まれた。

長い人類の歴史。
その大部分が狩猟社会だった。
そして人々の暮らし方はほとんど変化しなかった。
気象や自然界の変化への対応がやっとだった。

農耕社会になって大きく変わった。
文明文化という部分だ。
文明も文化も多くの人がいて成り立つ。
個々の能力に頼っていた狩猟社会では発達し難い。
協力社会でもある農耕社会になり、いろいろが発明され発達した。
そして祭りなどの心の部分への刺激が文化発展につながった。

人が社会として生きる土台は百姓型。
この型が最も多くいなければ社会は崩れる。
毎日生きていくには当たり前なのだが、当たり前に気付くのが少数になった。
文明文化の発達と当たり前に気付く能力は反比例するのかもしれない。

生活の原点。
それは食べる事だ。
自称文明国に暮らす多くの人は忘れている。
お金があれば食べられると思い込んでいる。
それが異常な一時期的な現象だと気付かない。

食べるには、狩猟か農作か畜産かが不可欠だ。
お金は遥か後に商人型が発明した便利品だ。
基本的に余裕があるモノ同士の代用交換グッズだ。
余裕がなければ役に立たないのだ。
お金の余裕があっても、食糧の余裕がなければ意味が無いのだ。

ある程度計画的に確保できるのは農作だ。
農作の土台は土と水だ。
つまり自然環境が生命の鍵を握っている。
実に、当たり前の話だ。
この、当たり前を無視するのがアホな自称文明国だ。
国の滅亡は文明国からなのだ。
そして、まだ残っている自然をわが物にしようとする。
戦争という侵略をするが、所詮先延ばしにしかならない。
根本的に農耕社会に移行しないと、当たり前だが人類は滅びる。

農作社会から職人型が生まれ、商人型が生まれる。
小さな人の集まりから、部落という組織になった。
部落が幾つもできて、国というモノも生まれた。
国の元も農作社会なのだ。

百姓という漢字がある。
実に多くの意味を内蔵している。
農作社会から、人社会のあらゆるモノが生まれた。
しかも、それはオナゴからの意識でもあった。

今の国意識。
オトコの意識で成り立っている。
当然、歪みが出る。
基本が無いオトコ意識だ。
滅びるのは、運命でなく宿命なのだろう。

食事も変わった。
何でもいい、とにかく腹に入れば。
人類の歴史の大部分は、生命維持の為だけの食事だった。
狩猟社会では、獲れた時だけが食事だ。
常に飢餓状態といってもいい。
食べるモノさえあれば、それで充分だった。

農作社会になり、食糧の計画と備蓄が可能になった。
毎日の生命維持の食事から、食べる楽しみのある食事になった。
常に移動の狩猟社会では、調理は素早く簡単に。
多少の持ち運び用も乾燥させたモノがほとんどだ。
定住になった農作社会では、調理時間がある。
備蓄しておける様々な味の元もある。
より美味しいモノも工夫できるようになり、食べる楽しみが増した。

それは入れ物となる土器や容器の発明と発達にもなった。
小動物から食糧を守る為の倉庫という建物も工夫された。
大きな動物から身を守る柵なども工夫された。
水を掘る、あるいは川から引く技術も発達した。
様々な発明と発達は農作社会から生まれていたのだ。

定住は生死観も変えた。
移動生活より危険は少なくなった。
病になっても休める家がある。
日常生活に共にあった死が少なくなった。
それは、死というモノを意識することとなった。

死を意識すると同時に生も意識するようになった。
誕生は部落の繁栄。
死は協力社会の部落に貢献してくれた者への別れ。
葬儀という概念が大きくなった。
移動生活にはなかった墓という神聖な場所もできた。

墓は先祖という考えも意識した。
といっても、現代のように直接血縁の先祖とは違う。
家族は大家族制だし、子は村の共同の宝だ。
多少の財産があるとはいえ、受け継ぐようなものではない。
誰の子供でも同じなのだ。
能力の違いがあるだけなのだ。
子も親も所有物ではない。
共同の宝だから、先祖も共有の先祖だった。

人と人が集まり、力を合わせて生活する。
個別の家族意識はなく、部落全ての人が家族であった。
そこには普通に思いやりが満ちていただろう。
部落の所有という概念はあっても、個別の所有意識はない。
足りなければ、お互いが工夫して助け合う。
そうしないと暮らしていけない、という状況でもあった。

今の人社会の原型となった集団だ。
本来の姿でもあるだろう。
現代がいかに歪み、狂いが生じている社会になってしまったとわかる。
現代が一時的に狂ってしまった。
僅か3000年くらい前からだろう。

人類の歴史をどこからにするか説があるだろう。
600万年とするか、3万年とするか。
3万年としても、その100分の1の歴史で急激に狂った。
更に科学の発展という200年前から狂いは加速した。
更に更に、核家族化が進んだ50年前くらいから超狂いとなったのだ。
だが人の内には、長い長い間の思いやりの遺伝子があるのだ。

農作社会は様々なモノを発明し発達させた。
それは安定が安心を呼び、一寸先が闇の状態から変わったからだ。
計画が成り立ち、将来が予測できるようになった。
心は安心すると発想が自由になる。
楽しみや楽になるようなモノを考え、作り出す。

現代の便利は楽になるモノではなく、儲かる発明と発達だ。
似ているようでも、その先にあるのは違う道だ。
他の人が楽しめる。
それ以外の理由はいらない。
競争社会からの発明は結局自分と相手の首を絞める結果なのだ。

食べ物が豊かになる。
それだけ生産できるようになる。
大地と水と一緒に生活する。
それが心が豊かになるということでもあった。
地球上の生物だもの、実に当たり前なのだ。

農耕社会は競争社会にならない。
協力しあって成り立つ社会だからだ。
競争社会は後の商人社会から生まれる。
農耕社会から人の組織が生まれ、商人型が生まれる。
商人型はやがて商人社会(現代)をつくり競争させる。
だが、この時点では競争社会とはならない。

農耕社会は大いなる自然の恵みで成り立つ社会だ。
感謝という概念が常につきまとう。
そして偉大な自然に対して畏敬がつきまとう。
それは宗教の原型も生む。
農耕社会は多くのモノを発明し発展させる。
同時に後の害になるモノまで沢山生むのだ。

人間だもの。
多くが集まると個性がより強く出る。
人が集まると、人と自分を比べるようになる。
人と人を比べ、他人と自分を比べる。
苦しみの多くは、比べるところから生まれる。

人社会の原型を作った百姓型だが、相手は人ではない。
人相手は商人型だ。
百姓型の相手は自然の理だ。
農作や畜産を進める手段として、人の集まりと協力となった。
定住し、家族や部落を発達させたが、それは副産物だ。
対するのは、自然。

天候であり、大地であり、水であり、季節であった。
何よりも、それらによって育つ植物や動物の摂理だった。
そこに不思議さと畏敬と愉しさをみつけた。
それは生き甲斐であり、生物としての実感でもあった。
自然の内に暮らす。
それが百姓型の性質だ。

自然界から人を観る。
自然の中の一生物として人を観る。
それが本来の人としての律。
商人型のような人だけ特別扱いした律ではないのだ。
人だけの法やルールや道徳や倫理観は歪んで意図的に作られたモノだ。
自然界の一部として、どう生きるか。
それが百姓型が求めた社会ルールだった。



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第五章 職人型



定住が条件の農作社会は様々なモノを発達させた。
基本となる住む家。
それまでと違い、長く住むのだ。
よりよく住み続ける為に次々と工夫がされる。
それに伴う技術が発展する。

定住はモノを置いておける。
それまでの狩猟社会では移動の為にモノは少ないのが基本だった。
置くには入れ物が必要になる。
それも数や大きさが必要になる。
より使いやすい道具も必要になる。
次々と工夫と発明と発達が起こった。

どうやら農作や畜産仕事より、モノ作りが向いている人がいる。
アイデアや手先の器用さ。
何よりも、モノを作るのが好きなのだ。
そして、部落には必要とされた。
職人型の誕生だ。

職人型が対する相手。
それは自分だ。
技はどこまで進めても、自分だけの技だ。
切磋琢磨するのは自分以外にない。
自分に向き合って創意工夫と実践で技は進化する。

商人型のように大勢の人は関係ない。
狩猟型のように勝負もない。
百姓型のように自然の理解と利用でもない。
たった一人だけでも職人型は成り立つ。
作られたモノは、その時点から職人の手を離れる。
作られたモノではないのだ。
作る技、腕に存在を感じるのが職人型だ。

技の先には自然の理に触れるだろう。
自分を深く観ることは自然を観ることにもつながるだろう。
だが、それは先の話。
職人型は孤独な型といってもいいだろう。

技は伝承できる。
師がいて弟子がいる。
先生と生徒がいる。
だが条件付きだ。

技の全てが伝承できるわけではない。
伝えても覚えるのは弟子だ。
弟子に覚える才能と自分なりの工夫がなけけば伝わらない。
何よりも、本人が自分で進まなければ進化しない。
師が出来るのは、きっかけなのだ。

結局は孤独な作業だ。
その孤独が性にあっているのが職人型だ。
一人で更に進むのが好きなのだ。
壁にぶつかり足掻くのが好きなのだ。
一人の世界で愉しめるのが職人型だ。
師から卒業して、やっと一人前の世界だ。

モノを作るだけが職人型ではない。
自分の世界で何かを追いかけるのが職人型だ。
ある意味、作られたモノは副産物。
結果など興味ないのだ。
常に、その先に興味がある。

未知なもの。
到達できないもの。
それらを追いかけたいのが職人型となる。
その為か、人社会に溶け込むのが苦手となる。
そういう意味では社会的でない。
一人で研究するのが好きな性質だ。

といって、引きこもりとは全く違う。
引きこもりは社会を意識して引きこもる。
職人型は社会に興味が湧かないのだ。
出来ない事、未知なモノ、それらを追いかけたいだけだ。
究極の自分勝手な型ともいえる。

商人型の興味は人の集まり。
百姓型の興味は自然。
漁師型は勝負。
職人型は自分の内。
とはいえ、その対象物は様々だ。

建築とか道具とかは形が出来上がるからわかりやすい。
形の作れないモノも対象だ。
例えば商人型の人社会。
その研究は机上だけでなくフィールドワークも含まれる。
人とは何か、社会とは何か?
商人型のように活用するわけではない。
単に知りたいだけなのだ。

例えば百姓型の自然界。
未知が満ちている。
知りたい、見たい、触れたい。
冒険家と勘違いされるが、職人型はアクティブでもある。
それを利用する気はない。
単に知りたいのだ。

例えば漁師型の勝負。
どうして勝てるのか、どうして強いのか、どうして負けるのか?
自分が勝ち負けにこだわっているわけではない。
知りたいのだ。
応用したいわけではないが、応用するとトレーナーになれる・・・

師や先生に教わる事があっても、その先は一人作業だ。
研鑽するのは自分だけの世界だ。
自分勝手な作業でもある。
だから余計な気をまわさない分、進化も早い。
だから独善になりやすく、役に立たないモノも多い。
元々、役に立とうとか善悪など考えもしないのだ。

人は全員が赤ちゃんだった。
全員が幼児だった。
全員が無邪気な子供だった。
興味のある事、どんどん知りたがりだった。
没頭すると、周りなど関係なかった。
職人型は、ある意味全員が気質として持っている。

大人、というのが周りとの協調だとする。
社会への参加だとする。
社会生活の最小単位は家族だ。
それらが欠陥しがちなのが職人型でもある。
社会性、結婚生活には向いてないのかもしれない。

誰でも夢中になる事がある。
その時は自分の世界。
一時的には誰でも職人型になっている。
至福かどうかはわからないが、夢中になっているのは幸せといっていいだろう。
そういう意味では、職人型は幸せに最も多く接せられるタイプだ。

他と比べる事が不幸や苦しみの始まりといわれる。
職人型は自分より上位の技を参考にするが、比べる事には重きを置かない。
常に進むのが性分だ。
自分が進むのが関心事なのだ。
そういう意味でも、職人型は幸せに近いタイプだろう。

社会生活、家族生活に向かない自分勝手。
だが、他に興味ないから害も成さない。
変わり者とはいわれても、それだけのことだ。
出世や名利を求めないなら、生き方としては理想ともいえる。
孤立、孤独が性に合っているなら、アナタは職人型かもしれない。
そして、一番幸せの近くにいるかもしれない。
繰り返すが、引きこもりとは違うぞ。

自分の道をひたすら歩く。
他と比べないから評価には興味ない。
プロとアマの境や違いが自覚できる型でもある。
おおよそ10年、ひたすら修行でプロ側の壁に到達する。
天才型や秀才型はあっても、基本的には10年くらいかかる。

プロ側に入っても、全くのヒヨコだ。
それでも、自分が一人前だと自覚できる。
10年間で、自分が成長したと自覚する。
例えれば、自分は強くなった。
自分は、何でも出来るようになった。
上手くなった。
そう思える。

プロとはいえ、それがヒヨコだったと気付くには更に10年。
それまでは基準がアマやヒヨコ同士。
20年もすると、一流が観える。
時には名人と出会う。
すると、自分は弱かったと気付く。
下手だったと知る。
だから、もっと進みたくなる。

20年も研鑽すると、自分の周りが観える。
上手い人、強い人、凄い人、技が観える。
プロ側の世界でも奥に目がいく。
自分を離れて観られるようになる。
そして井の中にいたと気付く。

更に10年研鑽する。
土俵の外に気付く。
自分の小ささに気付く。
何て、自分は何も知らなかったのだろう。
そして、世界は何て広く大きいのだろう。

更に10年研鑽する。
他の道が近くにあると気付く。
知らない、解らないだらけだと気付く。
40年もすると、何が何だかわからない。
職人の道は、ここからが面白いらしい。
求めるモノが結果ではないからだ。

職人型によって作られたモノの多くは社会に貢献する。
本人は社会の為にしてないのだが、結果として社会に参加している。
生物の中で人間は特異でもある。
家や服や靴や道具無しで生活出来ないくらい特異である。
それらを作るのが職人型だった。
自分を追求したから、より深い道具となった。

文化という、やはり生物としては特異な分野も職人型によってだ。
絵画、音楽、舞踊、その他モロモロ。
それらも職人型から生まれたモノだ。
そして人の生活に多大な恩恵を生んだ。

医療や学術の最先端も多くは職人型だ。
科学者、哲学者、思想家、宗教家の一匹狼達。
前人未到の何かを生み出すのは職人型からだ。
何しろ、自分勝手だから独自なモノが生み出せる。
結果として、人間社会に応用すると大きな影響となる。
もちろん、生物や環境を破壊するモノもある。

道を追求する職人型。
近代社会から減少になった。
現代社会では絶滅に近くなった。
モノを生み出すのは会社という組織に変わったからだ。

研究は国や大きな会社がほとんどするようになった。
サラリーマン(商人型)の開発者や研究者になった。
本来が一匹狼的な自己満足の世界で様々を生み出した職人型だ。
基本的に組織には属せない。
職人型は珍しい存在となった。

人間が繁栄した時代。
今のような形や数ではなく、生命力が旺盛な繁栄力のある時代。
職人型は個の世界が仕事場だが、それにより人世界は輝いた。
この世はそういうヒネクレた仕組みがある。
個の世界が充実すると、集の世界も活性する。
組織や規則や国やモロモロで同一にすると、衰退する。
やがて、同一化は絶滅する。
当たり前だ。
多種多様で成り立つ世界なのだから。

最後に出現した商人型。
人が組織を作り、自治体を作り、国を立ち上げる。
多くの人の集まりから生まれたのが商人型だ。
それ以外の型は生きていくのに必要から生まれた。
職人型も個の生き方とはいえ、人が生きるのに直結していた。
商人型だけは、無くても人は生きていられる。
事実とても長い間、商人型は存在しなかった。

それが現代。
商人型は他の百姓型、漁師型、職人型を排除してきた。
割に合わないという計算上からだ。
優先順位の一番下の商人型の社会であり国であり自治体なのだ。
この先、破滅か絶滅か超衰退以外ないだろう。
今の日本は、その最先端を走っている。
絶滅に向かって、先頭を争っている。

行政が商人型。
マスコミも同じ意識。
学校も同じ教育。
百姓型、漁師型、職人型の生き方を目指す人は極少数となった。
安い外国から輸入?
自分たちの本当に必要なモノを他から輸入?
この考え方が普通になったから、この国の未来は無いに等しい。

嘗て職人の都市といわれた江戸。
鎖国政策と徳川幕府安定で町人文化が栄えた。
町人とは職人のことだ。
その他、極少数の武士とか役人は商人型だ。
商人型だが立身出世のサラリーマンだ。
商いをする商人型は栄えたが、武士や役人は質が下がった。

それぞれが個々の生き方の職人が集まった都市だ。
安定を優先しない職人型の集まりだ。
毎日の暮らしは、貧乏のその日暮らし。
すると、お互いが助け合って生活する。
職人文化は貧乏だが、人情溢れる文化となった。
それは作品にも繁栄された。

今は市民とか町人はサラリーマン(商人型)だ。
商人型は規律や法律の上で暮らしていく。
彼らは、人は規律を作らないとまとまらないと思っている。
規律が苦手な職人型が優しい文化を作ったことを知らないでいる。
生き方が個々の自立であると、共生意識が生まれると知らないでいる。
自立は共存の基礎なのだ。

僅かに残る江戸っ子文化。
それらは職人型だ。
見栄っ張りと誤解されるが、それは違う。
見栄っ張りは商人型からの観方なのだ。

宵越しの金は持たねぇ。
頼まれれば、自分の米が無くても貸す。
後に残さぬ気性。
腕があるからなのだ。
自立の自信があるからなのだ。
安定や評価などに重きを置かない生き方だった。
商人型溢れる大阪人からは理解し難い。

今の東京人は地方から集まった商人型。
一花咲かそうという意識は商人型の特徴だ。
金、他人の評価や立身出世が基準となる生き方だ。
もちろん、良悪でも正誤でもない。
単なる型の性質だ。
残念なのは、一つの型が常識のように勘違いされた事だ。

日本中のほとんどが商人型の生き方をするようになった。
本来の型の上に商人型を被せて生きている。
価値観や基準や固定概念も商人型だと思っている。
本来が商人型なら、この社会はとても楽に生きられる。
自分の能力が思うように発揮できる。

ところが職人型が性質なのに、社会の常識として商人型の生き方をした場合。
意識の底とズレが生じる。
それはストレスとなる。
問題となるストレスの大部分は、本来の自分とのズレだろう。
だから他人にも不安と不満で接する。
相手もストレスとなる。
ストレスの悪循環。

圧倒的に商人型は少ないのだ。
都市部では職人型が大部分でいいのだ。
地方は百姓型が大部分で当たり前。
山間や海は漁師型が適しているのだ。
その人々の隙間に商人型がいてちょうどいい。



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第六章 属性



発生した順に漁師型、百姓型、職人型、商人型と分けた。
それぞれの特徴性質として分けた。
漁師型なら勝負。
百姓型なら自然。
職人型なら己。
商人型なら人社会。

だが型はそんなに単純ではない。
主となる性質に属性がからむ。
それにより、同じ型でも生き方が違ってしまう。
主となる性質と違い、属性は変わる事もある。
その場合は、大きな転換期となる。
人が変わったような生き方になる時、属性の変化があったりする。

属性の種類は複数ある。
そして、変われるのだから柔軟性もある。
混じったりする。
属性の説明は、結構やっかいだ。

属性は主性と影響し合って、意識や生き方に現れる。
主性は土台だが、その上に立つ建物は改造できる。
その建物が属性になる。
同じような材料の建物でも土台が違う。
土台は同じでも、材料によって建物は変わる。

この属性は深い癖という表現もできる。
心の底にある癖。
同じ型でも属性により、生き方は大きく変わる。
ただし、癖は変えることができる。
自然に変わることもある。

複数あるが、とりあえず五つに代表させた。
収集。
探究。
依存。
支配。
享楽。
それぞれの型に付随するし、複数の属性が付随することもある。
だから、人は多種多様な生き方をする。
しかも変化するから、○○な人、などと決め付けられない。

収集。
モノを集める生き方。
対象は物質だけではない。
例えば、お金という価値観。
欲しいという気持ちは多くの人にあるだろう。
(私も欲しいぜ・・・)
それだけでは収集にならない。
具体的な生き方として、収集が癖となっている。
収集の為に働く、行動する。
時には、収集が人生の目的だと勘違いする。

見えないモノも収集癖の対象だ。
例えば知識。
能力。
評価。
もちろん収集により、自他に貢献することもある。
癖は善悪や正誤とは関係ない。

欲という意識は誰にでもある。
生きているなら、どんな生物にでもある。
生命は欲が無いと維持できないのだ。
宗教組織の言う無欲になりなさい、なんていうのは無知の言葉だ。
無欲になったら生きていられない。
この説明は、ここでは関係ないからしないが、当たり前のことだ。
だから、欲と収集は別次元のことだ。

集めることに生き甲斐を感じる。
集めることで楽に生きられると思っている。
出来る限り多く集めたい。
それが目標であり、楽しみでもある。
そして、他の人も同じだと思っている。

収集という属性は、他を意識し比べる傾向がある。
例えば本来は自然が相手の百姓型。
収集の属性を持つと、他の百姓型への意識が強まる。
収穫物の多さ、農耕地の広さなどを意識する。

収穫物だけではない。
培った技術、知恵、知識。
多く集めると、自分が上位になったように感じる。
他の百姓型や人社会のリーダーになる。
もちろん、それは良否ではなく生き方の一つだ。
それにより、導かれる人は感謝するだろう。

収集は所有という概念が土台になる。
現代では、人間は所有欲があると思われている。
ところが所有という観念は、かなり時代が経ってからだ。
人類の歴史という尺度なら、ほんの数センチ前からだ。
数千年前に、人は組織を作り、国という概念を作った。
数百万年前からの歴史の100分の1にもならない最近だ。

国を統治する極一分には所有という概念が芽生えた。
が、大部分の人間には所有という概念はなかった。
例えば日本。
明治になるまで、大部分は苗字がなかった。
つまり、家柄という概念がなかった。
あったのは極一分の武士階級や貴族階級と江戸中期以降の商人だけだ。

苗字が無ければ、財産という概念は生まれない。
所有しても意味が無いのだ。
もちろん、一生の中で一時的には所有はある。
欲はあるからだ。
あっても人生の儚さも日常茶飯だ。
所有や収集に生き甲斐を感じるのは、一部の特権階級だけだった。

商人型は所有が生き甲斐だから、その為の収集がほとんどだ。
だが所有につながらない収集もある。
収集はこだわりなのだが、生きてきた証としての収集もある。
他人との比較はない。
自己満足の収集だ。

例えば職人型。
画家のほとんどは職人型だ。
自分の内部が相手の型だ。
通常、作品は単なる過程の表現品。
だが、最初から自己作品を収集する場合がある。
それは、自分が生きてきた証だからだ。

例えば漁師型。
勝負が相手だが、記念を収集する場合がある。
獲物の一部や魚拓など。
格闘家(これも漁師型)ならタイトルやベルト。
自分の能力の証として収集する。

探究。
職人型の癖でもあるが、属性として他の型にも付くことがある。
職人型は探究癖がなければ、先に進めない。
探究が無くなったら、職人型としての生き方は終わりだ。
あとは先生とか親方とか指導する立場になる。
社会的には指導者が評価されるが、プロの職人達からは軽く見られる。
探究しない、とはそこで止まってしまった職人だから、引退と同じなのだ。

例えば百姓型。
自然への理解と応用が相手だが、あくまでも応用が主なのだ。
だが自然はあまりにも大きく広く深い。
その為、理解への道をどこまでも進んでしまう場合がある。
理解度は深まり研究者としてはいいが、百姓型としては失格になりやすい。
応用し実を作るのが生き方なのに、研究に没頭してしまう。
つい、理屈や理論ばかりの百姓型になってしまう。

例えば漁師型。
勝負は結果だ。
多く獲物を獲ったか、大きな獲物を仕留めたか。
相手に勝つ、という結果だけが生き方なのだ。
それには相手の研究もする。
それが結果に結びつかないなら、探究は弊害にさえなりかねない。

つまり探究癖というのは、基本的に役に立たない。
この属性を持つと、職人型以外は歪みがでてしまい苦しみやすい。
職人型は最初から役に立てようという意識が薄いのでいいのだが。

商人型の探究癖は多い。
商人型の場合、ある程度の結果が出てからだ。
商人型の得意は、名利を成す事でもある。
一応社会的に成功した時、ハタと気付く。
商人型は自分のモノが無い。

結果が全てだから、例えば金持ちになれば成功なのだ。
それが偶然評判となった。
運がよかった。
相手が無知だった。
とにかく、結果が出れば成功者となる。
どんなに実年数が短くても、歳が若くても関係ない。

すると、金や地位や名前はあるが、実態が伴わない。
実態は商人型にとって関係ないのだが、本人に空しさが出る場合がある。
実態は見えないモノ。
商人型は見えるモノで判断していたのに。

そこで、見えない法則や理由などを考え、探究する。
成功の法則。
私が成功した理由。
その他モロモロ。
もちろん商人型だから、それを売り出す事も計算に入れて。
商人型の探究癖は、商品の一部となる。

依存。
どんな人生でも歩くのは自分の足だ。
どんなに時代が歪んでいても、選択できる道がある。
生命がある、という意味は、自分で生きているからなのだ。
どんな生物も人も例外はない。
手枷、足枷の奴隷でも自分の意思で生きている。

その意思の一つに依存がある。
依存は他に任せて生きているが、そのような生き方を選んだのは本人だ。
属性として依存が大きく影響する型がある。
依存が世の中の仕組みだと勘違いするくらい違和感なく影響している。

それは商人型に多く出やすい。
元々が人の集まりの中でしか存在しない商人型だ。
一匹狼の商人型なんてありえない。
組織や社会という形態の中で発生した型だ。
自他を比べ、地位の区別をつけたのが商人型だ。
リーダータイプもいるが、それに従う依存商人型の方が多い。

依存は自分の意思を持たないわけじゃない。
依存という意思で生きている。
しかし多くの人は自分の意思を出していないと思い込んでいる。
社会に依存する以外に生きる道は無いと思い込んでいる。
会社や組織に依存する以外に道は無いと思い込んでいる。

それは老若関係ない。
例えば学校卒業後の就職。
受けた会社全てに不採用だった時、依存属性が強いと絶望してしまう。
依存するべき相手がいないと、自分の道は無いと思い込んでしまう。
道など幾つもあるのに、見えなくなってしまう。
百姓型、職人型、漁師型にも依存属性はあるが、商人型ほど強くない。
依存が不能でも、基本的には一人で生きていける型だからだ。

依存が生き方を阻害するわけではない。
時には、あるいは状況に応じて、依存が良好な選択がある。
依存することにより、先に進める場合がある。
問題は、依存が生きる自主性を無くすと勘違いする事なのだ。
依存は、本人の自主的な選択として利用する属性だ。

例えば百姓型の依存。
相手は自然だ。
理を解し、応用するのが生き方。
だが、相手の自然があまりに大きく深い。
理を解するのを放棄してしまうことがある。

自然を操ることはできない。
基本的には自然の為すままを受け入れる。
ある意味、依存以外に道はない。
だが、理解放棄してしまうと応用が出来ない。
自分の動ける分まで放棄してしまうからだ。

依存をするべき時や相手はある。
そこを依存しても、自分の持ち分もあるのだ。
全てを放棄する事と依存は違う。
依存を自分の積極的な生き方の方法の一つとしているかどうか。
百姓型の依存は、とらえ方により分かれるようだ。

例えば職人型の依存。
最初は手本の真似から始まる。
先生や師となる人と出会う事も多い。
知りたい事、知らなかった技、教わり覚える事が愉しくて仕方ない。
知り、教わり、それらを自分で実践して少し進める。
知った事、教わった事と現時点の自分では大きな差があるのだ。

何度も、何年も、時には何十年も教わり続ける。
すると、教わる事が癖になる場合がある。
先達に依存してしまうのだ。
自分で新たな方法や考え方を放棄してしまう。
自分よりも師は凄い。
そんな事実に屈してしまう。

自分よりも凄い存在など、当たり前なのだ。
自分と比べては、職人は進めない。
自分なりに融合し、発展し、独自のモノとなって、初めて一人前。
それを放棄する依存は職人型にとっては致命的だ。
百姓型と同じく、依存する時、相手、状況だけ依存すればいい。
その上で自分なりを創り上げるところに職人の道があるのだ。

漁師型には基本的に依存は無い。
勝負の世界で依存したら勝負にならない。
だが、潜在的にはある。
ライバルや師やコーチなどだ。

自然の中での獣や魚相手ならいい。
依存できる相手ではない。
人社会では、勝負相手以外に関わる人がいる。
サポートする人もいる。
依存属性を持つと、そういう人達に頼ってしまう。
一時的に勝つが、結果的には負ける。

依存属性は使い方があるとはいえ、使用法が難しい属性だ。
癖として依存があると、どの型であっても充分にはなり難い。
本来、生きていくには自分の足で歩くものだ。
依存が必要な時期や状況もあるが、癖としては足を引っ張る。
本当の自立が出来る人は、依存も上手く使えるし活かせる。

支配。
依存の反対ではない。
依存は放棄することであり、癖や自主的な生き方でもある。
支配の反対は被支配であり、態度は従属となる。
被支配は否応なしであり、自分で選べない状況だ。

支配という属性は、他の上位に立ち権力を示したい癖だ。
支配欲は組織から生まれた。
したがって、商人型に最も多い癖だ。
基本となる型では、商人型しかいないといってもいい。

百姓型の自然相手に支配欲を持つのはいない。
漁師型は、闘争心が旺盛な分、多少あるが多くない。
勝負にこだわるので、支配できる相手は対象外となる。
職人型は自分の内部の探究が生き方だから、支配と縁がない。

だが、人は型があるとはいえ純粋ではない。
混合であり、融合している部分がある。
型とは、最も強く影響する傾向なのだ。
基本的な型には存在しない属性でも持っている場合がある。

多くの政治家や役人。
立場を大きく勘違いして支配したがる。
支配欲と公僕という意識は真逆になる。
態度としては、威張る。
人の集まり以外では暮らせないから、型は商人型となる。

困ったことに、支配欲は権力が有る立場から生まれる。
実際に迷惑な連中なのだ。
多くの苦しみを平気で生み出す連中なのだ。
政治家や役人はいつの時代でも威張る傾向だ。
だが、最近は表面や表現を穏やかに見せる。
多少は知恵(浅知恵とか悪知恵という)を使うのだ。
しかもマスコミ操作を同時に行う。
支配欲ムンムンの憲法改正などを言葉巧み(でもないが)に扇動する。

商人型の支配属性は、多くは迷惑と害になる。
一握りの勝者、立場になりたがる生き方をしてきた。
だから競争社会を勧める。
誰でも勝者になれる、と妙な平等論を言う。
支配の行き着く先は、争い(個)と戦争(国)という出来事しかない。

例えば職人型。
仕事は探究だから仕事上での支配欲はない。
だが配偶者や子供などに対して支配することがある。
本当は支配欲からではないのだが、態度は同じようなものだ。

例えば百姓型。
やはり家族に対する支配がある。
同じく漁師型。
家族や腕の格下に対しての支配がある。

家族やそれに準ずる者達への支配は別の感情からのようだ。
他人に対しての支配は、商人型以外の型には基本的にない。
猿の群れのボスは態度としては支配だが、群れを守るのが仕事だ。
人間の支配は、支配相手を守ることはない。
最後は犠牲にする。
人間における支配欲は、生物としての未熟の現れの一つだろう。
属性として支配を入れたのは、そういう意味も含めてだ。

享楽。
快楽にふける、などと訳される。
国をまとめる時、社会道徳や社会常識を意図的に流す。
個人が勝手に生きてもらっては困るのだ。
享楽は個人の生きる目的(の一つ)を快楽に求める。
当然、国(為政者)は理屈をつけて、享楽を悪とする。

享楽は具体的にわかりやすいが、ようするに幸せの事だ。
幸せを求めるのは、個人の基本的人権。
本来なら、個人の幸せを応援するのが国の役目だが人間はとても未熟だ。
人間の国は、とてもとても未熟で欠陥だらけなのだ。
為政者は自分達は国民を、従わせる特別な存在だと思っている。
国民の公僕とは思ってもいないのだ。
だから、享楽はいけない事だと報ずる。

国民が享楽に目覚めたら、戦争などできないのだ。
国という為政者の為に苦労などしない。
政治家や役人が楽になる為に働いたりしなくなる。
だから、享楽などを追いかけてはいけない。
我慢して働きなさい。
享楽を煽るような輩は逮捕する。

個人の幸せの応援は宗教も同じ。
それなのに、宗教組織も国と同じことをいう。
享楽はいけません。
本物の教祖なら、そんなことは言わなかったと思うぞ。
嬉しさ、楽しさ、気持ちよさを幸せのいうのだ。

正しく生きる、などというアイマイの言葉で惑わす。
正しさを主張するから、宗教同士でもケンカする。
ケンカや、双方の欠点の言い合いはいいんかなぁ・・・
関係者以外から観ると、かなりみっともないのだけど・・・
恥を知らないところも、宗教関係者と政治家は似ている。

享楽を捨てた正しい世界など、住みたいとは思わないけどなぁ・・・
関係者だって、裏では反動でかなりの享楽をしているし・・・
正しさを主張する代表者や道徳者や宗教者は、大嘘つきだろう。
衆生は普通の嘘つきですむし、極めて個人的な影響ですむ。
しかし、行政代表者や宗教家の嘘は大迷惑と苦しみを生む。
享楽を公式に認めれば、この世はかなり住みやすくなるのだが。

アイマイな言葉だが、人は誰でも幸せを求める。
この世に生きているというのは、肉体という物質をまとっている。
常に変化している肉体だ。
環境や状況に応じて変化し続けている。
誕生し、成長し、衰退し、肉体が滅びるまで変化は続く。

ある意味、不自由で不完全な肉体だ。
時には苦しみや痛みを伴う。
それによる精神的な感覚としては、悲哀や寂しさを味わう。
例外なしで、生物は肉体の辛さを持つ。
もちろん、肉体でなければ味わえない喜び、歓び、悦びもある。

何故、肉体があるのか?
何故、肉体界に生まれたのか。
苦しみの修行のせいではあるまい。
未熟な宗教や精神世界の住民は、この世を苦行の世界という。
2600年前にブッダという超偉人が、それは間違いだと言ったのに・・・

肉体が喜ぶ(歓び、悦び)ことを体験する為にこの世に生まれた。
それを幸せという。
幸せは精神世界の話ではないのだ。
この世(肉体界)のみの話だ。
いろいろな状況を自動的に受けるが、目指すのは幸せだ。
表現の一つとして、享楽というのを使った。
誰でも共通の属性だ。

収集、探究、依存、支配。
型により偏りが大きい属性だ。
ところが享楽だけは全ての型に同等にある。
それは人としての基本の属性だからだ。

本来なら土台になるべき性質だったろう。
生命の中に幸せを求める性質が含まれている。
だが、やっかいな事に、この性質は隠れている。
何故、生物は個として存在しているのか?
それは個性として生きていく為だから。

全ての生物が、それぞれ個々として生きていく仕組みだ。
それを、生き方という。
その生き方の選択に幸せがある。
どこに目標を持つか?
それを自覚するか?
それらは、個々に任されている仕組みだ。

だから幸せは隠れ性質だ。
生命力の方向を導く性質なのに、進むのは個に任されている。
苦しみの生き方をするのも自由というわけだ。
それは、大きな慈悲とか愛とかという仕組みともいえるだろう。
この世に存在した意味さえも、自分で決められる。
そして、自覚した個は、等しく幸せを求めるようになる。
属性とはいえ、享楽は特殊な癖なのだ。

共通の属性だが、自覚と無自覚で大きく分かれる。
ある意味、人は二つの生き方がある。
誰でも様々な出来事がある。
事故、災害、争い、不運、病なども出会ってしまう。
それらを踏まえて、二つの生き方がある。
どんな型でも二つに分かれる。

幸せに向かって生きる。
幸せを意識しないで生きる。

そのキーワードとして享楽を使った。
幸不幸の分かれ目は正誤ではないのだ。
聖邪でもないのだ。
努力や精進でもない。
誠実、不誠実でもない。
そんなことは、社会と歴史がいたるところで示している。

享楽を意識し実践し続けるのは、かなり深い事だと知るだろう。
何よりも、肉体の養生が不可欠だ。
短絡的な快楽などは、享楽とはいえない。
一生を享楽に生きるには、生活と意識を生命の愛おしさに向けてこそ成り立つ。

自分の型と職業や生き方が適合した場合。
そこには必ず享楽が生じる。
一時的な享楽でなく、毎日が享楽だ。
仕事が愉しく、嬉しく、気持ちいい。
生きていくのが、愉しく、嬉しく、気持ちいい。

人には生き方の型がある。
その型に享楽という属性の自覚があれば完成だ。
様々な出来事が起こっても、楽な生き方となる。
型と享楽の属性は、道を愉しく行ける両輪となる。

誰にでもある属性。
自覚するか、意識するか、取り入れるか。
それだけで、人生は大きく変われる。
楽な方向に大きく変われる。
享楽というのは、とても大切で大きな影響を与えてくれる。

自分の型と仕事や生き方が適合すれば楽に生きられる。
それでも人生には様々な出来事がある。
仕事は楽だし好きだが、それ以外が辛い場合も多い。
そこに享楽という属性を取り入れる。

享楽という言葉には固定概念がある。
勘違いの固定概念だ。
多くは現実逃避の一時的快楽を求める事だと思っている。
それは為政者が意図的に教え込んだものでもある。

享楽の享とは、神(至上のモノ)から受け取る、という意味だ。
つまり、楽(幸せ)をありがたく受け取る事なのだ。
そして、享楽は現実逃避や非現実の場面で使うものではない。
現実、生活、暮らしの中で融かして、活かして使うものだ。
享楽を意識し取り入れれば、祝福の道となるのは当たり前なのだ。



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第七章 相性



相性というのは、物事を楽に進めたり高めたりする組み合わせ。
人と人だけではない。
場所や季節、時間との相性もある。
モノや方法もある。
この世は全て個性と個性のモノの集まりだ。
生物も鉱物も空間も個性だ。
その中で、自分と適合するモノと出会うと何かと上手くいく。

通常は人社会で暮らしている。
だから一番大きな影響が、対人となる。
長く一緒の家族。
新たに作る家族の始まりの配偶者。
仕事場の相手。
友人、師、知人。
相性の合う人が多いほど、何かと上手く楽に進める。

相性は同型、異型に関係ない。
価値観や年齢もない。
基本的には、この世ではどんなモノとでも出会える。
人の理論や理屈での判断以外の要素が多くある。
それでも、傾向というものはある。
おおよその相性は判断できるのだ。

基本的に、この世の物質は、波長や周波数が全て別個だ。
別だからこそ、個体として独立している。
工場で生産される同じ製品も、微妙ながら別個なのだ。
その微妙な違いは機械で測れないから、一応同じ製品としている。
全く同じモノは、この世には存在できない仕組みだ。
仮に完全に同じ波長や周波数があれば、それは一つになってしまう。

波長が合う、などという。
波形の山(谷)から次の山(谷)までの長さだ。
波長=速度÷周波数
速度は通常光と同じと考えられている。
だから、波長が合えば周波数も合う。
とはいえ、正確な表現なら、極めて近い波長というわけだ。

波長が近いとどうなるか?
この世では同調(シンクロナイズ)してくる。
それが、合う、という意味だ。
相性というのは、波長、あるいは周波数が近い間柄だ。
理論的な話だ。
ところが、これらに当てはまらないから、この世は面白い。

生物には意識がある。
非生物にも意識はあるのだが、説明がメンドウ・・・
意識の表面側を心という。
意識は膨大な量と質を持っている。

それは個独自のモノではなく、種、更には他の生物まで関係する。
あらゆるモノに通じる通路が膨大にある、という表現でもいいだろう。
ユングはそれを集合的無意識と名付けた。
個の無意識も大きいが、それらを遥かに凌ぐ超意識だ。
深層意識の更に底に通路があり、時と空間を超え、全てとつながる意識だ。
仏教も同じような意識を説いた言葉がある。

そんなメチャクチャな意識の表面に心がある。
だから心はアイマイになり、正反対になり、メチャクチャになる。
固定し続けることは無い。
その心は意識により波長や周波数が変わる。
生物は、ある意味誰とでも何とても波長が合うように作られている。
そして、簡単に波長が合わなくなる事もある。

相性という波長のシンクロニシティ。
心は多種多様の意識からの一部。
常に固定しないし簡単に大きく変わる。
相性が合っても、合っている時は不定なのだ。

人の心と心の一時的相性に恋愛というヤツがある。
どんなに惚れあった、好き同士と思っても変わるのだ。
恋愛はとても不安定な状況という事を認識したほうがいい。
多くはアレコレが傷ついたり、時には壊れたりする。
認識した上で行うなら、生き方の好みとなる。
知らないでいるのは、本人のミスだ。

物質(体)固有の波長もある。
心のように簡単には変わらない。
だが、この世は時と共に物質も変化する仕組みだ。
その時は、常に動いている。
諸行無常、万物は流転しているのだ。
つまり心ほどではないが、物質(体)も不定なのだ。
相性は、心であれ物質であれ、固定されていない間柄だ。

相性は固定した間柄でないことを踏まえて。
それでも相性の良悪の傾向はある。
絶対ではないが、割合の良い、悪いがあるのだ。
血液型でよく書かれているのも同じだ。
割合的に、A型とO型が良いとか悪いとか・・・

全てのモノは相性という割合がある。
政治家と腹黒さの割合は多い。
アメリカ人と戦争好きの割合は多い。
サルと犬の仲は悪い割合が多い。

だが、絶対ではない。
清廉な政治家だって、多分いるだろう。
割合は微少かもしれないが。
平和好きなアメリカ人もいる。
仲のいいサルと犬もいるのだ。

人をたった四つの型で枠にはめるわけにはいかない。
例えば、A型は几帳面だ・・・
そんなことはない。
私の愚妻が何十年も証明している。
枠にははめられないが、特徴の傾向はある。
漁師型、百姓型、職人型、商人型も同じだ。

そこに相性が絡む。
相性は全ての事柄に合うわけではない。
仕事のパートナーとして。
家庭のパートナーとして。
友人として。
師弟として。
恋愛のパートナーとして。
それぞれの相性が違うのだ。

ここでは、ある程度の年数を上手く共同できる相手とする。
とはいえ、よくある恋愛の相性はあてにならない。
もっとも不安定な心と心のパートナーであり、更に異常心理状態なのだ。
恋愛が何十年も続くことはない。
心はそれほど長く固定出来ない仕組みだ。
もし続いたなら、恋愛を超えた尊敬などが混じっているからだろう。

現代の日本は大規模人社会として成り立っている。
国が全国民を管理下に置いている。
税金を納める為の住民票がある。
最近では、全ての国民一人一人を個別の番号にする計画のようだ。
ようは、個性ある一人の人間でなく、管理するのに便利だからだ。
人を記号や番号にすると、そこに敬いや思いやりは消える。
そんな当たり前が解らないのが、商人型崩れの政治家や官僚の考え方だ。

遥か昔は、個が僅かに集まって暮らしていた。
大人数の大家族制の時もあった。
小規模集落の時もあった。
やがて、威張りたがるオトコ社会になり、争いの時代となった。
統合されたり分離されたりしながら、小さな国が出来た。

その時にも税はあった。
主に米で支払った。
何しろ、威張る政治行政者は生産する事が出来ないのだ。
生産する者を脅して、奪うことで食べている。
今も仕組みは変わらない。
一番威張る人たちは、生産しないという歪んだ仕組みだ。

暮らし良い社会になったのかどうかは不明だ。
だが現実として、今のような社会に暮らしている。
住民登録があり、納税があり、社会福祉がある。
法律があり、ルールがあり、社会常識がある。
それらは正誤を問わずついてまわる。
個々が勝手に生きてはならない社会だ。

だから相性が大きな役割になる。
社会に暮らす為にだ。
上手く暮らす為ではない。
多くの型の原型は、今の社会では暮らし難いのだ。
商人型以外は、個々の生き方が性に合っているからだ。

だから、相性が大きな役割になるのだ。
社会に適合しなければ、結構やっかいだからだ。
といって、自分一人で適合するのは不向きだ。
社会的に暮らす為の相性が人生を左右する社会に暮らしている。
問題ないのは、元々社会的な商人型だけだ。

例えば百姓型。
毎日の気象の変化と作物の成長だけが関心事。
そこには社会集団の一員としての自覚が欠ける。
欠点ではない。
元々、社会集団とは関係ない型だ。

とはいえ、それでは不便だ。
社会の仕組みの方でアレコレ勝手に用事をつくる。
地域の一員、県の一員、国の一員。
そんなことは苦手なのだ。
だから、上手くカバーする関係者が必要だ。
上手く乗せて、社会に参加させる近親者が必要だ。

百姓型の性質を理解しつつ、社会にも馴染ませる。
それは配偶者かもしれない。
仕事のパートナーかもしれない。
肉親かもしれない。
いずれにしても、百姓型を社会に溶け込ませるのは相性で決まる。
相性が上手くなければ、孤立し経済的にも困難になる。

例えば職人型。
すぐに己に没頭してしまう。
顕微鏡の中の世界が自分の存在する世界。
そんな研究者は社会生活のアレコレはとても苦手。
無理やり社会に付きあわせると、研究の才能が削がれてしまう。

余計な事を極力避けて研究に没頭できる環境をつくれる相手。
その研究者の才能や性格を理解し、活かしてくれる相手。
それらのマネージャーのような仕事が天職だと思える相手。
このような二人なら、とても相性がいいといえるだろう。

例えば漁師型。
格闘家としては優れた力量才能があっても、社会的には不適合。
勝負しか頭にない格闘家は一つ間違えれば犯罪者になる。
だが相性のいいパートナーがいれば、チャンピオンとして称賛される。
本人は変わってないのに、犯罪者とチャンピオンの差になる。
相性はとても重要なのだ。

現代日本社会における相性だ。
当然社会に適合させるには、パートナーは商人型がいい。
ただし商人型のパートナーには商人型以外がいいようだ。
これが平安時代なら違うだろう。
未開といわれる小さな国なら別だろう。

ここまで書いて、商人型の大きな役割に気付く。
本人が人社会で生き抜くだけではない。
本人が人社会で、いわゆる成功を目指すだけではない。
商人型以外の型を社会に活かす役割だ。
こちらの方がはるかに重要だ。

基本的に商人型は人を活かす。
金権意識の強い現代は、それが自分だけに向いてしまっただけだ。
本来なら、商人型は一人では生きられない。
生み出すモノを持ってない型だ。
だからこそ、他の型の支えとなるのが役割だったはず。

基本の型として四つに分けた。
だが、人は交じり合って、混じり合って現代に至った。
基本型に他の型が混じっている。
割合は様々だろう。
そして、表面に出ている他の型の特徴もあるだろう。

現代社会の相性は、商人型と商人型以外の組み合わせだ。
そして、商人型以外の型と同じ型の割合が多い商人型との組み合わせだ。
例えば百姓型。
自然の摂理の理解とその応用による農耕や畜産が生き甲斐。
その相性のいいパートナーの商人型は、百姓型が混じっている。
最初から相手の型を理解しやすい商人型なのだ。

漁師型、百姓型、職人型は純粋度が高いほど社会に適応し難い。
その純粋度が魅力と感じる商人型はベストパートナーとなる。
ギブ・アンド・ギブの関係だからだ。
商人型に商人型のパートナーも付きやすいが、一時的だ。
お互いが利用できる期間だけなのだ。
ギブ・アンド・テイクという関係が商人型同士のパートナー。
いずれ破局するのは当たり前。

生物が生き抜くには、お互いの活かし合いが不可欠だ。
どんなに人間が威張っても、他の生物がいなければ即滅亡だ。
目に見えない微生物がいないだけで、即滅亡するような存在だ。
だからといって、それはギブ・アンド・テイクではない。
そういう狭い範囲でしか世界を観られないようになったのは、近代以降だ。
活かし合い、というのはギブ・アンド・ギブで成り立つ。

よりよく成りたい。
上を目指す。
夢を追う。
言葉は一見良さそうだが、実態は無知の独りよがりなのだ。
共存の上に成り立つ自立ではないのだ。

それらの言葉に大きく反応するのは、商人型。
一人では自立できないからこそ、競争したがる。
上下の差を気にする。
差別したがる。
商人型の陥りやすい欠点だ。
だが、それらから抜け出ると商人型の本来の能力が現れる。
他を活かす、という能力だ。

現代日本社会において相性というのは商人型が主役かもしれない。
ただ、主役を張れる商人型がまだ少ない。
商人型自体は圧倒的に多いのに、本来の能力に目覚めている人が少ないのだ。
目先の自分だけ、自分の利得関係者だけが良くなればいいと思っている。
それが一般常識だと思い込んでいる。

政治行政なども浅い商人型思考でやってきた。
世界の自称先進国も同じだ。
特に某アメリカと某中国が露骨に進めてきた。
自分の国だけが儲かればいい。
なまじ戦勝国になると、どんな国も他国を巻き込んで不幸道一直線。

商人型が増えてもいい。
本来の役目、本来の能力を発揮するならいい。
他との相性に目覚めてくれるならいい。
そうでないと、未来が苦しみになる確率はとても高いだろう。

相性がいい。
波長がシンクロする。
すると、能力がアップする。
通常、能力を100パーセント出せることはない。
出し切った、と思っても90パーセントにも満たないだろう。

諸説はあるが、一生を通じて脳の能力は5〜20パーセントしか使ってないらしい。
能力も同じ比率だとしたら、人の可能性は5倍の伸び代がある。
そこまでは現段階の人類では難しいだろう。
それでも、伸び代があるから、数パーセントでも上がる。
その条件の大きな一つとして、相性のよさがある。

例えば病からの回復力。
担当の医療関係者と相性が良並悪で、回復力は大きく違う。
同じ薬、同じ療法だとしても、大きく違ってしまう。
評判より、実際の自分との相性が回復を左右するのだ。
現代のインターネットなどの評価を参考にするのはいい。
だが数字や評判よりも相性という感性が大切だ。

双方の良い相性との出会い。
どこにコツがあるか?
通常は良縁として、あたかも偶然の出会いのようにいう。
出会った当初は良縁だと思っても、双方がダメージを負う場合もある。
良縁を期待する思い込みが大きいからだ。

人は意識、無意識で計算する。
基準に合わせて、相手を評価する。
自分の観る目など当てにならないことを忘れて・・・
人間の頭は優秀だが、使いこなせない。
使うのは5パーセントくらい。
だから、ほとんどが間違う。
間違いながら、失敗しながら生きるのが人の生き方でもある。

失敗をしない方法は無いが、失敗を少なくする方法はある。
失敗の原因が自分の(頭による)判断による思い込みだからだ。
ならば、頭を使わなければいい。
常に自然体は難しいが、近づくことはできる。
力を抜くことだ。

頭で判断しない。
力を抜く。
すると、感性というものが働き出す。
波長や周波数がシンクロする相手が観える。
感性での判断は間違いが少ないのだ。

感性の判断で間違い易いのは、恋愛という感情だ。
なにしろ思い込みが強い。
感性とはいえ、力みがあるのだ。
恋愛感情が浅く淡泊で接することが出来る異性なら恋愛もいいだろう。
生涯のいいパートナーとなる、かもしれない。

人は思い違いをしている。
知能が高いから、使っていいと思い込んでいる。
他の動物よりも知能が発達しているのは事実だ。
だが、その知能は感性よりも当てにならない程度なのだ。
やがて、知能を使いこなす未来が来るかもしれない。
何しろ、現人類では5(〜20)パーセントしか使えない。
その前に滅亡する可能性が高いが・・・



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第八章 性癖



近年の誤用として、性癖を性的な嗜好として使われることが多い。
誤用も一般的になれば固定概念となる。
だが、誤用は誤用だ。
人の心理・行動上の偏った癖が本来の意味だ。
本来の意味の方で幾つか紹介しよう。

性癖の中でも、人の一生を通じて最大に影響する偏りがある。
その前に、偏りは誤りではない。
偏りは偏りなのだ。
偏りがなければ、人間として生まれていない。
出来そこないだからこそ、人間。
完全だったら、肉体を纏わない。

偏りは必ず備わっているが、影響は大きい。
楽に歩けるか、苦しみながら歩くか。
苦しみが誤りではない。
趣味なら、痛みも苦しみも勝手にすればいい。
嫌なら、別な方向に歩けばいい。
道は、とても幅広いのだ。
端から端までの人生など、一生かかっても味わえない。
そのくらい広い幅だから、別な方向に自由に歩ける。

性癖の最大なもの。
それは明・暗という偏りだ。
心理、行動においてどちらに偏るかはとても大きい。
人は元々の偏りがある。
明だ。

誰でも赤ん坊時代があった。
その時に暗い赤ん坊はいない。
生命は明るいから先に進む。
偏りではあるが、生命あるものの共通の基本でもある。

それなのに歳を経るにしたがって変わることがある。
生きるには、様々な出来事がある。
自然環境、社会環境、生活環境も影響する。
影響するが、生命は自分専用だ。
明・暗の要素が他にあっても、最終的には自分で選ぶ癖だ。

型やその他の属性を自覚することで、人生は楽になれる。
だが、それらの自覚を凌駕する要素として、明・暗の癖がある。
更に一歩進めていえば・・・
何も知らなくてもいい。
どのような道に踏み出してもいい。
明るくさえあれば、人生は何とかなる。

明・暗の性癖は他のあらゆる要素を上回る重要なポイントだ。
しかも、誰でも、どちらの癖にも行ける。
性格だから変えられない、と人は勘違いする。
性格の意味も検証しないで言う。
性格の格は、核なのだ。
核は、誰でも共通な赤ん坊時に顕著にわかる。
人の性格は明るいのだ。

本当に変えるのなら、難しいかもしれない。
だが、元に戻るなら難しくない。
元々の核だ。
一番、戻りやすいともいえる。
それは出来ないのではなく、出来ないと思い込んでいるだけだ。
誰でも、明るい方向に憧れるのは自然なことなのだ。

不安、不平、ストレス。
思うようにならない事が圧倒的に多い。
勘違いと無知と判断能力の無さを棚上げして、人は未来予測する。
極狭の考えだ。
ほとんどは暗い考えで、心配事を作り出す。
心配というのは、未来を暗く予想する癖なのだ。

実際は何が起こるかわからない。
どうなるかも、わからない。
だが、暗い考えで、暗い方しか観ないのなら、暗い方に歩くのは当たり前だ。
それは未来予測が当たったのではなく、自分で選んで歩いただけだ。

実際は様々な困難がある。
思いもかけぬ悲しみや災難もある。
だが、観る方向は自分の意思だ。
どの位置にいるかは、別な問題だ。
どの位置にいても、どの方向にも目を向ける事はできる。
明るい方しか観ない生き方は、誰でも、どんな状況下でも可能なのだ。

同じ状況下でも観る方向は360度ある。
状況がどんなに暗くても、暗く歩く必要はないのだ。
明るい観方・歩き方で、厳しい状況から脱却できる事は多い。
観方・歩き方は状況を変化させる力が大きいのだ。
故に、明・暗という癖は人生で最大の分岐点かもしれない。

明るい癖は力みを減らす。
すると本来の型と違う生き方も変化しやすい。
例えば百姓型。
農業では生活が厳しいから都会で会社員になる。
だが血は百姓型。
当然、大きなストレスを感じる。
自然に接し、その自然を活用したいのが百姓型。
人と金と商品の間では息苦しくなるのは当然だ。

それでも明るい観方が癖になっていれば変わる。
脱サラをするかもしれない。
自然豊かな地方への転勤を希望するかもしれない。
百姓型の伴侶と出会い、実家に戻るかもしれない。
いずれにしても、人生が明るくなる方向に変わる。

明るさは人社会において良好な効果を生むが、それだけではない。
一つの個体としての生命力も活性化する。
生命力が活性すると、あらゆる能力も向上する。
仮に病の状況なら、回復力が上がり回復時間が早まる。
怪我が少なくなり、事故に出会う確率が下がる。

暗さはその逆のベクトルが働く。
人社会では停滞やトラブルを招く。
本来の能力は発揮できない。
生命力は低下するから、病になりやすい。
怪我もしやすい。
事故にも出会いやすい。
精神的にも簡単に下がり、鬱系になりやすい。

明・暗の差はとても多岐にわたって大きく影響する。
明・暗は受け身の癖ではない。
自分で操作できる癖だ。
感情とは違う。
感情がどうであろうとも、明・暗は自分で選べる。

悲しい時、明るくなんて出来ない。
絶望時に、明るくなんて考えられない。
その通りだと思う。
明るく振る舞え、とか笑顔とかではない。
希望を持て、とかではない。

明るい方向を観る癖。
どんなに悲しい時でも、明るい方向には向ける。
絶望時でも、明るい方向を向くことは出来るのだ。
今生きている限り、未来はある。
未だ来ていないから、未来なのだ。
人は5分先だって判らないのだ。
ならば、明るいか暗いかなんて判断できない。
向くのは自由だ。

むしろ、辛い時こそ明るい方向に向くのが脱出への近道。
先は誰だって判らない。
だが暗い方向を向いていては、明るい道には出会い難いものだ。
未来は判らないからこそ、難しくない。
することは一つだけ。
明るい方向を観る。

自分の型が今の仕事や生き方と違う。
その歪みがストレスや悩みや閉塞感につながる。
型を理解し、型に沿った応用で職を変えなくても楽になれる。
己の型を知る事は、今後の人生に大きく貢献する。
だがそれ以上の明・暗という癖がある。

己の型を知る事無しでも、楽な人生に変えることができる。
誰にでも共通で、誰にでも備わっている原点の癖。
もちろん、己の型を知り、活かした歩き方なら更に楽になる。
明・暗というのは誰にでも判断できる選択肢だ。

正誤や聖邪や真偽の判断は難しい。
立場で正反対に変わることもある。
自分で判断できない場合が多い。
といって、他の判断など当てにならない。
だが明・暗なら誰にでも判る。
自分で判断できる。

性癖で孤・合がある。
孤は孤立、合は集合。
明・暗には対応しない。
孤立といっても暗ではない。
集合しても明ではない。

孤立は自立にもなる。
また孤独にもなる。
集合は共栄にもなる。
あるいは依存にもなる。

性癖として、向いてしまう癖だ。
どちらが良悪ではない。
人としての正誤でもない。
どちらでもいいのだ。
だが、型に影響される性癖ではある。

基本的には漁師型、百姓型、職人型は孤の仕事だ。
商人型で孤はありえない。
商人型は合の中で仕事や生き方が出来る。
だが、そこは混じり交じり合った人間だ。
どの型にも孤や合の癖がある。

逆に孤の癖、合の癖から自分の型を知ることができる。
孤でも漁師型と百姓型と職人型は違いがある。
格闘技と登山は同じ孤でも違う。
自然界を観るにしても、海の変化と平地の変化では観方が違う。
それでも孤の作業なのだ。

漁師型でも孤の癖で、一人で仕事をするのが好きな人。
合の癖で、仲間と協力して仕事をする方が好きな人がいる。
百姓型は合の割合が多くなっている。
協力し、ムラを作り、孤立しないで仕事をした歴史がある。
もちろん、本来は自然と一対一の孤の作業なのだが・・・。

職人型の技は孤の作業だ。
しかも到達点はない。
だが、孤の作業を途中で止める人も多くいる。
人との合が性に適している職人だ。

親方になりたがる。
組合を作り、役になりたがる。
合が性に適した職人だから、まとめるのが上手い。
同業界の発展には大きな力となる。

職人気質の強い場合は孤も強い。
腕が達人ほど合は苦手だから、人との諍いは多くなる。
ある段階からは、技は教えられるものではない。
技能を伝えるのも、よほど見込みがある弟子以外には無理だ。
才能ある弟子なら、技は盗む。

他人と組まない。
一匹狼。
独自路線。
一人が性に合っている。
癖だからしょうがない。

やたらと他人とつるむ。
合同作業だとやる気になる。
共通の道なら安心安全。
一人では不安。
癖だからしょうがない。

直した方がいい癖。
そのままの方がいい癖。
孤・合は個性の癖だ。
だから、好きでいい。
むしろ、下手に直さない方がいい。

固・解という性癖もある。
考え方、能力の進め方、生き方の方向だ。
固める方向と解かす方向だ。
これも、優劣はない。
どちらも長短がある。
癖なのだ。

例えば考え方。
一つの物事をしっかり観て分析する。
正体をつかもうとする。
どんどん深く考える。
それらは固の方向だ。

一つの物事があれば、その周りに目を向ける。
その正体よりも全体の位置や部分として観る。
どんどん柔らかく広げる。
それらは解の方向だ。

能力、技の進み方にも固・解がある。
自分の技を磨く、能力を強める。
通常はこの方向が多い。
これらは固の進め方だ。

だが、別の進め方もある。
他の技を知る、観る。
他の能力に接する。
すると、結果的に自の能力や技が進んでしまうのだ。
これらは解の進め方だ。

能力や技は自力で進めるのが通常だ。
ところが進めるのではなく、勝手に進んでしまう場合がある。
能力が膨らんでしまうのだ。
それは、他と接し、他に解けこむ時に起こる。

固と解を組み合わせて進む場合もある。
ある段階からは、固から解にならないと進めない場合が多い。
特に技系のもの。
例えば格闘技。

狩猟型だが、技と力をつけていく。
練習につぐ練習。
試合につぐ試合。
だが、どうしても越えられない一線になる。
壁だ。

他の選手も死にもの狂いで練習する。
狩猟型は命を賭けて技を磨く。
勝つこと。
それが生きる目的なのだ。
だが、壁は越えられない・・・

どんなに努力しても越えられない壁。
そんな時に他の何かに出会う。
ヒラメキが起こる。
鍛え上げた技と力が柔らかくなる。
いつの間にか、壁はなくなっている。
次の段階に入っているのだ。

発明や発見時にも起こることだ。
突き詰めた理論では動けない。
もう考えられない。
それまで積み上げたモノを手放す。
あきらめて、他のことを楽しむ。
あるいは、くつろぐ。
その時に、新しい何かがひらめく。

固めて進む。
蜜にして進む。
解かして進む。
放り投げて進む。
固と解は方法が違うが、方向は同じく進む。

多くの人は固める癖がある。
学校で、社会で、家庭で、そう教えた。
進歩は努力と根性と精進・・・
間違いではないが、それだけでもない。

学校でも社会でも家庭でも解の進め方は教えない。
教える立場の人が行わなかった方法だ。
知らなかった方法だ。
極一握りの人達だけが、その直弟子に教える事がある。
極一握りの人達だけが、その方法に気付くことがある。

割合は圧倒的に固が多い。
解は特殊かもしれないが、特別優れた方法でもない。
単なる癖だ。
両方が自由に使えれば、理想的かもしれない。

解の注意点がある。
今の人社会は商人型から成り立っている。
商人型は人と人の間に努力と精進で進んできた。
それが商人型のいう成功につながる。
そして、その考え方、生き方が社会の常識になった。

ところが解は性癖だ。
子供の頃からボヤ〜としている。
自分を成長させるよりも、自然の一部に解けたい。
だが、親は子供が立派に成長してもらいたい。
学校も生徒を成長させたい。
もっと集中しなさい。
もっと自分を高めなさい。
もっと努力しなさい。

ボヤ〜と自分を解放させるのは悪い癖。
そう教え込んでしまう。
せっかくの特徴を閉じ込めてしまう。
性癖は活かして使うもの。
もともとの才能。
それを悪とされ、本人も恐縮してしまう。
本当の成長を阻むのは、周りの無理解なのだ。

人社会での固定概念。
その意識は思考と行動と生き方を狭める。
幼い頃から、固というのが常識だと思い込む。
本来の赤ちゃん、幼児は解で成長してきた。
それを固一本にされた。

現代の固定概念は多数が正しいとしている。
大多数が固という方法なら、固が正しいとする。
その為か、圧倒的大部分が力を入れる事が得意になった。
逆に解という力を抜く事が不得意になった。

解が正しいわけではない。
固も解も使い方だ。
方法は楽になる為にある。
固だけでは、楽になれない。
苦しみがある時、解という方法で楽になれることがある。
そういう柔らかな自由が、固定概念から解放される。

適度な言葉が見つからない。
愛想と無愛想。
これも性癖だ。
思いは同じでも、表情や言動の癖だ。

人社会は表面での付き合いが何かと影響する。
人と人が出会い、言葉を交わす。
その時の癖がある。
社会的に無難で、その後の展開も良いのは愛想。
よほど深い関係でなければ心の中は見せないし見えない。

現代の大部分は商人型からの人社会。
当然、愛想が評価の対象になる。
当然、無愛想は評価が低い。
特に客商売、人との交渉においては絶対条件になる。

愛想・無愛想は性癖だが、表面の芝居でもできる。
性癖として無愛想でも、社会生活や仕事上で愛想は着ける。
性癖として愛想が出る人は、悲しい時や苦しい時でも出てしまう。
真心といわれる意識と愛想・無愛想は関係ないのだ。

愛想が良いと心も優しいと思い込んでしまう。
一般の評価が高い。
人社会の評価が当てにならぬという証拠でもある。
愛想が良くて腹黒い人など、其処等中にゴマンといる。
愛想が良いのは、かえって注意が必要なくらいだ。

性癖で愛想の良い人は、本心が観え難い。
悲しみ、苦しみ、寂しさを愛想の良さで隠してしまう。
腹黒いか、悲しい人か、寂しい人か・・・
愛想の良い人は、結構ヤッカイな性癖だと思う。

社会的評価の低い無愛想。
人と人の表面の交流がし難い。
無愛想は変人か、心が狭いと思われる。
だが、それだけだ。

無愛想という癖は、社会的には損。
内実的には得な癖だ。
何しろ、他の目を意識しなくていい。
誤解されても、それだけだ。
誤解など、通常の社会で普遍なモノだ。
むしろ、愛想の良さで誤解される方が性質悪い。

愛想でも無愛想でも心の中は観えない。
愛想が芝居できるように、無愛想も芝居できる。
できるが・・・圧倒的に少ない。
無愛想の方が、害が少ないのだ。
愛想の良い人は、気を付けた方がいい。
無愛想の人は、信用できる割合は多いのだ。
まぁ、人間だから、どちらも確実ではないが・・・

愛想、無愛想は対人の癖だ。
愛想の良い人でも、山や虫や幽霊にはしない。
無愛想の人でも、猫には愛想良くしたり・・・。
癖ではあるが、人社会に関してのみだ。
対象があるのだ。

人間の原点、赤ちゃんの時。
人は人以外にも愛想があった。
クルクル回るオモチャ。
猫や虫。
大人には見えない、霊かその類・・・
全てに愛想良かった。
それは、愛想とは言わないのかもしれない。
この世の全てが嬉しいと感じていたのかもしれない。

もし、自然界全てに愛想良くできる人なら。
愛想良くなってしまう人なら。
いつもニコニコしている仙人か坊さんのイメージだが・・・
あるいは、伝説の超偉人。
キリストやブッダなどが、そうだったかもしれない。

愛想・無愛想は大きく深い鍵かもしれない。
通常の人社会の愛想・無愛想は底の浅いモノだ。
浅いモノなら、どうでもいい。
自然、あるいは存在に対しての愛想・無愛想は深く高く広い。

愛想という言葉。
その意味を紐解くだけでも深くなる。
この世の全てに対して、愛想か無愛想か。
それは、自分の生き方や一生に大きく影響する鍵となる。

一生、嬉しさに包まれた生き方。
一生、楽しさに包まれた生き方。
一生、気持ちよさに包まれた生き方。
それらは、人社会以外にも同じくする愛想が影響する。

明・暗という性癖。
孤・合という性癖。
固・解という性癖。
愛想・無愛想という性癖。

性癖は人社会を多分に意識したものだ。
自然界だけなら、それほど正反対に分かれない。
暗ければ、その種は滅びる。
孤で自立できなければ、共存は出来ない。
多種多様な自然界に固まっていては進めない。
全てに無愛想なら、やはり種は滅びる。

明。
孤。
解。
愛想。
地球上に存在し続ける種ならば、基本は同じになる。
どうやら、人社会だけが歪んだ世界のようだ。

人には、それぞれ自分の型がある。
自分の型を知ると、生き方が楽になる。
その型の上に、癖がある。
型を変えるのは難しいが、癖は修正できる。

人は人社会という特別な世界をつくった。
そこで後天的に作られた癖がある。
癖は方向といってもいい。
本来の生命体としての方向と別方向だ。
だから、修正できる。

修正はしなければならないものではない。
生き方は苦しむ方向であろうとも、自由なのだ。
ただ、修正はできる。
しかも、本来持っている方向に修正するのだから難しくない。
人は誰でも、楽に生きられる宝物を最初から備えている。

型も癖も宝物だ。
宝物は楽になるグッズだ。
ただし、持っているだけでは役に立たない。
それらを活かしてこそ、楽になる。

猫に小判を持たせても喜ばない。
小判で鰹節を買えば喜ぶ。
型も癖も最初から持っている。
それらを、どう使うかが活かすという意味だ。

今の人社会は商人社会だ。
たまたま商人型なら、そのまま活かせばいい。
だが百姓型が商人になっても苦しむだけだ。
百姓型なら人社会より自然を相手にする方が楽になれる。
それが、型を活かすということだ。

身分制度というのがあった。
職業によって上下が決められていた。
決めるのは時の為政者だ。
だから、自分達に都合よく決める。
あらゆる事を都合よく決めている。

本来なら、他によって食べさせていただいている為政者。
現代なら政治家や官僚などだ。
それらが一番優遇される。
公的には身分制度は無いとされているが・・・

例えば嘗ての日本。
有名な身分制度では士農工商というのがあった。
江戸時代からだ。
それ以前は貴族が上位になる。
身分と職業は多分に大きく影響している。

例えば縄文時代。
人の仕事は主に狩猟によって生活してきた。
漁師型だ。
百姓型も職人型もいない。
もちろん商人型などいるはずもない。

次に農耕社会になって、百姓型が現れる。
漁師型も多くいただろう。
この二つは、人が生きていく上で必要不可欠な仕事だ。
だれも石油やお金では生命を維持できない。

政治家や官僚や商人はいなくても人は生きていける。
だが、百姓と漁師がいなければ生きていけない。
そして、住める囲いと衣服や履物がほぼ必要不可欠になる。
それらは職人という仕事になる。
これらの三つは人が生きていく必要不可欠職業なのだ。

生きていくのに不可欠の仕事。
それが職業になった。
それらが型という核になった。
型と職業は密接な関係だ。
型に合った職や生き方は適している。

その職業は身分という人社会独特の価値観が付加する。
人社会は、その時代によって変化する。
当然、価値観も変わる。
当然、当然、身分も変わる。

現代は商人型が作った人社会だ。
だから、士農工商時代とは違う。
商人が一番威張れる時代だ。
金が最優先で威張る時代だ。
だが、型は生れ付き。
苦労と苦悩する人達が多く出る。

人の上に人を作りたがる人の傾向がある。
男女ならば当然オトコ。
理由は、弱いから。
差別という価値観を強く持っている人。
それは、劣等感・優越感という感情に左右される。
優越感と劣等感は表裏一体だから、同じモノ。

型なら、商人型。
人の集まり、組織でしか生きられない型。
多くの人がいるから、順序や差別をしたがる。
現代は商人型人社会。
だから、人の上に人を、人の下に人を。

更に特徴がある。
建前では差別、身分、特権を否定する。
口が商売品だ。
綺麗ごとを言うのが差別したがる人の特徴でもある。
政治家とか官僚とか宗教家とか道徳家とか・・・

身分差別が公にできない現代。
すると競争社会という身分制度に変えた。
確かに固定の身分差別ではない。
建前上、誰でも上位に行ける。
元々、学業成績の良い官僚が作ったものだ。
当然、自分達に優位に作る。

官僚は体力、スタミナの多寡が基準では作らない。
心の清らかさ(アイマイだけど)などは邪魔になる。
公明正大で社会に還元するような商人は優遇されない。
賄賂を上手くする人達だけが、自動的に上位に行ける。
だからといって、これらの仕組みは良悪で判断するものではない。
為政者は常に自分の型に適合する社会を作るものなのだ。

もし百姓型が為政者になったなら、作物の優良で身分を作るだろう。
その前に、為政者にはならないけど。
もし漁師型が為政者になったなら、度胸と体力とスタミナが基準だ。
その前に、為政者には興味がないだろうけど。
もし職人型が為政者になったなら、腕の素晴らしさだけが基準だろう。
その前に、間違っても為政者にはならない。

職業に貴賤はない。
建前はそうだ。
だが社会は職業で判断することが多い。
社会的地位の高い○○とか。

人社会は為政者が都合よく作る社会だ。
だから欠陥だらけで当たり前。
職業に身分の差はないが、貴賤はある。
例えば税金で豪華な暮らしをし、賄賂まで貰う人達。
これは賤しい職業だろう。
そして、賤しい職業が社会的地位の上位にいる。
現実は身分の差があるが、貴賤は無いとされている。

残念ながら、職業に密接に関わりある型。
型は生れ付きだ。
現代の人社会では、生れ付き身分の差がある。
一部の商人型以外は、低い身分なのだ。
だが、人社会では少々割を食うが、幸せ度には影響しない。

作られた人社会と生れ付き(天然)の型。
どうしてもズレがあり、摩擦抵抗がある。
その人の時代、国、地域、社会情勢の環境で概念が作られる。
人社会は大多数の固定概念で常識が作られる。
大多数の固定概念が正しい、とされる。

例えば戦時中。
日本では、米英は鬼畜。
米英や中国では、鬼畜は日本人。
それが常識であり、正しい観方とされる。
正しいのは自分達、自分の国、と双方が主張する。

社会常識や固定概念と生れ付き(天然)の感覚。
ズレや、時には正反対になるが、優位は社会情勢の方。
天然は変えられないのに、優位は作られた方。
だから、一生苦しむこともある。
固定概念を修正しないかぎり、苦しみは続く。

楽に生きたい。
愉しく生きたい、という積極的な思い。
苦しむのは少なく生きたい、という消極的な思い。
いずれにしても、苦しむ生き方は辛いだろう。

幾つも方法はある。
その一つに、自分を知る、というのがある。
自分の全てを知ることは難しい。
不可能に近いほど、難しい。
だが、一部なら知る事は難しくない。
自分の型、癖を知るのは、その難しくない方の一部だ。

そして、その効果は大きい方だ。
私は無精者だ。
楽に出来て、効果の大きいモノが好みだ。
そんなモノは、山ほどある。
宝など、無数に近いのだ。
その一つの一部のヒントが、この型と癖の話だ。

例えば経済的に余裕のある人。
特に問題の無い人。
毎月、お金の心配をする人。
毎日、とても苦しい生活をする人。
同じ人社会の中で、層が出来る。

現代人社会は、お金という貨幣経済社会だ。
誰も疑問に持たなくなったが、あれは役にたたないモノだ。
鼻をかむにも適さない。
猫社会では役にたたない。
人社会でも貨幣経済以前なら、役にたたない。

ところが、現代人社会では魔法の紙になる。
何でも交換できる。
本来は物々交換の代わりだったのだ。
それも共通認識がある人々だけにしか通用しなかった。
今では、お金で何でも買える、という概念に変わった。
交換ではなく、買えるのだ。

買えるだけではない。
変えるのだ。
お金の多寡で人の心も態度も概念も変える。
全てではないが、人の心はお金でほとんど変えられる。
男女の仲も、夫婦の仲もお金で変えることができる。

変えるだけではない。
飼えるのだ。
動物も人も人の心も飼えることができる。
奴隷、小作人、子分、社員、会員、その他・・・
飼われている側の自覚の有無はどうでもいい。
単なる事実だ。

現代人社会では、お金の力は人だけではない。
あらゆる生物の殺傷権を含む環境も買えるし変える。
これほど万能に近いモノがあると、人間のほとんどが変わる。
お金は人社会の経済のグッズだった。
人社会に興味が薄い型や癖の人まで、お金を求めるようになった。
群れることに、あまり興味の無い型や癖までが、変わったのだ。
これは、人間の生き方として、とても大きな変化だといっていいだろう。

自分の型を知り、型に沿った生き方をする。
すると、とても楽な人生となる。
基本的には、だ。
知ると知らないでは、大きな隔たりがある。
知れば、迷いが少なくなる。

だが、現代人社会では、沿った生き方は難しい。
多種多様な考え、生き方があるが、現代人社会は多様ではない。
嘗ての日本では、今よりも遥かに多くの生き方が出来た。
現代人社会は、ほとんど同一の社会情勢に翻弄される。
ほぼ同一の固定概念によるマスメディアからの情報。
きめ細かな法律と規制。
自分の型に沿った生き方を押し通すことは、極めて難しい。

それでも楽に生きたい。
生れ付きの型は変えられない。
方法は多くない。
一つは他の国に出る。
自分の型の生き方が楽に出来る国に行く。
そして、もう一つは、摺合せ。
押し通す、というのは、かなり根性や信念がある場合は可能だ。

本来という土台なら、多種多様な生き方なのだ。
人は、生物は、非生物でも同じだ。
全てが個々として存在している。
生き方、存在も、全て別々なのだ。
どんなに似ていても、その生き方は別々。

どこを基準にするかにより変わるが・・・
人の人生は長いともいえる。
アッという間に過ぎる、ともいえる。
それでも例えば80年あれば、個性的な生き方になる。
本来、という土台に沿えるならば・・・

人の生き方の道幅。
近代になり、かなり狭くなった。
現代では、更に狭くなった。
一見、自由で多種多様に生きられそうなのだが・・・
同じような固定概念で共通された社会だ。
同じメディアが電波で共通になる。
環境で左右させられる生物だ。
そんなにはみ出て生きられない。

現代人社会が未来も同じとは思えない。
人の歴史からすれば、異様ともいえる社会なのだ。
これほど同一の管理で人は暮らしたことがない。
現代人社会は、僅か100年にも満たないだろう。
生きる道を狭くするとどうなるか?
まだ結論は出ていない。

結論は出ていないが、兆候は出ている。
個々の持つ生命力だ。
人以外の生物も同じ傾向だろう。
同じ地球上にいる。
環境で厳しいのは、人以外の生物は更にキツイだろう。
毎日絶滅種が100〜300種も出るのは異常だ。

人間だけが生き残れるはずがない。
毎日(毎年ではない)の絶滅種の仲間なのだ。
今の環境は現代人社会が作ったといっていい。
正誤の話ではない。
良悪の話でもない。

このまま人社会が続かないのは、単なる事実。
私は悲観主義者ではない。
むしろ、楽観に近い性格だ。
享楽が好きな性格だ。
だが、楽観視しても先が無いことぐらいわかる。
わからないはずがない。

私も人の一人。
人間の一人。
生きている一人。
そして、妻子がいる、兄弟がいる、友人知人がいる。
その子達がいる。
私の知らない人達とその子等がいる。

何とか、続いて欲しい。
勘違いする人が多いが、地球は滅亡しない。
滅亡するのは人類なのだ。
その原因も人類なのだ。
だから、続く希望がある。
人の未来は人が変えられる。
何も好んで滅亡に向かうことはない。

滅亡への道。
その原因ともいえるのが、現代人社会の仕組み。
商人型が作った人社会。
本来の商人型のままなら問題はなかったろう。
現代のは変形した商人型だ。
そして、商人型以外の型が商人型の生き方をしている。

人社会を便利にする為に発明した貨幣というグッズ。
お金というグッズ。
万能に近い能力を持たせてしまった。
欲望を刺激する。
だから、誰でも求める。
お金中心の現代人社会。

安心よりお金。
お金で安心が買えると思い込むから。
平和よりお金。
平和ではお金は動かない。
地位も名誉も業績も恋人もお金で買える。
誰でもお金で服従させることができる。
そう・・・思い込んでしまった社会だ。

持続できる人類の未来への修正。
人類の始まりから600万年。
新人類からでも3万年。
だが、このままでは僅か1000年も持ちそうにない。

崩壊から滅亡まで1000年。
実際は数百年ももたないだろう。
このまま進むなら・・・
あまりに急速な変化を起こした。
地球規模の変化を人類が起こした。

人類の未来と個人の生き方。
大きく、太く繋がっている。
人類の未来は個人の生き方で決まる。
個人が楽に生きると、未来も続く。
本当に楽な生き方。
それが、人類の未来を作る。

この世の仕組みは同じようだ。
本当に楽なら上手く行く。
人類の未来も同じ。
人類は個々の人の集まり。
生物も同じく個々の集まり。

本当の楽。
個々の集まりのこの世だ。
自他が楽ならば、仕組みは上手く働く。
特定の個が楽では、仕組みは不都合に働く。
単純なのだ。

人類はどうやら誤ったようだ。
一部の人、一部の国が楽になる為にアレコレし出した。
自分が楽になることと、他が楽になることが同じだと気づかなかった。
人類が楽になることと、他の生物が楽になることが同じだと・・・

一部だけの楽は、その他の苦しみを生む。
個だけの楽は、他の楽にならない。
全ては個々の集まりなのだ。
とても複雑な立体と時間を合わせた集合体だ。
一部だけでは不都合を招く。
当たり前だ。

古来はそんな当たり前は誰でも知っていた。
元々人以外の生物は本能で知っている。
人だって本能では知っていた。
本能に上書きする出来そこないの知能。
中途半端な知識。
生兵法の行動。

しかも人類の影響力は他を圧倒する。
力だけがとびぬけていた。
手先の器用なサルに拳銃を持たせる。
ミサイルのスイッチを預ける。
この200年前からは、そういう状態になっている。

固定概念が不都合を招く。
思い込み、というヤツだ。
読み書きが出来る人類が増えるに比例して一つの固定概念が強固になった。
人類は他の生物よりも優秀だ・・・

優秀の基準を理屈や計算などにしたようだ。
いろいろな発明や文化という人類内だけの概念を特別としたようだ。
ついでに、戦争からの固定概念もある。
力は正義・・・
力で上下関係を作ってもいい・・・

その結果が、今の地球の現状だ。
人類だけならいいだろう。
苦しむ人がいても、人類のアホの責任だ。
強い某アメリカや某中国が力ずくで多民族を征服しても仕方ない。
(弱い立場、征服される側ではたまったものじゃないが・・・)
だが、他の生物の滅亡はやりすぎだろうし、優秀の証明にはならない。
(人類同士の争いも優秀の証明にはならないだろうなぁ・・・)

個々が変わる。
それ以外に未来は変わらない。
国の指導者が未来を変えられるというのは勘違いだ。
政治家や官僚が国の未来を左右する。
それは事実だろう。
滅亡に向かって左右するが、明るくならない。

人類の未来だ。
生物の未来だ。
アホの指導者により滅亡は早まる。
だが、優れた指導者がいても、未来はよくならない。
勘違いの固定概念だ。

立派な政治家や官僚がいるとしよう。
マレだが、個ではいるのだ。
極めてマレだが、政治家の全部が強欲なアホではない。
以前も、現代も、マレだが立派な政治家や指導者がいる。
その影響範囲では、かなりマトモな国や国民になる。
だが、人類の未来は良くならないのだ。
生物の未来は明るくならないのだ。

人類の未来などというと大きいと感じる。
自分一人がどうなっても、人類の未来には影響しないと考える。
自分の感じ方、考え方は固定概念で縛られているのだ。
だから、間違い。
はっきり、間違いだ。

人ならば、人類の未来に影響する。
当たり前なのだ。
生きているから、生物の未来に影響する。
当たり前なのだ。
個々が集まった集合体が、人類であり生物。

変えられない、ではない。
変えてしまった、のだ。
僅かの時間で。
人間の固定概念で変えてしまったのだ。
未来が繋がらない社会を作っているのだ。
ならば、やり直せるだろう。

楽な生き方。
裕福になれば楽。
一面ではその通り。
その一面は、現代人社会で暮らす場合だ。
お金で全てを決済する社会内なら、かなり楽だ。

その一面以外では、別な要素が必要になる。
それが、自分の型や癖に沿うか否か。
金があるのは一面を助ける。
だが、生き甲斐や満足は別要素。

本来の生き方に沿うと、全体としての人類も修正できるようだ。
お金社会が悪いわけではない。
そんな事は、どうでもいいのだ。
その道だけしか無いと思い込むことが、未来を閉ざしているだけだ。
多種多様な型と癖の生き方になれば、自然と調和はとれる。
自分を見失うことが、問題を起こし、滅亡に向かっていたのだ。

一人一人違う。
当たり前の事実。
生き方も、概念も、好みも行動も違う。
多種多様な道。
すると、全体では調和がとれる。
地球はそのような仕組みだ。

それぞれが、それぞれの道を歩く。
持って生まれた自分の型に沿って歩く。
答えは生まれながらに備わっていた。
持続する未来は、最初から持っていたのだ。

同一の概念。
同一の行動。
同一から外れる事への非難と批判。
この社会を管理しようとするなら、このようにする。
だが、未来は持続しない。
多種多様を当たり前にしないと、未来は無いのだ。

人には楽に生きられる型がある。
それは生れ付きの型だ。
例えば血液型のように、生まれた時から決まっている。
だが、血液型のように、外側からは判らない。

型を知る。
それだけでも、生き方が楽になる。
何故、上手く生きられないのか、納得できるだけでも楽になる。
更に楽に生きるには、型に沿った生き方をすればいい。
型に沿った生き方は、現代人社会では窮屈かもしれない。
ならば、妥協できるところまででもいい。
それだけでも、以前よりは楽になれる。

癖もある。
それも知れば楽になる。
自分を知る、というのは楽になれるからだ。
知ることで苦しむのなら、知らない方がいい。
世の中、知らなくていいことも沢山あるものだ。
だが、自分を知るのは楽になる為だ。
全てを知ることは無理だが、型や癖くらいは知ることができる。

現代を生きてきて夢があるだろう。
こうなりたい、という希望もあるだろう。
仕事を上達したい。
立場を上昇したい。
金を儲けたい。
異性にモテたい。
楽して贅沢したい。
ボランティアで生きたい。
人の役に立ちたい。
静かに一人で暮らしたい。
その他もろもろ・・・

思い通りに近づくことはある。
だが、思い通りにはならない。
大抵は、ほど遠いことになる。
正反対になることもある。

意識が外を向いている夢や希望だ。
どこまで行っても、捕まえることはない。
自分の生き方。
それは、内に対応し共鳴して、納得がいくものだ。

知る事、認める事に意味がある。
その先は自由だ。
苦しむ自由があり、後悔する自由もある。
正しい道は無いと思う。
楽な道は有ると思う。

知らなければ、ただの苦しみ。
知った上でなら、同じ生き方をしても自分で選んだ道。
苦しみは有っても、知った上でなら納得できるのだ。
管理された人社会だ。
自分の本来の型では生き難いことが多い。
ならば、変わらなくてもいい。
変わらなければ、先は無くても、変わらなくてもいい。

仕組みは変なモノ。
認めれば、いずれ、変わってしまう。
変わらずにはいられなくなってしまう。
願わくは、人類の滅亡前に間に合う方がいいとは思う。




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あとがき



いつものように計画無しで書き続けてきた。
人類の滅亡などにつながるとは思っていなかった。
そして、読み返してみると、まぁまぁかな、と思う。
もし、一人でも自分の型を知り、楽になっていただければ。
楽な生き方の手助けになっていただければ。
うれしい。

合掌
       水上陽平



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