「母のこと」(そして私の半生)

   
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これは2011年7月26日から12年7月27日まで368日、毎日ブログに書いたものです。
自分のホームページ、楽天、ヤフー、facebook,goo,mixi,アメーバ等複数のブログです。
著作権は私、水上陽平にあり、転載、引用する場合は連絡下さい。(iiki8@ybb.ne.jp)
        

大正時代
.

昭和時代

太平洋戦争

終戦後

高度成長期
.

私20代

私30代

大転換期

気功師誕生
.

激動の1995年

龍村塾

世紀末・21世紀

鍼灸師
.

終期

あとがき




はじめに

私は忘れるのが得意だ。
それ自体が、良い、悪いじゃない。
そういうふうな体質なのだ。
だが、母はそうではなかった。
母の体質を受け継いだわけではないらしい。
だからこそ、今の内に記しておかかければと思う。

2011年 7月16日
母は(多分)天寿を全うした。

しばらくバタバタと様々な出来事をこなしていた。
今も、今後も、当分はアレコレの用事がある。
少しずつ、切れ切れの一片ずつではあるが、母の事を集めてみよう。
そして、私なりの表現ではあるが、記してみようと思っている。

大正5年(1916年)7月11日誕生。
満年齢で95歳の誕生日を迎えたばかりだった。
当日は、東京の兄嫁から送られた大きな花束に囲まれた。
花の好きだった母だった。


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大正時代


大正時代というのは、日本史で最も短い時代だ。
実質14年だったが、国内外が激動した。
前半と後半では、全く違う気風が漂った。
その為、国民の意識も不安定な時代だった。
まぁ、人間社会で安定の時代は珍しいけど・・・

どの国でも、無能が為政者になる。
あるいは為政者となって無能になる。
いずれにしても、無能だが欲望は強くなる。
無能で強欲な為政者で国が安定するわけがない。
国という範囲(概念)を作った人間社会で平和は難しい。

立身出世という概念は戦国時代あたりからだ。
それでも、その頃は実力でのし上がる以外になかった。
江戸中期以降、立身出世は世渡りの上手さで出来るようになった。
実力は世渡りの一つの表現になってしまったのだ。
そして、そのまま明治時代に移行する。
立身出世にとらわれた武士達が競って為政者になった。
それは公家とよばれた貴族階級も似たようなものだった。

出世欲は本来の仕事や実力を阻害し、公職と相反する意識だ。
民間の会社員なら問題ない。
出世欲や出世方法に他人が口を出す事柄じゃない。
口先だろうが賄賂だろうが勝手にすればいい。
だが、公職に持ち込むのは基本的認識さえ出来てない。

立身出世欲のオトコが為政者になってマトモな事などできない。
当たり前だ。
出世欲の為政者は、つまらぬオトコがほとんどだ。
税金を貰っている身分で、個人欲を職業に持ち込むなよなぁ。
それでも激動の時代は、否応なしに変化せざるをえない。
明治初頭、そして大正の後期は時代が勝手に動いた。

大衆は、大正モダンあるいは大正ロマンという風に包まれた。
大正初期は、お洒落を意識できる、比較的穏やかな時代でもあった。
日清・日露戦勝に続き、第一次世界大戦も戦勝国の仲間だった。
敗戦国は過酷な状態だが、勝利国に利益をもたらす。
日本は、景気がよかった。
母はそんな頃を子供時代として育っていった。
母の生まれた実家は、地域では裕福の方だったらしい。

小遣いの額を二桁多く持たされていた。
来客用にこも被りの酒が常に用意されていた。
お菓子が一斗缶で、幾つも用意されていた。
そういう家だったらしい・・・

母の母、つまり私の祖母は二度目の結婚だった。
(その後、三度目の結婚をするが・・・)
望まれ、大層大切にされて、嫁入りしららしい。
(一度目は夫が病死)
明るく、美人で、冗談好きで、しかも働き者の祖母だ。
嫁に欲しいと、男共が山のようだった・・・とか。

母は、幼児の頃から病弱だった。
心臓が弱く、喘息もあった。
すぐ熱を出し寝込んでいたらしい。
それでも、自然しかない山の中だ。
ゆっくり、ゆっくり育っていった。

病弱ではあったが、いろいろな事に興味があった。
祖母(母親)の仕事などにも興味があった。
いろいろな事をすぐに覚えるタイプだったようだ。
実際、母は何でも出来た人だった。
それが、私には不思議だった。

姉なども小器用に何でも出来るタイプだ。
長兄もそうだ。
だが、私はすぐ覚える事と苦手な事がハッキリしている。
苦手な事は、出来ない事だと思っていた。
苦手でやらない事は多いが、最近思った。
私は、結構何でも出来るタイプの気がする。

仕事を覚えるのは、早いかもしれない・・・
それは、母の血をひいているような気がする。
出来ないと思われた方が楽だから、出来ないフリをするが・・・
出来ないことは、かなり少ないと思う。
(これは内緒にしてくれ)

この子(母)は育たないかもしれない。
そう言われていたらしい。
それでも、学校の成績はよかった。
母にすれば、授業は一度聞けば解る話。
同じような事を何度も繰り返すのは時間の無駄。
(生意気ですいません・・・)

後に学校の先生が訪ねてきた。
「どうして、あんなに優秀に育ったのか?」
さすがの祖母も答えようがなかったようだ。
何も教えなかったのが、よかったのかねぇ・・・

母は、私達子供に対しても同じだった。
勉強をしろ、とは一度も言われなかった。
どんなに遊んでいても、何をしても自由だった。
それは、今の私の家庭でも同じだ。
勉強など、本人がしたけりゃしてもいいけど・・・
あまりマトモにするようなモノじゃない。

どんなに勉強しても、いずれボケる・・・
頭がよくても性格が悪けりゃ軽蔑だけだ。
頭がよくても仕事ができなければ、役にたたない。
だが、優しい心を育てたなら、それは一生価値がある。

競争社会などという概念の無い時代だ。
優劣の違いはあっても、人の価値には直結しない。
働き者がいれば「いいねぇ〜」で話は終わる。
出来る人がいれば「すごいねぇ〜」で話は終わる。
羨みも嫉妬も少ない時代だ。
のんびりと育つだけでいい。
何度か医者の世話になりながらも母は育った。
大人になれないと言われながらも生き抜いた。

大正12年に関東大震災が起こる。
日本の自然災害では最大級となる。
東京と神奈川だけでも10万人を超える死者だった。
(今年2011年の東日本地震では死者と不明者を含め2万人)

母が7歳の時だった。
群馬・栃木・長野の内陸部は死者は0だった。
その為か、母からはこの震災の事を聞いた記憶がない。
だが、時代は急速に動いていた。

政治では、一応初めて普通選挙が出来るようになった。
それまでは、藩閥政治だから軍(藩出身)と貴族が政治家だった。
普通選挙とはいえ成人男子のみで、婦人や貧乏人は選挙権はなかった。
それでも稚拙ながらも、一般人が政治に参加できるようになったのだ。

いつの世も、為政者は自分の権力を守る為には何でもする。
国の為、という御旗があれば国民の命など消耗品だ。
政治家は自分が国民ではなく、統治者だと思っているようだ。
自分達は国(の代表者)であり、国民と区別している。
その意識は国会議員も村会議員も大して違わない。

更には(偉い)自分の為なら国など売っちゃう政治家もいる・・・
村や町や市を売る政治家など、ゴマンといる。
ほとんどは金(や票)で、簡単に転ぶ。
人間としてはヨチヨチ歩きの段階に退化してしまうようだ。

その政治家が世論に圧されたとはいえ、選挙を簡単に解放しない。
治安維持法というのをセットで成立させた。
簡単に言えば、飴(選挙)とムチ(治安維持法)。
事件を起こさなくても、起こしそうな連中は取り締まってもいい。
為政者にとっては、とても都合のいい法律だ。
(ワシなどは、簡単に捕まるんだろうなぁ・・・
ワシは個人自由主義者(ラテン系裸族)だもの・・・)

つまり大正後期は、為政者の意を受けた官憲が威張りだす。
自由な風潮から、とても窮屈な風潮へと変わっていった時代だ。
集まって話ても笑ってもいけない。
政府批判など(この文章のように)とんでもない。
自由や平等など唱えると、共産主義者とひとくくりにされる。
(共産主義もアレコレ問題があるんだけど・・・)

自由を訴える人々は弾圧を受ける。
(自由ではないが)平等を唱える人も弾圧を受ける。
特に共産主義者(平等派)や無政府主義者(自由派)は、目の仇にされた。
だが、そういう組織も苦手なワシのような個人もいた。
(共産主義も宗教も人の組織だもの、胡散臭いと思っている)
こっそり、ひっそり、小さな声で自由を唱えた。

文学や絵画、そして教育の部分でも自由を唱えた人達がいた。
圧し付けられれば反発もするさ、人間だもの・・・
大正自由主義教育といわれた。
日本が戦争へ大きく傾く1930年(昭和5年)頃までだが。
その内容は、現代の教育より遥かに立派な個性中心のものだった。
本当の教育を考えて、実施しようとした人達がこの時代にいたのだ。

どんな状況下でも、立派な人も愚劣な卑怯者もいる。
為政者は特に立派でなくてもいいと思う。
普通の感覚があればいい。
できうれば、人を縛ろうとしない人であってほしいものだ。
税金で暮らしているのに、威張るなよなぁ・・・
金(税金)で顔を叩いて、原発や処理場を押し付けるなよなぁ・・・

藩閥政治から政党政治へと移ったが、政治家の質はそのままだ。
あるいは、マトモな人も政治家という麻薬に汚染されるようだ。
腐敗政治という点では、相変わらず・・・
古今東西、相変わらず・・・
すると、別の何かが台頭してくる。
大正末期からは、時代背景も応援し軍部がのし上がってきた。
もちろん、治安維持法が反対する人達を黙らせていた。


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昭和時代


歴史上最も短い大正時代が15年(実質14年)で終わる。
そして最も長い昭和時代が始まった(実質62年余)。
母は10歳になっていた。
昭和は、昭和金融大恐慌から始まる厳しい時代となった。
関東大震災の手形のツケが累積し、追い討ちをかけた。
銀行は、支払い停止で休業となった・・・

世界的にもアメリカから始まった株価下落からの大恐慌が広がる。
金が無くなると、他から集めるのが為政者のやり方だ。
てっとり早いのが、戦争。
ドイツではナチス、日本では満州へと軍部が動き出した。
某アメリカや某中国などは、今も同じ方法をとっている。

昭和5年(1930)からは、更に軍国化が進む。
昭和6年には軍部謀略により満州事変という侵略を進めた。
満州国という実質日本国を中国東北部に建国したのだ。
昭和7年には、首相を軍が暗殺する5・15事件。
昭和8年、日本は国際連盟を脱退する。
(日本は満州から撤退しなさい、というマトモな話に不満。
42対1という絶対可決なのに軍だからダダをこねたのだ)

昭和11年、一部陸軍によりクーデター(未遂)が起こる。
2・26事件だ。
政界も軍も腐敗はしているから、いろいろ不満もある。
まして、生真面目な人達は正義を旗印に争う。
争いは殺し合いにまで発展する。
そして、幾人もの政治家やその関係者を殺害した。
結果として鎮圧されるが、自決、死刑など多くの人達が亡くなる。

この後も更に軍部暴走は加速する。
実質軍事政権となり、政党政治は終焉する。
軍事政治は戦争したがり政治だ。
当然、全国民の命を紙より軽く戦場に送り出す。
こんな時に、病弱だった母は成人となった。

父は17年前、1994年に亡くなった。
自分中心の生き方だった。
(それ自体は、けっして責めてはいない)
家庭向きではなかった。
父として、家族を持つべきタイプではなかった。
(そういう親もいると思う)

他人がどう思うが、我が道を行く。
その血は、私や姉の中にも入っている。
そうでなかったら、ある日突然、氣功師などにならない。
売れない陶芸家などにならない。

思い通りにならないと、母に暴力を振るう父だった。
ドメスティック・バイオレンスってやつ。
(これは、幼い頃から心の中で責めていた)
この血は、私や姉や他の兄弟には入らなかった。
あるいは、父が反面教師になったのかも・・・
私は本妻と意見の違いはあっても、喧嘩した事さえない。

私は小さい頃、父の顔を知らなかった。
一つには未だに人の顔を覚えない性分がある。
一つには人の事など(親なのに・・・)興味ない・・・
しかも、年に数度しか帰って来ない父だった。
私が覚えるわけがない・・・

何故、私の家には父親がいないの?
誰かに訊ねたのだろう。
出稼ぎに行っている、という答えだった。
今なら子供にそう答えるより仕方ないと解る。

出稼ぎと称して、渡り大工の仕事をしていた。
が、本当の事は判らないし、教えてくれなかった。
少なくても、稼いではなかったようだ。
あるいは、多少稼いでも、家には送金しなかった。
あるいは、多少送金しても、とても間に合わない額だった。
そう、とても、とても、貧乏な家だったのだ。

超貧乏だけじゃない。
たまに帰ってきた父は母を叩く。
朝、母を怒鳴り叩く声音で目が覚める。
結構凄い子供時代を経験しているのだ。
心に傷を負ったとも思わないが、悲惨には違いない。

何故、私はグレなかったのだろう・・・
グレるという選択肢もあったのに・・・
そうすれば、今と違うスリルが味わえたかも・・・
今のスリルは、一本の弛んだ綱を一輪車で渡っている。
しかも、所々油が塗ってある・・・
火の車の頃はよかったなぁ・・・車だものなぁ・・・
自転車操業の頃は、まだ楽だったなぁ・・・自転車だもの・・・
一輪車はキツイなぁ・・・

当時、グレるという事を知らなかったのだ。
暴力父だったが、私は恐れや不安感情はなかった。
今でも、恐れや不安は少ないようだ。
私は、感情も貧しかったのかも・・・
だが、父を恨む気持ちはあったし、大人になっても残っていた。
そして、貧乏な生活が心を縮める事も、気づいていた。

出稼ぎの意味も、実際の状態も知らずに
「早く、出稼ぎに行けばいいのに」
父が家にいると、その事ばかり思っていた。
母と兄弟全員が、同じ思いだった。
自業自得とはいえ、父も可哀想・・・

その父の晩年と最期については、また後で書く。
それは、人の不思議さに気づく事でもあった。
人も人の生き方も運命も理屈ではない。
恨みなど、一瞬で消えるものだと知った。
すると、感謝の側面さえあると気づく。

ともあれ、そんな乱暴で理不尽な父と何故結婚したのか?
離婚とか思わなかったのか?
いろいろ疑問やら、つっこみどころなどがあった。
私が大人になってから、何度か訊ねたことがあった。
母自身も納得はしてなかったようだ。
その母の答えにも、納得できないままだった。

結婚前から、父の乱暴はウワサで知っていたらしい。
そんな家から母に結婚の申し込みがあった。
もちろん、母は嫌がった。
すると、母の母(ラテン系の祖母)は言った。
「断ったら、もっと怖い」

母「その家に嫁に行くくらいなら、死ぬ」
ラテン系祖母「ならば、死んだつもりで行け」
こうして、結婚したらしいのだが・・・
私には、納得できないんだなぁ・・・
結構裕福で育った母だ。
父の実家では、あまりに暮らしぶりが違うので戸惑った。
そんな話を聞いていたし、私が子供の頃の実体験もあった。
私の家は、本当に貧乏だと思っていた。
だが、母の葬式に来ていた親戚の話から、それは少し違っていたようだ。

私の実家は幸せを知ると書いて、幸知(こうち)という地名だ。
親戚「幸知の家(私の家のこと)はお金持ちだったから・・・」
私「え!」
親戚「大きな家で、土地が沢山あって・・・」
確かに、家は大きく、アチコチに土地はあった。

山もあった。
今も一部ある。
幸知区にアチコチ土地があった。
今も一部ある。
古い家の材料は、この近辺では最高らしい。
だが、本来の半分だ。
売ってしまった。

父の母(父方の祖母)が山のほとんどを売った。
現在の価値で一億以上はあったようだ。
でも、字が書けない祖母は、僅か数年で騙し取られた。
家の半分も売った(そういうのアリ?)。
残った半分は、今は姉のアトリエ(風香窯)になっている。
それでも建坪50坪(2階)だから、元は100坪の家だった。

働かない父も負けずに売った・・・
アチコチの土地を切り売りした。
そのお金のほとんどは、自分で使った。
確かに、(元は)貧乏家ではなかったみたいだ。
母の実家からすれば、それでもかなり貧乏の家なのだが・・・
・・・私は納得していない・・・

私は由緒正しい貧乏人の血統だと思っていた。
ブログでも「貧乏道」という題で書いていた。
ところが、実際は違うようだ。
母方のルーツなど幕府御用達の家になってしまう・・・
両家とも、本来はお金持ち?
私って・・・おぼっちゃま?

私は貧乏で育ったことを隠さなかった。
だが、私の家を知らない人達は信用しなかった。
いいところの出、と思われていたフシがある。
貧して貧ならず。
貧乏な暮らしをしても、性格や心までは貧にならない。
たぶん、母の教えだったようだ。
母は背筋を真っ直ぐにして、歩く生き方だった。

母は自尊心が高かった。
変なプライドはないが、芯に自尊心があった。
生まれ育った家や祖母(ラテン系なのに)からだと思う。
卑屈に生きる要素がなかったのだ。
だが私は特に自尊心などない。
というか、プライドにも興味ない。
むしろ、プライドを緩めることを勧める仕事をしている。
自尊心と劣等感は表裏だし、どちらも大したモノじゃない。

        
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太平洋戦争



日本が戦争に突入する頃、長男を産んだ。
日本が悲惨な時代に転がる時、母も時代に巻き込まれた。
日本人のほとんどが、悲惨に巻き込まれていく。
戦争で美味い汁を吸うのは、極一部だけなのだ。
その一部になりたくて、政治家は戦争へと近づく。
それは、前も今も大して変わらない。

同じ群馬県だが、一家は太田市で暮らしていた。
父が中島飛行場(スバル前身)の仕事をしていたらしい。
山の中の水上町と違って、大田は平地だ。
「どこまでも夕方の影が伸びるんだよ」
そういった事に、とても感激していた母だった。
自然界の綺麗さ、素晴らしさには感応しやすい母だった。

その頃の写真が残っていた。
母には同じ父母から生まれた兄弟姉妹は一人だけ。
5歳離れた妹(叔母)がいる。
セピア色の写真は、和服の二人と赤ちゃん。
母、叔母、長男だが、裕福な姿だった・・・
どうやら、由緒正しくない貧乏家だったようだ。
そうなのかなぁ・・・納得できない・・・

そのまま太田市には5・6年住んでいた。
日本は戦時中だ。
日本連勝と大本営発表という嘘情報に浮かれていた。
今でも政府発表は、何かと信用できない。
特に戦争絡みは平気で嘘をつく。
戦略を国民に知らせるバカはいない、という名目らしい。
(政治家も官僚も自分達は頭が良く、偉いと信じているようだ)

その頃(昭和16年)、次男が生まれる。
だから次男は太田市の生まれだ。
セピア色の次男の写真もある。
やはり、どこかのお金持ち一族に見える・・・
この時期まで金銭的には、よかったみたい・・・
私は、未だ宇宙の果てだった・・・

政府が、いくら嘘を発表しても現実とズレが出る。
人々の暮らしが、どんどんひっ迫してきた。
頑張ろう、日本!
力を合わせて、鬼畜米英をやっつけよう!
だから我慢だ、贅沢は敵だ・・・
いくら煽っても、現実は厳しく辛い日々が続いた。

いつの時代も、
政府(政治家)がしっかりすれば、
(無駄な事をしないで)国民生活は守れるのに・・・
愚かな、愚かな政治で、とても多くの犠牲を増やした。
日本を守る為、と教え込まれて、多くの人が戦地に向かった・・・
戦地は、双方の人と動物達と自然が不幸になる場所なのに・・・

女子学生まで兵器工場に動員する。
その前に戦争は無理だと判断できるだろ。
ここまで引き伸ばしたのさえ、愚かなのに。
為政者に愚かという文字は他人事だった。
更にもがいた日本は、国民の鍋釜まで徴収した。

国民の鍋を徴収したら、国は終わりでしょ。
そんなことさえ判断できない為政者だった・・・
それで飛行機を作れって言った。
冗談ではなく、日本は極めてマジメに命令していた。
(税金で暮らす人達の笑いのセンスはズレている)
物資も動力源の燃料も働く人も乏しくなった。
工場の仕事も無くなってきた一家は水上に帰る。
ところが山の中でも政府の意を鼓舞する人がいる。
威張って、お婆さんまで学校に整列させる。
竹槍を持たせ、鬼畜米英兵を突き刺せ、と言う。
冗談ではなく、笑いをとる為でもなく、命令していた。
(税金で暮らし命令する人は、滑稽を通り越しムチャクチャ)

鍋釜やその他の金属類をお国の為と供出した(父方)祖母。
先祖からの大切な遺品も(正直に)供出した。
今あれば、高く売れたのになぁ・・・
(遺品を売るのか、というつっこみもある・・・)
それでも、お国のやる事に対し、さすがに疑問もあった。
校庭で竹槍を持たせられ整列した時に、思わず言った。
背中の曲がったオババ「こんなモノで倒せるわけがない」
マジメに号令する軍兵に、こっ酷く怒られた・・・

為政者は判断力も未来を観る力も無いアホだ。
だから、鍋釜、竹槍で米英国と戦うと命令する。
だが、その命令がお婆さんまで届く間に、幾人もを中継する。
それに係わった人達も、間違いを訂正する能力が無かった。
あるいは、間違いだと思っても平気で伝えた。
そして、命令者の多くは生き残った・・・
この訂正できぬシステムは、現在でも同じだ。

アホと卑怯者の集団組織。
それが、税金で暮らす為政に関係する人達の正体だ。
(全員とはいわないが、修正しないのなら責任はあるだろう)
モンクがあるなら、一般国民を暮らしやすくしてみろよ。
アホの為政の多くの犠牲者は、一般国民なのだ。
責任も能力も恥も無いなら、辞めてくれよなぁ・・・

社会的、家庭的には問題があった父。
そんな父にも国は容赦しない。
軍属ということで、ニューギニアあたりに飛ばされた。
詳しくはないが、切れ切れの話は聞いている。
日本中のオトコは、とても悲惨だったのだ。
税金で命令する側は、安全なところにいたが。

兵士として徴収されたオトコの日本人犠牲者。
およそ280万人(とてつもない犠牲だろ)。
軍属、空襲、原爆、その他を合わせると330万人くらいか。
戦死というかたちだが、飢餓死がほとんど、ともいわれる。
とても、とても悲惨な戦争に出されたのだ。
愛する人達を守る為、と大義名分されたら、ほとんどが従う。

父が配属させられた地も例外ではない。
物資がない状態で、置いてけぼりだ。
兵士を支援する従軍だから、より格下なのだ。
当然、飢餓状態は日常。
人の生死は、僅かな差で分かれる状況が続いた。
父は性格に問題があるのか、幸運の持ち主ではない・・・
だが、強運の持ち主ではあったようだ。

ある夜、父は三人で宿舎近くを歩いていた。
ヒュルル〜
艦砲弾の風音。
そして轟音と閃光。
父は何メートルか吹き飛ばされた。

幸いにも手足が動く。
目も見える。
耳も聞こえるようだ。
フラフラと戻っていくと・・・
空からゲートル(足保護布)だけが降ってきた。
一緒に話をしていた仲間のゲートルだった。

建物か樹か何かが障害物となって父を直撃から守った。
あとの二人はバラバラになった・・・
後に、この二人の影と足音を聞いたという。
まだ、死んだと気づいてないのではないかと。
父は霊を信じる人ではなかったが、実体験だから仕方ない。
戦地では、霊現象は日常茶飯にあったらしい。

物資補給されない状態だ。
食料、医薬品、弾薬だってない。
あるのは、愚かな命令だけだ。
それでも敗戦に次ぐ敗戦。
退却以外に選択肢が無くなった。

その帰還船さえ無い状態だ。
あっても偉い人から優先的に乗る。
軍人に限らないが、威張る連中は卑怯者が多い。
そんな時、丁度港に船が着いた。
父も乗れるはずだった。
ところが、例によって格下の父は後回しにされた。
運命の分かれ道だ。

目の前で帰れる希望が離れていく。
幾人もの置き去りにされた兵士や従軍が船を見ていた。
湾から出る直前だった。
船は轟音と共に爆発沈没していった。
運命の分かれ道は、どう転ぶか判らない。
置き去りにされた人々は、その後帰国できた。

負けるべくして敗戦となった。
戦争する事自体が愚かな行為だ。
何もかも破壊し滅亡するのが戦争だもの。
まして食料も資源も材料も人も無く続けたのだ。
神国だからという理由で勝つなんてありえない。

例え戦争で勝っても、その後の不幸は約束される。
敗戦国はもちろん、勝利国のその後も不幸になる。
多くの不幸の上に、幸せの花が咲くわけがない。
戦争は、全てに不幸の花しか咲かない行いなのだ。
故に、いかなる理由があろうとも軍備は愚か。
戦争を防ぐ手立ては、幾つもあるのに・・・
知恵というのを、どの国の為政者も知らないようだ。

終戦になるには、更に大きな不幸があった。
終戦を決断するのに、とてつもなく大きな犠牲を払った。
東京や各大都市の空襲。
二度にわたる原爆被害。
そして、やっと卑怯者の為政者は終戦を決断する。

関東大震災で10万人の死者。
その後の復興のツケで大恐慌。
だが、大震災は自然災害だ。
二度に渡る東京大空襲だけで15万人の犠牲者。
これは、まぎれもなく人災だ。
愚かと狂気と卑怯心の双方の為政者による人災だ。

戦争は狂気で成り立つ。
人を殺す事を目的に考え、発明し、実行するのだ。
戦争は狂気と同意語でもある。
東京は木造家屋で、風にあおられよく燃える。
そういう勉強をし、焼夷弾という爆弾を発明する。
そして、赤ちゃんから病人、お年寄りまで焼き殺す。
それが、正義という御旗の下で実行されたのだ。

それだけでは足りなかった。
新型爆弾のテストだってしたい。
降参する前に殺したい。
広島に落とす。
20万人の犠牲者。

別の原爆もテストしたい。
降伏前に、すぐ長崎にも落とす。
14万人の犠牲者。
戦争を終わらせない日本の愚かな為政者に感謝だ。
お陰で、いろいろな爆弾を人体実験できた。

悪魔の心が強い国。
だから勝利国になれるのだ。

双方の国の為政者達による人災。
自然災害より遥かに大きいのだ。
そして今も平気で正論のように軍備をする。
正論のように原発を推進する。

原爆と原発は違う、なんて卑怯を言わないでね。
原爆も原発も平和の為に使う、という為政者の言だ。
大きな被害と苦しみを生むのは、同じ。
コントロールできない仕組みは、全く同じなんだよ。
それでも必要なら、大都市に作ろうね。
国会議事堂に付けて作ろうよ。
人命より経済をとる専門家達も原発と共に住もうよ。
推進者が場所に反対するなら、卑怯者だぜ。
今回のフクシマも為政者による人災だ。

全体で死者330万人(推定)の人災犠牲者。
負傷者数え切れず。
伴う家族の苦しみも推し量れない。
家屋、ライフライン、職、食、その他の壊滅。
まさに日本はどん底で、やっと終戦になった。
もう戦争はしなくていい、という光だけあった。

だがこの光は、本来は当たり前の光だった。
戦争など、しないのが当たり前なのだ。
だから為政者は特別でなくていい。
当たり前が理解できる人でいいのだ。
○○の為に一所懸命やります、なんていらない。
(一生懸命できる人間はいない)
当たり前が理解できれば、弱い立場からの為政ができる。

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終戦後



国土も物資も人の命も犠牲にして終戦した。
昭和20年8月15日だった。
母、29歳の時だった。
中国、東南アジアに出兵した人達の終戦はもっと後だ。
ソ連軍に捕虜抑留された日本人は軍民合わせて80〜110万人。
記録があいまいすぎて実体がつかめない状態だった。

過酷な労働、虐待での死者は34万人といわれている。
(日露で交わした公式死者は6万人。
双方の政治家の卑怯な利害が一致し、公認は極少となる。
実質は、その後の研究で34万人以上が犠牲者だ)
10年以上経って帰国した人の終戦は20年8月ではないのだ。
(戦争犠牲者は、330万人より遥かに多く増える・・・)

このブログを書くのに、犠牲者数などを調べた。
すると日本はもちろん、各国の為政者達の卑怯ぶりがうきぼり・・・
犠牲者数の誤魔化し、キチンと調べない無責任、他国との口合わせ。
国民を戦地に置き去りにし、犠牲にし、知らん顔を未だに続けている。
調べるほど、ビックリするほど無責任ぶりがみえる。

未だに葬ることさえされてない犠牲者。
その家族に対する補償も、知らない振りを続けている。
国を守れ、といいながら、為政者は国民を守るつもりはないようだ。
政治家でいるなら、過去とはいえ、責任を果たせよなぁ・・・
どの政党でも政治家は皆責任者だぜ。
だから、どの政治家も卑怯者だ。

我が家は残ったが、何も無い状態からの出発は同じだ。
意外にも、父は無傷で帰ってきた。
もちろん補償などあるはずがない。
他国で殺し合いをした償いさえマトモにしていない国だ。
自国でさえ、無視されている犠牲者が多数いる国だ。

この山郷にも疎開してきた人達、家が無い人達も多くいた。
我が家は造りは大きいとはいえ、半分の古い民家だ。
明治20年頃に建てられたものだ。
そんな我が家に、4家族が間借りしていたという。

外屋といって、外壁に片屋根をつけ、トタンで囲った空間。
そういう場所にも、間借りしていたらしい。
(どうやら、貧乏には違いないが、我が家は家主側だった・・・)
何もなくても、毎日の暮らしがある。
腹も減る。
混乱、混合、雑多な日々だったろう。
母は病弱を片隅に追いやって、毎日をこなしていた。

終戦になったが、日本はアメリカによる占領下だ。
独立国家ではない。
一応、7年後の1952年に主権回復し独立する。
だが実質は今でもアメリカの占領下だ。
アメリカの命令なら、今でも国民も国土も売り渡すだろう。
日本の政治家はアメリカの下男なのだ。
(異論があるなら、対等に主張してね。
最近は、中国の下男も兼ねているというウワサが・・・)

日本為政者のあまりに無謀な戦争が引き金だったのは間違いない。
だが、あきらかに瀕死状態は理解したうえでのアメリカの行為だ。
民間人の暮らす都市への焼夷弾による絨毯爆撃。
民間人そのものへの人体実験を兼ねての原爆投下。
世界でも類を見ない残虐な行為に対して、独立してからも抗議していない。

それどころか、当事者に勲一等の表彰までした日本の政治家達だ。
アメリカに忠誠を尽す下男よりひどいと思うよ。
ロシアに対しても、抑留者への残虐な扱いに抗議どころか調査さえしない。
戦争は間違いだが、命令して実践させたのは為政者だ。
勝利国へキチンと抗議できて、初めて独立国といえる。

占領下の日本ではあるが、独立国への準備が進む。
一年後の昭和21年(1946)11月3日、日本国憲法制定。
ここに初めて成人なら誰でも選挙権が持てるようになった。
実質はともかく、国民主権という意味だ。
そして、実質はともかく、平和主義を謳った9条も・・・
敗戦になり、実質はともかく、マトモな方向となった。

そんな憲法制定の一ヶ月前、三男を出産する。
相変わらず、数組の家族が居候している。
頻繁に乞食も来る。
都会で空襲にあい、孤児、難民となった人達だ。
田舎は田畑から食べ物が採れるから、都会から流れて来るのだ。
当時は都会より田舎の方が裕福(とはいえないけど)だった。

母はそれらの人達に分けてあげられるだけのモノを持たせた。
食べ物、着る物、時に子供達には本なども。
「大変な目にあったのは、同じだもの・・・」
お互いが助け合わなければ、過ごしていけない。
何もかも無くなった日本だ。
生きている人達同士は、助け合って、どうにか日々を暮らした。

昭和22年(1947)には憲法が施行となった。
制定された11月3日は「文化の日」として祝日に。
施行された5月3日は「憲法記念日」として祝日に。
だが、まだアメリカの占領下でのことだ。
混乱と貧困の日々は続いた。

その頃、朝鮮半島も混乱、動乱が続いていた。
日本が敗戦を認め、支配していた朝鮮半島を手放した。
そこに、各国(米・ソ・中・その他)が押し寄せた。
戦争は強奪の場でもある。
朝鮮半島は、勝利国軍の餌食とされた。

そして、38度線で南北に分断される。
ソ・中軍は共産勢力軍として北半部を後押しした。
アメリカは反共勢力として南半部を後押しした。
同じ民族でありながら、争いは激化していく。
戦争は、日本が手放しても苦しみの悲劇は続くのだ。
戦争は悲劇の花しか咲かない。

戦争は国際戦争だろうが内戦だろうが不幸しか生まない。
ハゲタカのように利益を求め、戦争を煽る国も不幸になる。
一時的に儲かる企業と、それに連なる政治家がやりたがる。
主義の違いからの戦争も、利益がらみがホンネだ。
朝鮮戦争はイデオロギー戦争の体をしているが、ハイエナ戦争なのだ。

同じ民族、同じ国土で、二つの政権があるのが朝鮮半島。
二つの国が隣り合わせにいる半島ではないという立場だ。
戦争は全て不幸と苦しみだ。
更に、同じ民族同士、親戚さえいるのに分断され争っている。
それも、他国の干渉から始まり、未だに続いている。

昭和23年(1948)二つの政権はそれぞれ立国宣言をする。
南半部の資本主義陣営、大韓民国は首都をソウルに。
北半部の共産主義陣営、朝鮮民主主義人民共和国は首都ピョンヤンに。
一つの国が、未だ統一されていない状態だと双方が思っているのだ。
(実質は通称、北朝鮮、韓国の二つの国という扱いだ。)

同じ頃、同じような構図で中国も同じ民族同士で争っていた。
そして昭和24年(1949)に共産陣営が勝利する。
敗れた資本主義陣営は、台湾に脱出し中華民国を宣言している。
ここも、未だに一つの国が統一されていない状態だと主張される。
主張しているのは、通称、中国(中華人民共和国)の方だ。
どうやら通称、台湾(中華民国)は、独立したいようだ。

戦争の当事者、あるいは煽る影の当事者達の言葉は同じ。
我々は、正義の為に戦う。
我々は、平和の為に戦う(巨大矛盾だろ・・・)
我々は、幸福の為に戦う。
・・・あまりに、変だろ。
当たり前の判断さえ出来ない状態だから戦争になる。

そして、終戦してからの不幸と苦しみは広がり、続く。
戦争は終わっても、苦しみや不幸は終わらないのだ。
苦しみ、悲しみを伴うと、負の感情が増幅する。
利害に感情がからみあい、平和に解決することはない。
唯一つ、戦争をしない事が最良の選択なのだ。

朝鮮半島は、更に激化した。
二つの政権が、それぞれ立国宣言した後に統一しようとした。
昭和25年(1950)、北朝鮮軍が38度線を越えて侵攻した。
宣戦布告はなかった。
この年に、長女(姉)が生まれた。
こうして書き始めてみると、あらためて思う事がある。
母は本当に激動の時代を生きてきた。
そして私の兄姉達は、すごい時代に生を受けた。

朝鮮半島は1950年から3年間、全土で戦場となった。
最初は圧倒的に軍備で勝る北が有利に侵攻した。
南首都ソウルも陥落し、韓国軍は敗退に次ぐ敗退。
ほぼ全土を北朝鮮軍が占め、韓国軍は全滅目前だった。
慌てて国連は多国籍軍を作り(17カ国)韓国を支えた。
だが、それでも北朝鮮軍が有利だったのだ。

ところが、今でも謎とされている空白の3日間がある。
何故か北朝鮮軍は3日間、進軍を止めて何もしなかった。
この3日間で韓国・多国籍軍(アメリカ主軸)が立ち直った。
多国籍軍とはいえ、アメリカ軍は韓国軍の倍の兵力だった。
そして勢力を盛り返して北軍を追いやり、ソウルも奪還した。
双方とも民間兵を募り、全部の人と土地が戦争に巻き込まれた。

更に調子に乗った南軍は北上を続け、北首都ピョンヤンを占領。
逆に北軍を北山間部まで追い詰めた。
当然、戦争で感情に狂った双方の人達は、残虐な行為を繰り返す。
南北のとても多くの民間人が無残にも惨殺されていった。
戦争は狂った状態だから、理性などあるわけがない。
軍は自他国に係わらず、国民を守るはずがない。

双方とも軍人だけではとても足りない。
義勇軍、民間兵として、多くが参加した。
自分の住んでいる土地が全て戦場だ。
参加せざるをえない状況だ。
同じ民族同士の争いだ。
誤解があっても憎しみは増えるだけ。
激しい感情で、残虐な行為がいたるところで行われた。
戦争では、狂気が日常茶飯となる。
それは、休戦後も続いた(終戦はしていない)。

南軍も北軍と同じ過ちを犯す。
調子に乗り侵攻しすぎた(太平洋戦争の日本も同じ)。
ここで中国軍(義勇軍として)が北軍側として参戦。
人命を無視した(戦争は常に人命を無視している)人海戦術。
1951年1月には、再度ソウルを占拠する。
そして、またもや、幾つもの住民虐殺が行われた。

北軍は、再再度の侵攻し過ぎで反撃される。
(いいかげんに学ぶという事ができないのかなぁ・・・)
3月に南軍が再度ソウル奪回し、ようやく38度線で膠着する。
尊い人命と大地と文化物と精神と理性とを壊し続けただけだった。
そのまま、休戦という形で現在に到っている。
朝鮮半島の南北の戦いは未だに終わっていないのだ。

昭和28年(1953)に南北は休戦協定を結ぶ。
実質は昭和27年(1952)に停戦されていた。
だが、両国とも一つの国で二つの政権という立場だ。
いつ再開戦してもおかしくない状況のままだ。
そして、私はその停戦中(1952)に生まれた。

犠牲者は莫大になった。
戦争は双方が勝手に数を偽るから正確にはわからない。
それでも、全体(軍・民間)で400万〜500万といわれる。
半島に落とされた爆弾は日本に落とした4倍。
一般市民の上に爆弾を落とすことにマヒしてしまった。
赤ちゃん、子供、女性、お年寄り、病人の上に平気で落とす。

特にアメリカは南北かまわず落とした。
彼らからは、アジア人は南北も軍も民間人も変わらないらしい。
有色人種差別意識が通常概念としてあった。
同じ人間(白人)じゃないなら、何をしてもいい。
キリストの教えは、白人にのみ通用するのだ・・・
赤ちゃんの上にナパーム弾を落として、愛を謳ってもなぁ・・・
この差別意識は、今でもある。

戦争は超浪費の行いだ。
人命など物資より簡単に使い捨てる。
あるいは、使わないのに焼き捨てる。
兵器という高い機具で、銃爆弾という高い消耗品を使う。
それらは、人を筆頭とする生命を殺す為に使う。
大地、海、文化物、建造物を壊す為に使う。
決して、活かす為には使えないのだ。

だから、それに伴い補給品が必要となる。
一時的な特需という需要が生まれる。
日本は敗戦後に朝鮮特需という好景気となった。
もちろん、その後は不景気になったのだが・・・
その好景気の利益をアメリカが見逃すわけがない。

戦後処理費として、敗戦直後から取り立てていた。
何も無い日本だ。
当初は一般会計の半分を無理やり取り上げていた。
好景気となった日本から、更に取り上げた。
総売り上げ以上を昭和27年までに取り上げたのだ。
勝利国というのは、まさしく鬼のような仕打ちをするのだ。
その後も日本から取り上げ続け、現在に到っている。
思いやり予算、という皮肉だかアホだかわからない名前だ。

四男として私の生まれた昭和27年(1952)。
日本国として主権を回復して、独立した年でもあった。
それまで占領していたアメリカの進駐が(一応)終わった。
もちろん各地に米軍基地が今でもあり、本当の独立ではない。
沖縄は昭和47年(1972)までアメリカ軍政だった。
もちろん、今でもほとんど米軍基地があり、本当の返還ではない。

一応、体裁だけは独立国だ。
アメリカの顔色を伺い、機嫌を損ねぬように言行する政治だ。
日本が本当に独立しているとは、世界では思っていないだろう。
占領下の何でもいいなり意識が残ったままだ。
異論は私にではなく、米ロ中あたりに言ってくれ。
弱い者(国民)には強く、強い者(米ロ中)には弱くではなぁ・・・

北方四島でも同じだ。
国際間で交わした事さえ主張できない。
未だに、ロシアにすき放題されている。
住んでいた国民は追い出されたままだ。
私は、嘗ても、今も、政治家が嫌いだ。
税金を貰っているなら、キチンと独立してくれ。
異論があるなら、行動で示してくれ。

敗戦後の日本は混乱していた。
社会も政治(国内外)も混乱していた。
アメリカ占領下の頃から独立(1952)後も混乱していた。
共産系に係わる事柄は、特に陰謀や策謀が渦巻いていた。
もちろんアメリカの意向が大きく影響している。

自由第一ラテン系裸族の私は、いろいろ縛られるのが嫌いだ。
金を多く持ったものが威張り、貧乏人を縛るのは嫌だ。
共産系の言う、皆平等などといいながら縛るのもゴメンだ。
資本主義だろうが共産主義だろうが変わらない。
平等を謳いながら権力を握り、偉くなりたがる。
だが、裏権力による陰謀で封じ込めるやり方は、もっと嫌いだ。
そういう陰険な事件が相次いで起こっていた。

それでも国民は徐々に立ち上がっていった。
毎日、暮らしていかなければならないもの。
様々な工夫がバイタリティとなった。
何もかも破壊された状態から、急速に復興しだした。
国民のほとんどは、かなり無理して働いて経済成長をしていった。

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高度成長期



昭和30年からの約二十年は高度経済成長となった。
幾つもの要因がある。
復興に(無理しても)頑張る労働力が大きい。
円安(固定で1ドル360円)で輸出が伸びた。
石炭から安い石油となり、工業が発達。
何もなくなっていたから消費拡大の勢いも大きい。

文化面も多方に広く発展していった。
娯楽という意識がもてる時代となったのだ。
(戦時中は娯楽禁止だった)
映画、演劇、スポーツ、音楽、文芸、マンガなどの大衆文化だ。
特に歌謡曲という部門は日本中で親しまれた。

家電というモノが、次々と家庭に入り込んだ。
テレビ、洗濯機、冷蔵庫が三種の神器といわれた。
我が家も、少しずつ新しいモノが増えるようになった。
とはいえ、肝心の大黒柱がいない・・・
父親はいるが、大黒柱にはならなかった。
だから、周囲からどんどん取り残される家となった。
私の記憶はこの頃からだから、私は生まれつきの貧乏だと思い込んだ。

経済成長に伴い、多くの家が新しくなっていった。
それまで家の無い人も、小さいながらも家を持った。
外国からウサギ小屋と揶揄される家でも、次々新しく建てた。
だが、我が家は大黒柱がいない・・・
そんな大きな消費はできない。
時代から取り残されたような家のままだった。

茅葺き屋根の古い家。
囲炉裏がある家。
便所が外に作られていた家。
(半分売ったから、台所や便所や風呂場は付け足した)
家の前の畑や木々もそのままだった。

後に、新しく出来なかったことが幸いした。
このような家が無くなってしまったからだ。
我が家はとても貴重な古い家となった。
材料は元々豪華なものだったのだ。
今も陶芸家の姉のアトリエとして残れたのは幸いだ。

時代に乗れぬタイプがいる。
我が家は乗れぬ血が濃いようだ。
時代に乗ることに意欲がわかない。
そもそも、他と同じ事をする意味がわからない。
人は全て個別な存在として生まれている。
顔も形も能力も環境も感性も違う。
それなのに、他と同じように生きるには無理がある。

もちろん、他と同じようにしたいなら勝手だ。
同じなら安心は大きくなるだろう。
だが、安心と冒険は別々な道だ。
安心な道は心惹かれる。
それなのに、冒険道を選んでしまう。
そういうヒネクレた血が、我が家には流れている。

大きく経済成長して、いろいろが新しくなった。
社会の影響は当然受ける。
だが、同調が苦手な分だけ取り残された。
私など会社という組織にさえ入れない。
組織で出世も面白そうなのに・・・

技は大して無いのに、職人気質を受け継いでしまった。
職人は、自分一人で歩む部分が大きい。
他と合わせる気は、ほとんどない。
ワガママなのだ。
社会的に落ちこぼれでも、父は職人気質だった。
そして、その血は私や姉に流れていた。

子供心に不思議に思っていた。
母はいつ寝ているのだろう?
朝は早くから起きて、何かしら仕事をしていた。
いわゆる野良仕事だったようだ。
当時は生活の足しにと、家畜を飼っていた。

綿羊、ウサギ、ヤギがいた。
草は山ほど必要だったはずだ。
私は憶えてないが、養蚕もやっていた。
広くはなかったが、田圃もあった。
畑も山(杉植林)もあった。
しかし、大黒柱の父はいなかった。
まぁ、いない方が安心だったが・・・

日雇いでパートもしていた。
子供達(私の兄姉)は多いのだ。
何をしても、時間が足りなかったろう。
夜は針仕事をしていたのを憶えている。
何でも縫って、何でも編んだ母だった。

何でも出来ることも不思議だった。
百姓仕事、山仕事、料理、裁縫、飼育、和歌短歌など。
字も上手く、知識も広く、どこか田舎にそぐわない面があった。
私が二十歳すぎからお茶(裏千家)を習い出した事があった。
その時、母は自分もお茶を習いたかったと言っていた。
(その後私は膝の靭帯を失い、正座が耐えられなく辞めた)
生活は田舎の貧乏真っ只中だが、ハイカラな雰囲気のある母だっだ。

私が大人になってから少しずつ話してくれた。
(もっと、いろいろ整理しておけばよかった・・・)
母が言うには、最初は何も出来なかった人だったらしい。
だって、ある意味お嬢様だったのだ。
身体が弱く、まぁまぁ裕福な家庭で育ったのだ。
百姓仕事など、まともにできようはずがない。

畑仕事は姑から教わったという。
キツイ性格だったらしい(父の母親だから当たり前か)
頭の良い母だ。
一度言われれば、姑の満足の動き方は出来たようだ。
料理、裁縫などは、結婚前に一通り出来たらしい。
飼育は近所の人からも教わったと思う。
山仕事は見よう見まねでこなしていた。

母が病弱を抑えて頑張っても限度がある。
どうやっても足りないのだ。
長兄は進学を諦めて就職した。
少しでも家計の手伝いをするためだ。

子供達も小学生の時からアルバイトをした。
新聞配達、牛乳配達、ヤクルト配達だった。
幸知区は人数が少ないので、子供でも充分だった。
もちろん私もした。
辛いとは思わなかったが、冬は苦労した。
何しろ道がないし、吹雪時は前さえ見えない。

それでも足りなかったのだろう。
自尊心の高い母が頭を下げてお金を借りてまわった。
愚痴は言わない母だったが、辛かったと思う。
厳しく働くのは我慢できる。
それでも足りなくて、借金するのが辛いのだ。
私は身に染みている最中だから、よく解る。

食べる米が足りなかった。
母は手打ちうどんをよく作った。
鉄製の鍋で自家製野菜たっぷりの煮込みだ。
群馬県では「おきりこみ」ともいうが、ほうとううどんだ。
打ちたてを、そのまま鍋に入れてしまう方法だ。

結構好きだったが、煮干がそのまま入っている。
秋に天然のキノコ類が入ると、とても美味しかった。
オカズのたんぱく質系は、めったに無かった。
基本、野菜か野草か山菜。
お陰で、母も私も血液はとても良好だった。

「じりやき」も食事の足しにした。
うどん粉を溶かして、フライパンなどで焼くだけだ。
味噌や醤油砂糖などで味付けした、実に素朴なものだ。
膨らむように重曹を入れるのだが、塊があり苦かった。
大人になってから、似て非なるものにホットケーキがあった。
初めて溶けたバターの上から蜂蜜たっぷりで食べて感激した。
じりやき、とは違うなぁ・・・・

子供時の特徴。
どんなに貧乏で窮屈であっても、すぐ忘れる。
私は夏休みが大好きだった。
毎日、すぐ前の川に魚獲りに出かけた。
今の学校では川遊び禁止になっているようだ。
だが、私の頃は注意しながら元気に過ごせばよかった。
何しろプールなんてないのだから、川が普通だった。

家は湯檜曽川と利根川の合流する近くだった。
利根川には堰堤があり、発電所用の取水取入れ口があった。
その為かなりの幅の水量があり、泳ぐには充分だった。
だが取り入れ口は危険なので、一応中学生でないと・・・
堰堤の下に丁度適度な溜まりがあり、天然プールだった。
ここには幼児から小学生、時には中学生が来ていた。

ほとんどはヤスと水中メガネを持って、魚突きだ。
その魚はオカズになる。
特に好きではなかったが、腹が減れば何でも食べる。
何でも出来る母だったが、生き物をさばくのは少し苦手のようだった。
お嬢様扱いで育ったきたからなぁ・・・

子供時は、結構残酷なものだ。
虫でも魚でも蛇でも殺す事が平気だった。
子供達は、生命に鈍感なのかもしれない。
水の中の魚を獲ることが面白かった。
今は私も生き物を殺すのは苦手になってしまった。
虫も出来るだけ殺さぬように除けている。

一年中夏休みでもよかった。
毎日、裸で暮らしてもいいと思っていた。
今になって、自分がラテン系裸族だと自覚している。
私は、生まれた国を間違えたのかもしれない・・・
来世は椰子の木の下で、裸で一生を送りたい・・・

しかし、この地区の夏は短い。
八月後半は、夕方が涼しいより寒い時もある。
母が一所懸命働いているのに、私は遊び呆けていた。
母は、子供達に厳しく家事手伝いをさせなかった。
兄姉達は、結構手伝ったのかもしれないが、私はアホだった。

私はアホ、で思い出した。
私の兄達も多少は変わっていたようだ。
授業中に一人で校庭のブランコで遊ぶ。
授業中イキナリ立ち上がり、教壇で遊ぶ。
その頃は先生の度量によって許されていた。
いい先生に当たっていたようだ。

私もかなり幼いままだったらしい。
母は、この子(私)は小学生になれるのだろうか?と思った。
子供が幾人もいれば、そういう子もいるから。
だからなのか、厳しいことを言われた事が無かったようだ。
ある意味、諦めていたのか、優しかったのか・・・

小学低学年時の写真。
私は斜頚だったのか、いつも顔が傾いていた。
蓄膿症(副鼻腔炎)ぎみで、洟をたらしていた。
私の尊敬する赤塚不二夫師の「天才バカボン」に近いかも。

話はズレるが・・・
私が理想としているのは、バカボンのパパだ。
これで、いいのだ。
それで、いいのだ。
この歳になっても、その境地には未だ到っていない。

一応小学生になれた私は、毎日学校に行った。
同じ幸知区内に幼稚園、小学校、中学校があった。
家から見える距離にあった。
私が毎日通えるか、という母の心配は無用となった。

今は、その全てが無い。
私よりずっとアホな政治行政に携わっている人達によって廃校となった。
どんなに少なくても、保育園や学校があれば地域は活きる。
だが、無くなればたちまち地域は過疎化する。
こんな当たり前がわからない連中が決めているのだ。
町が無人化になって、財政困難もへったくれもない。
経費節減したいなら、税金を貰うのは辞めればいいのに。

毎日通うだけでなく、私は学校での一日を母に報告していたらしい。
それにより、学校の様子、先生の様子が手に取るようにわかった。
どうやら、この子(私)はまるっきりアホでもないらしい・・・
忙しい中、母は子供の話をキチンと聞いていた。
私は自分の子供達や本妻や愛人達の話しさえ、マトモに聞いてない。
残念ながら、こういうマトモは受け継がなかったようだ。

私はアホではあったが、素直でもあった。
どうやら母に教わった事を、そのまま実行していた。
小学二年生くらいまでは、私は昼食時に椅子に正座していた。
木製の椅子の小さな座布団に靴を脱いで正座していた。
食事は正座して、いただくものだから。

他の子達は(当たり前だが)座ったまま食べていた。
私は同級生に指摘されるまで、その事に気づかなかった。
むしろ、足を下ろして食べる事に違和感があった。
我が家は椅子がなかったのだ。
食事は正座して、いただくものだ。

時は流れ・・・
今では片手にマンガを読みながら食べるオッサンになった。
この事から、キチンとした躾を子供時にしてはならない、と学ぶ。
反動で、堕落した大人になりやすい・・・
私は、子供達に箸の持ち方と綺麗に食べる事だけは言う。
美味しく食べれるように工夫できれば充分だと思っている。
その他は、エラソウに言えるわけがないからなぁ・・・

忘れている頃に帰ってくる父。
その時以外は貧乏であっても平和な日々だ。
子供は勝手に成長する。
立派でなくても成長する。
どんな子供も成長する。
スゴイなぁ・・・

兄達は、中学を出ると自立していった。
自力で働いたり、夜学に進んでいった。
家にいる子供達が少なくなっても楽にはならない。
母の性格からして、子供と共に暮らす方が望みだったろう。
母は、子供達に人一倍の愛情深さがあったようだ。
蟹座生まれのせいかなぁ・・・

後に私は母の治療を16年間する。
その時に、何度も同じ話を聞かされる。
同じ話だが、特にボケているわけじゃない。
誰でも、同じ話をするものなのだ。
その一つが、子供達、特に兄達に対する事だ。

長兄、次男は生まれた時は、まぁ裕福の部類だった。
だが、幼児、児童の頃は最悪だった。
食べるモノが無い時代だった。
田舎だから何も無いわけじゃないが、飢餓にならない程度だ。

美味しい、好き、という事がわかる歳だ。
それなのに、子供に食べさせてあげれない。
時代だし、環境が厳しいのだから仕方無いと思う。
母は、そう割り切れない。
ずっと悔やんでいたのだろう。
私と違って、マジメだから・・・

テンプラが好きでねぇ
腹一杯食べさせてあげたかったのに・・・

大丈夫だよ。
子供の時の事は、そんなの忘れてるから。
大人になって、好きなだけ食べたろうし。

そう言っても、母の心は忘れられない。
そして現在の兄達が来ると、山ほど料理を作る。
「こんなに食べたら病気なる」
と何度も怒られても、やはり多く出す。
兄達が何歳になろうが、母からは子供なのだ。

子供時の食べ物に不満が強かったのか。
次男、三男、姉は食べ物、飲み物にこだわる。
味にうるさいというか、ウンチクも披露する。
マトモに聞いていると、私などは疲労する・・・
美味しいモノに、人一倍敏感なようだ。
当然、料理もそれなりに美味しく作る。

私はどうやら兄姉達と少しズレているようだ。
味は結構判る舌を持っている。
珈琲店を開いたくらいだ。
(最近は珈琲の微妙な味を判る人が少ない)
ただ、舌はあっても経営能力は持っていなかった・・・
美味しく食べるコツも知っている。
だが、兄姉のようにはこだわらない。

それには、私の二十歳過ぎからの体験が影響しているようだ。
特にこの「氣功」と出合ってから、モロモロから淡くなった。
食べ物にもこだわっているのですか?と質問される。
食べ物も女性にもこだわりはないです・・・
美味しく付き合うコツは知っているので・・・
あっ、女性の若いのは少し苦手で・・・

昭和33年に父方の祖母が亡くなる。
性格のキツイ姑だったが、母しか頼る人はいなかった。
また、実際に母しかメンドウをみられなかったろう。
晩年は寝たきりの状態を介護してきた。
私は五歳で、ほとんど憶えていない。
脳細胞は、小学3年生くらいまで働いていなかった。

母方のラテン系祖母は、昭和39年だった。
こちらは憶えている。
隣の地区の叔母の家から、歩いて来ていた。
明るい祖母だった。
私は小学6年生だった。
脳細胞は、結構働いていたようだった。

この頃の私は朝の牛乳配達をしていた。
子供時分に働いたせいか、今はナマケモノになった。
私はどうやら根性が無いようだ・・・
今の治療家は天職だから、働いている感覚が無い。
生きている存在理由みたいに、自然だからだ。
これじゃあ、雇われる仕事は出来ないなぁ・・・

昭和39年は憶えている出来事が幾つもある。
6月の新潟地震だ。
新潟沖が震源地だったが、とても大きかった。
午後1時で、小学生は授業中だった。
先生の誘導で全校生徒が校庭に避難した。
今より脆弱な窓ガラスに幾つもヒビが入った。
水上での震度は4だが、岩盤の固い水上では大きい揺れだ。

東京オリンピックで一年中盛り上がっていた。
それに合わせて東海道新幹線が開通。
それまでの白黒からカラーテレビに移行していった。
我が家にもテレビが入ってきた。
総天然色と題が入った番組が増えていった。
映画も総天然色と書いてあった。

映画といえば、「モスラ対ゴジラ」がこの年だ。
子供のほとんどが映画館に見に行った。
何とか私も映画館に行った。
こんな山中の水上にも映画館があったのだ。
映画館は娯楽施設の王様だったのだ。
ワクワクしながらじっと銀幕を見つめていた。

高度経済成長の象徴でもあった東京オリンピック。
当時のテレビは高かったのだ。
学校の特別室に置いてあるテレビには扉があった。
画面の前に観音開きの扉があったのだ。
各家庭のテレビだって、刺繍織りのカバーがあったのだ。

授業の一環?として、オリンピック中継を見たりした。
敗戦で落ち込んだ日本人の復興の象徴でもあった。
あきらかに体格の劣る日本人だが、各種目で驚異的に成績を上げた。
ガンバレ、日本。
負けるな、日本。
私も手に汗を握りながら応援していた。

何も無くした戦後からの復興した日本の紹介でもあった。
その裏で、多くの貧しい状態が隠された。
強制的に捨てられた人々や建物が多くあるのだ。
そんな事実を知るのは、ずっと後だった。
政治行政の卑怯な手法は、いつの時代もどの国もほとんど変わらない。
事実も真実も都合が悪ければ隠せばいいと思っているのだろう。

私は幼児、小学校低学年まで引っ込み思案だった。
風が吹いても物陰に隠れるような子だった。
赤面症でもあり、声も小さかった。
先生から指されると真っ赤になり、何も言えなかった。
自然に目立たぬように行動していたのだと思う。

人は変わる。
男子三日会わざれば刮目して見よ。
三日はどうかと思うが、数年経つと変わる。
もちろん変わらないのもいる。
私は小学三年で変わった。

どういうわけか、級長というのになった。
以降、中学を卒業するまでそんなのばかりしていた。
勘違いしてはいけない。
昔は、成績優秀や人望があるからじゃない。
ワンパターンというやつだ。
ああ、そういうのはアイツでいいだろう、みたいな・・・

すると嫌でも人前で話す。
苦手でも先生と話す。
赤面症は何処かに行って、声も出るようになった。
出しゃばりではないが、代表に抵抗がなくなった。
今でも、出来れば人前や代表は遠慮するタイプだ。
だが、苦手も抵抗もないようだ。
ずっと後に地元のFMラジオの番組を(頼まれて)持ったこともある。
まぁ、大抵どうでもいい、と思っているからなぁ・・・

この時期からの大きな出来事にベトナム戦争がある。
日本が関係するアメリカ軍によるベトナム戦争の始まりだ。
以後10年間のドロ沼状態になり、アメリカは疲弊する。
日本はアメリカの下男だから、当然支援する。
金も物資も支援する。
金は税金だから、政治家も役人も痛みは無い。
一部の企業も特需ぎみに収益が上がる。
ベトナム人の血を吸って、面目やら利益を上げていたのだ。

アメリカは戦い好きのキリスト凶(教)徒だ。
まして、死ぬのはアジア人なら問題ない。
白人だけが神の祝福を受けるのだ。
ジョンFケネディは早期撤退を計画していた。
戦争をしない大統領は暗殺される。
そして、1963年に暗殺された。

代わったジョンソンはもちろん戦争大賛成。
戦争を起こせば支持率が上がる国なのだ。
1965年に北爆という得意の無差別爆撃を開始した。
日本は東京や各都市や広島、長崎にされた国なのに応援する。
日本基地から飛び立った爆撃機で、多くの民間人が殺された。
それを満足気に、擦り手でアメリカに媚を売る。
日本の政治家がどれほど卑怯でナサケナイかわかるだろ。

国民の痛みなど知ったことか。
まして、今回はベトナム人だ。
日本人はアジア人でも最高の人種だ。
アメリカの機嫌さえ取れれば、日本の政治家は合格なのだ。

赤ちゃん、子供、病人、婦人、お年寄りの上から爆弾を降らせる。
そういう行為を長く支援することになる。
高度成長期の影には、多くの血が流れている。
やはり、忘れてはならない戦争なのだ。

ベトナム戦争は私の成人後まで続いた。
始まったのは中学一年生時。
ブカブカの学生服を着た小さな一年生だった。
三年生がやたらに大きく感じた。
中学生は成長期でもあるから、体格の差は大きい。

この年から給食が始まった。
母は弁当作りから解放された。
姉も卒業して東京に行った。
頑張り屋の姉は、某有名高校夜間部に入学した。
自力で高校に通ったのだ。

我が家には三歳下の妹が末でいた。
それでも母にとっては子供の世話は極端に減った。
私と妹だけになった。
父も相変わらず、ほとんど帰ってこない。
母は、懸命にパートで働いていた。

母は旧暦の行事をかなり忠実に行った。
七草粥、小正月、旧正月などに混じって「エビス様」がいた。
エビス信仰の流れらしいが、どういった経緯で信じたのか不明だ。
旧暦の10日夜(とうかんや・11月10日頃)に一年働いて帰ってくる。
それから家にいて、七草の朝(記憶あいまい)に出稼ぎに行くらしい。

エビス様が何処でどういう仕事をしているのか、私にもわからない。
アヤシイ仕事やアブナイ仕事なのかも・・・
わかるのは、母が商売の神様のエビス様を大切にしていた。
我が家は商売とは縁の無い血筋なのだが・・・
だが、そのご利益は、お金類に限っては無かった・・・
我が家のエビス様は、商売人では無かったと思う・・・

かなり理知的な母だったが、時々神様系に流れる・・・
神様とつけば、何でも信じるようなところもあった。
まぁ、今でも多くの人がハマっている。
だから宗教は儲かるし、その証拠に大きく肥っている。
宗教は運命を悪くし、生命力を下げるのだがなぁ・・・
(注:いわゆる組織が煽る宗教で、本当の宗教心とは区別して)

中学生の私は幼児時と違って積極的だった。
だが母は学校の成績や部活には一切触れなかった。
今思うと、興味が薄かったのかもしれない。
元気であれば成績などどうでもいい。
元気に部活できるなら、それだけで充分。

私が、私の子供達に対しても同じ感覚がある。
他人と比べる意識は、我が家ではあまり無かった。
それは、子供達自身にも流れているようだ。
子供達も競争意識など更々無い。
他人と比べる意味がわからない。

身体の小さかった私だが、運動系は好きだった。
好きなモノは得意になる。
特別優れてはいないが、一応何でもこなせるようになった。
基本となるランニングが得意だったから。
それは成人になってからの登山にも活かされた。

私の子供達も運動系は好きだ。
未熟児で生まれた長男は小、中、高の9年間皆勤賞だ。
特別優れた種目はないが、何でもこなす。
体格は小さいが、中学のバスケット、高校のバレーと部長を任された。
水泳、スキーも一人前には出来る。

娘もおとなしい顔だが、何でもこなす。
運動が好きな性格だ。
こうした血は、やはり母方から流れていたと思う。
何でもこなせた母の血は、基本的には運動神経がいいと思う。

私の兄も運動系は得意のようだ。
定年退職してから、日本百名山に挑戦しつづけている。
70歳近くからフルマラソン。
ホノルルマラソンでは、年数を増す度に時間が早くなっている。
そういえば、スキーも水泳も上手い兄だった。
病弱な母だったが、運動神経は優れていたと今になって気づく。
病弱は受け継がず、運動神経だけ受け継ぐ子孫だった。

本を読むのが好きなのも母からの遺伝のようだ。
中学、高校と図書カードの新記録?だったような・・・
とにかく私は読む速度が速かった。
授業中に1〜2冊、その他で1〜2冊。
ほぼ毎日3冊〜5冊の本を読み終えていた。
図書室は私にとって宝の部屋だった。
薄い本はメンドウなので、できるだけ厚いのを選んだ。

種類は何でも。
今でも、節操は無い。
マンガから新書、小説、専門書。
浅く広く雑多に知りたかった。

節操の無いのは本の種類だけじゃない。
アレもソレも節操は無い。
当然、社会通念や常識が薄くなる。
そういう性格なのに、社会はますます乱れてきていた。
70年安保というヤツが日本を渦巻いた。

山の中の中学校だった。
純情素朴以外の子供はいなかった。
のんびり、仲良く、育っていた。
学校の先生は、偉いから先生だと思っていた。
何の疑いも抱かなかった。

私は長兄のお陰で高校に進学した。
後から考えたら、奨学金制度というのがあった。
そんな社会的な制度など知らなかった。
電車で20キロ離れた普通高校に通った。
毎日が面白かった。

一年生の時、メキシコオリンピックがあった。
それなりに盛り上がっていた。
夏休み、冬休み、春休みはアルバイト。
休みは、アルバイトか寝ているかのどちらか。
図書室の厚い本を限度一杯借りるのが楽しみだった。
一年生の時は、まだまだ純情素朴だった・・・

高校二年生頃から、世間はより騒がしくなった。
アンポって何?
何も知らなかった。
深い事情など、更に後になってだ。
風潮として、政府は汚くアヤシイ。
純情な学生のデモは正しい。
何となく、そんな程度の認識だった。

政府が汚くアヤシイのは、古今東西の真理らしい。
だが、学生だから正しい、というのは浅はかだった。
何度も繰り返すが、私は純情素朴な高校生だった。
当時は単純に、反戦、反安保、反政府が真っ当なものだと思っていた。
(今はもっと深い意味だけど、立場は変わらないかなぁ・・・)

二年生になっても貧乏学生には変わりない。
やはり、アルバイトの方が関心があった。
アルバイト先のホテルの休憩時間にテレビを見た。
フランシーヌの場合は〜♪
などと、未だによく解らぬ歌の合間だった。
人類が初めて月に降り立った映像が流れた。
(映像の真偽はともかくとしてだ)

鮮明でない映像だった。
だが、宇宙に出ている人類がいる。
月に降り立った事よりも、宇宙に出られる事に感銘した。
いや、感銘じゃなく、羨み。
羨みでもなく、希望。
空想、妄想は得意な私だった。
宇宙(空間)。
とにかく心惹かれた(今も同じだ)。

現実のベトナム戦争はドロ沼状態。
悲惨なニュースは毎日のようだった。
虐殺、枯葉剤、空爆。
日本が戦争に応援参加する安保条約。
大学生中心のデモもどんどん激しくなっていた。
私の高校も、学生である前に人間だぁ・・・
などと、わけがわからぬ事を言い合う学校でもあった。

もともと質実剛健の硬派系男子高校。
オマケに、ソッチ(反安保)系の先生の島流し先でもあった。
当然、煽られて生徒は安保や反戦に敏感になる。
大学生中心の全学連、やナントカ派に追順したくなる。
純情素朴は、簡単に煽られるのだ。
日和見派の私でも、やはり影響される。
宇宙空間より、デモ隊が気になっていた。

人の不出来さ、未熟さを知るのはずっと後だ。
人の世の不思議さ、奇妙さを感じるのはもっと後だ。
わけのわからぬ人間を観るには、幼すぎた。
単純に理屈の正誤を基準に判断していた。
正しさが、一方側からの見方でしかない、などと思いもよらなかった。

人は仮面をつけている。
矛盾を知ると、単純にそう思っていた。
どんな心も、多種多様の仮面だらけとは気づけなかった。
本人でさえ、心をコントロール出来ないのに・・・

私は通常の通学生より30分早い電車だった。
それは乗る駅の関係だ。
早く学校に着いた私は、そこで普段見られない光景を見る。
普段は、ものわかりのいい校長先生だった。
とても、見た目も話す言葉も態度も立派だった人だ。
素朴な育ちだ。
校長先生ともなれば、さすがに立派だなぁ・・・

こういった姿勢は母の影響だ。
先生というのは、偉い人なのだ。
政治家は立派なのだ。
学者、宗教家は損得を考えない。

じゃあ何故戦争をしたの?
御用学者って魂を売り渡してるじゃない?
金儲けに走らない宗教家っているの?
現実を知らないわけじゃないが、思い込みは変えない。

偉い人が、政治家になっている。
先生は偉いのだ。
僧侶は立派だ。
立派なはずだと信じていた。

素朴で育った私だ。
社会の矛盾を知るようになっても、あまり変わらない。
先生は立派だと、心の底では信じていた。
母の影響だったと思う。
それを覆してくれたのが、当時の校長先生だった。
ある意味、本当の教育をしてくれた。
身をもって・・・

体格のいい校長先生だった。
その校長が生徒の下駄箱を一つ一つ開けていた。
この頃、時としてアジ(煽動)ビラが入る事がある。
おそらく、そのビラのチェックなのだろう。
こそこそと、実に卑屈に生徒の下駄箱を開けていた。

下駄箱とはいえ、プライベート空間だ。
それは校長も自覚している。
伝統ある質実剛健の男子校だ。
しかも日頃、生徒の自主性を応援していると発言する。
人格を認めていると、立派な事を言っていた。
だから、こそこそとしていたのに・・・
生徒に見つかるとは・・・・
バツが悪かったようだ・・・・・

恥ずかしそうに黙って去る校長の後姿。
教えというのは、後姿で示すもの。
さすがだった。
大人のタテマエとホンネ。
私の目を開かせてくれたのだ。

職業に貴賎は無い。
い、いや・・・
貴は無いかもしれないが、賎はあるかも。
貴といわれる職業は、賎に陥り易いかも。
例えば政治家とか僧侶、神父、先生といわれる職業。

立派な言葉だけを吐く人は、信用できない。
立派も下品も差別なく吐く人は、信用できる。
タテマエを堂々と公表すると、こそこそしなくてはならない。
最初からムチャクチャなら、堂々とムチャクチャができる・・・
そういうことを、教えてくれた。

この観方は、現在の私に到るまでほぼ変わらない。
そして、人や物事を観るプロとしても満足している。
心は多種多様で複雑混雑猥雑なものだ。
たまには立派な部分だけ取り上げてみるのもいい。
だが、それだけで生きようとすると無理が出る。
立派以外を隠さなくてはならない。
押し込めると、より強い反動が出て、三面記事になる。

職業として立派だけを商売にするのはいい。
だが、自分自身まで立派になったと勘違いすると大変だ。
自分が立派だと思ったら、坂道を転がり落ちているものだ。
そういう職業や地位は多々あるものだ。
立派な肩書きの皆さん、注意しましょうね。
余計なお世話だけど・・・・

素朴は利点として表現される事が多い。
純情も善男善女も利点の扱いだ。
社会のほとんどが歪んでいるからなのだが・・・
そのまま、社会に参加すると簡単に操られる。
操る側にとっては、最高のお客様だ。
だから社会的には利点と紹介する。

この意見は、私が歪んでいるのではない。
無知を素朴や善男善女として操る社会が歪んでいる。
結果として、善人は簡単に人を不幸にするものなのだ。
本人は自分を善人だと思い、また社会も善人としている。
自覚がないから、歪む社会は改善しないままだ。

戦争、争い、貧困、苦しみの多くが無知から作られる。
戦争も争いも善人が疑いなく支持するから起きている。
振り返ればわかる、事実なのだ。
学校も疑いを持たない生徒が一番いい生徒だった。
信じる事、疑う事は根が同じ。
本当を確かめようとする人は、社会にとっては扱い難いのだ。

(簡単に)信じるな。
(簡単に)疑うな。
(自分で)確かめよ。
自然体で自立(個立)するには、基本的な生き方だ。
私の卒業アルバムの一言は「自分の目でみろ!」だった。

本当の素直は騙されないし操れない。
それを知るのは、私が40歳を過ぎてからだった。
本当の素直は他人や社会の言いなりにならない。
当たり前だ。
他人や社会のほとんどは(自分を含めて)歪んでいる。

素直は、自然に素直であり、人の社会に素直の事ではない。
人の社会に素直は人は、単に操りやすい無知という。
戦争を無くすには、自然に敏感に反応する感性を培うことだ。
それを知るのは、もっとずっと後だったが・・・
それでも素朴な高校生はお陰さまで、社会の歪みには気づいた。
実に大切な人生の基礎を教えていただいた高校生時代だった。

毎日のデモのニュースで、母も政治の酷さは知っている。
だが、政治家は立派だという固定概念は残っていた。
だから、総理大臣に手紙を書こうと思ったりしていた。
総理大臣なら話せば理解してくれる、と思い込んでいた。
国民の現状や心情など捨てたから大臣になれたのになぁ・・・
(こういう偏見?が私にはあります・・・)

まだ高校一年生だった。
1969年1月、東大安田講堂が燃えていた。
詳細は後に知るが、東大生と機動隊が衝突していた。
学生は火炎瓶と投石。
機動隊は高圧放水と催涙弾ガス。
ヘリコプターも使って、今なら映画のような出来事だった。

当時の大学進学率は10パーセント。
大学生はエリートだった。
中でも東大生はトップだった。
後に東大生の幾人かと知り合うが、イマイチだった・・・
でも、まぁ、機動隊とケンカできるくらいの生命力はあったのだ。
事の是非はともかく、現在、機動隊に立ち向かえる学生はいるだろうか?

この年、東大入試は中止となる。
涙を流していた先輩がいた。
社会は学生を含めて混乱の真っ只中だった。
学園紛争は全国で起きていた。
ピーク時は8割の大学、165校で紛争があった。
バリケード封鎖という大学も70校あったという。
是非はともかく、元気はあった・・・

二年生になった1969年。
我が高校も紛争に入っていった。
団交と称して講堂で先生と生徒の議論となる。
もちろん授業無しで、何時間もしていた。
我が高校は、結構バリバリだったのだ。

勉強はしなかったが、本は読んだ。
多分、私の一生で一番記憶力が良かった年だろう。
速読でも、何ページの何行目、何文字目を憶えていた。
教科書は小説ほどではなく、多少時間がかかった。
それでも単純な暗記なら一冊分、三日で何とかなる。

何故一年もかけて授業するのか、と思ったりした。
(すいません・・・かなり生意気でした・・・)
だが、そんなモノは簡単に忘れる。
私は憶える事以上に、忘れる能力が優れていた・・・
ピークは高校二年生で、あとはひたすら下降していった・・・

もちろん今では、今読んでいる本の作家名さえ忘れる。
本妻を忘れ、他の人妻と間違う・・・
あれぇ?いつ、こんなに痩せたのだろう・・・
(相手を気にしないという性格もあるけど)
このように、記憶など誰でも必ず衰える。
時には、時々、頻繁に、常時、ボケる。
勉強で憶えた事など、ほとんどが空しいものなのだ。
あまり懸命にするようなモノじゃない、と思うぞ。

記憶力が良かった時期なのか。
毎日が濃かったからなのか。
1969年は、思い出が感覚的だ。
(さらに数年間も憶えているけど)
安田講堂の映像。
美濃部都知事の顔。
ホンダ1300のスマートなセダン。
月面撮影映像。

例えば歌。
今でも、ほぼ、全ての歌を歌手の姿と共に憶えている。
いしだあゆみのブルーライトヨコハマ。
やたら暗い、カルメンマキの時には母のない子のように。
イロっぽいというか、奥村チヨの恋の奴隷。
自分でも弾いた、千賀かほるの真夜中のギター。
フォーククルセイダーズ出身はしだのりひこの風。
トアエモアのある日突然。
青江三奈、森進一、クールファイブ、東京ロマンチカ。

学生だけじゃなく、国民の生命力が高い時だったのだろう。
映画、テレビドラマ、バラエティ、マンガ、ラジオ深夜番組。
どれも、熱気があり、面白かった。
問題だらけ、混乱だらけだったが、日本中に活気はあった。
反骨という意識が庶民国民にはあったからだろう。
不満なのに政治に追順するようでは、生命力も落ちるさ。

この頃の母の思い出はあまりない。
社会の出来事に関心が向き始めた時期だ。
というか、日本全体(世界も)が渦になっていた。
学生が社会に参加して、社会のあり方を議論し主張していた。
大学から、多くの高校へと議論と参加の渦は広がっていた。
そのうねりに多くの国民も巻き込まれていた。
いろいろな意見があるが、学生に好意的な情勢だった。

私には元々たいした目標があったわけではない。
その上で、社会という土台が崩れたと感じていた。
なおさら、将来の目標を見つけられないでいた。
一応進学を目指す普通高校なのだが、私にその気はなかった。
社会の偉い人、というのが、ツマラヌ人にしか思えなかった。
(まぁ、今でも、無条件にそう思うところがあるなぁ・・・)

同じ組でも、しっかりしている同級生はいるものだ。
私などより、ずっと自分の考えを持っていた。
私は誰かの主張をそのまま鵜呑みで話していた。
だが、自分の言葉で話す同級生がいた。
自分の目標に向かう同級生がいた。
社会がどうであれ、真っ直ぐ進む勇気があった。
素朴出身の私は、とても幼かった・・・  

目標が見つからないまま流れていく。
そういう生き方を40歳までしていた。
もっとも、目標を見つける人は少ない。
目標は見つけるより、見つかってしまうのかもしれない。
出合ってしまうのかもしれない。
肩の力が抜けないと出会えないかもしれない。

高校二年生で、すでに流されるままになった。
相変わらず、母や他の兄姉も将来に口を出さない。
思い出した。
中学三年時に一度あった。

高専に進んで技術を身につけたらどうか、と長兄が言った。
私は別に異論はなかった。
1月になってから、私は受けられない事が判った。
当時色弱は入学できなかったのだ(今は不明)。
で、急遽、今の高校に入った。
進学するつもりは、無かった。
やりたい職業も無かった。  

勉強も部活もやる気なし。
といって、一部の活動学生ほど政治に参加もしない。
成績は悪くなく、体育関係は好きだった。
何事も良くも悪くもなく、友達もそれなりにいた。
特に目立つ事もなく、特に落ち込む事もない。

修学旅行は京都奈良。
仲のいいグループで自主的にまわる。
私は、いつも5〜10人くらいの同級生仲間がいた。
面白可笑しく、楽しく過ごしていた。
今思えば、友達の少ない同級生はどうしていたのだろう。
他の人の思いなど、あまり関心がなかったようだ。

そのまま1970年になった。
進学希望者は、本気にならないと大変な年。
我が校は、イマイチのんびりしている進学校だった。
いつの間にか、私も三年生になっていた。
休みはアルバイト・・・
卒業後の予定はなかった。

高校一年生の時は、何とか大学に進学。
そして、一応新聞記者になってみたい・・・
強い目標ではなかったが、そんな思いもあった。
ところが二年生時で、社会と大学(勉強)の矛盾に愛想が尽きた。
大学に行けば、よりロクデナシになるような気がした。

何処を歩いても自分次第なのだが、当時は環境のせいにしていた。
社会が、学校が、先生が、オトナが、政治が・・・・
なんだかんだでも、アンポ紛争というのは影響があったのだ。
山の中から出て、イキナリ社会の裏側(ほどじゃない)に触れたのだ。
先生と名がつけば、エライと思っていたのに・・・

その後の人生で、我が同級生の特徴がある。
何割かは、破滅型になっていた。
どうせ、社会はひっくりかえる。
どうせ、この世はウソの舞台。
どこか、そんな風に思って生活しているフシがある。
その気持ちが私にもあるのは自覚している。
あの激変の時期は高校生の心にとって大きな出来事なのだ。

二年生の夏休みの後半。
同級生三人で、自転車にテントを積み佐渡に行った。
テントで野宿しながら、一週間くらいかけて帰ってきた。
体力だけが必要の、だからこそスッキリした時間だった。
少しだけ、自分の中の何かが目覚めたキッカケではあった。

三年生の夏休み。
例によってアルバイトを懸命にして資金を貯めた。
そして、最後の一週間で一人東北一周をしてきた。
90ccのバイクに寝袋を積んで出発した。
基本的に寝るのはバス停の待合室。

一人で知らない土地に出かける。
すると気づく事が沢山出てくる。
後に「自分探しの旅」などのフレーズが流行る。
意識したわけではないが、そんな部分があった。
自分が何をしたいのか・・・ 

自分を探す、なんてカッコイイ話じゃない。
自分の不安、決断力の無さ、無知を見る。
否応無く、ダメな自分を見る。
こんなに、自分は頼りないのかぁ・・・
それでも、一人で動くより仕方ないのだ。

このマゾにも似た行為は、その後も続いた。
毎年のように、一人旅をした。
働くようになってからもした。
山登りに魅かれていったのも、同じ理由からだろう。

山は特にだ。
自分の足以外に頼るモノがない。
登ったら降りきるまで、自分以外いない。
どんなに頼りない自分であっても、自分しかいない。
弱音の自分と向き合いながらも、最後まで自分の力しか使えない。
私のようなナマケモノは、そうでないと動かない。

教育とは何か?
先生とは?
学校はどうあるべきか?
学校側も迷っていた。
試験的に授業科目のほとんどを選択性にした。
私は体育や音楽などがある時は選択した。
すると5日間で8体育になった。
音楽や研究教科は寝ていた。

大阪の万博が盛り上がっていた。
ハイジャックも流行っていた。
ボーリングも流行っていた。
歌謡曲も盛況だった。
テレビ中継中、三島由紀夫が割腹自殺をした。

秋になり、叔母(母の妹)が話を持ってきた。
昔、叔母が家政婦をしていた子が歯科医になった。
医院を新しく大きくするのに、技工室を自前で作りたい。
そして歯科技工士もスタッフにしたい。
スポンサーになるから、学校に行ってくれないか? 

歯科技工士。
好きも嫌いもない。
そんな職業がある事すら知らなかった。
返事は即答。
いいよ。

目標がないのだから、何だっていい。
とりあえず、2年間(今は3年間)は学校だ。
受験に受かればだが・・・
一応、当時日本一の技術力の学校を受ける。
倍率は4倍強だった。
落ちても、滑り止めがあった。

今は受験科目が少ないが、当時は一般教養科目があった。
しかも5教科くらいあったような・・・
そして、工作と面接。
結構厳しい受験だったようだ。
だが、私は相変わらずピンときてない。
別に落ちてもかまわない。
なりたい職業でもなかったのだから。

長兄は地域内で就職したが、家を出ていた。
妹がいたが、おそらく出ていくだろう。
他の兄姉も東京だった。
子供がいなくなるのは、母にとって淋しいだろう。
まして、子供が生きがいのような母だったのだ。

だから、私が地元の歯科医院に勤めるなら大賛成だ。
特にアレコレ口は出さないが、嬉しいようだった。
私も生きていく場所に、特にこだわりはない。
地元でもいい。
だが、家に入るつもりは無かった。
近くても、家から出たい。

昔の家だ。
プライバシーの部屋などない。
そして、この頃は父が帰ってきていた。
父と暮らすのは、とても出来そうにない。
父を憎んでいたのだ。

後から考えてみた。
叔母が姉である母の思いをくんで、半分仕組んでいたのかも。
能天気な私なら、御し易いと。
事実、私は言うなりになった。
試験まで2ヶ月程の切羽詰まった時期だ。
歯科医の先生は、兄が某歯科大の教授だった。
落ちても付属の技工専門校に手を打っていた。
どう転んでも、私は技工士になるようにしてあった。

そして、1971年になった。
受験し、どういうわけか合格した。
学校に附随している寮に入る事になった。
手続きしていると、学校長から呼ばれた。
私は、特別に入学されたらしい。

微妙な色を扱う専門職でもある。
程度の強い色盲はもちろん不可。
私のような色弱も不可だった。
だが、時代は諸々の開放を求めていた。
学校も、特別な試しとして私を入れた。
学校側も、使えるのか判らないのだ。
長い歴史の中で、私は初ケースだった。

高専入学は制限された。
最初から入学出来ない規定だった。
この専門学校も同じだった。
だが、この3年間で変わってきた。
社会が諸々を見直していた。

アンポ闘争をキッカケに、いろいろ変えようとしていた。
デモ抗争、ストライキ等の是非はともかくとして。
当時は、自他を見直す空気があった。
これでいいのか?
学校も企業も改革を意識していた。
ある意味、マジメな時代だったのだ。

私もマジメだった。
今はマジメが良いとは思わないが、当時は良いと思っていた。
真剣が誠実だと思い込んでいた。
真剣は結構迷惑だ、なんて思いもしなかった・・・
やわらかさが全てを明るくする鍵などと思いもしなかった。

そうなのか。
私は特別枠なのか。
ちなみに、試験結果は二番目だった。
かなり、上手くいったほうだ。
実力ではない。
私は山勘が効く方なのだ。

通常、茶色に赤と茶色に緑が混じった色の区別はつかない。
黄色に赤と黄色に緑が混じるとわからない。
紅葉の始めは、どれが変わったのか判らない。
私を好きになってくれても、私は気づかない・・・
私は、色弱なのだ。

二年間の結果。
人の能力はあなどれない、と池波正太郎氏が書いていた。
私も自分を含め、人の能力の可能性は想像以上にあると思う。
歯に関してなら、微妙な色合い、形、バランス見抜けるようになった。
例えテレビ越しでも、ある程度はわかる。
プロ側になると、技の前に見抜く能力が土台なのだ。

通常の概念は越えられる。
大きく広く観れば、越えていない事柄は少ない。
通常の概念内しか観られない人が多いだけだ。
つまり・・・奇跡は日常茶飯なのだ。
ということが、後に解る。
今の天職(氣功)に出会ってからは、当たり前にある。
まぁ、この話は別なところで・・・
ということで、私の色弱は仕事に関しては問題なくなった。

1971年。
何もかも初めてのモノに出会う東京だった。

色弱の私は、小学生の頃から写生が苦手だった。
何しろ、どの色を使ってもピンとこないのだから。
まして、新緑や紅葉など大の苦手だ。
で、苦肉の策。
川と大空を大きく描いて、山は少しだけ・・・
だから授業の美術には苦手意識しかなかった。
デッサンで、モノを見る力を養うのが目的だったが。
(後に歯の形状などを描くことになる)

私のデッサンは下手だった。
下手は自覚していた。
先生は近くの家政大学から出張してきた。
確か、パリから戻ってきたばかりとか・・・
その先生から絵に関して初めて褒められる言葉があった。
この言葉から私の絵に対する観方が変わった。
絵の観方を知った。

君の絵は自由がある。
自由に操ることもできる。
実にいい。

実にいい、で褒められている事はわかる。
だが、何を褒められているのか解らない。
でも、目からウロコが落ちた。
そんな風に言われた事が無かった。
単純に下手だと思っていたのだ。
だから、下手のままで仕方ないと思って描いた。

その画家の先生が教えてくれた。
今、池袋の西武百貨店でルノワール展をしています。
本物を見るのは、とても大きな感性を目覚めさすでしょう。
こんな機会は、是非行くべきです。

有名な画家の絵など見たことが無かった。
ルノワールの名前は知っていた。
同じ名前の喫茶店が、アチコチにあったからだ。
池袋はすぐ近くだ。
とにかく、出かけてみた。

1971年 西武百貨店 ルノワール展
衝撃だった・・・
(今回調べたら「田舎のダンス」だったという。
女性一人の全身姿のような印象が・・・
違うのかなぁ・・・)

ルノワールの絵の前に立った。
照明が薄暗く、目よりも高い位置にあった。
何だ、これは!
絵から、何かが流れ出し、その部屋に漂っていた。
何だ、何だ、これは、どうしてだ!

今なら解る。
だが、当時は何だかわからなかった。
心臓がドキドキしていた。
ドキドキしていたが、温かい何かだとはわかる。
不安になるドキドキではない。
未知のモノに出会ったドキドキだ。

何だ、何だ?
わからないまま、翌日も行った。
更に翌日も行った。
更に更に翌日も行った。

本物の絵って、こういうのか。
絵は、見るのではなく、感じるモノなのか。
私の目が、やっと開き始めた。
モノは、見るのではなく、感じるのか!
衝撃のルノワールだった。

見方と観方。
一回体験すれば、あとは応用だけだ。
絵だけじゃない。
書、写真、彫刻と広がる。
観えないモノも沢山あるが、見るだけじゃないと知った。
やっと、芸術といわれるモノの一片に触れられるようになった。

観方がわかると見方が変わる。
芸術は見えないモノを意識的に濃くしてあるだけだ。
どんなモノにも見えないモノがある。
もちろん、人にもある。
すると、人の見方が変わる。

美人だけじゃ、ツマラぬオナゴなんだ。
ハンサムなんて、ツマラぬヤツが多い。
先生といわれる人種は、下種がほとんど。
誤解されるタイプに、輝くモノが観えたりする。
見分けるには、素直が大きな要素となる。

私は山の中の田舎の貧乏育ちだった。
毎日の米も途切れるような家庭だった。
アレコレ好き嫌いを言える環境ではなかった。
だが、寮の食事は実に不味かった。
この私が、時には、とても食べられないほど。

お金は歯科医から振り込まれる。
卒業したら10年勤めるという約束だ。
学費、寮費を払うと、残りは2万弱だった。
服や日用品など買えば、ほとんど無い。
外食は寮食が無い日だけの分だ。
そして、一年後に10キロ痩せた。
(58キロが48キロになった)

一度実家に帰った時、あまりの変貌に母は驚いた。
寮の食事の不味さを言うと、顔を曇らせた。
今なら誤魔化せたが、その時は母の心情まで考えなかった。
大層心を痛めたのだろう。
その後、たまに、保存食とお金が届くようになった。
懸命にパートで働いたお金だ。
だが、まだまだ私は都会の刺激で、その有り難さにマヒしていた。

自分が痩せた事など何とも思っていなかった。
ある日、池袋の東口広場に野外ステージが建っていた。
多くの人が適当に聞き入っていた。
フォークシンガー達の、唄の市という名前らしい。
私もコンクリートに座って聞いていた。

やけに背の高いオンナがギターを持って上がった。
観客と半ばケンカのようなやり取りをしていた。
オンナではなく、髪が長いオトコだった・・・
そして歌いだした。
僕の髪が〜肩まで伸びて〜
吉田拓郎を、初めて生でみて、聞いた。
東京って、レコードやラジオで聞く歌手と会えるんだぁ・・・
(同時にいた泉谷しげるや、なぎらけんいちは憶えていない・・・)

この頃は、オトコの長髪が流行っていたのだ。
流行っていたからだけの理由ではないが、私も長髪だった。
東京の二年間、一度も散髪屋にはいかなかった。
自分で適当に切っていただけだったのだ。
私の髪は、肩よりも上だったが・・・

休日は優雅にアチコチ出かけているわけじゃない。
貧窮生活で、時々夜アルバイトをしていた。
週に3日くらいだったけど。
近くの町工場で何かに貼り付けるメタルの加工だった。
寮仲間が交代で、幾人かずつで行ってたのだ。
今の言葉だと、ワークシェアだな。
門限というのもあったが、男寮で守るヤツはいない。

東京が珍しい田舎の育ちだ。
ある日、上野動物園に行った。
すると、隣に本で見た顔があった。
なだ いなだ氏だ。
フランス人の奥様とハーフの子供と。

文字中毒系の私は、節操なく本を読む。
高校三年生の時、北杜夫氏の「ドクトルマンボウ航海記」を読んだ。
ある意味、衝撃だった。
安保闘争で、生真面目な人生論の真っ最中だ。
ギラギラ、ギスギスしていた社会下だ。
こういう生き方があるのだ・・・
人生や社会から外れる系統に魅かれるキッカケかもしれない。

その北氏(斉藤茂吉の子であり、先日死去された)。
精神科医であり、医学博士でもある芥川賞作家だ。
その後輩の精神科医であり、やはり作家のなだ いなだ氏も好きだった。
その人が、隣にいたのだ。
東京は、有名人がいるんだなぁ・・・

一言「ファンです」が言えなかった。
今でもそうだが、その頃は更にシャイな10代だ。
何か言って、握手したかったのに、何もできなかった。
心残りだった事が、思い出となった。
だらしねぇなぁ・・・

なだ いなだ氏はその後「老人党」を立ち上げる。
バーチャル政党だが、自由な政党だ。
既成社会に迎合せず、対決もせず、無理なく自己主張する。
そういう姿勢は、私もスンナリ同調できるのだ。
心の内部の不可思議さを追求した精神博士でもある作家だ。
(なだいなだ、とは、何もない、というスペイン語)

私の興味は、社会の矛盾よりも人の心の奥の不可思議さに移っていった。
とはいえ、まだまだ、否応無しに世間は荒れていた。
70年安保が締結されても、噴出した矛盾は簡単に収まらない。
噴出したエネルギーの当てる先も戸惑っていた時代だ。
時代の変化はフォーク歌詞にも象徴される。
社会政治的メッセージから、個人生活情景の歌が多くなった。
「結婚しようよ」は、時代が変わった印の歌でもあった。

同じ頃だった。
高校時代の同級生(浪人)2人と池袋駅で待ち合わせ。
金も無い者同士だ。
そのまま、駅前で近況などを話し込んでいた。
すると、機動隊が私達3人を取り囲んだ。

透明防護面付きヘルメット。
ジュラルミンの盾。
各部位のプロテクター。
撲る為の警棒。
大柄、怖い顔の団体。

十数人でジュラルミン盾で囲むのだ。
蟻は逃げられるが、ねずみは無理。
もちろん、私達を絶対逃げられないようにしている。
機動隊の目が血走っていた・・・

「おい!そのバッグを見せろ!」
警察は権力を傘に無理をふっかける集団。
そういう見方をしてきた高校生活だった。
「いきなり、ふざけるな!」
内心は結構ビビッているけど、このくらいは言える。
何のことか、わけがわからなかったし・・・

今では、女子大生=パープリンで淫乱。
男子大学生=軽薄軟弱ダメ若者。
というイメージだが(異論ある?)、当時は違っていた。
大学進学率は10数パーセントの時代だ。
大学生は勉強するし、苦学生も多い。
物事をマジメに考える若者、というイメージだ。

私達を囲んだ機動隊を、更に一般市民が囲んだ。
300人くらいはいたようだ。
その頃は、市民は学生の味方だったのだ。
(今は機動隊の味方が多いだろうなぁ・・・
まぁ、自業自得というヤツかもしれない)

鬼の機動隊(当時はそういう言い方も)も市民の目は気にする。
市民さえいなかったら、生意気なクソガキは撲ってやったのに。
そこで分別のある隊長らしき人が出てきた。
「ただ今池袋構内で火炎瓶による火災がおきています。
一応、バッグの中身を拝見させてくれますか?」

「やだ!」
という同級生を説得する役をした。
この辺は阿吽の呼吸というヤツだ。
そのまま見せるのも癪だし、ゴネすぎてトラブルつもりもない。
一人が拒否して、一人が説得、もう一人は無言の抗議。
まぁ、事情を知れば、見せるのはかまわない。
過激派でもないし、火炎瓶も持ったことはないのだ。

「ご協力感謝します」
市民の手前、足早に団体で引き上げる機動隊。
すると、見守っていた市民や野次馬達が寄ってきた。
「何をされたのだ?」
「大丈夫か?」
一般学生に温かい声をかけてくれた時代だった。
社会全般がドタバタだったが、生命力はあった。
生命力があれば、人は温かいのだ。

池袋構内が燃えている。
そんな事ぐらいでは驚かなかった。
東大だって燃えていたし、成田だって燃えていた。
星飛雄馬の目も燃えていたし、あしたのジョーも燃えていた。
変革続きだが、日本はまだ高度経済成長の中だった。

寮のラジオからは、南沙織、小柳ルミ子、天地真理。
出発(たびだち)の歌、また逢う日まで、さらば涙と言おう。
傷だらけの人生、よこはま・たそがれ、知床旅情。
雪が降る、ある愛の詩、そして、イマジン。
音楽の多くは、生活の中に溶け込んでいた。

テレビは部屋になかったし、以後10年間ほとんど見なかった。
本は高いけど、買える時は少しずつ増えていった。
そして年が明けた。
札幌冬季オリンピックのジャンプは見た記憶がある。
その後のあさま山荘事件も食堂のテレビで見た。
連合赤軍が群馬県(榛名)にいたんだぁ、と。
(その後、隣の長野県軽井沢に逃げ込んだ)

この頃から、安保闘争の中で活躍した組織は自滅していった。
特に内ゲバや過激な方法を、一般市民達は支持しなくなった。
私も、マジメ連中は狂気になりやすいと思ってきていた。
正義を盾にすると、争う元になると思ってきていた。
こだわり、から衝突が起こると思ってきていた。
固定概念の外に道があると思ってきていた。

学校の授業は講義、実技とも順調にこなしていた。
私は職人の血が流れていたようだ。
非常に細かい作業が苦手ではなかった。
彫刻刀で石膏やワックスに彫刻するのは好きだった。
休日もアチコチ出かけ、高校の同級生達とも会っていた。

身体も気持ちもピチピチしている時だ。
19歳の生命力は旺盛だった。
そういえば、一年の夏休みは北海道に一人旅。
どうせなら、と最北まで行ってみた。
稚内が最北なのだが、私は礼文島と勘違いしていた。

小さな船で時化だった。
船酔いが、あれほど苦しいとは思わなかった。
吐くモノもないのに吐く。
海へ飛び込みたくなるような酷い状態だった。
やっと着いた桟橋でも揺れていた。

自分の頼りなさを実感した高校三年の一人旅。
だからこそ、一人で知らない場所に行くことに惹かれた。
今のような携帯電話があるわけじゃない。
インターネットなど無い時代だ。
調べる本も限られている。
ほとんど、いきあたりバッタリの旅だ。
お金はギリギリだったので、食べ物さえ節約した。

礼文島に着いて、適当に歩き出した。
船酔いが残るまま、とりあえず、岬を目指した。
スコトン岬という変な名前だった。
そこに何があるわけではなかったが、目指した。

安保闘争を軸に、社会のウソを実感した高校時代。
自分の将来と社会の虚構は別モノなのに混同していた。
自分の将来が見えなくなっていた。
目標が無かったウップンがあったと思う。
自暴自棄を意識してはいなかったが、要素はあった。

不完全な人間が作る社会だ。
虚構だ、本物だ、と気にする事が間違いだ。
その不完全さ、不安定さ、の中に面白さがある。
なんて、当時はとても思えなかったのも無理はないか・・・

人類が幾十億人いても、全て違う。
顔も性質も性格も環境も、何故違うか、なんて考えもしなかった。
社会の一人として、目標や目的や役割が必要と思い込んでいた。
その固定概念から抜け出られるのは、50歳過ぎてからだ。
まぁ、19歳には19歳時の考えと行動がある。

岬の先まで行っても、もちろん答えなどない。
そのまま、ゴロタ岬に向かった。
海岸に出て、何となく崖を登り始めた。
理由も道もなかった。
登りきれるような崖ではなかった。
なのに、そのまま登り続けてしまったのだ。
自暴自棄というよりも、虚無感が近かったようだ。

後戻りできない高さまで登ってしまった。
体力も無くなってきた。
頭も朦朧としていた。
下は岩がゴロゴロしている。

そうか、死は、こんなに近くにいたのか。
そちら側に行くのは、難しくない。
手を離すだけでいい。

その時だ。
「お〜い、大丈夫かぁ〜」
海の方から声が聞こえた。
振り向くことはできない体勢だった。
その瞬間、
登る事だけに夢中になった。

恥ずかしい。
見られたことが、恥ずかしい。
思ったことを、見られたようで恥ずかしい。
何故か、羞恥心で目が醒めた。
そして、崖の上に上りきった。
海を見ると、誰もいなかった。
声は・・・幻だったかもしれない・・・
熊笹を掻き分けながら、遠くに見える道を目指した。

生命力の活性を軸にした治療家になって解ることがある。
僅かの隔たりしかない生と死の間。
死は、思ったより近いところにある。
普通の身近にあるものなのだ。
近いが、簡単には越えられない。

その隔たりは、生命力という壁だ。
壁の薄さは、人間なら大きな差はないようだ。
薄さは同じでも、強弱はある。
生命力の「しなやかさ」が壁の強弱となる。
生きているということは、壁があるのだ。
通常では、簡単には死なないようにできている。

当時の私は生命力が活性していたから死ななかった。
今では解る。
あの声が、現実の声だったのかどうかは問題ではない。
生きる為には、あのような声が聞こえるものなのだ。
聞こえたなら、死側には行けない仕組みがある。
それが理解できたのは、ずっと後だった。

この時の出来事を小説として書いた。
初めての純文学として60枚にまとめた。
ついでに、幾つか稚拙な短編も書いた。
発表はしていない(稚拙すぎて・・・)

70年アンポ闘争では、少し遅れた年代だ。
田舎の高校生では、係わりも幼い。
それでも安保締結以後の各派の真似事のように、虚無感があった。
社会をイジケた見方でするようになっていた。

それが、死を感じた以後、少しだけ変わったのだろう。
明るい方向に行くのに抵抗が薄れた。
少し、素直に見られるようになった。
少し、素直に行動ができるようになった。
基本的に、楽しもうと思うようになった。

故北杜夫氏や、なだ・いなだ氏の影響もあったのだろう。
やがて、同じく北氏の影響を受けた畑正憲氏の本に出会う。
ある日、電車の中刷りだった。
日本エッセイスト・クラブ賞「われら動物みな兄弟」
何だかわからないけど、心が躍った。
作者も題名もエッセイストという言葉も知らなかったのに。
別の世界に触れたという感覚だけがあった。

単行本は高いけど、何としても欲しかった。
同じく「天然記念物の動物たち」も買った。
当時の本代としては、高かった記憶がある。
私は本に関しては勘が当たる。
何の予備知識が無くても、ピンと感じる。

のめり込んでいく。
この作者は、やばい!
魂を引き寄せられてしまう。
新たに買えず、同じ本を何度も読み返した。
何度も何度も読み返しながら傾倒していった。

社会のあり方などには、興味が無くなっていった。
人間が作る社会には、気が乗らなかった。
だが、自然界の「いのち」には心躍った。
畑氏の文章には「いのち」が溢れていた。
生き方は独自で「いのち」が謳歌していた。
そうか、私は「いのち」に強く惹かれる性質なんだ・・・

畑氏が、本来したかったのは動物王国。
作家も本気だが、動物王国が主体のようだ。
初期の作家活動時期は全力で「いのち溢れる文章」だった。
本人の若さと生命力も旺盛の時期だ。
数倍の人生を歩む人もいるのだ、と心酔した。

私はオナゴと恋愛的な夢中になれない。
恋愛はメンドウになり、苦手なのだ。
といって、オトコ好き(同性愛)ではない。
だが、時々、夢中で追いかける人はオトコだ。
しかも、オジサン・・・
二人の御師匠もそうだし、畑氏もそうだった。

夢中になると、結構情熱的?
二年生のゴールデンウィークに北海道に追いかけていった。
当時、畑氏はある無人島に暮らしていた。
前後の見境無く、追いかけるクセがある私だ。
一応会いたいとの手紙は出したが、アポは無しだ。

今の自分の立場(スポンサー付きの学生)も忘れて対岸の港まで。
そこにあった、小さな畑氏の船を見つけ現実に戻った。
勝手な行動で心配かけた事を謝ったメモだけ置いてきた。
後に畑氏からの丁寧な手紙を受け取ったが、それは宝物の一つだ。

私の後にも同じような若者が幾人もいたらしい。
その中から、後の動物王国のスタッフになった人もいる。
もし、私が強引に居座ったら、どういう人生になっていたろう。
そんな事を、十数年は(時々だが)思っていたりした。
人生に、もし、たら、れば、は意味無いのにねぇ・・・

二年生になると、学校はほとんど実技専門になっていた。
学校と併設されている技工所の各科に配属。
技工は種類があり、自分で希望の科を幾つが回るのだ。
本物の受注した仕事をチェックされながら仕上げる。
実践の実技になっていた。

夏休みは、ある関西の共同体のセミナーに参加していた。
精神世界を彷徨うキッカケになった。
良否はともかく、カルチャーショックがあった。
事実と、事実だと思っているのは別世界だと知った。
以後、自分の考えや思いや感覚さえもアテにならぬと知った。
まぁ、自分(人間)は信じる対象じゃない。
欠陥品だもの・・・
(だから、愛する対象となる、と言いきれるのは後)

自分の内外部に気をとられていて、母のことの記憶がほとんどない。
おそらく、母なりに、不安定な私を心配していたのかも。
だが、そういう事は口に出さない母だった。
東京は刺激が多い場所だが、基本的には私は好きになれなかった。
それでも、多くの人達と知り合いになった。
この頃の私は積極的、社交的、行動力に溢れていたのだ。

アンポ闘争に影響受けた人達や学生達。
自分の求める道や場所を、いろいろな方面に探していった。
当時ヒッピーなど精神世界へ向かう人達も多かった。
心を押し殺して、通常の企業に就職する人も多かった。
放浪の旅に、世界に飛び立つ人もいた。

今なら、それぞれの個性だと思える。
どれでもいい。
方向や種類じゃないのだ。
歩いている、本人なのだ。
だが、当時は道が本人を変えるのだと思っていた。
変える、変わる、ということに、こだわっていた。

そんな中の一つに「食」にこだわるグループと知り合った。
玄米菜食を軸にした、マクロビオテックのグループだった。
食物を陰陽という見方で区別し、自分とバランスをとる方法だ。
またまた、違うモノサシと出会った。
桜沢如一氏という巨匠の本は、理解しきれなかったが、面白かった。

東大生、大学院生、御茶ノ水女子大生を含むグループだった。
今なら、何となくわかる。
そこそこ勉強してきたのだろう。
だから、頭が悪いというか、やわらかくないというか・・・
理屈でモノを食べようとしているグループだ。
ヒネクレてはいないが(私のほうがヒネクレている)固かった。

無知な私には親切に、いろいろ教えてくれた。
だから三ヶ月間、玄米だけで過ごしてみた。
三ヶ月目に目が回った。
ちょうど関西の宝塚のグループに行った時だ。
初めて、実際に天井が回る感覚を味わった。
本当にグルグル回っている・・・
当然、立っていられなくて、その場で寝ていた。
玄米で体質が変わったのか、栄養失調だったのか・・・

インドに行き、瞑想をするグループも知り合った。
山谷で立ちんぼ(日雇い)しながら、日本を祭りにするグループ。
彼らは、毎日夜は泡盛を飲んでいた。
安い(からなのだが)泡盛はキツかった・・・
基本的に陽気で、最後は「一緒に沖縄に行こう」と口説かれた。
沖縄で毎日踊って暮らすのだという。
私は彼等と気が合った。
サッパリとガハハと笑って酒を飲むタイプだ。
心が、(結構)揺れ動いたが・・・結局行かなかった。

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私20代



この年も歌謡曲は盛り上がっていた。
ちあきなおみの「喝采」が日本レコード大賞。
ずっと後に、この芸名の生みの親を治療することとなる。
山本リンダ「もうどうにもとまらない」
ずっと後に、バイトでスポットライトを浴びせたのは私だ。

テレビに出るようになった、吉田拓郎。
橋幸夫「子連れ狼」
ずっと後に、漫画家の小島剛夕氏と会う機会があった。
柳生烈堂が大五郎を抱き上げ「我が孫よ・・・」
謎だった最後のページの台詞の意味を聞いた。
その時に、直接描いた大五郎の絵をいただいた。
故小島氏は、ペンでなく筆で絵を描く劇画家だった。

アグネス・チャン、チェリッシュ、トアエ・モア。
ガロ、ビリー・バンバン、ペドロ&カプリシャス。
私と同世代なら、涙が出てくるような名前ばかりだ。
多分、誰でも知っていたくらい歌が普通に流れていた。
そして、私は、20歳になった。
母は、56歳だった。

東京にいた、二年の間。
思い出してみると、学生の合間に結構飛び回っていた。
関西方面には、夜行列車で何度も行った。
名古屋、三重、奈良、大阪に僅かな金だけで往復した。
都内や近郊の怪しいグループにも出かけた。
そういえば、丹沢にも登ったなぁ・・・
後に地元山岳会に入って、数年間山登りするが・・・

ラーメンとキャベツだけ。
パンだけ。
玄米おにぎりだけ。
それでも、特に不満は無かった。

そして、一応、ケリをつけたつもりで、地元に就職した。
自分の道なんて、わからない。
とにかく、なるようになるまで、働く。
新築した歯科医院には、新設された技工室があった。
そこの初代の技工士として、以後10年間勤める。
見当がつかない末息子が一応戻ってきたので、母は一安心したようだ。

私は父親が嫌いだった。
自分で働くようになったなら、一緒には住めない。
とはいえ、同じ町内だ。
たまには実家に帰った。
帰っても、決して泊まりはしなかった。
実家には、高校三年生の末の妹が一緒にいた。

どういうわけか、私には仲間がいた。
年下の連中が、常時5・6人いた。
引越しも、何かを用意するのも手伝ってくれた。
アパートは鍵もかけず、誰でも勝手に使えるようにオープンにした。
連中は、次第に数が増え、やがて20人近くになった。
アパートが狭くなったので、別の一軒家を借りるようになった。

皆、職人系で、学校も行かなかったり中退したりの連中だった。
その分、腹の中に何も無く、気持ちのいい連中だった。
私が少しだけ年上なので、いろいろ慕ってくれていた。
私は、次第に彼等のまとめ役のような位置になったいた。
毎日、数人が来ていた一軒家のアパートだった。

毎晩、数人が勝手に泊まっていった。
この10年間は日本中が結構忙しかった。
日本列島改造論などと土建業界が特に活気があった。
三次産業の銀行、証券会社なども活気があった。
私の仕事も、とても忙しかった。
歯科医院の予約は三ヶ月先まで入っている状態だった。
だから私がアパートに帰るより先に、誰かが来ていた。

適当に食べ物なども気を使って置いてある。
気の良い連中だった。
私はボス的でも兄貴的でもない。
基本的に指図はしない。
むしろ、世話を焼かれている方だ。
休日に皆で出かける時も、私の分まで諸々の用意をしてくれた。

乗り物に弱い母だったが、年に二回くらいはアパートに来た。
そして、庭の草むしりをしてくれていた。
私のところにいた仲間達とも、良い感じで交流してくれた。
職人系は、母とも相性が合ったようだ。
後に、私がいなくても、年取った母の家にも顔をだすようになる。
作った野菜などを持ってきてくれるようになる。
実に気の良い連中だった。

今の私は、ほどんど酒を飲まない。
飲みたいとも思わない。
断るのが面倒だから、通常は飲めない事にしてある。
だが、当時の私はコミュニケーションは酒だと思っていた。
だから、酒に関しては最低限の常識を仲間に約束させた。

酒を飲んだら、車は運転しない。
いつも、酒を飲めない仲間が常に運転手役になっている。
運転手役は皆に頼られる事で存在位置を示した。
もちろん、運転手役に余分な料金はかけさせない。
こうして酒を飲むときは、送迎付きなのだ。

深酒をしても、次の日に仕事を休まない。
休むようなら、仲間と認めない。
誰からも仕事で一人前と認められるようにだ。
基本的に楽しいバカ話の酒の場にする。
無理して付き合わない。
自分を管理できて、一人前だと認める。

暖かくなると、よく川辺でテントを張って酒盛りをした。
釣りが得意の連中は、魚をサカナにしてくれた。
もちろん、山や川にゴミを捨てるような事はない。
ゴミを捨てるようなのは、人間のクズだと日頃言っていた。
地位や金や世間的な評判はどうでもいいが、クズにはなるな。
当時から比べると、現代はクズがものすごく多いようだ。
私は立派でもマトモでも普通でもないが、クズにはなれない。
ゴミを自然界に捨てて平気でいられるほど強心臓ではない。

私も仲間も基本的に硬派の側だ。
有体に言えば、異性と上手く付き合えないタイプだ。
異性と面倒な付き合いをするくらいなら、仲間とバカ話をした方がいい。
それでも、モノ好きなオナゴもいた。
仲間連中には、オナゴも数人加わっていた。
顔を出す総人数は職場仲間を入れれば、30人に近くなっていた。

こうなると、何をするにしてもある程度の規模になる。
何処に行くにしても、定員で車5・6台になる。
小さな店なら貸しきり状態になる。
仕事は遅くまでギッシリだったが、毎日は面白かった。
また、休みの日はいつも予定が詰まっていた。

仕事もプライベートも充実していた。
すると、面白いもので更に意欲がわく。
別な事に手を出してしまうのだ。
いつもの仲間連中とは別の人達との付き合い。

一つは、ラリーチームのナビゲーター。
当時の群馬県は山岳ラリーの中心だったのだ。
未舗装の山道が沢山あり、夜間はほとんど人がいない。
当時は真夜中のレースだ。
およそ400キロから500キロ。
計算は、円盤計算尺(知らないだろうなぁ)でした。
やがて、計算機のメーター(高い)が使われるようになった。
未だ、電卓などない頃だ。

アンダーガードとロールバー。
四点式シートベルトとヘルメット。
ダートラリーだから、横転は珍しくなかった。
山道だから、皆で横転車を道脇に除けてレースを続けた。
SS(スペシャルステージ)というメチャクチャもあった。
区間でかかった秒数全てが減点だ。
とにかく速く走る為の区間だ。
今では、決して許可してくれない内容だった。

ラリーのグループは私より4・5歳年上だ。
私は一番年下に近い。
基本的にドライバーではないから、気は楽だった。
また、瞬時のナビゲーターが少ないので重宝された。
下りダートで車が滑りながら曲がるのも、怖くなかった。

やがて、計算は自動でできる計算機が普及する。
各クラス分けや、細かい条件がつくようになる。
大らかなラリー大会から、シビアなオフィシャルになる。
金をかけた車が圧倒的に強いレースになった頃、手をひいた。

その後、地元山岳会に入る。
どこかスリルを求めていたわけでもないが・・・
ここでも、全て私より年上の人達との付き合いだった。
夢中になるほどではないが、山に惹かれたのは間違いない。
やがてスキーが原因で膝の半月板の手術をする。
その時には前十字靭帯が吸収されて失ってしまっていた。
その後は、山岳会としての山登りは無理になって辞めた。

地元の谷川岳連峰や尾瀬系の燧ヶ岳、至仏山。
近くの新潟県側の苗場山、神楽。
そして北・南アルプス連峰。
槍から穂高連峰の縦走はいい思い出だ。
数年間だったが、登山は経験財産となった。

ラリーにしろ、登山にしろ危険は付きものだ。
だが、母は一切口出しをしなかった。
今の私の息子(二十歳)も少しずつ山に親しんでいる。
いろいろな思いはあるが、私も口出しはしないでいる。
ただ見守る方が気持ちが深いと知っているから。
もちろん、相談されれば乗る。

年下の仲間連中と、年上のグループ。
もう一つ、別のグループにも関係する。
茶道だ。
裏千家を習いだした。
そこには、主婦グループがいた。

仕事は益々忙しくなっていた。
歯科医の先生は、気を使って時々飲みにも誘ってくれた。
普段行けない値段の高いところだ。
芸者さんなどが、そばに付いたりして・・・
それでも、時間をやりくりして、いろいろと付き合った。

その他、東京のセミナーにも出席した。
精神世界を彷徨ってもいたのだ。
少しの時間があれば、本を読み、また下手な文章を書いた。
連休は、一人旅をした。

当時の私の考え方。
誰とでも付き合う。
誘われたら、断らない。
生きている間に知り合いになれるなら、誰でも仲良く。
無理してでも八方美人に(美人じゃないけど・・・)

今の私とは違う考え方だった。
まぁ、体力、スタミナがあったからなぁ・・・
知りたいこと、してみたいこと、行って見たい所。
全てチャレンジしてみる。
そんな考え方であり、行動でもあった。

熟年主婦グループとの付き合い。
お茶の先生は、当時60歳は超えていたと思う。
私とは40歳くらいの差があった。
私は週一回の夜の稽古だった。
次第に主婦達の名前と顔がわかってきた。
私はとにかく、人の名前や顔を憶えるのが苦手。

おそらく、一番若くても10歳以上年上。
20歳、30歳以上年上のグループだ。
しかも男は私一人だけだった。
お茶の先生は、最後まで男性を仕上げたい、と言っていた。
いわゆる師範というところまでなのかな。

稽古が終わってから、主婦達に誘われる。
すぐ近くが温泉街だ。
当時は活気があった。
飲み屋さんも沢山あった。
私は当時から、年上も年下もあまり気にしない性格だった。

今なら何となくわかる。
顔スタイル性格はともかく、私は若いオトコだった。
しかも従順(相手はかなり年上の主婦だもの・・・)。
酒も冗談も付き合うから、可愛がられたようだ。
私も熟女人妻は、気を使わず楽だった。

そうか。
その頃があったからか。
私は熟女(できれば)人妻が好みなのだ。
若ぇオナゴは苦手なほうだ。
まぁ、職人とか熟女とかは一緒にいて楽だった。

母は、本格的な茶道を習っていなかった。
抹茶とその雰囲気は好きだったようだ。
だから、私が茶道をすることを喜んだ。
ハチャメチャなB型で、型通りをしない私だ。
だが、基礎を習うのは当然だと思っている。
背筋のまっすぐな先生との茶道の稽古は気に入っていた。

結果的には山岳会と同じだ。
膝の靭帯が無いから、長時間の正座が出来なくなった。
薄茶の20分くらいは大丈夫でも、濃茶となると無理だった。
ある程度の段階までは習ったが、中途半端で終わってしまった。
自分としても残念だった。

ずっと後、故御師匠様と出会って、氣功師の身体にされた。
気が付くと、正座ができるようになっていた。
2時間くらいは平気になった。
もちろん、私が靭帯が無いとは誰も気づかない。
だが、靭帯が再生したわけではない。
この氣功は理屈に合わない出来事が山ほどあるのだ。

職人仲間連中グループ。
山岳会グループ。
茶道のグループ。
職場も人数が増え、7人のグループになった。
一応、私がスタッフリーダーだ。
一応、職場としての飲み会やミニ旅行もした。
忘年会などは、どうしても重なってしまったり・・・

私の実家は大きな古い家だった。
(父方)祖母が半分売ってしまった。
それでも50坪(二階含め)ある。
だが、きちんとした台所やトイレは無かった。
売ったお金で改造しなかったのだ。

不便な暮らしで育ったのだ。
母はもっと辛かったと思う。
小さくてもいいから、きちんとした家をプレゼントしよう。
身体の弱い母が元気でいるうちに。
そう思ったのは、私が25歳の時だった。
幸い仕事は忙しく、私は特に欲しいモノもなかった。

山岳会で知り合った人が銀行関係だった。
金の事なら相談してくれ。
その言葉に乗った。
今と違って、日本中景気がいい。
銀行は借り手を探していた。
歯科医院勤めの私に、簡単に貸してくれた。
利息は(今と比べるととても)高かったが、初めての借金をした。
以後、借金は生涯の連れ合いになる・・・

資金のメドがつくと、話はトントン拍子に進んだ。
両親(とはいえ、母用だが)の隠居家のようなものだ。
20坪にアレコレ詰め込んだ設計図を書いた。
当然初めてだから、下手な意気込みもあったようだ。
今ならもっと生活しやすいように設計できるのだが・・・
今後の借金返済を考えると、アパートを引き払う。
だから私用の部屋も、一つ用意した。

この年、父親は何処かに出稼ぎと称し帰ってこなかった。
工務店は大工の父親の知り合いに頼んだ。
施主(私)の設計通りに作るといった。
屋根は雪が自動的に落ちるように急勾配にした。
雪深い地区なのに、民家で急勾配の屋根は誰もしなかった。
今は民家の急勾配が当たり前になっているが・・・
(結構、私の考えは進んでいたのだ)

外壁は丸太を積み上げたような、ログハウス風。
これも今でこそ珍しくないが、当時の民家としては無かった。
だが、何しろ小さな家だ。
玄関も台所も風呂場周りも狭かったなぁ・・・
それでも、一人前に施主として職人さんと話をした。
建前での餅撒きも、挨拶もした。

それまでのグループの付き合いとは違う。
25歳の若造だったが、社会的に一人前の立場だ。
そのつもりで接すると、遥か年上の相手も一人前として接してくれる。
一人前は、年齢じゃないのだ、と気づいた。
付き合いは気持ちであって、年齢じゃない。
その後の人生に影響する、いい経験になった。

この時期、兄や姉達は金銭的余裕が無かった。
(まぁ、未だに無いが、特にという意味だ)
いろいろ大変な時期だったのだ。
私だけが、使う当てもなく仕事をしていた。
とはいえ、手持ちの金額は大したものじゃない。
小さな家で、今と比べると安かったがン百万の借金だ。
一軒家のアパートは引き上げざるを得なかった。
毎日群れていた仲間には、少し気の毒だったが・・・

よくしたもので、家の近くに気さくな飲み屋が出来た。
今度は、そこに集まりだした。
当然お金がかかるから、それなりの集まりだ。
それでも何かとミニイベントをした。
夜中のミニマラソン大会。
ボーリング大会。
長野へのツーリングやワカサギ釣り。
もちろん、バカ騒ぎ付きの飲み会も・・・

せっかく実家に帰ってきたのに、私は相変わらず家にいない。
夜中に帰って寝るだけの生活だった。
休日も家にいることはマレだった。
何しろ、忙しかった。
そして病気療養の三才年下の妹が、新しい部屋に入った。

12月だった。
私は誕生日が過ぎて26歳になっていた。
妹が逝った。
子に対する愛情の深い母だ。
6人の子を生んで、唯一人先に逝かれた。
その悲しみ、悔やみは人一倍強かったろう。
ネガティブな感情をあまり出さない母だ。
この事に関しては、最後まで得心に至らなかったろう。

私も忙しさにかまけて、充分な対応ができなかった。
悔やんだ。
ああしたら、こうしたら、何故しなかったのか・・・
ずっと心に引っかかったままだった。

妹への悔やみなどが消えるのに20年かかった。
今の世界(氣功)に入ってからだ。
死に対して、何度も触れるようになってからだ。
人の生死、を相手にするようになってからだ。
勘のようなモノが働きだしてからだ。
妹は、綺麗になっているのだと気づいた。

子供の時から身体が弱かった母だ。
大人までもたない、と言われていた。
大人になると、子供は作れまい、と言われた。
子供が出来ると、40歳までは生きられまい。
何度も心臓の発作も起こした。

年に何度も三叉神経の発作がある。
食べれない、眠れない、話せない状態になる。
長生きなどできない、充分な自覚もある。
だからだったのだろう。
国民年金の話だ。

母は頭のしっかりした人だった。
記憶力は私など比べものにならない。
60歳になる時、役場に問い合わせした。
何年か分の未納があると思いますが・・・
後に問題になるが、実に年金関係の公務員は出鱈目だった。
社会年金庁も各地の機関も直接窓口の役場の係りも。
無責任と出鱈目と無能で成り立っていた。
大丈夫ですよ。
そう言われれば引き下がるより仕方ない。

今は年金関係のズサンな出来事は山脈のように出ている。
それでも、まだまだ部分だと思っている。
証明もしようのない国民がものすごい数でいるのだ。
父親もそうだった。
よほど大きな会社でないかぎり、マトモな管理などしなかった。

今も甘いが、当時は酷かった。
役所仕事・税金泥棒などという言葉は甘い。
もっと酷いのだ。
税金を貰って使う政治行政の人達はプロ意識が無い。
役場など、各部署を転々として過ごしているのだ。
だから誰でも責任があるだろう。
でも、誰も責任は取らない。

母は自分の寿命が少ないと思っていた。
だから、65歳まで待たずに年金を貰う手続きをした。
案の定、その額は規定の半分にも満たなかった。
未納分があるからという理由だ。
事前に問い合わせまでしたのに・・・
調べる事もメンドウだから嘘をついた。
その担当した個人の話じゃない。
日本中の公務員がそういう風潮だったのだ。
全員とは言わないが、知らなかったとは言わせない。

国や県や町の無責任な出来事はまだある。
我が家だけでも、まだまだあるのだ。
だが、いちいち書かない。
が、税金を貰う人達を色眼鏡で見るのは止めない。

公務員の中には、真摯な人達がいるのは知っている。
どんな業界でも十把一絡げで判断するつもりはない。
それでも、政治家と役所仕事をする人達には意識的に口を出す。
真摯な公務員の仕事を邪魔しているのは、同じ公務員だ。
マトモに仕事をしているのなら、同意するはず。
マトモな国造りの邪魔をするのも、公僕を忘れた政治家だ。
公僕を自覚している政治家は、絶滅種に近い。

税金を貰う政治行政関係者が信用できる。
そんな国に成るには、遥か先だ。
貰っている人達だけが、自画自賛する。
国民の圧倒的多数は、実際に理不尽を味わっているのだ。
何の考えも無しにアホな政治家を選ぶのは改めなくてはねぇ・・・
一般国民も、もう少し人を見る目を養おうぜ。

よく働き、よく遊んだ。
相変わらず三ヶ月先まで予約が入っている。
新潟県からも患者さんが来るのだ。
評判は(補綴物や義歯を含めて)良かったのだ。
後輩の技工士と二人で、夜9時に帰るのは稀だった。
12時過ぎることなど、珍しくなかった。
残業120〜150時間だった。

温泉街の中にある後輩の家に泊まる事も度々。
近くのホテルに風呂だけ入り、スナックで一杯。
まだまだ元気な温泉街だった。
キャッチバーのお姐さん達とも顔馴染みになった。
お〜い、今帰りかい、ご苦労さんだねぇ、と声がかかる。

休日も一緒に遊んだ。
ボーリングは何時間もやった。
冬は、スキーに凝った。
プロスキーヤーが幾人もいる地元だ。
スキー場が7つもあるのだ。
そして、調子に乗ってコブを派手に飛ばされた。
それが原因で膝を痛めた。

右足を骨折したのだと思った。
膝から下に感覚が無かった。
仕方ないので、端まで這って行った。
スキー場の救護を呼ぶのは恥ずかしかった。
地元民が救護の世話などになりたくない。
しばらく、そのまま倒れていたら、何とか動けそう。
根性で下まで降りた(こういう時には根性もある)。
そのまま、車に乗って何とか家まで帰った。

夕方から膝が腫れ出した。
痛かった。
無理やり冷やして過ごした。
出来るだけ病院には行きたくなかった。
包帯で巻いて、水で冷やして仕事に行った。
それが、結果的に悪かった。

一ヶ月もすると、腫れも引いて動ける。
当時は仲間連中とのいろいろなスポーツもあった。
野球チーム、バレーチームも作ったのだ。
身体を動かすのは、好きだった。
無茶をするのが趣味の性格だった。
一年経たないうちに、膝の関節が外れるようになった。
それを自分で回して入れて、また遊んでいた。
やがて、頻繁に外れるようになった。
こりゃ、病院にいくより仕方ない無いなぁ・・・

近くの病院の整形外科では不明だった。
次も次も不明だった。
紹介状が出て、大学病院に。
膝関節専門の医師がいるという。
すると、レントゲンの撮り方から検査もかなり違った。
やはり専門は違うんだなぁ・・・

おそらく半月板(軟骨)が擦れて垂れ下がっている。
内視鏡で見れば確定する。
そうなら、そのまま垂れた分だけ摘出手術になる。
不明だったのは、私の膝の骨が左右正常だったから。
また、ストレステストでも差が出なかったから。
専門医は最初に足に触って言った。
いい筋肉だなぁ。

私は山岳会でも仲間内でも、筋肉は無い方だった。
山の人達は、ふくらはぎや太ももが発達していた。
だが私は、手も足も細い方だったのだ。
かなりハードに使っても、筋肉がつかない。
いい筋肉と言われたのは初めてだった。
固定概念の筋肉しか知らなかったのだ。

筋肉は質なんだよ。
下手に硬い肉がついていると、意外にもろいんだ。
柔らかく、弾力が強いのがいいんだ。
見た目じゃないんだ。
そう教えてくれた。

大学病院では(検査で)日数がかかる。
その先生がもう一箇所受け持っている病院なら早い。
私は仕事が目一杯なので、できるだけ早くしたい。
いろいろ段取りして、入院したその夜に手術。
同日に三人が手術した。

私は垂れ下がった半月板を切り取った。
切れた前十字靭帯は、もう吸収されて無かった。
すぐ病院に行けば、靭帯は繋げたのに・・・
怪我は、すぐ病院にいくのが適している。
もともと西洋医学は、戦場医学的な外科が得意なのだ。

初めてストレッチャーに乗せられ、初めて脊髄麻酔。
その前の筋肉注射が、涙が出るほど痛かった・・・
あっ、その前に看護婦さんに毛を剃られた。
膝の手術なのに、パンツを下ろされ、ソノ周りも・・・
何で〜と初めての経験・・・
もう一つ、初めて浣腸された。
看護婦さんが来て、四つんばいにされ、パンツ下ろされた。
パンツ下ろすの好きだなぁ・・・
いきなりムギュ!!!!
トイレまでもたないかと思った・・・

目覚めると、長兄が一応来てくれた。
特に痛むこともなかったが、動いては駄目で尿瓶が・・・
ものは試し、と挑戦しがが・・・出ないものだ。
次の日、杖をつき片足でトイレに行って、怒られた。
動いたらダメでしょ!
でも、めげずにトイレでした。
やがて、向こうが折れた・・・

この専門医は気さくな医師だった。
診察に巡ってきて、いろいろ話をしてくれる。
私の無くなった靭帯についても教えてくれた。
無いままで、プロスポーツをしている人もいる。
すぐに歩けなくなって、杖か手術を選ぶ人もいる。
個人差が大きいので、経過を診なくては何ともいえない。
老年になると、杖の可能性が高い、等々。

私の足の様子を見て、杖で動いていいと許可が下りた。
もう動いていたけど・・・
その後すぐに、異例の速さだが、リハビリ室に行くようにと。
リハビリ師の人は、負荷をかけた一通りをさせて首を捻った。
本当に手術をしたのか?もう来なくていい。
リハビリは一日で卒業となった。
私は普通に歩いていた。

専門医は、異例だが、と断って退院させてくれた。
その代わり不定期での検査を約束した。
私はかなり特殊だったらしい。
私が退院する時、同じ日に手術した一人はまだベッドから出られなかった。
その後、何年にも渡って呼び出されては検査した。
交通費、日当が出る特別検査だった。
やはり、その専門医が扱ったケースで、私は特別だったらしい。

今の私の体質(氣功師)は一般的でない。
私のことを知っている人は、知っている。
そうでない人に状況を書いても信じないだろう。
具体的には書かないが、かなり特殊なようだ。
仕方ないじゃないか、そういう風にさせられたのだもの。
もちろんプロとして常にセルフケア(自己氣功)している。

だが、私は子供時から多少の違いはあった。
血がでる怪我でも、30秒もしないで傷口がつく。
誰でもそうだと、ずっと思っていた。
バンソコウなど、使うから治らないのに、と思っていた。
反面、2時間くらいゆっくりしていたのに、実際は5分だったり。
回復力は異常に早いようだ。
まぁ、個性の一つということで・・・

膝は専門医がモルモットのように調べていた。
結論として、筋肉が靭帯の代わりをしているのだろう・・・
とはいえ、やはり無理ができなくなった。
季節の変わり目、湿度が高いと重くなった。
重い物を持って階段を下ると、膝が無意識に震える。

スキーは力任せの滑りから、体重移動でやわらかく滑る。
山登りは、ペースが変わって迷惑かかるから脱退した。
バスケットのような横の踏ん張りができなくなった。
茶道も正座が持たなくなって、辞めた。
小学校運動会の父兄リレーなどのコーナーが怖く感じた。
これらは、故御師匠様に出会って身体が変わる40歳すぎまで続いた。
今は通常何でもないが、一応膝に無理はしないようにしている。

私が怪我をしても、母は特に何も言わなかった。
兄弟達も、特に何も言わなかった。
我が家は、お互いが過干渉にならない距離でいるのが当たり前だった。
私も子供達や本妻や愛人達には同じ事を言う。
大きな病気、大きな怪我をしなければ、何をしてもいい。
(大きな病気、大きな怪我は自分で防げるから)
もちろん、他の人の生きる道を侵さなければ。

膝の怪我により、行動の仕方が変わった。
変わるなら、ついでだぁ、と仕事も変えようと思った。
この頃、技工の仕事が何でも無難にこなせるようになった。
難しい注文がある時はよかったが、何でも出来ると飽きる。
どうせ一度の人生だもの。
と、多感な時期をアンポ闘争に巻き込まれた私達は思ってしまう。
社会も、世界も、いつ、ひっくり返ってもおかしくない。
いつでも、そんな意識があるのだ。

茶道は辞めたが、コーヒー職人のマスターからコーヒーの味を教えられた。
私の周りには、相変わらず20人以上の仲間がタムロしている。
そうだ、次は喫茶店をしてみよう。
アイツ等の居場所も兼ねて・・・
29歳にもなったのに、世間知らずの私は、実に安易に計画していた。
ここから、社会に生きる能力の低さを実感する人生が始まった・・・

母は私が一般的な社会人には不向きだと見抜いていたようだ。
やりたい事は何でもすればいい。
応援も出来ないけど、邪魔もしない。
呆れもしないが、期待もしない。
とりあえず、人には恵まれ、友達は多い。
戦前、戦中、戦後を思えば上等だ。
多分、そんな感じだったのだろう。

道路沿いではあるが、山の中の土地を購入。
熊や狸はいるが、人は少ない。
そんなところに喫茶店・・・
趣味ならいいが、大借金してする商売じゃない。
今の私なら絶対やらない。

40歳過ぎて、多少は自分を観られるようになった。
私は商人の能力がほとんどなかった。
職人か研究者なら、そこそこになれる。
店を経営するタイプではなかったのだ。
だが、当時の私はわからなかった。
わからない事は、とりあえず、やる!
というのが私の歩き方だ。

後悔は、しないよりする方がいいだろう。
苦労はしたくないけど、何もしないよりいいだろう。
先の事は誰にもわからない。
何が起きるかわからないなら、いい事も起きるだろう。
それは判断、観る目がある程度あっての事なのに。
社会、世間に対して、甘い、無知な私だ。
やりたい事をするのは、苦労も後悔も込みの生き方だと後に知る。

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私30代



私の周りに集まる連中は職人が多い。
左官、板金屋、塗装屋、土木屋、整備士・・・
大工は3人いた。
その中の一人に初棟梁をさせたかった。
5歳下の大人しいタイプの25歳だった。

初棟梁は張り切っていた。
設計図、それに基づく模型を作ってきた。
各間取りも出来、材料も吟味した。
もちろん、親父さんが多くを手伝ってくれた。
木材の確保などは、半年前から手配してくれた。
当然、自分の目で確かめて吟味してくれた。
親父さんは、腕の良い宮大工だった。
弟子とはいえ、倅の初棟梁仕事だ。

私は3月で退職。
融資審査も無事通った。
家でも店でも作るのは簡単だ。
金のメドさえあれば、誰でも作れる。
問題は、返済できるメドなのだ。
アホな私は、そんな事は何とかなると思っていた。
人の倍働けば何とかなる。

雪が消え、早速建築への基礎工事からだ。
基礎枠だけみると、何とも小さなモノだ。
こんな小さくて、人が入れるのだろうか?
そんな心配などしているヒマはなかった。
私は、店が出来上がるまでに東京の専門学校に行く事にした。
コーヒー好きで味がわかっても、プロとしての基礎は学ぶ。
赤坂バーテンダースクールという伝統ある専門学校だ。

長い間東京で暮らしていた姉。
当時は和文タイピストで独立していた。
その後ワープロが登場し、パソコンが普及する。
今は絶滅してしまった業種の一つだ。

いろいろの事情があったのだろう。
水上に帰ると言う。
しかし、適度な就職口は無い。
そこで、私と一緒に喫茶店をすることになった。
姉は半年前から、洋菓子部門の学校にも通っていた。
もともと料理が得意な姉だ。
軽喫茶部門も通い、二つの基礎を学んでいた。

私は、平日を姉のアパートから学校に通った。
週末は帰ってきて、棟梁などと打ち合わせ。
そして、棟上(建て前)の日が来た。
当日は、棟梁組(関係者)だけではなかった。
私の仲間連中が仕事を休んで来てくれた。
職人達だが、今回の私の店には関わり無いのに。
ワイワイと、親父っさんの指示で動いてくれた。
ありがたかったなぁ・・・

夕方には、屋根の上から餅撒きをした。
25歳の時は初めてづくしで余裕がなかった。
30歳時は、仲間が多く手伝った事もあり楽しめた。
そして、屋根だけの家の中での酒盛り。
親父っさんも、本当に嬉しげに酔っていた。

店が出来上がるまでの週末。
時々、棟梁の家に行った。
職人仲間が集まり、毎晩のように酒盛りだ。
親父っさんは、酒を飲む。
たっぷり飲む。
そこに施主とはいえ、倅のような私を仲間にしてくれた。
親父っさんは、本当に大棟梁なのだ。

他の職人達が親父っさんを尊敬しているのはよくわかる。
職人は、その腕と人望だ。
飛びぬけた腕だからこそ、他の職人の仕事も見抜く。
他の棟梁達からも、一段上に扱われていた。
当然、左官、屋根屋、内装、その他の職人達も。

仕事は厳しいが、仕事を離れた親父っさんは人懐こい。
見栄やてらいなど少しも無い。
腹の中を、すっかり出す昔気質の一職人だ。
平気でだらしなく酔っ払う。
腕もすごいが、素朴な生き方が人を惹きつける。
皆が、親父っさんを好きで集まるのだ。

倅の私より5歳下の棟梁は、酒が飲めない。
もちろんタバコもしない。
口数も少ない。
それでも、同じ輪の中で、いつもニコニコ話を聞く。
倅とはいえ、腕も一人前の職人だ。
職人同士は職人の腕で認め合う。
バカっ話に加わり、冗談の受け答えも面白い。
今までで最高の酒盛りの場だった。

棟梁親子の家は、ボロ家だ。
ふっくらした、女将さんが私にこぼした。
棚一つ作るのも、私がするんだよ。
腕の良い大工が二人もいても、家の修理はしない。
私の父も大工だからわかる。
家の内から外が見えるような家だった。
昔の職人気質っていうのは、そういうものなのだ。
今の大工さんは、ほとんど小奇麗な家に住んでいるが・・・

そういう全てを、私は好んだ。
同じ生き方は当然出来ない。
だが、あの素直な雰囲気には近づきたい。
自分に恥じない仕事ぶり。
他人の目や評価じゃないのだ。
自分が基準だからこそ、プロは厳しい。
自分に甘いのは、甘チャアというのだ。

計算しない付き合い。
気に入れば仲間。
嫌なら縁を切る。
プライベートは、単純に。
利害関係で付き合わない。
気に入った仲間だけで充分なのだ。

私も50過ぎてから、徐々に出来るようになった。
それまでは、できるだけ多くの人と仲良くしようと思っていた。
話せば解り合えるなどとは、ネボけても思わない。
解り合えなくても、仲良くできるだろう。
同じ地球上だ。
それが50歳過ぎてからは、ズレがでてきた。

もし、生命が永遠でなくても、とてつもなく長ければ。
出会いの人と仲良く交流できるだろう。
特に仲良くでなくても、付き合えるだろう。
同じ人間同士、同じ生物同士、交流くらいしようぜ。

だが、残念なことに我々の寿命は短い。
出会い全てと付き合えるほどの生命の長さはない。
50歳過ぎてから、この単なる事実と向かい合った。
住む町全員とも知り合えない。
県全員となんて無理。
限られている人達としか、出会えないのだ。

気の合わない人と付き合っているヒマはない。
好きな人達だけでも、多すぎて全員と付き合えない。
好きな人達と気の合う時間を過ごす。
それが、今生の生きる意味なんだと独断している。
今生を根性で、好きでない人まで解り合おうなんてしたくない。
生きることは、ワガママでいいと知った。
他のモノたちを侵さなければ、ワガママが自然な生き方だと・・・

母は私とは違った。
多くの人、全ての人と仲良く。
某教徒のような考え方をしていた。
人は仲良くするのが、人として正しい生き方だ。
話せば解り合える。
真実は一つだから・・・
みたいな・・・

持病の一つは、そういう無理から生まれている。
長年母を治療していて、そう思った。
母は正しさに自分を無理やり押し込める。
ところが、人間はそういう風に出来ていない。
何より、正しさが判断できない。
そして、心も身体も多種多様で成り立っている。
だから一つの正しさに押し込めると歪みが生じる。

何かにこだわるのは仕方ない。
個性ある人間だもの。
だが、生真面目にこだわり続けると歪みは苦しみになる。
苦しみを続けると、病に発展する。
もっと、やわらかく生きれば、苦しみは減少する。

母は、私と違って、真面目だった。
その真面目さから抜け出られなかった。
良悪や正誤をいってるのではない。
そういう生き方を選んでいたのだ。
親子といえども、人それぞれの生き方だ。
母は66歳になっていた

やがて家も出来上がった。
姉の手作りケーキと本格的珈琲の店。
当時の山の中には珍しく洒落た店となった。
私も姉も張り切っていた。
そして・・・

開店一ヶ月目から赤字。
仕方が無いので、夜はお酒も出した。
確かに珈琲よりお酒の方が金額は多くなった。
だが、私が耐えられなくなった。
自分では酔っ払うし、酔っ払いの相手は嫌ではない。
ただし、商売抜きの仲間や知り合いならばだ。

私は水商売の才能が無かった。
商売の才能も無かった。
店を持って、営業して気づいた。
これは・・・アカン

雇われたなら、どんな仕事もする。
嫌な事込みで給料は成り立っていると知っている。
だが自営は違う。
嫌な事にも幅があり、ワガママだから自営なのだ。
というわけで、3ヶ月もしないで酒は扱わない店になった。
当然、赤字で、経費さえままならない。
その上に、大きな返済があるのだ。

当時、まだ日本は景気上昇の最中。
その先には、バブルという絶頂まであるのだ。
わが町は観光地。
宿泊施設は好景気だった。
人手が足りない。
アルバイト、パートは常時必要だった。

私は夜のホテルのアルバイトをすることにした。
ここは嫌な事込みで仕事をする場だ。
お金の為に働く場だ。
大きなホテルのショー会場が仕事場となった。
特殊な仕事の為、時間は短い。
建前は6時から12時まで。
実質は9時少し前に入って、10時半頃帰る。
それで、一応建前通りに6時間分をいただく。

20代時の歯科医院勤めは給料をいただいた。
だが雇い主の医師は一切を任せてくれた。
だから仕事とはいえ、私の思うように出来た。
当然責任も負うから、夜中までしたが充実していた。
やらされてする仕事でなく、主体的な仕事だった。
仕事に熱中できたから、技術も上がるし面白さもあった。
まぁ、仕事以外も熱中していたけど・・・

学生時に幾つもアルバイトはした。
何も知らない学生だから、命令通りに動くしかない。
一所懸命はするが、熱中も面白さもなかった。
ところが今回のアルバイトはもっと深刻だ。
とにかく稼ぐ為にしているのだ。
それも、空いている時間にするのだから要領よく。

ある意味、純で、順で、準な私だったのに・・・
アルバイトの仕事は、やり方で時間と収入が変わる事を知った。
仕事内容を愛してないのだ。
もちろん仕事が出来ないのは論外だ。
それよりも、人間関係と自己主張で変わる事を覚えた。

純な職人気質だったのに、仕事の裏を知ってしまった・・・
上手く立ち回る事を覚えてしまった。
それには他の人よりも、仕事が出来るようにしておく。
その上で、自分の要求を伝えるのだ。
ほんの少しのコツだ。

ある意味、社会を甘くみていた。
借金しても、幾つか掛け持ちで働けば返せる。
仕事はいくらもあるのだ。
要求以上に仕事が出来れば、次から優遇される。
人脈が出来れば、仕事は選べる立場になる。

時代が好景気だとは思っていなかった。
好景気が普通なのだと思っていた。
仕事が少なくなるなんて、思ってもみなかった。
いつまでも続く景気なら、早く返済にまわさなくてもいい。
適当に息抜きしながら、生活できる。
それが借金との腐れ縁を結ぶ指輪だとは気づかなかった。

たら、れば、は悔やみしか生まない。
もっと懸命に働けたのになぁ・・・
それは、喫茶店を閉めて土産店に変えてから一層だった。
なにしろ、世の中はバブル期というのにかかっていた。
夜のホテルのショー会場には、コンパニオンが山のようにいた。
何も出来ないネ〜チャンでも、とってもいい日当を稼げた時代だったのだ。

バブル期の始まりといわれるのが、約1986年末から。
喫茶店を閉め、土産店に改装したのが1988年。
何しろ開店以来黒字が無い店だったのだ。
私が複数のアルバイトをしても、何もならない。
それでも常連さんを思うと、簡単には閉店できなかった。

一緒にというか、ほとんど店を仕切っていた姉。
元々、我が家は職人系の血が濃い。
何でも作る姉が、陶芸という道を見つけた。
土から造形、絵付け、アイデア、色、その他の総合作品だ。
極めつけは、焼き上がらないと完成品にならない。
その焼き上がりは計算できない割合が高いのだ。
だから、面白いし果てが無い。

姉も自分の道を見つけて、独立しだした。
私も長年の付き合いの現本妻と結婚をする事になった。
それを期に、喫茶店を閉め、一見相手の土産店にした。
アルバイト掛け持ちなので、自由に店を閉めてもいいようにだ。
この地はスキー場が多い。
シーズンは冬。
その他はアルバイトをすればいいや、と・・・

シーズンに入って驚いた。
一日に手にする金額が大きい。
喫茶店時代、忙しい一日でも2万が難しい。
それが、休日なら午前中だけで10万近くにもなる。
粗利は30%以上あるのだ。
いかにも悪徳不動産のオヤジが朝来る。
いかにも水商売のオネ〜チャンを連れて来る。
世は不動産の天下のバブル期だ。

オネ〜チャン達も遠慮なく、店で一番高い土産をねだる。
しかも20個30個で買ってくれるのだ。
元々私は水商売系の人には好意を持っている。
社会的にマトモといわれる人達より、ずっといい。
私はゲンキンなのだ。
オネ〜チャン達の、その軽薄さの奥の優しさを感じる。
ありがたい・・・

土産店に変えて、思った。
世の中、歪んでいるなぁ・・・
私は職人系だ。
いいモノを丹精込めて作って、お金に変えた。
喫茶店も同じだ。
微妙な味を出すには、真剣に気を使った。
姉も懸命に美味しいケーキを作った。
なのに・・・赤字だった。

土産店は、ありきたりの土産を問屋から買うか預かる。
そして、客に渡すだけだ。
いや、ただ置いているだけだ。
客が勝手に手に持って、レジまで運んでお金を払う。
商売というのは、変な仕組みだ。
作らない、誰でも出来る、そして儲かる。
ふざけた、歪んだ、変な仕組みと思った。
こんな商売が威張る社会は、いずれ崩壊するぞ。

案の定、バブルがはじけて以後の日本は変わった。
不景気と嘆く経済中心の考え方が未だに続いている。
社会と商売そのものの在り方が変わった事を無視している。
日本という社会の元気は、職人系が土台だったのに・・・
今は、土台は商人系の経済だと思い込んでいるのだ。
こりゃ、たぶん、ダメだな・・・

ま、それは兎も角として・・・
商売の才能も無い私の店でさえ何とかなっている。
頑張っても赤字だったのに・・・
お金をいただくだけになったら黒字・・・

私は商売の才能が無い。
お金の流れや利用の方法も無知。
何もしなくても、何とかなる。
勝手にそう思い込んでいた。
まぁ、日本中のほとんどがそう思い込んでいた。
立派な(皮肉です)経済学者も政治家も官僚も。
私もアホだが、アホ類として変わらない。
今、私はアホだと自覚しているが、自覚していない立派な人達が多い。
だから、これからの日本、こりゃ、たぶん、ダメかも・・・

この頃、母の状態がかなり悪い時があった。
三叉神経痛の重い状態だ。
風が吹いても痛い。
瞬きしても痛い。
当然、眠れない、話せない、食べれない。

声も出せないような痛みでうずくまる。
お湯や火で温めると、少しだけやわらぐ。
だが、日にちが経つにつれ、どんどん衰弱する。
病院に連れていった事もあるが、痛み止めしかもらえない。
痛み止めに限らず、母は薬と相性が悪かった。
胃を含め、かえって状態が悪化するのだ。

私達兄弟は、この状態になると密かに覚悟していた。
出来ることをするが、母が動けないのだ。
それでも、5日目くらいから少し流動食をとれる。
それまでも一日かけて、一食くらいは何とか食べていた。
すると、薄皮一枚ずつ生命力がついてくる。
僅かに眠れる、少し話せるようになる。
首の震えも、たまにになってくる。
そして、ようやく、私達兄弟は一息つけるのだ。

調べても脳や顔面などに異常は見られない。
それでも痛がるから、現代医療は神経痛という言葉を使う。
痛いのは神経・・・当たり前だ。
それは病名でなく、症状名。
ひらたく言えば、わかりません、という意味だ。
出来ることは、痛み止めと神経ブロック。

母は両方とも拒否した。
だから我慢する。
健康器具、健康食品の類もたくさん試した。
一時的に変化がある場合もあるが、それで回復まではいかない。
いろいろ勉強した。
謳い文句の一割程度変化が起こればいい方だった。

それでも諦めるわけにはいかない。
目の前で痛がっているのだ。
そして、試すモノは山のようにあった。
全ては試せるはずもない。

そのうち、パンフレット類の謳い文句などで判断できるようになった。
その会社の姿勢で試さなくても、おおよそ判るようになった。
病、病人に対して、商売の一つとしている会社が多い。
そういうところのは、はとんで建前だけで実力がない。
それでも、試して、いろいろな意味で勉強になった。
この時期、幸いにも母に多くのお金を使う事ができた。
バブル期のお陰だと思っている。

母の人体実験ともいえるお陰だ。
健康食品や器具について、自分なりの判断基準ができた。
母のような敏感で生命力が落ちた状態で試せたからだ。
その基準は今でもプロとしての私に生きている。

赤ちゃん、妊婦、衰弱した高齢者。
その人達に使えるか。
大量に使っても害が無いか。
回復できるかどうか、ではない。
害になるか、ならないか、が基準の元だ。

例えば皮膚に塗るモノなら、赤ちゃんに使えるか。
皮膚からも体内に成分は吸収される。
ならば、口から飲んでも舐めても害が無いか。
謳い文句の有効成分に惑わされない。
害がなければ、有効でなくてもいいとする。
そういう基準で観ると、合格するモノは多くないのだ。

健康器具といわれるもの。
厚生省が認可して有効と認められたもの。
それらについても判断基準がある。
基本は・・・使わない方が安全だが・・・

器具の多くは電気を使うモノが多い。
直接、微弱な電流を流すモノ。
それにより、筋肉の痙攣を人工的に作り出すモノ。
熱、磁力、マイナスイオン等を発生させるモノ。
モーター類から、挟む、揉む等の物理的な力を利用するモノ。

刺激により、一時的な変化はあるだろう。
だが、長く使うと弊害になると危惧している。
私は生体に人工的な電気は合わないと思っている。
特に、直接電気を流す方法は薦めない。
厚生省、その他の専門家の説明は疑問視している。
安全が第一なのだ。
その上での、応援器具なら好きにして・・・

この時期の出来事だった。
ある健康食品を大量に飲ませた。
それが効を為したのか、急速に回復した事があった。
実家には毎日顔を出しているのに、電話があった。
基本的に、ほとんど電話をしない母だ。
それに回復したといっても、ほとんど話せない状態だった。

「あ、ありがとう、よ」
言葉が話せる状態になったのだ。
いつに増して真剣な口調だった。
短い言葉だが、実に、真剣な一言だった。
思わず、こちらも真剣な雰囲気になる。
その瞬間、何かが光った。

意味を知る瞬間というのがある。
ありがとう。
幾つもの意味があるだろう。
深浅も広狭もあるだろう。
その中の深いモノだと思う。
聞いた瞬間に、自動的に解けた意味があった。

ありがとう、は感謝の言霊。
感謝は、何かをされた側が表す心。
一方向に向かう謝礼の言霊。
そんな風に、漠然と思っていた。
理屈上は、いろいろな意味を持たせられるだろう。
だが、理解は理屈上には存在しないのだ。

一瞬で理解する。
その時、私は解るという体験をした。
そうだったのか。
母の感謝の思いより、もっと深いモノ。
否応なく、私に影響してしまうモノ。
一方向ではなかったのだ。

もちろん母は、単純に嬉しかったかったから電話した。
言葉も極普通。
我が家としては、多額のお金をかけた事も知っていた。
いろいろな思いで言った言葉だろう。

受け取った私は違った。
かなり(いい)衝撃でもある。
そういうことか!
ありがとう、は、
あ・な・ど・れ・な・い。

理解したモノを説明するのは難しい。
説明は理論でする。
言葉を使う。
そういうモノを超えて、透過して、解る。
だから、説明しても伝わらないだろうなぁ・・・

ユングのいう集団深層意識。
例えば、そんな部分に響くモノ。
個々の区別が無い層でのモノ。
母の立場とか私の立場とか関係無い。
そんな部分に影響する言葉が
ありがとう
というヤツが持っている能力だ。

しかも、同時。
時を使わない。
ならば、空間も使わないのかも。
媒体は、態度や言葉だろうが決まってないようだ。
今回は、電話による言葉だったが・・・

衝撃は「ありがとう」という単語じゃない。
同時に、気づいたのだ。
この世には、そういう理屈抜きの重大なモノがある。
私が固定概念で観なかったモノがある。
しかも、多分、沢山ありそうだ。
まだ、私が「氣」に出会う前の出来事だった。

商才のカケラも無い私でも黒字のバブル期。
私はいつものように浅はかに考えた。
い、いや・・・考えたではなく、思いついた。
考えること無しに、思いつきで行動した。
まぁ、私のカルマ(業)ってヤツかな・・・
考え無しにフッと行動にする。

シーズンの冬季以外は、たいした商売にならない。
維持費くらいは出るが、生活費までは出ない。
だが、シーズンでまかなえる。
約4ヶ月で、一年分が何とかなりそう。
ならば・・・
慎ましく暮らせば、複数のアルバイトは辞めてもいいなぁ・・・
アルバイトはお金の為にしていて、好きでしている仕事じゃないし。

結婚して3年目に本妻が妊娠したのだ。
私は特に家庭的でもなく、家族愛みたいなモノも薄かった。
今でも、多分、私はそんな感じだろう。
それでも、初めて子供というのが出現する。
忙しく働くのはシーズンだけでいいだろう。
あとは、子供に付き合ってみようかと思った。

この時、膨れていた借金の重みなど気にしていなかった。
一応、毎月返済できているのだ。
このまま続けば、いつかは完済できる。
マトモに働いて、少しでも早く返済するという選択肢は思いもしなかった。
アホには違いない・・・

僅か数年のバブル期は消える。
所詮泡だもの・・・
経済的な未来を見通す私の目は節穴だった。
まぁ、日本中の会社経営者や政治家、官僚も同じだが・・・
節穴同士だが、彼等は威張っていたなぁ・・・

次々アルバイトを辞め、赤ちゃんを抱っこして毎日を過ごした。
生まれるまで、いろいろあり未熟児で生まれた長男だった。
それでもシーズンがくれば生活できるから・・・
泡が消えるなんて思ってもいなかった。
1991年だった。
母は75歳になっていた。

一時的に効果のあった健康食品も万能ではない。
次からは、それほど変化はしなくなった。
モノに頼っても一時的な変化にしかならない。
何となく、そういう事も解ってくるようになった。
もっと総合的に物事を観なくては解らない。
もっと主体的に変えなくては、健康は得られない。
一年に1・2度母は、重篤な症状になるが、何とか持ちこらえた。

以前にも書いたが、実家は古い茅葺き(かやぶき)の屋根だった。
そして父親が時代に乗れない職人気質ということもあった。
家庭人としては不向きということもあった。
ともかく、日本中が敗戦から高度経済時代にあっても取り残された。
その象徴が、実家の姿だった。

取り残された事は不運でも不幸でもない。
運とか幸は比較するものじゃないのだ。
まわりや、それにつられて自分がツマラヌ判断する。
何にしろ、この世は無常であり流転している。
古い実家もそうであった。

茅葺きが貴重となった。
文化財候補のようなモノだ。
痛んだ屋根を修復したくても出来ない。
茅が集まらない。
茅葺き職人が途絶えてしまった。
大金をかけて、日本中から探せば何とかなるだろうが・・・

そこで今後のメンテナンスなどを考慮してトタン葺きにした。
茅葺きの上から、形そのままで巻いてしまうのだ。
かろうじて、それが出来る職人が見つかった。
資金は、三男がほとんど持ってくれた。
三男は橋梁構造設計の会社をしていた。
自分で立ち上げた会社が、時代もあり上手くまわっていた。

橋なんて個人は作らない。
国や地方自治体が作る。
営利が絡んだ公共事業も多いだろう。
バブル期は役人も政治家も浮かれていたのだ。
お陰で兄の会社も忙しかった。
その後の不況なんて思いもしなかったろう・・・

私は店が黒字とはいえ、借金の山は変わらず。
兄に連絡すると、二つ返事で金を送ってきた。
通常の屋根を直すより倍以上かかるのだ。
そして、一応完成時には屋根から餅撒きをして祝った。
四隅に酒で清め、私が施主となった。

25歳時、30歳時、35歳時に餅撒きをした事になる。
借金の山とはいえ、5年毎に屋根から祝っているのだ。
世の中をなめ、調子に乗って過ごしていた。
40歳時が楽しみだ・・・
長期にわたって、経済的に谷底に降りるとはなぁ・・・
まさか人生の一大転換期となろうとは予想もしなかった。
まぁ、今でも転換期自体はラッキーだと思っている。

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大転換期



母は私が建てた小さな家に姉と住んでいた。
隣の古い実家の屋根の事は気になっていた。
それがトントン拍子に解決したのだ。
すると、私の住処の心配をする。
家を使っていては、申し訳ないと思っているようだ。
母の為に建てたのに・・・

私は近くの町営住宅に住んでいる。
私は住処、着る物、食べ物、オナゴにこだわらない。
有ればいいのだ。
無ければ、我慢すればいいのだ。
そんなことより、興味のある事をしたい。
家などいつでも建てられる、と思っていたし・・・

何の考えも無しに、のんびり子供と暮らしていた。
多少成長が遅めだが、私や本妻は気にせず連れまわしていた。
シーズン中は、姉が手伝ってくれた。
景気の翳りはあるが、それでも何とかなっていた。
秋口からは、駐車場に大型テントで地物の直売も始めた。

いつの間にか私は40歳を過ぎていた。
5年毎の予定の家は建てなかった。
特に建てようと思っていなかった・・・
その気だったら、多分何とかなったろう。
だが、次の転換期がその気にさせなかったようだ。
そういう事は、後から理解できるのだ。

母親の多くが子、そして孫を可愛がる。
立場が祖母になると、より可愛がる傾向がある。
余裕が無かった母親時代よりも祖母となったほうが気楽なのか。
母も大変孫を可愛がった。
といっても、極端な扱いをするわけではない。
だが、孫(私の子)を連れていけば、元気度は上がった。

私は自分なりの人の診方がある。
幼児、子供時は理屈抜きの可愛がりが土台を作る。
その時期、充分可愛がっておけば、あとは自立する。
下手な教育をするから、いつまでも自立できないのだ。
その時期の愛情は、港みたいなものだ。
港がしっかりあれば、海に出ても安心する。

愛情は必ずしも両親でなくてもいい。
素直な愛情なら、誰でもいい。
変に肩の力の入った両親より、祖父祖母の方が適している。
私はそう思っていたから、積極的に母の家に連れていった。
少なくても、私より適しているだろう・・・

バブル経済破綻で倒産など出始めた1993年。
その秋に私は大きな大きな石に出会う。
元々石は好きなのだ。
奇妙な石は好きなのだ。

石は大きければ星であり、小さければ生命の元でもある。
(異論があろうが無視する・・・)
星から生物が生まれているのだ。
石の無い宇宙空間で生物は生まれない。
宗教的にいうなら、石は神の意思の顕れ・・・
って駄洒落かい!

出会う数ヶ月前から奇妙な怪異現象があった。
夢現(ゆめうつつ)の状態になってしまうのだ。
その事は、2003年9月のコラムにも書いた。
異次元現象という題名だ。
幾つかの経などが簡単に覚えてしまうのだ。
意味も同時に解ってしまうのだ。
今更、坊さんにでもなれ、っちゅうのかい!

私にこんな出来事が起こる意味がわからなかった。
私は不真面目で、不適当な人物で、修正する意思もなかった。
だから、何かの間違いだと。
間違いは誰にでもある。
例え、運命だろうが、神様だろうが間違いはあるだろう・・・

真実は一つだけ。
そう思い込んでいると納得出来ない事だらけ。
全て真実。
そう解れば、なんということもない。
神だって、運命だって、この世の理だって間違うと知る。
特に神様など、かなりオッチョコチョイでいいかげんだ。
と、宗教大好き人間に喧嘩をするつもりはない。

とにかく、奇妙な事実はあった。
そして、その年の誕生日。
私は天職との扉を開く。
もちろん、その時に天職に通じるとは夢にも思わない。
い、いや、夢現では事前に教えてもらっていた・・・
だが、そういう意味だとはその時点では解らなかった。

天職と出会うと転職しなくてはならない・・・
やっと何とか食べられるようになったのに・・・
天職はラッキーだと思うが、経済的にはどん底の転職になる。
もちろん、この時点では、何も知らなかった・・・
まぁ、いつの時点でも、ほとんどの人は何も知らない。
人は5分先のことでも、わからないものなのだ。
だから面白い、と思えるようになったのは更に10数年を必要とする。

母の病で、いろいろ健康食品やら健康器具やら試した。
治療法も出来るものなら、いろいろ試した。
そして、常に効果のあるものを求めていた。
ある日の新聞にチラシがあった。
なかなか改善しない病状の人、来て体験して下さい。
気功体験会・・・

怪しげではあったが、そんなのほとんどに当てはまる。
大手の会社だろうが、大手の病院だろうが、大学だろうが・・・
日本のトップの国会議員や首相や大臣。
一流の大学トップからの官僚達。
すべて、怪しげで、実際にも怪しい・・・
今更、怪しげぐらいでビビらない・・・

母は三叉神経痛で、内耳の調子も影響するようだ。
極端に車に弱い。
5分乗せると、一日苦しむ。
その為、何かあると私が体験し、その結果で判断する。
早速、その怪しげな体験会に出かけてみた。

その頃、景気も少しずつ下がり気味だった。
私は駐車場の一角にオープンテントを張った。
地元産の天然、路地モノのキノコや果物、野菜などを扱った。
当然、ナマモノだ。
その為、午前中だけ行って様子を見てくる。

私は氣の事も気功の事も特に知らなかった。
テレビで大げさにやる番組を見るくらいだった。
だが、その体験会場での話は、更に怪しげだった。
というか、明らかにインチキだろ、とツッコミを入れたいくらい。
何しろイキナリ、ビデオから氣が出ますから、というのだ。

何度もいろいろな場に出ている私だ。
怪しげな宗教っぽい会場も出ている。
雰囲気商法みたいな場も知っている。
だから、余裕を持ってながめられる。
主催者側の心理、手法はどういうのか見ようとする。
病に乗じたインチキや詐欺まがいは、とても多いのだ。
私は醒めていた。

言っている内容はインチキというよりムチャだろう。
アナタ、そんな、ビデオから氣が出るなんて・・・
それでも私は一応は、言われるままに振舞う。
郷に入れば郷に従え・・・ちょっと違うか・・・

「テレビの前で目を閉じて、感じて下さい」
はいはい・・・ん?
私はインチキだと思っている。
だが、感覚が奇妙なのだ。
私は長年、瞑想などしていた。
今思えば、かなり危ないものだったが・・・
それでも3時間も経つと、ある感覚になる。
それが・・・僅か5分くらいで出てくるのだ。
これは、変だ・・・

私のナケナシの理性は、インチキだと告げている。
私の感覚は、何か有ると告げている。
意見の違う二人の恋人に言い寄られるオトメの気分・・・
変だ、おかしい、怪しいぞ・・・
言うことはインチキそのものとしか思えない。
が、主催側の人達の雰囲気が素直、誠実に感じる。
私の中で、チグハグが起こり、困惑している。

困惑したまま、私は帰った。
体験会は2日間、午前と午後の4回あった。
午後にはテントにナマモノを出さなくては・・・
でも、ずっと困惑したままだった。
何か、変だ・・・

次の日、私は本妻に言った。
もう一度行って来る。
何かがおかしいんだ。
理屈に合わないなんて、どうでもいい。
怪しいだけなら、気にしない。
そんな事ではなく、自分の内側で何かが騒いでいる。

その日は、更に怪しくなった。
いかにもインチキそのもののチャチな器械。
まるでドライヤーのまがい物。
ある意味、形なんてどうでもいいという開き直りの器械。
主催者の人は言った。
この器械から「氣」が出ます・・・

お、おい、そりゃないだろ・・・
当時の常識として、ビデオや器械から「氣」は出ない。
今では、器械だろうがモノだろうが「氣」が出るのが常識だ。
常識なんて180度ひっくりかえる程度のモノだ。
常識を当てにするのがアホだけど、当時はわからなかった。

氣は、氣功師といわれる人から出る。
出るといっても、現象が変わらなければ信用できない。
何しろ、目には見えないのだ。
自称で氣功師といってもなぁ・・・
それが、チャチな怪しげな器械からなどと・・・
さすがに私は帰ろうかと思った。

ところがそれを当ててもらった高齢者。
顔つきが変わったのだ。
痛くない、楽になった・・・
幾人かの人達の言葉だ。
どうみても、サクラではない。
地元の素朴な人達だった。

またしても混乱した。
私の微少な理性はインチキだと告げている。
だが受けた爺ちゃん婆ちゃん達は嘘を言ってない。
何よりも、顔つきが変わったのだ。
よほど優秀な役者でなければ出来ないことだ。
わからない・・・
今回は・・・奇妙だ・・・

私の性格だろう。
根性が僅かしか使えない特性だろう。
わからない事を解決しようとする気力が湧かない。
いいや、騙されたって。
メンドウクサイを多用する人は成功しないらしい。
きっと、間違いなく、私は成功しない・・・
そもそも、成功したいという気持ちがわからない・・・

こんなモノで母の病が治るとは思えない。
でも、一時的でも顔が変わるなら。
少しでも痛みが楽になるなら。
いいや、騙されたって。

この主催者の人達は、お金の事を言い出さない。
あの怪しげな、インチキくさい器械は幾らだろう。
何よりも、それ、売ってくれるのだろうか?
で、聞いてみた。
あ、売りますよ。
金額も聞いてみた。
私にとってはビックリする金額だった。
高い、という意味で・・・
見た目がチャチでインチキぽいのに、値段は一流・・・

その時、気づいた。
そうだ、今日は私の誕生日だ。
記念日だから、いいかぁ・・・
まだ、バブルの悪しき影響で金銭感覚も狂っていた。
ン十万だけど、まぁ、いいかぁ・・・
健康器具は、だいたいそんな値段だし・・・

今はいろいろ知っている。
多くの健康食品や健康器具などは、かなりふっかけてある。
別のルートなら、約10〜20分の1で買うことができる。
健康関連は、とても儲かる商売として成り立っているのだ。
最近は良心的な中身と値段で販売しているところも増えた。

ほとんどは、その場でローンの用紙が出てくる。
だが、ここの人は違った。
手付け、千円でもいいですよ。
あとは、後日ここに振り込んで下さい。
口座番号をメモ書きで渡してくれた。
その場で、簡単な使い方を教えてくれ器械をくれた。
私の名前を聞いただけで、身分証明も求めなかった。
そのままネコババするのも可能だった・・・

その時、説明してくれた人が言った。
アナタはどこか不具合の箇所はありませんか?
私は病と縁の無いタイプだ。
強いて言えば20代のスキーによる膝くらい。

靭帯が無いので、無理ができない事と季節変わり目に痛む。
すると、少し氣功しておきましょう、と言う。
そして、ほんとに少し膝に指を当てた。
5分もしないほど・・・
何も感じなかった。
おまじない、みたいなものか・・・

私は怪しげな器械を持って、会場を後にした。
すると・・・
変なのだ。
指を当てられた右膝が変・・・
まるで、バネが外れたみたいな動き方。
右膝から下だけが、ピョンと上がってしまう。

軽くなったのだ。
普段は、靭帯が無い分右膝に力が入っていたらしい。
それがイキナリ軽くなったので、余計に足が上がってしまう。
何なのだ?
またしても奇妙で困惑している。
単純に氣功が効いた、なんて思えない。
何しろ、氣功なんてインチキという意識なのだ。

その日も午後からはテントで直売だ。
もっと見聞きしたかったが、午前中で帰る。
二冊の本をもらった。
半年後に出会う故御師匠様の書いた本だった。
ついでに、置いてあったパンフレットも持ってきた。
その、ついで、が、以後の私の人生を変えるモノとなった。

とにかく毎日痛がる母に、怪しげな器械を使った。
特に難しい使い方も無い。
痛いところに当てればいいのだ。
何分、何回という限度もない。
ただ、当てるだけ。

だが、会場で見たような変化はしなかった。
それでも母は、言われるように当てていた。
痛みが取れる希望があればする。
痛みというのは、辛いものなのだ。
すがれるのなら、ワラでもすがる・・・

この時、父は施設に入っていた。
2年前に胃癌の手術をしていた。
全摘出ではないが、ほとんどを切った。
79歳の高齢だが、状態がいいので手術したらしい。

母には暴力夫であり、近所ともトラブルを起こす父だった。
家庭人としては不向きで、家族を養うという意識が無かった。
子供の頃、出稼ぎと称し、ほとんど帰らない父。
たまにいると、母を怒鳴り叩く音で朝目を覚ます悲惨な家庭。
やがて私は父を憎むようになった。
それが、立場が逆転し、私の方が強くなると憎しみは消えていった。

手術後、私と姉で交代で父の面倒をみた。
手術後は麻酔ボケがあり、家族もわからないようだった。
まさか私が父の排便後のお尻を拭くとは、思わなかったなぁ・・・
父が弱った老人になると、嫌だとも思わなかった。

その後は、痩せ型の父はより痩せてしまった。
軽い脳梗塞もあり、ロレツが回らない時もあった。
それでも復活したが、さすがに足がおぼつかなくなった。
母の状態も悪いし、一日中の面倒はとても出来ない。
そこで施設に入れたが、父は施設に乗り気だったのだ。
家庭内では決して家族と打ち解けて話す父ではなかった。
それが、施設では結構社交的だと知らされた。
楽しんでいるようなのだ。

怪しげな器械が効力を発揮しなくても特に気にしなかった。
まぁ、世の中のほとんどは、そんなものだ。
上手く当たれば、ありがたい。
外れは、大多数、大部分でこの世は成り立っている。
それでも希望を持つのが、生きている証拠だ。
あきらめなければ、何とかなる、かもしれない。
あきらめれば、ほとんどは、そこで止まる。

父の心配が無い分、楽だった。
毎日のように、母の様子はみるが、特に変化は無かった。
そして、雪のシーズンとなった。
ここから3ヵ月半が店として商売になる。
毎日の除雪も苦にならない。
ナイター帰りの客が帰ってからの掃除も充実だ。
私は、忙しいと嬉しく働けるタイプだ。

ある日、フッと持ち帰ったパンフレットを読んだ。
健康回復講座と氣功師養成講座。
場所は伊豆下田。
金額は、とても高かった。
無理して、あの怪しい器械を買ったばかりだ。
それでも、気になって、行ってみたい思いが次第に大きくなった。

年末年始は忙しい。
忙しいと現金が入る。
その大部分は問屋に支払う分だ。
だがアホな私だ。
迷うくらいなら、払い込めば迷わずにすむ。
ちょうど、どういうわけか、現金があるし・・・

というわけで、売上金をさっさと払い込んでしまった。
すると、さっぱりして仕事に励める・・・
当時は知らなかった、まだ会っていない故御師匠様の人気。
その講座は大人気で、申し込んでも5ヶ月待ちだった。
ラッキーだと思った。
ちょうどシーズンが終わってヒマになる。

数年前から比べれば、だいぶ売り上げも落ちた。
とはいえ、まだまだ充分商売としては成り立っていた。
実質、二月までが忙しい。
三月になると、かなりお客は少なくなる。
それでもシーズン中。
実家と店の除雪をしながら、結構忙しかった。

それまで、特に心身の問題の無かった父。
食事もトイレもコミュニケーションも自立していた。
深夜に近い朝方、急に施設内の病院から連絡が姉にあった。
昨日から食欲が急になくなり、身体も衰弱してきた。
そして深夜から、脈、呼吸が弱くなりだしたので来て下さい。

私は兄達に連絡し、姉と共にすぐ病院に向かった。
3月31日、朝の五時頃だった。
時間的には、玄関に入った頃だったらしい。
明治45年生まれの父、享年83歳だった。
苦しむ事もなく、僅か一日で自然に衰弱した老衰。
ある意味、理想的な最後だと。

ワガママで、身内にも他人にも迷惑をかけた人生。
それが、最後は実に自然に楽にこの世と別れた。
しかも、身内の恨みまで持って行ってしまったようだ。
父が亡くなると、父への恨みが消えてしまっていた。
そして、父のような人生もアッサリ認める事ができるのだ。

介護などをしてくれた看護婦さんや介護士さん。
若い女性が3人も泣いてくれていた。
なんという、贅沢な最後だ。
私は父の死から、いろいろ考えが改まった。
道徳的に言われていた生き方が良い最後にはつながらない。
ワガママでも自然な最後を迎えられる。
自然体とは、ワガママでもあるようだ。

その後、多くの人の死に係わるようになった。
かなり厳しい段階からの依頼が年に数度ある。
最後まで看取る役目も兼ねての仕事だ。
すると、死と生き方を考えてしまう。
生き方と、生死は別次元だと思うようになった。

宗教や精神世界を説く人達の言葉は似ている。
どちらも・・・実が無いのだ。
一見、深い言葉。
実際にも、深い言葉かもしれない。
でも、間違っている。
理屈(頭)で説いているのだ。
言葉は生き方(この世)の次元だ。
だが、生死は別(あの世)の次元だ。

影響があるなら、自然に沿っているかどうかだろう。
その自然は、人間社会の理ではない。
立派な生き方は、人間社会にしか通じない。
自然体は、人間の考えより遥かに柔らかく大きいのだ。
父は人間社会では調和できなかった。
だが自分の内とは調和していたのだろう。
だから、実に自然にあの世に旅立てたのだろう。

どんな生き方であれ、最後に覚悟が出来ると楽だろう。
そういう想像はできる。
そして、その身体の生命力を大切に使った結果なら・・・
身体は自然に無理なく解けていくのだろう。
そういう想像はできる。
断定はできない。
まだ、私は生きているし、死を味わっても個としてのみだ。

生き方と最後の時については、また別に書いてみる。
ただ、正しく生きれば良性な死につながる。
あるいは、天国に行ける。
そういうのは、勘違いか、意図的な扇動言葉だろう。
父の死からは、いろいろな気づきがあった。

シーズン中は、申し込んだ講座の事など忘れていた。
春休みが終わるとシーズンも終わる。
父の葬儀でバタバタしていた四月初旬、一通の葉書が届いた。
申し込んでいた講座の案内だった。

私が受ける予定の講座が変更になった。
場所は伊豆下田から奈良の生駒山。
名称も変わり、私は第1回生となった。
詳しい事情は後からわかったが、私にはラッキーだった。
場所の生駒山だ。

10代末から、精神世界という怪しげな世界に触れた。
精神世界といえど、世界だから広い。
いろいろな国というか、層というか、範囲というかがある。
現実の国もそうだが、とても独善的な国が多い。
というか、ほとんどが独善だ。
特に某北○鮮とか、某アメリ○とか某中○とか某○シアとか・・・
精神世界も同じだ。
ここだけが真実、我が組織が最高、この教えが唯一・・・
例え組織に属していなくても、大した違いはない。
もちろん、組織にいて高尚になれるはずがない。
(この意味さえ、わからない信者が多いんだ・・・)
人間だもの、お互い、浅はかなんだよね。

精神世界という中にいると、浅はかが見えない。
自分は高尚な世界に関わっている。
自分は一般庶民とは違う世界の住民だ。
神様に近づいている。
もう、神の親戚かも・・・
いいや、私は神だ!
ね、浅はかなんてもんじゃないだろ。
カガミを見れば、浅はかな顔しか写らないのに・・・
カガミというのは、自分に気づく為にあるのになぁ。

そういう関係の一つに山岳宗教があった。
開祖は、役の小角、またの名を役の行者。
修験道の山伏達の祖でもあり、密教系修行の祖でもある。
世界遺産登録の熊野参拝道などの祖でもある。
時は飛鳥時代、少年の小角は生駒の神様に示されて修行する。

私は20代に地元の山岳会に数年いた。
生駒山って、どんな山だろう。
登ってみたい、歩き回ってみたい。
今のようにインターネットなどない時代だ。
でも、関西まで行くほどの時間的余裕はなかった。
(作ればあるけど、そこまでじゃなかった・・・)

それが、向こうからやって来たのだ。
会場は生駒山中腹だ。
鴨が背中にネギを背負ってきたのだ。
あとは、鍋を用意すればいい。
講座がどんなものかは不明だ。
この手のモノは、多くはインチキだ。
だが、生駒山に行けるなら、もう元は取ったぞ。

父の葬儀は滞りなく済んだ。
とはいえ、一年忌までは何かと用事ができる。
その一つが49日法要。
準葬儀のようなものだ。
お寺から住職を呼び、追善供養の経。
組内と区役員、親戚一同などに出席していただく。
近くのお墓に納骨し、納骨の経。
そして、忌明けの会食。

その49日法要の日は、生駒山の講座中だった。
母や兄弟に相談すると、
行った方が供養になりそうだよ。
と、アッサリ言われた。
実は、私もそんな気がしていた。

半年前の一定期間に起きた異現象で覚えた経。
どこで使うのか判らなかったが、父の祭壇で唱える事ができた。
友人の父のお参りにも唱えさせていただいた。
だが、まさか、この為に覚えさせられたわけではあるまい。
私は今更仏門に入る気など、さらさらない。
仏教に限らず、宗教関係を信用していない側だった。
それは、20年以上の精神世界に関わった一つの観方だった。
もちろん、全てひとくくりには出来ないことも認識している。

五月になり大型連休も終わった頃、講座に出発した。
関西方面は20年ぶりだった。
日本初というケーブルカーに乗って、生駒山中腹にある宝山寺駅。
宝山寺は役の行者が開いた、とてもとても古い修行の寺だ。
その後、江戸時代になって、今の宝山寺となったらしい。
その宝山寺を目指し、山門のすぐ手前に研修所はあった。

日本中から研修所に集まる。
北海道から沖縄まで、おおよそ150人。
会場はギッシリだった。
私は紹介者もいないし、事前の予備知識もない。
スタッフの言われるまま、手続きをした。

そのスタッフだって初めてなのだ。
なにしろ、自前の研修所でする初めての講座だ。
それまで40数回伊豆下田で行った。
それは、沖道ヨガの研修所を借りて行われていた。
だから、今回からは新たなカリキュラムで始まった。
第一回というのは、その分、全員の氣が込められている。
そういう意味でも、私はラッキーだったようだ。
そんな事が解り気づくようになるのは、もっと後だが・・・

その日、御師匠様に初めて出合った。
もちろん、その時には御師匠になるとは思ってもいなかった。
ただ、ひと目見た瞬間、何かを感じたのは間違いない。
それは、受ける感覚でなく、包まれる感覚だった。
見た目は、白髪白髭小太りの愛嬌あるオッサンだ。
とても気さくな雰囲気だった。

私はそれまでの20年間で、幾人もの人にあった。
精神世界を説く人達だった。
中には、教祖だか神の代理だか、神そのものだとか・・・
人を集めるのだから、それなりの魅力がある。

魅力といっても、いろいろある。
怪しい魅力がほとんだ。
力ずくで惹きつける魅力が多い。
それらは私にとっては魅力にならなかった。
胡散臭いとまで感じられなくても、合わなかった。
まさしく「氣」が合わなかったのだ。

私は力ずくで自分の事をするのは好きだ。
自分の行動なら、無茶も好きな方だ。
だが、他に力ずくでするのも、されるのも嫌いだ。
大っ嫌いだ。
そのせいか、力ずくの感がある魅力も、嫌いなのだ。

御師匠様は違った。
やわらかい、暖かい、不思議な感覚だった。
もしかしたら・・・
本物の生き神様みたいな人がいるとしたら・・・
こういうタイプの人かもしれない。
そう思った。

北海道弁まるだし。
チョコチョコと動く。
ほとんど笑顔。
冗談好き。
ちょっと下ネタも言う。
威張る、偉ぶるというところが、微塵もない。

話は面白いし、引き込まれる。
今の氣功家という立場になるまでの半生の話。
不思議な話も、少しも違和感なく普通に話す。
作り話のような、わざとらしさがない。
私は、ひと目で好きになってしまった。

オナゴに一目惚れはしないと思うが、オッサンには弱い。
役の小角、空海、ブッちゃん(仏陀)、キリちゃん(キリスト)
みんな、オッサンだ。
この生駒で、やがて二番目の御師匠になる人とも出会う。
痩せているが、やはりオッサンだ。
(すいません、尊敬はしていますが、私は口が悪いのかも・・・)

ここでの合宿講座は、私がしたかった内容だった。
自分でも気づかない心の奥にあったものだ。
前世があるなら、嘗てしてきたのだろう。
毎日が楽で落ち着くのだ。
朝起きてから、夜寝るまでの全てが講座だった。
修行といってもいいのかもしれない。

その生活全般を指導してくれたのが二番目の御師匠様になる。
全てが、行。
掃除なら、掃除行。
食事なら、食事行。
150人とスタッフで170人以上いたろう。
だから、人との関わり方も行。
といって、小難しい事はない。
むしろ、自然体を覚えるのが行だ。

最初から違和感が無かった。
そして、毎日着実に意識が変わってきていた。
する事も日程も私には楽だが、かなり、濃いプログラムだ。
後に、スタッフとして裏方を経験した。
そこで改めて「氣の濃い」内容だと気づいた。

ナマケモノで、努力も根性も極少ない私だ。
それが、毎日変わるのだ。
いかに、すごい講座だったかがわかる。
だが、そんなものじゃない。
もっと、もっと、実際は凄いのだ。

ここ(生駒山)に来れただけでも充分。
毎日の修行の真似事だけでも充分。
多くの深刻な状況の人達と同じ場で過ごせてる。
それは深い、得がたい体験だ。
意識だとか心だとか、そんなモノより深いモノ。
私は、嘗て知った「ありがとう」を思い出していた。

私自身は深刻な状況ではない。
社会的に適合しない心だが、深刻ではない。
身体にも恵まれているようだ。
病気も怪我もほとんどしないし、回復が異常に早い。
だが、この場にいる多くの人達は大変なのだ。
その、深いモノを知らせてくれているのだ。
それは、身体や心を犠牲にして得たモノだ。

私は、ある意味満足していた。
ここに来られた機会をラッキーだと思った。
講座の詳しい内容は記さないが、意識がやわらかくなる。
変わる、というより、容量が大きくやわらかくなる。
そんな内容が上手く、プログラムされていた。
それは、普通の生活の中に活かせるものだった。
それにしても・・・
あの白髪白髭のオッサンは素敵だ・・・

やがて最終日の前日となった。
多くの人達の深刻な人生の一部を見せていただいた。
すると自分の内を自動的に見る事になる。
「分かち合い」
ある部分より深いモノに接すると、共有してしまう。
それを、古のメディスンマン(呪術医)はヒーリングとも言った。

このことだけでも、私はショックだった。
癒しとか、治癒行為とか単純に思っていたのが恥ずかしいような・・・
そして、ヒーリングは分かち合いという事が、後の私の柱となった。
まぁ、意識しなくても自動的に、否応無く分かち合ってしまうけど・・・
だから、私の扱う「氣」は、なかなかデキルヤツなのだ。
私がデキナイオッサンでもかまわないのだ。

まぁ、ともかく、いろいろ、いろいろ、いろいろあった。
超すごい氣功師だと完全に納得した白髪のオッサンが言った。
今から名前を呼んだ人は、氣功師にするから集まるように。
私は氣功師になれるとは、半分信じていなかった。
そんなことより、ここに来た価値は充分にあった。
いや、それ以上の価値があった。
消化しきれないほどの、濃いモノを受け取っている。
だから、なれなくても満足していた。

第一、氣功師にするって、どうゆうこと?
合宿中、氣功師になる練習も技の伝授も無かった。
(無いのが特徴だとは知らなかったし・・・)
氣功を受ける時間は一日4回以上あった。
そして、重病の人を治療する場面も何回もあった。
科学者やジャーナリストの常識外の話も聞いた。
だが、氣功師になる訓練も講座も無かった。

当時氣功師世界一とも言われた中国人の林厚省師が来た。
(白髪のオッサンに惚れた一人らしい・・・)
そして、太極氣功18式というのを教えてくれた。
だが、それは保健氣功といわれる気功法だった。
それをしても氣功師になど、なれるわけがない。
(質を高め、長い期間なら中国式の氣功師にはなれるかも)

ともかく私は名前を呼ばれてしまった。
その人達だけで、一部屋に集められた。
下田時代に来ていた人達もいた。
何をするのか、全く見当もつかなかった。
毎日、見当もつかないことだらけだった。
それは、後にスタッフになった時も同じだった。
キッチリしたプログラムでもないらしい。

では、氣を出してごらん。
イキナリ、何を言ってるんだ・・・
そんな事できるわけない。
とは言えないので、マネをした。
いつも白髪のオッサンがしているマネだ。
こんなで、いいのか?
半分白々しい芝居をしているのだ。

白髪のオッサンは一人ずつ相手(調整)している。
それぞれの手の前に自分の手を出した。
そして、それぞれ頭や背中を触ったりしている。
うん、これでいい。
そんな感じで、次の人に移る。

私の番になった。
やはり私の手の前に掌を広げた。
ポン、と一回頭を軽く叩かれた。
もう一度、手の前に掌を広げた。
よし!

な、何が?
何が変わったのか?
何が、よし、なのか?
こんな簡単でいいのか?
(氣功師に変わるまで、0,5秒・・・)
私は???ばかりでいた。

次に二人一組になり、一人が座って目を瞑る。
もう一人(私)が後ろから氣功する・・・
する、っていってもマネだ。
何しろ、実感がないのだから仕方ない。
マネとしか思えなかった。

ところが、たまたま私の相手が敏感な人だった。
始めたとたんから、グルグル回りだした。
すごい、すごい、すごい!
何が?・・・
私は、相変わらず何もわからないままだった。
こんなで、いいのか???

すごい強力ですよ。
と言われても実感のないまま交代して私は座った。
申し訳ないが、私は何も感じなかった。
すいません、私は鈍感のようです。
相手には、そう言った。

白髪のオッサンの氣功時は、私でも独自の感覚があった。
太陽の真ん前に座らされているようで、熱くて焼け死ぬかと・・・
私は身体は動かないが熱くなる。
ここでは身体が動く人の方が多いような気がした。
私は特に頭の真ん中に穴が空いたように熱い。
そこから太陽の光と熱が直接脳に当たる。
それは、その後半年続いた。
毎日、常時頭の真ん中が熱かった。
時には熱くて汗が流れていた。

氣の強さだか濃さだか知らない。
どうやら氣功の能力には上下のような段階がある。
あるいは周波数の違いかもしれない。
例えば私より少ないのだか、薄いのだかの人のは感じない。
例えば私より強いのだか、濃いのだかの人のは感じる。
そういう意味では、その後、私よりも強い人は少ないようだった。
だから私自身が優れているわけじゃない。
人格的にも家庭的にも欠陥だらけのままだもの・・・

夜寝ていても、頭の真ん中から太陽が射し込む。
熱いなぁ・・・
頭蓋骨に穴が空いてないか幾度も触る。
一応、頭蓋骨はあるようだ・・・
脳ミソは衰えているようだが・・・

最終日、帰宅の準備やらが始まった。
その時、新規氣功師の人だけが写真を撮った。
通常のカメラではない。
キルリアン写真というヤツだ。
どうやら、独特の光の玉が写るらしい。
それで、確かめられる・・・らしい。

係りの人に言われるまま、私も撮った。
その場で写真になる。
すると、しっかりと写っている。
私には感覚がないのだが、確かに普通の人と違う。
実感がないから、半信半疑のまま・・・
それでも、ちょっと嬉しかった。
こんなモノで、どれだけ役にたつのかわからないけど・・・

戸惑うような嬉しさは、まだ幾つもあった。
私は家を出てから、講座中は電話しないでいた。
忘れていた、くらい意識にもなかった。
帰る前になり、そうだ!家に連絡を・・・
すると本妻が、ちょっと待って、と。
私が生駒の講座中に三歳の誕生日を迎えた息子が出た。

とうちゃん(我が家はとうちゃん、かぁちゃんと呼ばせている)
お勉強、ポッポ〜、遠く。
日本語を使ったのだ。
息子は未熟児で生まれた後、いろいろあった。
血の○○成分が足りない。
(○○を、飲んだり注射したり・・・)

○○反射に反応しないので、股関節手術しないと歩けない。
西洋医師としては、間違った判断ではなかった。
だが、私は根拠ない確信があった。
どうやら本妻も根拠ない確信があったようだ。
で、医師の言葉は無視して、手術はしない。
結果は、スポーツ得意(中、高は部長)。
小、中、高と皆勤賞(これは中々でしょ)。

確かに立ち上がるのも、歩きだすのも遅めだった。
そして、言葉を話さなかった。
いや、言葉らしきものは話すが、日本語になっていなかった。
それに関しても、私も本妻も根拠ない確信があった。
不思議なほど、心配はしていなかった。
大丈夫!
独自の単語で、親だけとはコミュニケーションがとれる。
生駒に行く前までは、いつもと同じく日本語は話せなかったのだ。

お前!話せるようになったのか!
三歳の誕生日が来たら、イキナリ話し出したらしい。
しかも、発音は大人の言葉になっていた。
幼児発音でなく、綺麗な日本語だった。
これで、他の人とも普通に話せるようになった。
ちなみに、下の娘は早くから話し出した。
だが、三歳時は幼児発音が抜けずにいた。

未熟児の影響はあったのだろう。
身体の発達は遅めだった。
特に体重は二学年下の平均くらいだった。
だが、それ以外は問題なく育っていった。

もう一つ、戸惑う嬉しさがある。
以前にも書いたが、私は右膝を故障している。
右十字靭帯が切れ、吸収して無くなっている。
半月板の手術はしたが、いろいろ制限が出た。
無理がきかなくなっていたのだ。
山岳会も辞めた。
正座が長く出来ないので、茶道も辞めた。
10分が限度だったが、実は胡坐(あぐら)もきつかった。

講座の朝は、洗顔して広間に集まる。
そこで生活指導の講師のリードで呼吸法。
といっても難しくない。
使うのは般若心経。
意味とか理解とかは関係ない。
ただ声を出すために使っている。

私は、生駒に来る半年前の異次元現象で憶えていた。
父が亡くなり、その為に憶えさせられたのかと思っていた。
ところが、この講座で毎日使うのだ。
もちろん、普通は書いたものを読みながら唱和する。
私は自然に口から使うことができた。
講座で使う為だけに半年前から準備されていたわけでもない。
以後、現在に至るまで、毎日使うようになるとは思っていなかったが。

般若心経って、こういう使い方もできるんだ。
心経の応用にベストもベターもないだろう。
だが、この使い方は心経の目的に沿ったものだ。
後に心経を解説するようになり、改めて感心した。

意味などに、とらわれない。
その人なりの呼吸法として使える。
しかも、真言だ。
この講座は、何気なく、ふ、深い・・・
頭で理解するのではなく、生命の為の講座だ。
精神世界特有の、浅はかな意味深言葉とは違っていた。

最初は正座をしていた。
もちろん身体の具合の悪い人だらけだ。
どんな座り方でもかまわない。
心経を唱える時間など、たかが知れてる。

そのうちに、座り方など気にもしなくなった。
その他の講座の時にも、気にしなくなった。
ある日、あれ?と気づいた。
30分以上正座のままだ。
更に、あれ?と気づいた。
1時間正座のままだ・・・

やがて故御師匠様となる白髪のオッサンが言った。
病の治り方はな、気づいた時に治っているのが一番いいんだ。
私は、一番いい治り方だった。
特に膝を氣功治療したわけではない。
普通に氣功の時間、受けていただけだ。
今では、6時間くらい座って治療する時もある。
靭帯は無いままだが、平気になってしまった。

この講座中は、予期せぬラッキーが重なり合っていた。
とても紹介しきれない。
講座も凄いのだが、内容以外での出会いが目白押しだった。
後に長く付き合うこととなる人との出会い。
長く付き合う、人以外のモノとの出会い。
とても珍しい出来事も、幾つも出会った。

ともかく、そのまま家に帰った。
で、早速母に氣功をする。
する、といっても感覚は無いままだ。
仕方もわからない。
あの白髪のオッサンを思い出してマネをする。

ところが・・・
私は何も感じないままなのに・・・
母が変化するのだ。
顔が氣功前後で違ってしまう。
あきらかに表情も顔色も良くなる。
母も戸惑いながらも、楽だと感じている。
私の方が戸惑いは大きい。
まだ、半信半疑のままなのだから。

戸惑いは更に増える。
半年前に買った、あのインチキ臭い氣の出る機械。
母は教えたように当ててはいたが何の変化も無かった。
それが、私が帰ってきてから大きく変わった。
頭に当てようと近づけると、母はとても痛がる。
痛がるが、病状が悪化する痛さではない。
コンセントにつながない状態でだ。
電気は使っていないのだ。

開発者の白髪のオッサンは言った。
「氣」は電気で作れるわけじゃない。
いかにも機械風にしたのは、その方が人は信じるからだ。
電気を入れ、スイッチが点けば、何かが出ると思い込む。
その、思い込む力は回復には利用できるのだ。
だから、本当に理解したら電気など使わなくていいぞ。

私はその言葉を信じた。
だから、コンセントにつながなくていい、と伝えた。
ただの、怪しげな機械だ。
なのに、目に見えない何かが出ている。
それは、母にとって大きな感覚として感じている。
否応なく、氣を味わってしまっていた。
私は、半信半疑よりも信じる割合が増えた・・・

いろいろ変化しつつ二週間ほど経った。
朝、いつものように母の頭に手を近づけた。
すると、
痛い!凄く痛い!
私の手が。

母の痛みが手に伝わってきた。
内心驚いた。
相手の痛みなどが伝わる事は聞いていた。
だが私は何も感じないタイプだと思っていた。
それが、イキナリ伝わりだしたのだ。
い、いや、最初から伝わっていたのだろう。
ただ私が認識できていなかったのだ。

こ、こんなに凄い痛みなのか!
例えるなら、数百本か数千本の針を束にして押し当てる。
あまりに強烈なので、心臓に悪そうな痛みだ。
正直な感覚を言えば、母は気にしてしまうだろう。
こんな痛みを毎日のように耐えていたのか。
母がとても我慢強いのは知っているが、想像を超える痛みだ。

そして、私の身体が本当に特殊に変わっている事を実感した。
実感というより、体感している。
理屈じゃないのだ。
微妙な感覚じゃないのだ。
誰でも分かる、大きな感覚で実感していた。

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気功師誕生



相手の痛みを感じるだけではない。
痛み以外の「氣」も感じるようになった。
近づけば、手を出す前から感じる。
これは痛みのように双方で確認できるわけではない。
私の感覚だ。
ある程度離れていても感じる時もある。

モヤモヤした感じ。
重い空気の感じ。
気持ち悪い空気が取り巻いている感じ。
邪悪な雰囲気。
基本的に、具合の悪い人がクライアントなのだ。
もちろん、嬉しさや輝く感じも受ける。

時には、霊障害と表現するのが適しているような人もいる。
私はプロとして、この部分の話は控えめにする。
下手に話しては誤解を生むのだ。
私のように、祖母から普通に接している人は少ない。
必要以上に怖がる人が多いからだ。
生きている人間の方が、本当に怖い部分を持っている。
まぁ、濃淡はあるが、霊は日常茶飯なのになぁ・・・

後に、相手から受けるモノはもっとある、と感じるようになる。
例えば、感情。
通常、感情は手を触れるだけでは伝わらない。
話やその他の雰囲気などで、少しずつ伝わるものだ。
あるいは、自分が共感した時に伝わる。
ところが手から伝わるのだ。

私が初めて、他人の感情が伝わるのを知ったのは講座時だ。
最終日に近い頃、幾つかの輪になってアラハン行というのをした。
特に難しいわけではない。
アラハン(阿羅漢の意味らしい)という言葉を出すだけだ。
そのうちに、私の隣から一つ離れた人の感情が流れ込んで来た。

講座中はここには書けない特別な現象に幾度も出くわしていた。
それでも、こんな事もあるんだ・・・
内心はビックリした。
詳しい事など、もちろんわからない。
だが、悲しみだけが伝わるのだ。
しかも、誰から流れているか、その瞬間にわかってしまうのだ。

よく、他人の痛みはわからない、という。
他人の感情は伝わらない、という。
全く同じモノかどうかは、誰にも判断できない。
それでも、痛みも感情も伝わるモノなのだ。
世間の常識は、当てにならないものなんだ。

相手からの痛みや「氣」を感じるようになった。
数日して、今度は自分から出て行く「氣」を感じるようになった。
これが「氣」を出す感覚かぁ・・・
そう思っていた。

更に数年して、それは少し違うことに気づいた。
説明がメンドウだから、普段は出すと表現している。
いわゆる中国気功なら「氣」を出すのだろう。
だが、私の場合は少し違う。
出すのではなく、瞬時に同調ワープしているようだ。
私の身体から出ているのと、少し違うのだ。
私の身体に同調して、そこから放射されている。

それは身体の内部ではなく、表面で同調しているようだ。
内部を通しているなら、私はもっとマトモに変わったろう。
何しろ、その「氣」の性質は「調和」のようなのだ。
ところが私は調和などしていない。
ワガママだしキマグレだしスケベだし破戒(法を無視する)型だし。
だから17年毎日氣功しても、少しも進化もマトモにもならない・・・

17年間、少しも進化もマトモにもならなかった。
というか、私は進化や老化が遅くなっていた。
最近、特に当時を知っている人から言われる。
先生、変わらないねぇ・・・
変わらないわけじゃないのだ。
通常より、時間速度がゆっくりなのだ。

故御師匠様が言っていた。
これは「お前の氣」じゃないぞ。
「自分の氣」だと思ったら、自分の氣が出てしまう。
そんなモノ(私の氣)より、ずっと大きな氣を扱っているのだ。

私は元々、自分の性格を(ある程度)知っている。
自分の氣など、高が知れてる事をわきまえていた。
使えるようになった氣が、元が宇宙だか地球だか知らない。
だが、一人間より遥かに大きな氣だと知っている。
私はいいかげんだが、自分の氣と混同するほどボケてはいない。
私は傲慢だが、そこまで混同する勇気がない・・・
それが、どうやら「この氣」を長く扱えるようになった要素らしい。

自分が最初から不出来だから幸いした。
これが出来る人だと、つ、つい、混同するらしい。
自分が、つ、つい、進化したのだと勘違いするらしい。
努力する人だと、自分の努力が実ったと思ってしまうらしい。
私に努力の才能はほとんど無いのが幸いした。

人間、何が幸いするか判らんぞ。
あのキリちゃん(キリスト)も言っていたらしい。
心貧しき者(私だ)、お前ぇ等はラッキーだぜぃ。
超偉大なキリちゃんの言葉だ。
今の世間の常識より信用できる。

私は、人(特に私)は未熟な生物だと思っている。
謙虚なのではない。
どう見ても、単なる事実だ。
これほど世界の交流が出来ても、未だ戦争しているんだぜ。
人間がアホじゃなければ、どう説明するんだ。

ともかく、氣功中は自分の氣を極力使わないですむ。
「氣」は「命」とイコールじゃないが、かなりカブる。
そういうわけで、私は通常よりゆっくり進むこととなる。
進むも老いるも成長も同じだ。
だから、食事も睡眠も少なくてすむ。
才能も努力も微少だと、貧乏には事欠かない・・・
この氣を中継している身体は、貧乏向きともいえる・・・

私の身体が変質している事を自覚できた。
すると変えてくれた白髪のオッサンが恋しくなる。
初めてのオトコが忘れられなくなるオナゴのようなものか・・・
こ、こんな、身体にして・・・憎いヒト・・・
(す、すいません、私は不良品の弟子です・・・)

本妻も三歳になったばかりの息子も一歳前の娘も忘れたわけじゃない。
一応家族、家庭持ちだという立場を忘れたわけじゃない。
ただ、薄れていただけだ。
その代わりに、あの白髪のオッサンを追いかけ出した。
セミナー、体験講演会、講習会・・・
そして、帰ってきて数日経つと、また感覚が変わる。
より細かな区別や、新たな感覚が判るようになる。

私は、鈍感な体質だと思っていた。
今でも敏感だとは思えない。
それでも感じるモノは感じる。
区別できるモノは、区別できるのだ。
私の感覚が優れているからではなく、変わっただけなのだ。

そうして、また母に氣功すると、母も変化する。
毎日一緒に暮らしている姉が、その変化に驚く。
驚くから友人知人に言う。
ある日、私の店(土産店)に一人の婦人が訪ねて来た。

ぜひ、私の身体を診て氣功して下さい。
イキナリ言われても・・・
母には毎日氣功していたが、その他にはしたことがない。
診方も治療の仕方も、更にいえば氣功の仕方だって知らない。
身内(母)だから勝手に手を向けてできるのだ。

その時には、他人に氣功をしようとか思わなかった。
そんな重いモノを背負うようなマネは私には似合わない。
私は、母が少しでも楽になればよかったのだ。
あの、白髪のオッサンが好きだから追いかけていただけだ。
だから、そういう方向で氣功を学んでいなかった。

私は全くの素人だという事情を説明した。
ところが、その婦人は真剣そのものだった。
切羽詰っていた。
それでもいいから、と言う。
元々優柔不断な私だ。
断りきれなくなっていた。

私の店では氣功する場所もない。
(その頃は、横にならないと出来ないと思っていた。
今は、立っていようが眠っていようが出来るけど)
すると、その人の自宅まで来てくれ、と言う。
私は戸惑いながらも、なるようになれ、と訪れた。

60歳になるというその婦人は、まず身の上話から始めた。
夫を病院の過失で亡くしたという。
その後病院を憎み、自分の病などの検診さえ訪れなかったようだ。
やがて、どうやら乳癌のようだと気づいた。
不安と、憎しみの間に時を過ごして、症状は進行したようだ。
今では、毎日痛く、そして乳首から血膿が出るという。

当時の私は癌の知識も無かった。
次の年から3年間、東京に病と健康についての勉強に通う。
更に後に、鍼灸師資格の為に3年間学校にも通う。
そこで解剖、生理、病理などの基礎を学ぶ。
だが、その時には何も知らなかった。
それが、どんなに厳しい状態かも知らなかった。

とにかく、胸の上20センチ離して手を近づける。
その途端に、胸からビュービューという勢いで風が吹く。
相変わらず戸惑う事ばかりだ。
私だって人体から風が吹くとは信じられない。
だが、事実なのだ。
それもクーラーの冷たい風のようだ。
私の手が、たちまち冷たくなってくる。

気持ち悪い・・・
冷たい・・・
痛い・・・
とは、本人の前では言えない・・・

母以外でも痛いと感じる。
冷たい、そして私の手も冷たくなる。
何よりも、気持ち悪いのだ。
私の胸が何とも表現し難い嫌な感じが湧き起こる。
私が初めて「癌の氣」を感じた日だった。

後には、幾度も同じような感覚になる。
十年も過ぎると、癌の感覚も様々な違いがあると知る。
ともかく、その時には初めてだらけの出来事。
どこで手を引き、いつ止めるのかも判らないまま。
仕方ないので、限度だ、というところまで我慢した。

後に、御師匠様となった白髪のオッサンに言われた。
手を引き上げるのが、それでは遅い。
自分の心臓に入る前で止めろ。
そうでないと・・・死ぬぞ。

一時間くらいだったろうか。
あまり憶えていない。
私は多分、かなり疲れて帰ったような気がする。
次の日も氣功に訪れる約束をして。

毎日が初めての出来事だ。
しかも予測も対処もわからない。
何が起こるかわからない。
それでも怖さも拒否もなかった。

お前(私のこと)は、多分、大丈夫だ。
聞こえない声だが、何となく言われている。
10ヶ月前の異次元現象のお陰のようだ。
潜在意識か何かに、事前の準備をしてくれていたようだ。
意味が解明されなくても、心は安心できるのだ。

次の日。
訪れると、その婦人はやたらに明るい。
そして、また同じように手を近づけた。
今なら平気で触れるし、その方が効果が上がる。
だが当時は、他人に触るのは苦手だった。
10代の頃から、触るのも触られるのも苦手だった。
15年後になり、私は元々氣功師の体質があったと気づく。

やはり同じように身体から冷たい風が吹く。
やはり同じように気持ち悪くなり、痛みだす。
それでも少しは慣れたのか、厳しさが少し弛んでいるようだ。
昨夜と同じように、そろそろ限度、というところで止めた。
また、次の日の依頼を引き受けて。

三日間続けて訪れた。
その次の日にお礼をもって本人が来た。
そして感激の言葉を頂いた。
最初の日で痛みが無くなった。
三日目で血膿が止まった。
信じられない。

私は生駒やセミナー等で目の前での変化を見ている。
いろいろな人がたちまち変化するのを見ている。
だから、信じられないわけではない。
この氣功が変化を促すのは、充分信じていた。
戸惑うのは、それを私がした事の方だ。
私自身は他人に影響を与えるような人間じゃない。
更に、何もわからないままだったのに・・・

後には、いろいろ理解できる。
何もわからなかったから、ストレートに伝わった。
余計な考えや、余計な力みも無かったのが幸いした。
私の能力では無い事を、充分意識していたのが幸いした。

で、思った。
他人に氣功するには、知らない事が多すぎる。
知りたい事が多すぎる。
今後は、もっとマトモに学ばなくては・・・
私には珍しい、マジメモードが始まった。

もちろん三日間で全て回復したわけではない。
だが激変だったから、その婦人は更に他の人に話した。
すると、私の店に複数人から氣功をしてくれと電話がある。
困った。
そんなの無茶だろう。
私はドシロウトなのだ。

結局、数人ずつ何処かの家に集まってくれれば私が訪れる事になった。
私などにすがるような人は、難しいモノを抱えている。
こりゃぁ、真剣に学ぶ以外に選択肢が無くなってきた。
そういうわけで、白髪のオッサンは、私にとって師匠となった。
私は積極的に師匠のする事を見て、質問して、帰ってから実践した。

振り返れば、私は恵まれていた。
何しろ私にとって、人体実験のような実践相手が幾人もいた。
私は勉強中の身だ。
とてもお金をいただくような立場じゃない。
身体を触らせていただき、氣功をさせていただくだけで有難かった。
だが、相手側はそれでは心の負担になるという。
そこで、出張費だけ頂戴することにした。

出来る限り、御師匠様となった白髪のオッサンを追いかけた。
帰ってくれば、母や他の人に氣功をする。
そして、わからないこと(だらけだが)を抱えて御師匠様を追いかける。
プロとなった人やスタッフやアレやコレやに質問する。
店も本妻も息子も娘も、私の中では薄い存在になっていた。

秋になり、御師匠様主催?ツアーに参加した。
行き先は中国。
上海で開催された世界氣功シンポジュウムに参加。
当時世界一ともいわれた林厚省師の保健気功の指導。
上海中(国)医学大学内の気功科との交流。
アレやコレや・・・

その時、御師匠様に思い切って言った。
この氣功治療の道に進みたいと思っています。
言ってしまえば、道は(半分)出来る。
迷うくらいなら、進んだ方がいい。

もちろん私だって時々我に還る。
こんなこと(追っかけ)してていいのか?
生活はどうする?
どうなる?
そんなことは、皆目わからない?

毎月何度も東京や名古屋に出かける。
数日間のセミナーもある。
そして海外。
収入ゼロでそんなことをしているのだ。

借金は膨らむ一方だった。
銀行関係からはこれ以上無理。
三番目の兄から大金を借りてアチコチ飛び回った。
その挙句の言葉だ。
この道に進みたい・・・

御師匠様は、私の顔をジッと見つめた。
この先、十年は食えねぇぞ。
僅かな治療費で、命懸けだぞ。
それでもよければ、いいさ。

元々ノウテンキのB型だ。
(血液型で性格が決まるとは思ってないが)
深く考えることもあるのだが、根性が無い。
考えるより、見切り発車してしまえ、というタイプだ。
浅い精神世界もウロウロしていたから、自分に都合よくとらえる。

十年後(50歳から)は、生活できるのかぁ・・・
何とか過ごせば、やっていけるかもしれない・・・
(家庭のことは頭になかった・・・)
命懸けというのは、真剣にやれ、という意味だな。

私は浅はかだから、御師匠様の言葉を中途半端に理解した。
素直になれ!と言われていたのに。
言葉は、全くストレートだったのだ。
要は、治療では食えない。
本当に自分の命が懸かる。
そういうことに気づくのは幾年も過ぎてからだった。

それでも御師匠様の近くにいればハイテンション。
頭頂部は相変わらず穴が開いていて、太陽を直接浴びているままのよう。
どんどん自分の身体が変わるのが、楽しみのようでもあった。
感覚も広がり、勘や観までが楽に感じられるようになった。
とはいえ、それに執着すると勘違いの落とし穴に落ちる事は自覚している。

普段の御師匠様は、とても忙しい。
セミナーの質問時間は個人相談し難い。
通常、私などが簡単に話しかけれる相手ではない。
それがツアーでは同席する機会なども多く、内輪の話も出来る。

普段公開しない話なども聞く事が出来た。
秘密じゃないが、公開用でもない話だ。
それが、後の私にとても役にたった。
どんなに優れていても、偶像崇拝的な面しか見せない人は信用できない。
御師匠様は、実にオープンだった。

私も秘密を沢山持って、でもオープンな生き方をしよう。
それは矛盾しない。
秘密は隠す事に執着する出来事ではないのだ。
理解できる相手には、簡単に全て見せるから活きる。
そういうことが少しずつ解るから、正しく御師匠様だった。

嘗て、最澄が空海に言った。
最澄:ねぇ〜、その密教教えてよ〜
空海:だ〜め!
最澄:ケチ!!!

空海はオープン(ラテン系)なオッサンだ。
何でも開いて(活かして)しまう。
ケチの反対側のオッサンだ。
いろいろを深く知っている。
だから、教える時期、相手、場所を知っている。
物事の活かし方を知っている。
それだけだ。
気づいてないのは最澄なのだ。

秘密はあるほうがいい。
秘密が無いのは薄いからだ。
だが、それを開かなければ持っている意味も価値もない。
物事は活かして意味が付く。
そういう事が、次第に気づかされるから御師匠様なのだ。

ツアー中、多くの先輩氣功師と知り合う。
私は御師匠様を知って日も浅く、何もわからない氣功師だ。
それなのに、私への扱い方がベテランに対するようなのだ。
最初は戸惑う。
何か、勘違いしていない?

多くの氣功師(といっても、氣を意識して出せる人)と交流する。
それまでは、私は自分内の変化は自覚していたが他との交流はない。
氣功師というのは、変なものだ。
氣を感じる事が出来る。
(感じない場合も多々ある。
周波数や波形によってだが、説明がメンドウ・・・)
相手と自分の差、違い等も。
その差や違いを上下ととらえる人がいるのだ。
ほとんど最初の一瞬で、何となくわかるようになった。
それは、ある程度の人なら、相手も一瞬でわかるようだ。

私は恵まれていたようだ。
何だかなぁ・・・鈍感だし、不真面目だし、変だなぁ・・・
経験や知識や御師匠様との時間の長さも影響あるだろう。
だが、氣を扱う素質みたいなモノは、生れ付きの部分が多い。
最初の頃は誰でも同じだと思っていたが、それは大きな間違いだ。
どんな能力も才能も生れ付きの部分というのがある。
努力や精進や継続の力は影響あっても、生れ付きとは次元が違う。
まさか、私に根性無し以外の才能があるとは!

まぁ、仕方ない。
生れ付きハンサムなのもいる。
体格や体形に恵まれているのもいる。
声がいい、絵がうまい、足がはやい、手がはやい・・・
私はハンサムでも金持ちでも力持ちでも根性もなかった。
それでも、思いもかけなかった氣を扱う才能があったようだ。

私の才能という表現は誤解があるかもしれない。
才能ではなく、体質のようなものだ。
それは母を治療するうちに、母方のルーツを聞いてわかった。
御先祖様の能力が、私に体質として入ってしまったらしい。
御先祖様はきっとマジメで努力家だったのだろう。
だが、私はマジメや努力は受け継がなかったようだ。

ナマケモノで欠陥品でも体質は受け継ぐ。
有難い。
先代が一生懸命磨いた能力を、何の苦労もしないで受け継ぐ。
よく世間にある、アホな二代目とか三代目とかと似ている。
アホでも名店を受け継ぐ・・・
まして「氣」そのものは私のモノでも生み出したモノでもない。
感応する体質だったというだけだ。
御先祖様の仕事は、氣に感応するものだった。
これも取り柄とするなら、人間、取り柄は何かしらあるものだ。

だから自慢にはならない。
たまたま、そういうのが得意だっただけだ。
その他にも、忘れるのが得意な事も重宝した。
この治療のプロの自覚は10年も過ぎてからだった。
10年やって、一人前になったかも、と思えた。
その時に、忘れる能力がプロとして必要になった。
私は、大きな運命に仕組まれたように進み始めていた。

ツアー中に気づく事が幾つかあった。
通常は気づけない事だった。
それは、自分の内にあるモノだった。
し、知らなかった・・・
私だけでなく人は自分の事さえ知らないモノが沢山ある。
まして私だもの、知らないのは当たり前かも・・・

私は常識ある社会では、どうやら落ちこぼれ側だ。
でも常識ない社会では、結構使えるヤツかもしれない。
もしかしたら、自分の道だか世界だかと出会ったのかも・・・
徐々に、そんな気がしていたが、一層その思いが強まった。
強まるに足る出来事が幾つもあったのだ。

帰ってきてからも社会復帰しない行動をとり続けた。
初めての生駒から半年後、再び生駒の講座に参加した。
昨年の誕生日に初めて踏み入れたアヤシイ世界。
一年後の誕生日には、かなりの確信を持って奥に向かっていた。
そして、もう一つの道にも興味を持ってしまった。
それは、ヨガといった。

実は、我ながら呆れていた。
氣功という、これだぁ〜!という道に出会った。
40歳過ぎてからの出会いだ。
熱く燃えるぜ・・・

そ、それなのに、もう一つの道にも魅かれてしまった。
こ、これが、いわゆる、二股というヤツなのか。
私は、本当にイイカゲンな人間だ。
物事を一つに絞り込めない。
そう、呆れながら思っていた。
だが、好きになったら仕方ない・・・
後に(この道は後にならないと解らない事だらけだ)
本当に必要だったから二股だったと気づいたが・・・

講座中の生活指導をしてくれている龍村先生。
その全てがヨガという方法だった。
もう、幾つ目からウロコを落としたろうか。
私の目も身体もウロコだらけだったようだ。
こ、これがヨガというものか!
ならば、是非とも習ってみたい。
せ、先生、弟子にして下さい!

私は言いながら、本当に呆れていた。
こんなで、いいのか?
一人の本妻、二人の子供、多数の愛人はどうする?
氣功を追いかけながら、ヨガもするのか?
そんな事は、わからねぇ〜〜〜〜!!

私の突然の申し入れに対し
今、計画している事があるから、後で連絡するわ。
穏やかな京都弁で、そう応えてくれた。
二度目とはいえ、何だかベテランのように振舞う私。
男性陣のまとめ役を引き受けた講座だった。

こういう突然の変わり身に対して母は何も言わなかった。
もっとも兄姉も、本妻も大して何も言わなかった。
どうせ言っても無駄、と思っていたのかも・・・
相変わらず、ハイテンションの私だ。
聞く耳など持っていなかったのかもしれない。

二度目の生駒講座も特別な出来事が目白押しだった。
一つ一つ書いたら、それぞれが一つのテーマの作品になってしまう。
毎日がとても濃い一日だった。
多くの人と知り合いになり、その後幾年も関係した。
合宿所の管理人夫妻とも特に親しくしていただいた。
多くの、そして大きな出来事がありすぎた。
思い出がありすぎた10日間だった。

講座が終わり家に帰ると、すぐに感覚の変化がある。
やはり御師匠様の近くにいるだけで身体は変わる。
教わるとか、変えられるとかではない。
一緒にいるだけで、勝手に変わるのだ。

後にプロとなった私。
長く治療するクライアントさんもいる。
すると、全員ではないのだが勝手に氣功ができる身体になる。
患者本人ではなく、近くにいる家族の誰かが変わる場合もある。
「この氣」は伝染、あるいは感応し、身体が変わるのだ。
ただし、私と関係が切れると、身体も元に戻るようだ。

私は相変わらず今でいうボランティアを続けていた。
数人ずつ集まっていただき、定期的に氣功した。
いろいろな感覚が加わり、会っただけで患部がわかることもある。
会っただけで、相手が楽になってしまうこともあった。
そういう事が起こる条件は不明だった。
今でも、必ず変わる条件は不明のままだ。
下手に法則みたいなモノをつけないほうがいいようだ。

一定の変化はあるのだが、それ以上回復しない場合もある。
本人は氣功での治療に積極的だ。
生活も回復との関係を理解して変える。
家族やその他も特に障害はない。
だが、病の氣がなくならない。

人は複雑、複合、統合で成り立っている。
簡単に理由を見つけて修正できるようなモノばかりじゃない。
そんなことはわかっている。
薄っぺらな言葉セミナーじゃあるまいし。
こちらは、身体と真剣に向き合っているのだ。
こちらは、生命と真剣に向き合っているのだ。

それでも何故?と思ってしまう。
私としては、もっと回復してもいいはずなのに。
氣は入っているし、その変化もある。
それなのに、ある段階までの変化しかしない。
もっと別な仕組みが病にはある。
一年もしないうちに、病の奥の深さに気づき始めた。
病は、単純なモノから複雑なモノまであり、日々変化する。
それは、生命と同じだった。
病は、生命の別な形でもあった。

わけがわからないモノ。
無条件に魅かれる。
この一年、病み人に真剣に接するようになった。
人もわけがわからないが、取りあえずいい。
よほどでなければ、私には関係ない。
だが病とは、否応無しに関係を持つ。
そいつは、奥も深さもあるヤツだった。

これ(この仕事)は一生モノかもしれない。
まだプロにもなっていなかったが、そういう予感がした。
後に、いろいろな人にいわれる。
人の為になる、やりがいのある仕事ですね。

違うんだなぁ・・・
そんな事は思っていない。
人の為にしたい、などという立派な人間じゃない。
病と人がわけがわからないからなのだ。
病み人と深く関わるからだが、説明できない。
運命みたいなもので、大した志はない。
かなり厳しいけど、やめられないだけだ。
今は、そんな風に答えている。

基本的には毎日治療している母。
以前と比べれば見違えるように元気だ。
寝込むような酷い状態にはならない。
以後、天寿を全うする17年間、一度も無かった。

それでも完治しない。
顔面、こめかみの痛みがある。
時には、話をするのが困難なほどにもなる。
もちろん、まるっきり晴れやかな状態にもなる。

取り切れない。
母の病は状態が良くなっても消えない。
病というモノは、私が思うより遥かに奥が深かった。
もちろん浅い病も沢山ある。
それらは簡単に完治する病だ。

病は生きている。
例えれば、そういうモノだ。
単なる状態や症状や病巣ではない。
日々、本人と連動して生きている。
母が完治していたら、私は今の仕事をしなかったろう。
病や人と深く交流するような立場にはならなかったろう。

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激動の1995年



冬シーズンが来て忙しくなった。
年が明けて1995年になった。
1月17日、阪神大震災が起きた。
私は朝早くから店の除雪に来ていた。
店にはテレビもラジオもない。
本妻から「大変な状況だよ」と電話があった。
一日が終わり、11時頃帰って初めて映像を見た。
まるでパニック映画の場面のようだった。
見渡す限りの倒壊と火災の場面は、別の世界のようだった。

昨年の5月の最初の生駒。
白髭のオッサンは、世界の大惨事を予測していた。
大規模な自然災害が起こりそうだ。
それが、このことかどうかはわからない。
おそらく、本人だってわからなかったろう。
私も時々、フッと予測みたいなものが降ってくる。
だが、とてもアイマイな感覚なのだ。

何ができるだろう?
今の私に何ができるだろう?
自分を見失う事なしに、何ができるだろう?
葛藤、迷いはあるが、こういう時こそ冷静にしたい。

現地に行って、何らかのボランティアをする人。
いろいろな混乱があるが、それは大きな行動だと思う。
私なりにできること。
それは、あった。
私は、私の身体が変わった事に感謝した。

大震災という自然界と人間の摩擦。
大きな自然の力の前には、人間は一方的に災害を受ける。
皆で協力して、助け合う以外に道はない。
大震災により普段は関わらない生き方の人達が目覚める。
震災など起きなくても、人は助け合う以外に道はない。

それなのに、この年はオウム真理教という狂団が事件を起こした。
次々に起こした。
私は真理や教えを謳い文句にする人達を信用しない。
真理や正義を看板にする組織は、人を侵す。
殺人や戦争まで進む。
歴史が証明していることだ。
教会、教団は狂会、狂団となり、凶会、凶団となる。

多くのマジメな人達は、容易く信者となり凶行まで進む。
それが正しく、使命だと信じてしまう。
生真面目は人の迷惑になるという事を理解しない。
教組は狂祖となり、凶祖になる事を想像さえできない。
マジメと不マジメを自由に行き来できる重要さを理解してくれ。

狂団は3月20日に地下鉄に猛毒サリンを撒いた。
数年にもおよぶ数々の犯行に何故か警察は慎重だった。
だが、ここまで多くの公での犠牲者が出て、やっと強制捜査となった。
警察は暴力団とか凶団とか政党とかの組織には及び腰になる。
どんな組織だろうが、暴力的なら遠慮はいらないだろう。
唯一暴力に対抗できる国家権力なんだから。

確かに警察が簡単に強制捜査をする時代は怖い。
単なる思想の違いで引っ張られるのは、嫌だ。
国に対して、モンクを言えるのは健全な国なのだ。
国という一部の権力を持った為政者達。
意に染まぬヤツはタイホしろ、というのは暗黒の国だぜ。
私は国にモンクをいうが、力で他を従わせようとは思わない。
自分が自由でいたいなら、他の生き方も自由に認める。

オウム真理教事件では、一部の幹部と一般信者を分けて考えるようだ。
それは違うと思う。
あの凶行を土台で支えたのは、一般信者なのだ。
知らなかった、想定外は卑怯な言い逃れだ。
未だに、その後を継いで真理(と信じて)を学ぶ信者達がいる。
善男善女の信者は、自分の罪を認めようとしない・・・
(これを読んだ信者に攻撃されるのも嫌だけど・・・)

オウム真理教狂団が信者を勧誘する手法の一つにヨガ教室があった。
洗脳という言葉が毎日マスコミに流れる。
ヨガ教室に行くと洗脳される・・・
バックにオウム狂団がいるかもしれない。

元々はオウム、アウン、アオン、アーメン、オンは聖音なのだ。
ヨガに限らず、精神世界では頻繁に使われる真言だ。
それなのに凶音のように囁かれる。
少しマトモなヨガ教室なら、当然使う言葉だった。
その為、マトモなヨガ教室から人がいなくなった。
狂団に関係しないヨガ講師は身も細るような時期だった。

そんな頃、龍村先生から封書が届いた。
もちろん師匠となる先生だ。
世のそんな風潮などとは関係ない。
堂々とヨガを通じて生き方を指導してくれる。
そこには、ホリスティックヘルスコンサルタント養成講座と書かれていた。

長ったらしい講座だが、日本では初めてだ。
四月から第一期生を募集するけど、どうだね?
もちろん、受講させていただきます。
一学期が半年あり、私はそのまま3年間通った。

四月から北千住にある道場に通った。
スペース・ガイア・シンフォニーという空間だ。
先生の兄、龍村仁映画監督の「ガイア・シンフォニー」に同調している。
私は最初から指導者クラスに入らされていた。

受講生というより塾生とよんだ方がいいだろう。
ホリスティックな教えだ。
龍村塾というのがふさわしい(そうは称してなかったが)
その塾生のほとんどが教室を持っているヨガ講師だった。
龍村先生は、指導者を指導する立場だったのだ。
私は、相変わらず何も知らずに飛び込んだのだ。

やがて、龍村一族がどんなに特殊で凄いか知る事となる。
だが、当時はノーテンキの私だもの、何もしらなかった。
沖道といわれても、ヨガは初心者なのだ・・・
クラスでたった一人の初心者だった・・・
それだけに、予習復習をしないとついていけない。
私は、この3年間、かなり集中していた。
いわゆる、マトモモードだった・・・

私の他はほぼ全員が生徒さんを持っている先生だ。
それでもすぐに違和感が無くなった。
むしろ、私が知っている事や出来る事が多々あった。
多くの時間や経験をしていても、感覚は別な次元だ。

最初はそのことが不思議だった。
何十年もしていて、何故人の触り方が下手なのか?
何故身体の歪み等が一瞬で判らないのか?
氣の感覚が何故鈍いのか?

それらは私の考え違いだった。
得意な能力は生れ付きに近い。
練習や経験で伸びる分など、たかがしれている。
感覚はスイッチなのだ。

そのスイッチを押すまでが練習や修行なのだろう。
すぐスイッチが入った人は次の段階にいってしまう。
下の階段でウロウロしているのが不思議に思えてしまう。
私は、私の得意分野に関して努力や練習がほとんど必要なかっただけだ。
生命に関わる内容ならば、ヨガだろうが氣功だろうがスイッチが入る。
その代わり、苦手分野は努力する気もなかった。
社会生活を上手くする事などは、苦手・・・
私はすること、しないことがハッキリしていた。

キマグレでワガママな私だ。
ガマンできる根性があれば会社に就職している。
社会の落ちこぼれだから、自分の得意な分野でしか生きられない。
その得意分野が40過ぎるまで、私にはわからなかった。
そして、どうやら、やっと、みつけたようだ。
ワシ、この分野は、どうやら、かなり、得意、だ。

通常のヨガ(アサナ)教室なら先生だらけだ。
私は元々運動系は得意だから、アサナに苦手意識はない。
でも、このヨガをやりたいとかの気持ちにはならない。
これを他の人に教えたいとも思わない。
指導者よりも治療者なのだ。

ところが、龍村塾は違った。
ホリステック(全的)なヘルス(健康)を学ぶ場だ。
アサナの部分も瞑想の部分も当然あるが、もっと生命と向き合う。
通常のヨガ教室は、ややもすると体型作りか精神世界になりがちだ。
ここは普遍的な生命の観方、調整の仕方、更に医学的知恵を学ぶ場だった。
当然、西洋医学的部分もあるが、東洋医学、古代インド医学的な部分がある。
東洋医学には、中医(中国的)学だけでなく、和法医学があることも知った。
私は、本当に学ぶのが楽しかった。

龍村塾に夢中になりかけた頃、衝撃のニュース。
白髭の御師匠様が倒れた。
体験講演中の出来事だった。
脳内出血だという。
普段から血圧は高かった。

会場の長野から某病院に入院した。
親交深い帯津先生達が手をうってくれた。
5月の生駒講座をどうするか?
スタッフや代理や理事長の結論は開催。
もちろん、御師匠様の意見が大きい。

ここだ!と思った。
まだ一年とはいえ、私の人生を変えてくれた恩人だ。
私の行く方向を照らしてくれた恩人だ。
とても恩返しというほどではない。
それでも、スタッフとして手伝いたいと申し込んだ。
手は足りない状態だったので、すぐ受け入れられた。
そうして、一年ぶり3回目の生駒に出発した。

受講生とスタッフでは観る角度が違う。
とても多く、そして大きな学びがあった。
恩返しなんて、思い上がりもいいところだ。
嘗てブログにも一部書いたが、恩返しは未だすんでいない。

この年に氣功療法院として看板を上げることになる。
その後10年経って、やっとプロ側の世界に入ることができた。
その間、そしてプロになってからの大切な事を沢山学んだ。
その大きな部分に、この時の経験がある。
恩返しどころじゃないのだ。
またも、受け取るだけだった・・・

主催者側のスタッフとボランティアスタッフがいる。
もちろん私はボランティアスタッフ。
関西の人が多いから、1月の大震災の被害者でもある。
夜中の重病者の階を一緒に受け持った先輩がいる。
毎回、ボランティアとして参加している人だ。
その人の家も大きな被害を受けていた。

夜の重病者を受け持つ。
とても怖い。
死が身近な人達だ。
この怖さを経験させていただいた。
ギリギリまで、見守る見極めの怖さ。
何よりも厳しく、大切な態度。
それは、手を出さない、ということ。

手を出すのなら、簡単だ。
自分の出来る事をするだけなのだ。
だが、自分が出来る事さえも手を出さない。
その意味の大きさ、広さ、貴重さを、ここで学んだ。
人を、
人の生き方を、
人の運命を尊重するということ・・・

氣功をする張本人がいない講座。
それでも病人さんたちは回復していく。
ここでの生活指導する、常任講師の龍村先生の存在が大きい。
この建物は、御師匠様の様々な工夫がされている。
ただ居るだけでも回復が進むようにも造られていた。
後に、私の治療院も同じように工夫した。
何しろ私はものぐさなのだ。

スタッフ側にいると、戸惑いながら運営しているのがわかる。
ほとんど御師匠様に頼っていた講座だ。
当たり前だが、だからこそ、それぞれが懸命に考える。
倒れた白髭の御師匠様はどこかの病院か療養所らしい。
たまにファックスがくる。
だから、助かる。
そして、いつものように最終日前日になった。

御師匠様は当然だが、講座参加者と会っていない。
なのに名前と写真だけで、氣功師にする人、しない人を分けた。
これは御師匠様だけが決められる事だ。
写真は最初の日のものだ。
会っていないし、その後の変化も知らないはず。

理屈では疑問もあるだろう。
だが、私をはじめ、誰も不思議とは思わなかった。
私自身、10年過ぎてから判断できるようになった。
名前や写真だけでも、何となくならわかるものだ。
写真自体が変化するわけではないが、感じは変化するのだ。

感覚というのは、ある日急に開ける。
今はメールでも状態がある程度はわかる。
わかることなど、大して意味はない。
やたらに、勝手に係わるのは失礼だし。

それに・・・
所詮自分の判断だ。
それを信じ込むようになると、落とし穴。
自分の能力や感覚や考えなど、高が知れている。
常に、もう一人の自分側にもたたないと間違いが起きる。
だから、自分で悟った、進化したと本気で言う人は信用できない。
相手のことが、何でもわかるなんてのは、更に信用できない。
それは、無知か詐欺かのどちらかだ。

私は龍村塾で、自分が常に無知でアホだと気づいていた。
気づいていても、調子にのるけど・・・
その言葉は、一年前から白髭の御師匠様が言っていた。
人間は、5分先だってわかないアホなんだ。
自分が、他人が、自然が解ったなんて本気で思わぬことだ。
ホンの一部の一片くらいは、理解することもあるが。
と、常に戒めていないと、私も調子に乗るからなぁ・・・

とても書ききれないほどの濃い体験をさせていただいた。
そして講座の最終日に決意表明をする。
これから、どう生きるかを発表するのだ。
もちろん強制ではないから、迷っている人はそれなりに。
スタッフも同じく皆の前で一言話す。
私は、帰ったら氣功療法院を立ち上げると言った。

固い決意があったわけではない。
まだまだ何も解ってないと知っている身だ。
看板を上げるなど10年早い・・・
それはわかっている。
だから迷いも当然あった。
頭の片隅には、ひもじい日々の家族の映像も・・・

だが、アホのB型だ。
(単純な血液型で人を判断するほど無知じゃないけど)
言葉に出してしまえば、先に進むだろう。
見切り発車は得意なのだ・・・
もう引き返せない、とは思わないが引き返し難くはなる。
私は根性が無いから、とりあえず歩きださないと進めない。

講座中は、テレビも新聞も無い。
それでも世間を騒がしていたオウム狂団に進展があった。
一人屋根裏部屋に隠れていた狂祖が見つかった。
部屋にはウォーキングマシンやファーストフードがあったとか・・・
狂祖は凶祖となり、多くの殺人を指示した。
マジメな信者とは自分の判断が出来ない人達だ。
だから、マジメに実行した・・・
あの体型と態度で通常ならウソと判るだろうになぁ・・・

阪神大震災で皆が助け合おう。
自分に出来ることは何だろう、という年だった。
信者も狂会も狂団も狂祖も、自分が悟る為に生きていた。
だから、他の人や自然を壊しても平気だった。
悟る為なら、殺人も徳なのです・・・
そんな言葉を平気で信じるモノは・・・救われないぞ。

そう書いているが、私はホンモノのヨガと出会ってしまった。
だから、狂団に対しては、興味が無くなっていた。
つまらぬモノに反応している場合ではなかった。
私には、まだまだまだまだ、する事が沢山あったのだ。
その一つに、生駒山の探索があった。

どういうわけか私は管理人夫婦と懇意だった。
講座が終わっても部屋を使わせてくれた。
一日かけて、念願の一つ生駒山を探索した。
役の小角や空海が修行した場だ。
幾つもの滝場や篭もり穴の跡があった。
今は水も枯れて、場の氣も薄くなっていた。

何にも解らない政治行政が金儲けに走り山を壊す。
開拓と称し、貴重な場を破壊したのだ。
数十年前から、本当にアホになった。
本来の日本は場の氣を大切にし、恩恵を受けていた。
見えないものを感じられなくなったのは、頭でっかちだからだ。
学校の成績優秀者が政治行政のトップになる仕組みだ。
日本の未来があるわけがない。
今でも某東大に入る時から、日本を背負うつもりでいる。
日本の為を思うなら、官僚にならないでくれ。

無残に削られた山頂まで行って、ため息をついてしまった。
国宝、国光という意味が解らないなら商人になってくれ。
政治行政は広く深く遠くまで観て行うものだろ。
などと政治家や役人に波長を合わすから、私も氣が荒れてしまう。
直接空海の氣と触れるように(いい)氣を付けよう。

役の小角と空海に想いを寄せていたせいだろうか。
奈良市にいる知人から泊まりにくるよう誘いがかかった。
一緒にボランティアをした夫婦だ。
泊まるつもりはなかったが、夕方に伺う約束をした。

ビジネスホテルをとって、朝からレンタルサイクルで市内を回った。
奈良公園や大仏様など見てまわり、フッと看板に気づいた。
そこには「奈良国立博物館・開館100周年記念」とあった。
仏教美術秘宝公開だという。
当然、引き寄せられるように入った。
そこに、空海の書があった。
書から湧き出る氣があった。
空海のものだと直感した。
一時とはいえ、空海を感じていたのだ。
私は、ラッキーだった。

空海だけでなく、普段は未公開の書や仏具や仏像と出会えた。
たまたま訪れたのに、私は、なんてラッキーなのだ。
更にラッキーは続く。
知人宅で御馳走になり、中国自動車道が復旧したニューズを聞いた。
大震災で不通だったのが開通したのだ。
それで白髭の御師匠様が作った姫路の保養所に行ける。
そこに居るだけで、病が回復するように作った施設だ。

早速次の日、姫路に向かった。
高速バスから見える大震災の無残な痕が生々しかった。
まだまだ復旧など、かなり先の状態だった。
とてつもない災害なのだ。
常に不安定の大地が日本という国土なのだ。

姫路の保養所にはピラミッドハウスがあった。
内部は全て板張りで、その中心で瞑想させていただいた。
普段眠っている勘が働き、内部にいた他の人に私を写してもらった。
当時は銀塩写真(ネガフィルム)だ。
多分、いや、きっと「氣」が写っている。
後日現像にまわして、私の手から二つの白い玉がはっきり写っていた。

その後の記憶があまりないが、多分、まっすぐ帰ってきたのだろう。
この年から3年間は龍村塾に懸命になった。
かなり集中していたと思う。
覚える事、憶える事、知りたい事、気づく事が目白押しだ。
充実していて、私は幸せだった。
だが、収入の途絶えた我が家は窮屈な日々だったろう・・・

忙しかったバブル期が終わりになっていた。
大震災やオウム狂団の末期的な事件が続いた。
それでもバブル期の感覚が残っていたのだろう。
まだ、お金にマヒしていたようでもあった。
私も借金なんか怖くない、と思っていた。
そして、借金でインドセミナーに行った。
(これは記憶違いで、本当は翌年の1996年)

聖地と聖者に出会うセミナーだ。
よくある、アヤシイセミナーとは違うぞ。
龍村先生主催なのだ。
主に南インドだった。

そこで、アーユルヴェーダの病院を訪ねる。
もちろん、東京で基礎勉強はした。
だが、そんなの基礎の基礎の基礎だった。
アーユルヴェーダは深く広すぎて、表面の一片しか触れられない。
それが、よくわかった。
私は氣功とヨガで手一杯だ。
面白そうだが、アーユルヴェーダを学ぼうとは思わなかった。

それでも院長のクリシュナ先生の講義は日本に帰ってきてからも受けた。
クリシュナ先生は天才の一人だろう。
日本では某医学大学で西洋医学を学び、博士でもある。
インドでは院長であり、日本では後にアーユルヴェーダ学校長となる。
まだ40代でハンサムでスタイルがよく日本語のジョークも上手い。
日本語の字も上手い。
英語もヒンズー?語もナントカ語もできる。
天才は魅力があったが、それ以上は追えなかった。

商売の才能が無い私でも何とかしてくれた土産店。
アホでもお金が回ったバブル期。
ついに店を改装して治療院にした。
もともと天井が高めに造ってあった。
だから床を上げて、ヒノキ板にしても違和感がない。
治療室はカーテンで仕切っただけだ。
予約制にして、同時に何人も入れるつもりはない。
(ヒマでそんな心配は取り越し苦労だったが・・・)

白髭御師匠様の真似をして、床下には氣入れした水晶を入れた。
私は最初から「氣入れ」するのが得意だったのだ。
(きちんと出来ない氣功師がほとんどみたい・・・)
御師匠様の氣入れ水晶(高かった)も幾つか入れた。
木炭も敷き詰めた。
気まぐれに書いてあった般若心経の写経した紙も入れた。

床上には隅に水晶で結界を張った。
三重の結界にしておいた。
天井には御師匠様のピラミッドを吊るした。
屋根裏にも水晶や写経した紙をばらまいた。
玄関にも結界をした。

何しろ私がするのだ。
「場」を整えておかないと、危ない。
私は、まだまだ私を信用していなかった。
それが、先に進めた要因だったと知るのは数年後だった。

氣功療法院などという看板を上げても怪しげな時代だ。
ほとんどクライアントさんは来ない。
治療を商売の道具として経営する治療師も医者もいる。
それは良悪ではない。
仕事の姿勢や生き方の話しだ。
それにより暮らしていくには、経営という立場も大切だ。

例えば大工さん。
工務店として経営するには商才が必要だ。
腕さえよければ仕事が舞い込むわけではない。
雇われている職人なら腕がものをいう。
だが店を持つ立場なら、経営の勉強がものをいうのだ。
まして従業員を雇っているならなおさらだ。

ところが職人気質が強い場合がある。
雇われているなら、まぁ問題ない。
店を持つ側になると、大きな問題がある。
仕事の質を追いかけるのが優先するから、経営が上手くいかない。
私がそうだった。

私には、幸い従業員がいない。
(たまに弟子にしてくれ、という人はいるが・・・)
追いかけるだけ、追いかけてしまう。
苦労するのは家族、主に本妻だけだ。
看板を上げても、治療院経営は最低の腕だった。
それは今もほとんど上がってない・・・

龍村先生は自分で講義するだけではない。
交流の広さから、一流の先生(ほとんど祖の立場だ)が来る。
アーユルヴェーダも日本ではクリシュナ先生が最高だろう。
クリシュナ先生の他の主催の講座にも出席させていただいた。
和法の東洋医学の伊藤真愚先生。
もう故人となってしまったが、10回講座を丁寧に教えてくれた。

ワイル博士で紹介された頭蓋仙骨療法。
講師は前田エリ先生。
アメリカ、オランダ、ドイツから帰国したばかりだった。
祖であるアプレジャー博士から直接学んで習得した人だ。
日本では最も本流の人だろう。

医学系だけではない。
合気道・神道・宗教学・環境学。
癒し系音楽では、宮下富実夫氏が何回か来てくれた。
ホンモノを真近くから聞くと震える。
聞くというより直接響くのだ。
その宮下氏ももういない・・・
もちろん長兄の龍村仁映画監督もちょくちょく講義をしてくれた。
まだまだガイア・シンフォニーが発展途上の時期だった。
二時間の映画の背景はとんでもない世界が広がっている。

身体は毎日変化する。
当たり前なのだ。
その方向を統一すれば、たちまち変わる。
ヨガのポーズなど、毎日家でもしていた。
半年もしないうち、他の塾生とそれほど差もなくなった(と思っていた)。
何しろ指導者クラスだ。
皆さんはベテランの先生達だ。

届かない手が届く。
まわらない軸がまわる。
もともと瞑想は20年くらいしていた。
精神世界の怪しさも知っていた。
治療に関することは、私の方が専門だった。
教えていただく内容は、私が覚えたい事ばかりだった。
私は、かなり濃い時間を過ごしていた。

そして、1995年の暮れ。
白髭の御師匠様が逝った。
倒れてから三ヶ月で復帰した。
ある程度未来を観る人(信用できる人)が言った。
半年は復帰してはいけない。
すれば、半年後にこの世から出なければならない。
それなのに三ヶ月で活動し始めた。
そして、倒れて半年後、逝った。

復帰してすぐの頃は右足をひきずり、発音も不明瞭があった。
やがて、セミナーでも違和感なく話し出した。
入院中に多くの看護婦さんに氣功した話。
身体が不自由でも、氣功には全く影響ない。
自分の氣を使っていない証明になった。

そして氣と心の関係を多く話すようになった。
そこに気づくと、氣功能力は更に上がった。
もう手も出さず、見るだけで氣功療法をしていた。
いや、氣功で治療するのは意識的に少なくしていた。

病になり苦しむのも、その人の大切な人生。
病には病の存在理由がある。
他人の自分が簡単に治してはいけない。
病を簡単に奪ってはいけない。
入院中にそう気づいたのだそうだ。

それでも理屈より性分というものもある。
十数年歩けなかった人が目の前にいた。
本当は簡単に治してはいけないのだが・・・
と言いながら、こんな事が出来る、と足を見た。
立ってごらん。
そ、そんな、無茶な・・・自力では立てないのに。
で・・・立っちゃった。

御師匠様が飛びぬけて凄いのは知っている。
セミナー会場は満員の200人。
今までも奇跡的激変を何度も目撃しているのだ。
それでも凄いと思う。
人が変わる瞬間は感動する。

あまりに驚くと声が出ない。
その人は、しばらく何も言えなかった。
ありがとうございます、の言葉が出なかった。
そして、号泣した。

御師匠様は以前と同じく、普通にニコニコしていた。
セミナーでは発表できない大きな出来事にも係わったようだ。
それが何なのか、私には未だにわからない。
本人は逝くことも予測していたのだろう。
だが、私達には突然だ。
突然だったが、驚きは少ない。
そして、納得もしている。

御師匠様というのは、私の理解を超えているから御師匠様なのだ。
知らない事を教えてくれる先生とは違う。
私には白としか思えなくても、赤といえば赤だと納得する。
赤と思えなくても、多分赤なのだろうと納得する。
いつか赤だとわかるだろうと、納得する。
だから、突然逝っても、納得するのだ。

故御師匠様によって氣功師の体に変えられた。
扱える氣は、宇宙のどこかから反応するらしい。
通常は周波数が高すぎて使えない。
それを故御師匠様がトランス(変換機)になってくれる。
だから霊性だか周波数だかの低い私が扱える。
というような説明だった。

故御師匠様が逝っても、サポートはするから心配ない。
そうも言われた。
本当の事はわからないし、確かめられない。
事実として、その後も何の変化なしに使える。
(変化はあるが、その説明はまたの機会に)

あれから17年。
私は未だ氣功師として使っている。
チョンと頭を触られただけなのに・・・
いかに偉大だったか、私の17年が証明している。

不真面目だし、出来の悪い弟子だと思う。
自分を高めようなんて思わないままだ。
それでもプロとして氣功療法を続けていられる。
徐々にだが、広く、深く、強くなっているのもわかる。
この氣は、不真面目でもスケベでも関係ない。
その時は、私の氣を使っていないからだ。
私の体調や心が悪くても、切り替えられる限り使える。

そして、私のようなナマケモノでも17年も続けているのだ。
それにより身体や精神や心が改善された人も結構いるようだ。
それら全ての成果は、故御師匠様がきっかけだった。
私が不出来でも、事実として故御師匠様は超偉大だった。
言葉で説明できないほど、超超偉大だった。

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龍村塾



年が明けて1996年。
あれ?
私は年号を間違えていたみたい。
南インドに行ったのは今年。
1995年ではない。
1995年夏は合宿だった・・・

そうだった。
龍村合宿はどういうわけか群馬だった。
私の近くだった。
合宿が終わってから、龍村先生と数人が私の治療院まで来た。
そして私の実家の近くの島神峡まで案内した。
実家には寄らなかったが、私の母が居間から見たようだ。

後日、母は言った。
龍村先生というのは、恰幅のいい方だねぇ。
まるで大国様のようだった。

龍村先生は私よりも細い。
一緒の合宿仲間も恰幅のいい人は誰もいなかった。
母は否定していたが祖母の血を引いていた。
時々、見えないモノを見てしまう。
本人は本当に見ていると信じている。
私は感じるが見えない。
龍村先生の本性が明王系だというのは私が気づいた事だ。
大国様の本性も大黒天という明王系だ。
(ちなみに私もどういうわけか明王系・・・)

人が生きるのは菩薩行という言い方もある。
誰でも菩薩だが、段階がある。
誰でも人だが、人として自覚するのは段階がある。
私はあまり自覚したくないのだが・・・

菩薩であり菩薩行なのだが、少し役割が違う場合がある。
菩薩行を妨げるヤツを防ぐ役目がある。
それを明王系という、らしい。
私のような天職と出会ってしまった人は明王系のようだ。
不真面目なんだけどなぁ・・・・

とにかく母にはそう見えてしまったらしい。
そう見えたのだから、細いんだよ、といっても納得しない。
私がやっと正体を見抜いたと思ったら、母は一瞬だった。
普段のんびりしているが、時々鋭い・・・
霊能者の祖母がそうだった・・・

1996年、1月後半から2月5日までが南インドだった。
半袖で一日中いたところから、豪雪の治療院・・・
屋根から落ちた雪が屋根まで続いていた・・・
このギャップはすごいなぁ・・・

その次ぐ日の夜中、従兄弟から電話。
叔母が危篤だという。
母のたった一人の本当の身内(妹)だ。
私はすぐかけつけた。
衰弱して、嘗ての美人の叔母ではなかった。

姉に連れられて母もかけつけた。
言葉にならない叔母と母。
私は叔母の足から氣功していた。
少しでも長く、と。

3時過ぎくらいだろうか。
叔母は逝った。

この頃から特に母の昔からの知り合いが旅立つ事が多くなった。
叔母は75歳になる年だった。
母は病弱だが、叔母はいつでも元気で明るかった。
考え方もラテン系だった。
いつから、こんなに衰弱していたのか、全く知らなかった。

後に人の最後に立ち会う機会が多くなって気づく。
人は僅かの日にちで変わってしまう。
一日で大きく変化する。
昨日と今日では、大きな違いが出てしまう。

変わるなら、変われるなら、回復方向、還元方向、元気方向に。
その手伝いが、私の仕事なのだ。

結果的に母は、元気だった叔母より20年長生きしてくれた。
大人になれない、子供は産めない、30歳まではもたない。
40歳は無理だろう、50歳がいいとこ、還暦は迎えられまい。
そう言われ、自分もそう思っていた母だった。
母自身も、生命の不思議さを実感してくれたと思う。

龍村塾も二年目に入った。
龍村先生は私の中で龍村師匠になった。
毎回講座を受ける度に畏敬する。
とにかく底が深い。
時間と共に深いことを実感する人だった。

この時期は、私は十倍の濃さで勉強したと思っている。
一年で十年分の体験体感気づきをしていた。
それは振り返ってからわかる。
通常の勉強ではなかった。
おそらく一生のうちでも、そうは出来ない濃さだった。
ナマケモノの私が自信を持って十倍だといえる。

故御師匠様は偉大だった。
あきらかに普通の人ではなかった。
それは体質とか生れ付きの運命とかいう部類だ。
龍村師匠も普通の人ではないし、普通の一族でもない。
確かに龍村一族として感覚が一段優れている。
が、努力や精進で偉大になった人だと思う。
だからこそ、その底の深さに畏敬する。

後に龍村合宿に私を講師として招いてくれた。
仕事が無くヒーヒーしている私を気遣ってくれたのだろう。
不肖の弟子だからこそ、気遣ってくれる。
不出来もなかなかいいものだ・・・

治療家としてヒーリングに関して講義した。
同じ講師として龍村師匠から学ぶところも大きい。
雰囲気の作り方、声の出し方、タイミング、内容の構成。
お蔭様で、その後たまにする教室やセミナーなどに活かせた。

この年も母は寝込むことなく、安定していた。
たった一人の妹を亡くしても、寂しいそぶりはしなかった。
語り合ったことはないが、死に対して一つの見解があったのだろう。
自分自身が子供時から死の近くにいたこともあるのだろう。
母は最後の日まで、恐れを抱いていたとは思われなかった。

龍村塾に通いつめ、やがて1997年になった。
故御師匠様が逝って一年過ぎたが、私の氣功はそのままだった。
最初は、故御師匠様を中継して私達が使えると説明された。
肉体は亡くなってもフォローしてくれている、と思っていた。
亡くなった当初は、私もそういう感覚だった。
いつも身近に白髭の故御師匠様を感じていた。

一年過ぎ、少し変わってきたように思う。
どうやら、直接中継できるようになっている。
きっと亡くなっても、故御師匠様は忙しい。
やりたい事が沢山あるのだろう。
いつまでも不肖の弟子の面倒など見ていられるか。
お前ら、もう自分で中継しろ。

一年間はフォローしてくれたと思う。
そして、自立させられた。
私は不肖ではあるが、何しろ天職だった。
一年間で充分次のステップに上がれた。

この時期から、氣功が出来なくなった人が多くいる。
10年すぎると、出来る人はかなり少なくなっていた。
(プロとして通用する氣功の話だ。
多少の氣功など誰でも出来る)

龍村道場では、その道のトップの多くの先生から教わっていた。
林厚省師も来てくれた。
2年前に生駒と上海で教わった太極氣功18式の二套(とう)目だ。
通常は第一套で、それで充分な氣功法だ。
二套まで進む人は趣味かマニアだろう・・・
私は一応教わったが、現在やはり一套しか出来ないし教えられない。
それで、本当に充分素晴らしい保健氣功法なのだ。

林厚省師は、相変わらず精力的だった。
そして、相変わらず超美人の弟子を連れていた・・・
しかも・・・二人・・・
氣功も様々だが、一つの方向では世界一だろう。
この保健氣功は、後に東洋医学を学んでから更にその凄さを認識した。
い、いや、まだ認識しきれていないだろう・・・
超美人の弟子の10人くらい当然だ・・・

そして七月。
私は出会いに恵まれている。
師匠を二人も持てることにも恵まれている。
多くの特別な先生方から教わる事も恵まれている。
全てラッキーだと思う。
そういう中でも、生涯で超特別な機会が訪れた月だ。
私は再びインドに行った。

40度を超えるインド。
暑いが嫌な暑さではない。
今回はダラムサラにあるチベット亡命政府に行った。
昨年は南インドだが、今回は北のネパールに近い。

ダラムサラは当時のインド首相がダライラマ法王に提供した地だ。
チベットは4000メートル級の高地。
出来るだけ高地を用意してくれたのだろう。
それでも上のダラムサラでも2000メートル弱だった。
(上下のダラムサラがある)

ダライラマ14世法王との謁見。
出来るかどうかは不明。
通常は政府関係者か宗教関係者のトップしか謁見できない。
法王が直観(直感ではない)で決める事だ。
誰にも予測は出来ない謁見だった。
(謁見だけでなく法王の行動は誰にも決められない)

それでも一般の我々が謁見申し込み出来たのには理由がある。
龍村師匠と龍村一族だからだ。
中国を亡命した事実をアメリカに紹介したのは師匠の実姉。
ヒリヤー・和子・龍村さんだったのだ。
そして、そこから全世界がチベットを知ることになった。
その恩から、法王は和子さんに自分の名の一部を贈った。
数ヶ月前、ニューヨークで和子さんと龍村師匠は法王にお会いしている。
そこで今回の謁見をお願いした、というわけだ。

謁見できなくても充分だった。
法王が我々の為に特別に手配してくれた事が幾つもあった。
その一つがチベット仏教特別講座。
ダラムサラにはチベット仏教大学がある。
そこにも訪問させていただいた。
その学生でさえ教えてもらえない高僧が来てくれたのだ。
幼い法王を教えた高僧だ。

もちろん我々は何も理解してない初心者だ。
その我々にチベット仏教の真髄を優しく話してくれた。
優しく解説してくれていても、内容はとても濃いのだ。
通訳には現地で暮らす日本人の魅力あふれる女性。

特別講座は我々がダラムサラを去る日まで続いた。
その事だけでも、どれほど幸運なのかは理解しきれてない。
とてもありえないほどの幸運だったのに・・・
何故なら、この期間は幸運の目白押しだったのだ。
幸運にマヒしていた、我々凡人の一行だった・・・

数年経って、龍村師匠が言った。
その後も何度かダラムサラに行って謁見もした。
だが・・・あんな幸運はあの時だけだったよ。
そういうマレな機会に恵まれていたのが、普通に思えていた。
未だに、その幸運を活かしきれていないのだ。
私は・・・アホだった・・・

朝行をしている御寺にも参加させていただいた。
低音の独特の読経が響いている一隅にそっと座る。
チベット読経の中に包まれて瞑想だ。
とても、とても贅沢な瞑想だ。

瞑想は冥想の入り口。
すぐに読経の意味が入り込んでくる。
こ、これは、平和への祈りだ。
そして、写真を撮れという感じがした。
我々と違い、居心地悪そうな添乗員を呼んだ。
我々を含め、瞑想中の写真を撮るようにと。
後に現像された写真には「真っ白な氣」が大きく写っていた。
(当時はデジカメではない)

至福というのは、こういうものか。
この時の読経に包まれた感覚は今でも感激できる。
本当の平和への祈りというのは、幸せの祈りでもある。
調和の祈りでもある。
「私が扱う氣」の本質とも同調する。
気持ちいいのは、当たり前だった。
私ももっと大きく中継できれば、至福まで行けるのになぁ・・・

TCV(チベット子供村)も見学させていただいた。
幼児から高学年までの子供達だけの合宿制学校だ。
子供達だけでも亡命させたいという多くのチベット人がいる。
弾圧や民族破壊の侵略されたチベットの切なる思いの親達だ。
子供達だけでヒマラヤを越えて来た子供達だ。
皆が力を合わせて、子供達だけの地域で育っている。

私達は、ほんの僅かの筆記用具やノートを寄贈させていただいた。
その歓迎会に出席するのが恥ずかしいほどだった。
だが、ここの子供達は本当に素直で透明な心だった。
純粋に歓迎してくれた。
心の汚れた私達を・・・

私達は貴人という子供達に会った。
魂は年齢に関係なく、貴い人は貴い。
どう見積もっても、私より遥かに遥かに貴い。
法王は、チベットの子供達をピースヒューマンに導いている。
自分達の現状は厳しくても、世界への平和の為に生きている。
まいったなぁ・・・私でもマトモになる・・・

ノルブリンカというチベット歴史博物館を見学した。
チベットにあった嘗ての王宮の名前だ。
大曼荼羅図には、歴代のダライラマも描かれていた。
中心の御神体は男女交合神だ。
これが宇宙の調和の姿であり、仏教の本質。
あらためて、考え、感じ、気づくことがある。
生物、人間には雌雄(男女)がある意味・・・

亡命政府とはいえ多くのチベット人達の国だ。
産業の一つとして、オーダーで曼荼羅図を描いている。
その他にもチベット民族としての伝統産業を生業にしている。
伝統を壊滅させるような某日本のやり方とは大違い・・・
科学や産業が一見発達しても、性根が腐っていてはなぁ・・・
私もダメ人間だが、それほど(政治行政)腐ってはいない・・・
と、一応自負しているけど・・・メクソ、ミミクソかなぁ・・・
本当に、いろいろ、いろいろ、考えさせられてしまう。
ここにいると、マトモという波動が起きてくる。

誰と出会っても笑顔で挨拶がくる。
インドに降り立ってから、道行く人や店の人に笑顔はない。
普段はどうだかしらないが、無表情。
インド人の心の中はわからないが、我々への笑顔はほとんどない。
だが、チベット人は優しく、はにかみながら、必ず笑顔になる。
なんという優しい気風なのだろう・・・

チベット医学についても講義していただいた。
3元と5属性の考え方はアーユルヴェーダの流れだと思う。
(そうは言ってなかったが・・・)
アーユルヴェーダ医学と密教仏教医学。 融合してチベット医学になったのではないかと思う。

本当の生薬のあり方に感心させられた。
採取する日にち、時間。
何よりも、その植物との対話。
そして双方の納得から採取するのだ。
もちろん、真言は随時唱え波動合わせをする。
更に、採取してからも真言で調和。
それは、丸薬や粉薬になるまで何度も繰り返される。
つまり、単なる成分ではないのだ。
だから、生命に効く。
薬のあるべき姿が、ここにはあった。

検診術もとても深い。
療術を目指す者としても、深すぎて、わからない。
手への触診だけでも2000項目があるとか・・・
これに比べれば、現在の東洋医学の触診など子供か幼児レベル・・・
畏れさえ抱くような、底の深さがここにはあった。

脈(と多分、氣だろう)を診るだけ。
何年前の何月何日頃何が起こっていたかを言う。
ものすごい、微妙な感覚で診る。
今の氣のプロとしての私でも、遥か遠い境地の感覚だ。
私には・・・無理だろう。
その前に、私の治療は診る事を重要視してないけどね。
診ても診なくても、することは同じだから。

幾つかの御寺を案内していただいた。
ある寺ではチベット版般若心経を唱っていただいた。
そして、日本版般若心経を紹介した。
五体投地も一緒にさせていただいた。
これら一通りは龍村塾でしてきたから全員できる。
(全員ではないが、まぁ、だいたいできる・・・)
どこに行っても法王からの伝達があったようで特別扱いだった。

そして、特殊なネチューン寺に案内された。
チベット仏教は活仏(生まれ変り)を優先する。
ネチューン神ともいわれる、ネチューン・クテン師にお会いできた。
クテン師はチベット国と歴代ダライラマの運命を握る活仏様だ。
最重要な超特殊であり、秘寺秘仏でもある。
なにしろ寺自体が、特殊であった。

氣を扱う私のような人だけでなくても、その氣を感じる。
中に入っただけで、その氣の濃さに誰でも気づくほどだ。
建てる時から材料や道具、法具、仏典、その他全て。
おそらく真言を媒体にして氣入れしてあるのだろう。
そして毎日の行により、常に守護してある。
すごい、としかいいようのない場だった。
これほどの(いい)氣場は今まで入った事がなかった。

活仏だから年齢は関係ない。
血筋も関係ない。
現在の法王もそうして選ばれた。
だからこそ、活仏だと認めるには多くの試験がある。
とても厳しい試験だ。

科学的でないから迷信だ、というようなアホの口出せる次元ではない。
そもそも科学的という考えが発展途上なのに結論出せるわけがない。
科学は日進月歩している。
つまり、いつでも発展途上の出来損ないという立場なのだ。
まぁ、そんなモノにとらわれている人達は置いて・・・

先代のネチューン・クテン師は少年の法王と共にチベットを脱出した。
そういう神託があったから、現在も厳しいながらもチベットは存在する。
そうでなければ、冷酷な中国はチベット抹殺に完全成功していた。
ただし、この神託を中継するクテン師の生命はとても負担がかかる。
少しの油断で命を落としてしまうのだ。
年に二度以上は出来ない。
長生きも期待できない活仏なのだ。
そして、先代は亡くなった。

現在のクテン師も活仏として存在している。
数多くの活仏がいるチベットでも超特殊だ。
ある意味法王よりも特殊な活仏様なのだ。
チベット国とそれを統制する法王に神託する立場だ。
法王もチベット国の運命を握るが、表側だ。
(世界の運命も握っているが・・・)
クテン師は裏(秘密)側の最重要活仏なのだ。

そんな最重要な立場の高僧だが、なにしろハンサム。
いいオトコなのだ。
普段は多くの生徒を持つ先生達がツアーのメンバーにいる。
一応先生といわれても、ただのオバサンだ。
私だって先生といわれても、アホなオッサンだ。
国会議員なども先生といわれるが、卑怯なジジィが多い。

活仏に触るなんて失礼なのだが、ただのオバサンには通じない。
ハンサムが近くにいれば、失礼など関係ないのだ。
何故、オトコとオナゴが存在するのか、その影響はどうでるのか。
私は普段先生のオバサンたちがハンサムに群がるのを見て哲学する・・・

幾年も精神を調整するヨガや精神世界を学んでも、そんなものだ。
精進し昇華した久米仙人でさえ、オナゴの裸に負けるのだ。
私だって二十年以上学んでもロクデナシのままだ。
その自覚があるうちは、まぁ、良しとしよう。
幾年も学ぶと、つ、つい自分が進化したと勘違いする。
そうなると、とてもアブナイのだ。

クテン師も驚いたろう。
やたらに人前には出ない特別な高僧だ。
チベットを左右する存在だから超丁重な接し方をされてきた。
そ、それが・・・
アイドルのようにオバサン達(し、失礼)に触られるのだ。
周りの僧達もどうしていいのかわからない。

だが、さすがは超大物活仏様。
私達がダラムサラを去る夜に謝礼会を開いた。
そういう席には絶対出ないとされている高僧が出席した。
更に、絶対出ないはずのクテン師が出席された。
事情を知っている添乗員などは驚きっぱなしだ。
あ、ありえない!!!

そして、その時には私もクテン師に握手した・・・
龍村師匠が紹介してくれ、私は握手に氣を送った。
もちろんクテン師は瞬時に感じた。
あなたは、どういう人ですか?
師匠が氣を扱う治療者だと説明してくれた。
私は、クテン師が私の能力を認めてくれただけで満足だった。

その後、やはり、クテン師がそういう場に出席はしない事を知った。
法王からの様々な特別扱いの指示があったとはいえ、やはりありえないらしい。
クテン師自身が、何らかの気まぐれが起きたのだろう。
もう一人の超高僧も気まぐれが起きたのだろう。
それ以外に説明のしようがない出来事だった。
更にアンビリーバボーは続く・・・

7月6日は法王生誕祭だった。
小さなダラムサラのあちこちでも祭りの出し物などがあった。
ある広場では、僧達のアクション付の公開問答。
言葉はわからないが、真剣ながらも開放的な問答だった。
チベット(亡命国)は外国を借りている身だ。
いろいろ不便も圧力もあり、見通しは悪いだろう。
だが、何ともいえない優しさからは不幸の雰囲気はない。
法王が守り、僧達が守り、信頼があるからだろう。

誕生日を挟んで法王は一人冥想に入ってしまうらしい。
10日間だといわれている。
ということは、我々との謁見予定日は冥想中。
さて、どうなるかは誰にもわからない。
法王の行いには、当然誰も口を出せない。

私もあちこち巡り、通常のマニ車や巨大マニ車を回した。
マニ車というのはクルクル回る真言経典。
回すだけで真言を唱えたと同じ効果という便利な代物。
真言が生活の中に楽に溶け込む発明品なのだ。
一応、オン・マニ・ペメフムと言いながら・・・
何とも楽しいものだ。

ニューヨーク在住の龍村師匠の実姉、和子先生はインドで合流した。
そして一緒にダラムサラに随行してくれた。
和子先生がいるから法王も便宜をはかってくれたのだろう。
現チベットの恩人として。
そのヒリヤー・和子先生(現在は博士)はエネルギー値が高い。
その為、どうしても迫力が出てしまう。
年齢不詳とはいえ、当時60歳前後だが、見た目も含め30歳代で通る。
何故か私とは相性がいいと思った。

ついに法王との謁見前夜だ。
和子先生と謁見時の質問の整理をしていた。
メンバーから事前に質問を受け付け、その中から選抜していた。
この時点でも、本当に明日謁見が実現できるか確定していない。

私の質問は
人は生まれ変わっても因果の続きを体験するとされている。
それは自分の因果だと仏教では説いている。
だが、その因果は他人の因果ではないか?
というのが趣旨だが、この説明はかなり難しい。
だって他の因果を経験するほうが仏教に即していると思う。
現実にも即していると思う。

だが、だが、その趣旨を説明する、また理解するのは困難だ。
今でも私はこの考えの方が真髄だと思っている。
一般的な仏教解説では、一度も読んだことがないが確信がある。
仏教は理解度により、解説が違うのが当たり前だ。
公での法王の解説も因果は自分のものとしている。
だから、この場でこの質問をするのは微妙なのだ。
それでも和子先生は、最初にぶつけてみよう、と言った。

謁見日。
本当に法王は瞑想を解いてくれるのか?
それぞれが着替え、法王の館着いても誰もわからない。
しばらく待ち合い室にいた。
それから身体検査。

この館の門番はフランス人だった。
その道のプロが守っているとはいえ、決して厳重とはいえない。
門だって厳重とは、とてもいえない。
某国家暗殺者が本気で攻め込めば、簡単かもしれない。
多分、いままでも暗殺者はあったろう。
だから、一応プロの守衛がいる。

身体検査もそういう目的だ。
プロだから、ある意味簡単だ。
我々のメンバーなど、簡単に見抜いているのだろう。
とはいえ、開放的な法王とチベット国がこれだけ警戒している。
幾度、危ない出来事があったのだろう。
特に某中国やその支援国家からの暗殺者は未だに法王を狙っている。

他の国の元首のように、強面のボディーガードなど引き連れていない。
どこにでも数人の僧達と共に移動する法王だ。
気軽に人前に出てしまう法王だ。
暗殺者達の近くまで、平気で出てしまう。
それでも、現在まで生きている事実。
偉大な何かに守られているのは、間違いないだろう。
幾重ものガードをしていても、某大統領などは襲われるのだから。

謁見の間に案内されると半円形に席が用意されていた。
我々が着席すると、まもなく法王が現れた。
やや壇上に法王の席がある。
だが、そのまま付き添いの僧に言って席を下ろした。
我々と同じ席に混じってきたのだ。
これほど気さくなのか、と思っていた。
後に、やはり超特別だったと知った。

法王は英語を話せる。
ヒリヤー・和子先生は日常会話が英語だ。
龍村師匠も何とか話せる。
メンバーには通訳が出来る人もいた。
だが、専門用語と微妙な解説だ。
チベット語から英語に通訳する専門の僧がついた。
そこからは、和子先生がほとんど通訳してくれた。

法王を囲む形で話が進んだ。
まず法王の話。
そして和子先生が代表して法王に話す。
それから質疑応答の時間になった。
通常の謁見時間は5分〜10分といわれている。
だが、30分の時間をいただいていた。

最初に私の質問だった。
法王の答えは案の定だった。
因果は本人に属する。
本当はもっと突っ込みたかった。

それは変だ。
今のダラムサラに暮らすチベット人。
法王をはじめとする高僧達。
かなり厳しい状況だ。
チベットそのものが滅亡するかもしれない。
因は残酷で身勝手な某中国だ。
だが、果を背負っているのは優しいチベット人達だ。
だから因果は本人に属さない。
これが、私の言い分なのだ。

だが、時間の制限がある。
私の質問はかなり仏教の根源に触れる。
通常の解説から外れなければならないだろう。
すると時間がかかってしまう。

私は、引き下がった。
本音や趣旨は伝わらずとも、お会いできたことが重要なのだ。
自分の質問の内容の答えなど、取るに足りないモノなのだ。
本当に素晴らしい機会に恵まれた事。
それだけで、充分すぎる。

私なりに仏教を研究した。
そして仏教の真髄は慈悲だと思った。
愛のとらえかたにもよるが、慈悲を愛と訳すと軽くなってしまう。
悲しさを慈しむ。

悲しさとは、本来のキリスト教の原罪を指すのかもしれない。
それは、他の果を生まれながらに引き受けるからだと思う。
自分の因果の清算、あるいは昇華の人生なんて独りよがりだろう。
何故、この世が違う波動帯のモノ達と一緒なのか。
(物質・肉体界だということ)
答えは独りよがりの世界ではないからだろう。
ならば、因果を自分に限定するのは変だ。

生きているだけで他の果を背負う。
生きているだけで、慈悲を体験する。
それならば仏教の真髄となる。
生きることにこそ、価値がある。
そうでなければ、この世は地獄という解説になってしまう。
(そういう解説の宗教家は多い)
だから仏教の根源にかかる質問になってしまうのだ。

中には法王には絶対しないような質問もあった。
和子先生だから、あえて入れたのだろう。
それに対しての法王の答えも人間らしい一面だった。
もちろん、内容にかんしては内緒だよ。
それも、私の宝物だ。

予定の時間はどんどん過ぎる。
法王がすることなので、誰も何も言えない。
法王も久しぶりに、気楽な姿をしたかったのだろう。
謁見時間は一時間半におよんだ。
初めて会う人達への謁見では、ありえない長さだ。

法王は、一人一人にカタ(儀礼用白布)をかけて下さった。
そして、手渡しで小さなブッダ像もお土産に下さった。
それらは、その都度法王の額に触れてから下さった。
そして、手を優しく、しっかり握って下さった。

ツアー全員分の数珠を用意していた。
それに祝福を授けてくれた。
ブレッシングという。
法王は何かつぶやいて、息を吹きかけた。

私にはすぐわかった。
まさしく「氣入れ」だ。
言葉(おそらく真言)で波長合わせする。
息で氣を入れる(記憶させる)。

そうだったのか。
ブレッシング(祝福・神仏の加護・祈り)とは「氣入れ」なのだ。
それならば、単なる言葉の羅列ではない。
それならば、実際に守護することができる。

逆に言うと、
「氣入れ」出来ない僧や神主や神父が何をしても言葉だけだ。
実際に氣を動かせて、祝福の言葉や神仏の加護となるのだ。
実際に出来る人が何人いるのだろう。
形式ばかりの宗教家は、ゴマンといるのに・・・

最後に全員で記念撮影。
これも異例なのだろう。
お付の僧達が慌てていたのを私は目撃した。
何しろ、法王を囲んで普通に撮影した。

ツアーのメンバーはそれぞれが教室を持つ先生だ。
(テレビにたまに出る西洋医師も僧侶も鍼灸師もいる)
それなのに、ただの怖いもの無しのオバサンと化した。
法王を普通の有名人のように、我先にと押し寄せた。
なんとノウテンキなのだろう。
私も通常はひけをとらないが、法王に対してそうは出来なかった・・・

お付の僧も普段は厳粛な態度の高僧なのだろう。
だが、その瞬間はあきらかに慌てた顔をした。
常に法王の安全を心掛けているのだもの、当たり前だ。
メンバーに暗殺者がいたら最悪だったろう。
ただのオバサンに化して、よかった・・・

法王は常に嬉しそうだった。
法王自身も、結構異例好きなのだと思う。
低音の響きのある、とてもいい声だ。
そして豪快に笑う。
この体験は、一生の宝物だ。

謁見後、和子先生と話した。
「このところ、ずっと夢でマザーテレサが出てくるのよ」
和子先生はマザーテレサともお知り合いだ。
法王やマザーテレサと親しいなんて、ちょっと普通じゃないなぁ・・・
「呼ばれているみたいだから、ちょっと行ってくるわ」
その身軽さも、普通じゃないなぁ・・・

本当はインドの違う場所で瞑想をする予定だったらしい。
インドはナントカ瞑想が幾つもあり、結構アヤシイ・・・
その後の展開は、私のHPのコラム欄に書いてある。
普通じゃない人には、普通じゃない事柄が普通に起こる・・・

私達と別れて、和子先生は一人マザーテレサアシュラムに行った。
そこで数日間、奉仕活動をする。
一日中の洗濯。
一日中、幼児に食べさせ抱っこする。
一日中、癌末期の女性に付き添う。
もちろん夜も。
そこで、とても大きな気づきをする。

その二ヶ月後、マザーテレサは天に帰る。
和子先生は、マザーテレサに最後の教えを受けたのだ。
普通じゃないなぁ・・・
(詳しくは、私のコラム欄「奉仕」と「やさしい話」に)
注:「奉仕」はコラム2・04年2月19日〜23日
  「やさしい話」はコラム3・05年3月13日〜20日

私達にとっては、とても幸運で至福な時間と空間だった。
だが、ここでは書けない悲惨な実話も聞いてきた。
ノルブリンカの博物館で時間を作ってくれた。
チベットで何が起きたか、その後中国が何をしたか。
実際に体験し、生き延びて、逃れてきた人の話だ。

尼僧となっていたが、その時は普通の女性だった。
チベット民族を根絶やしにする政策だ。
嘗てのドイツがユダヤ人に何をしたか。
日本人が満州で何をしたか。
アメリカが原住民に何をしたか。
今でも、民族紛争の現場は悲惨だらけだ。

とても書けない内容をしてきたし、している。
私が某中国をかなり厳しく書くのは、当たり前なのだ。
一般市民の中国人も、知らないとは言わせない。
よほどのバカでないかぎり、薄々でも知っているはずだ。
政府が周辺の少数民族に対する仕打ちを。
金儲けに狂って、人の心をマヒさせているのが現状だ。
まぁ日本人も似ているが、それほど酷くはないぞ。

法王とお会いして私の仏教観は変わった。
次第に変わってきてはいたが、より鮮明になった。
今までの仏教観は「悟りに至る道」みたいなとらえ方だった。
だが実際に(調和への)変化の実践をしている姿を知った。
そこに「氣」を扱っていることも知った。

どんな世界でも様々だ。
ピンからキリという区別よりも複雑にある。
仏教徒といいながらも、様々だ。
僧といっても様々だ。
教えといっても様々だ。

教えの宗教など屁のようなものだと思っている。
それがどんな教えであっても。
胡散臭い、か、かなり臭いものだ。
教えなどではなく、毎日の暮らしの中の笑顔。
いたらぬ自他への慈悲の心。
そして、世界の平和への祈り。
他人に布教などしないで、そっと願う。

つまらぬ理屈ではない。
優しさであり、人社会、人以外の世界との調和。
○○教とか○○経などにこだわるような小さなモノではない。
仏教は大きな大きな優しさだった。

この年も母は安泰だった。
これで、まる3年寝込んでない。
痛む事があるとはいえ、命には係わらない。
調子の悪い時もあるが、回復も早い。

そして1998年になった。
私は3年間の龍村塾を一応卒業した。
群馬の最北から新幹線で通った。
無理は承知だった。

今、出来る限り学びをしておかないと先に進めない。
何しろ40歳を超えてからの専門分野に飛び込んだのだ。
命を扱う仕事を選んだのだ。
普段ノウテンキな私だ。
たまには十倍の集中をしても大丈夫だろう。
3年くらいはもつだろう。

ちょうど3年間で一区切りついた気がした。
私としては珍しく集中した3年間だった。
私の中では30年に相当する。
もう、こんな集中は続かない。
(5分くらいなら続くけど・・・)

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世紀末・21世紀



この頃、地元のFMローカルラジオが開局した。
週1回、30分枠で番組をもつことになった。
「気功を知ろう」という題名にした。
二人の女性をアシスタントにして、質問座談会形式にした。

もちろん私も初めての経験だ。
アシスタントは声がいいが、私はそうでもない。
以前にアルバイトでショーのMCをしていたから話すのは平気だ。
そういえば、結婚式の司会など、何度もしたなぁ・・・
ラジオは顔が出ないから、何でも言えるからいい。

録音は2回分録り。
原稿は全て私が書いて、アシスタントと簡単な打ち合わせ。
ガラスばりのスタジオでヘッドホンをして大きなマイクに向かう。
合図でテーマ音楽が流れ、合図で第一声だ。
「皆さん、こんにちは〜」
声だけとはいえ、芝居をするわけだ。
面白い経験をさせていただいた。

龍村塾も一応(勝手に)卒業し、治療に専念する。
ある意味、この年の四月が本当の開院ともいえる。
とはいえ、山の中の治療院だ。
更に私は宣伝の類が苦手だ。
商才は無能に近い・・・
毎日ヒマであった。

毎日ヒマだから本を書くことにした。
数年前に書いたのは出版にはならなかった。
マニアックな精神世界について書いた。
一応、本の体裁で各章、各項に整理した。
そして目次からあとがきまで書いた。
通常の1.5倍くらいの量があった。

今回は氣と氣功について書き出した。
氣功に出会って数年とはいえ、とても濃い時間を費やした。
考えることは(一応)すでに終わっていた。
書き出すと、勝手に手が動く。
今でもそうだが、私は頭で書かない。
手が勝手に文章を作ってくれる。

氣や気功の本はとても多い。
だが私のとらえ方はこの数年で大きく変わった。
通常の書かれている内容では満足しない。
といって、深くマトモに突っ込むとマニアックになる。
私はマニアックのモノを普遍に紹介したいのだ。
普遍であっても表面だけの固定概念のことなど書きたくない。
そんな内容なら掃いて捨てるほど転がっている。

そこで仕掛けをした。
何しろヒマなのだ。
どうせ売れるわけでもない。
い、いや、売れて欲しいと思っていた。
あこがれの印税生活・・・

私の仕掛けなど、ほとんど解らないだろう。
私は傲慢な性格でもある。
龍村塾で覚えたホリスティックという意味と仕組み。
ホログラフィーの仕組みが頭をよぎる。

この世は多重世界だ。
どの部分から書いても、他の世界を表すことはできる。
私に表せなくても、匂わすことぐらいはできる。
表現は出来る限り軽佻浮薄に努力した。
こんなことぐらいしか努力出来ないし・・・

もう一つの目的は固定概念外しだ。
これは今の治療でも同じだ。
固定概念を外れてくれると、病は回復しやすい。
特に心理的な病は、固定概念が大きな壁になっている。
「氣」の治療だ。
固定概念から離れるほど影響は強まる。

固定概念から離れるとは、自由になることだ。
自由になるとは、やわらぐことでもある。
回復に向かうのは当たり前なのだ。
それを本を読むことで、ある程度出来るようにしたい。
私は、こんなでも、一応、プロ、の、治療師なのだ。

固定概念から外れる。
それは、何かを理解することではない。
わけがわからなくなる事だ。
理解は、その次か、その先にある。
そこまで行かなくても治療にはなるのだ。
それを、本で実践したい。
来てくれるクライアントがいなくても、誰か回復になればいい。
それが、法王から学んだ生き方だ。

下書きなどない。
骨格もない。
イキナリ書き出した。
当時、私はパソコンを持っていなかった。
主流はワープロというものだった。
ノートパソコンのワード専用版みたいなものだった。

勝手に文章がどんどん進む。
ヒマな時間にワープロに向かった。
一ヶ月半くらいか。
全て書き終えた。
手直しもほとんどない。

幾つかの出版社にコピーしたフロッピーディスクを送った。
今では考えられないほど少容量のデータメディアだった。
それでも、当時は便利ですごい発明品だった。
原稿用紙の束を送らずにすむのだ。
インターネットもパソコンもまだ主流ではなかった。
(パソコンが50%を超えるのは2001年から。
私的利用のインターネットは2006年に過半数を超える)

もちろん自費出版以外で求めた。
何しろヒマはあっても金がない。
有名などとは程遠い。
せめてイロオトコなら、金がつくれたが・・・残念・・・
それに自費出版が売れるとは思えない。
出版社も元がとれてるから最初から熱が入らない。
(そうはいわないが・・・)

共同出版という提案が幾つかの出版社からあった。
出版社と著者が共同で初期費用を出すというものだ。
これもその割合など、様々だった。
行動起こすと、いろいろ勉強になる。
共同とはいいながら、ほとんど自費出版に近いのが多い。

といって、最初から相手にしないわけでもないようだ。
何か、取り扱いに迷っている感じのようだ。
もしかしたら・・・という感触はあったようだ。
すると、一つの出版社が熱心に問い合わせてきた。
そして、私の治療院まで来るという。
その出版社の編集長と名乗っていた。

私は出版業界に詳しくない。
その出版社が中堅なのか小さいのかわからない。
私の知ってるような大手ではない。
その編集長は東京から車で来た。

私の癖だろう。
熱心にここまで来たのだから。
そういう理由で決めてしまう。
条件は・・・微妙だった。
企画出版(全て出版社持ち)ではない。
共同出版としては、かなりいいのだろう。

表紙も私側で考えてくれ、という。
編集長が帰ると、すぐに実姉が来た。
今、近くのホテルのロビーで書家の展示会をしている。
その書があまりにいいので見せにきたのだ。
そこで本の話をして、表紙用に「氣」の字を書いてくれるか訊ねた。
展示会を取り仕切っている人が姉の知り合いだった。
書家の先生に取り次いでもらうと、気軽に引き受けてくれた。
その書家は、武田信春(永猷)先生だった。

武田永猷(信春)先生というのは、とても特殊な人だ。
若狭武田家の34世。
傍流に武田信玄がいる・・・
馬術・弓術・茶道・合気術を基礎として極めている宗家。
臨済宗の僧侶であり、指揮者、バイオリニスト、作曲家でもある。
心象書体派主宰の書道家でもある。

先生はすぐ書いてくれるのかと思ったら後日だという。
その場で、何枚も注文に応じて書いて展示即売しているのに。
後に、書家としての姿勢(生き方)だと知った。
簡単に書ける書もあるが、「氣」を込めて書く書は別だ。
心身を整え鎮め、同じ字を何枚も書く。
後日、その中で15枚ほど届けてくれた。
気に入ったのを選んで、好きなように使ってくれという。

全て「氣」一文字だった。
今思っても破格の扱いだったろう。
値段も些少ですんでしまった。
第一人者が「氣」を込めて何十枚も書いたのだ。
金額ウンヌンでなくても、とても有り難い出来事だった。
そして、表紙にさせていただいた。

編集長がわざわざ来院した日に書家の先生と出会う。
こ、これは、出版しろ、売れるぞ、という天の声・・・
と、単純に喜び飛びつき出版までもっていった。
実際に書店に並んだのは翌年の1999年5月だった。

世界が破滅する1999年、と騒がれた年だ。
恐怖の大魔王は現れず、借金大魔王となった私だった。
天の声というのは、ほとんどがインチキだ。
ほとんどというのは、99.9999くらい。
100万に一つくらいは、そういうこともあるかもしれない。
ないかもしれない。
だいたい、天は声など出さないし・・・

案の定、天の声か天の運びかと思われた私の本は売れなかった。
トントン拍子にいくのは、上手くいくものだ。
と、どこかの成功扇動本には書いてあったのになぁ・・・
この世は、思念や運だけで決まるものではない。
そんなことはわかっていたが、人だもの・・・
間が入っても、抜けてても、人だもの・・・

それでも、出版した意味と効果はあったのだよ。
アコガレの印税生活にはならなかったが。
そして、次やその次の出版を計画しているのだ。
HP内やその他に、10冊分くらいの分量は準備してある。

世紀末は人類末という煽りをしていた人や組織。
大きな時間では、人類が末なのは明確なこと。
限られた地球上で、これほど傍若無人な振る舞いをしているのだ。
手を出してはいけないモノを扱う。
それだけは、同じ地球上で生きとし生けるモノとして、してはいけない事。
他への侵略、自然破壊、種の絶滅、同種間の戦争。
してはいけない事だけは、国家を上げてする人類だ。

末なのは、確実だろう。
勘違いしてはいけない。
末は人類であり、地球ではない。
人類が滅亡しても、地球は生き延びるのだ。
地球は怒らないし、神様も怒らない。
しょっちゅう怒り、争いをするのは人類だけだ。
正義とか真実とかを盾にして、戦う人達・・・

ただし、1999年がそれにあたる。
だから○○しよう、と煽ったところは恥をかいた。
でも恥なんてしらない人類だもの。
懲りないで、次、いってみよう、と2000年問題も話題になった。
そして、2000年になった。
人類も、84歳になった母も1999年は乗り切ったのだ。

2000年に入ってまもなく何か胸騒ぎがした。
それが何か判らなかったが、北海道だと思った。
何か判らないが、何かしなくては、と思った。
それで、知り合いに手紙を書いたが、誤解された。
神がかりになってしまったの?と。
何かが判らないのに、何かを伝えるのは難しい・・・

それが、有珠山の噴火だと知ったのは起こってからだった。
その人は、有珠山の近くに引っ越したばかりだったのだ。
でも、誤解されたままになってしまった。
まぁ、仕方ないなぁ・・・
私の伝え方もまずかったし・・・

三宅島の噴火も驚かなかった。
判っていたわけではないが、何となく・・・
駒ケ岳の噴火も何となく・・・
だが、それ以後は、特に感じなくなった。
時々、私にはそういう感覚が起こることがある。
あるが、何だか判らないから役にはたたない。
積極的に伝えるには力不足すぎると知った。

人類滅亡も2000年問題大惨事もなかった。
火山爆発や地震や政治混乱など、いつもと全く変わりなかった。
私も内部的には進歩している(つもり)のだが、外部的には変わりない。
つまり、相変わらず経済的にひっ迫したままだった。
それでも子供達は勝手に大きくなる。
本妻も勝手に太る。

実姉は1997年に古い実家を改造し開窯した。
何とか陶芸家として三年目を迎えた。
嘗て私が母にと建てた小さな家で二人して暮らしている。
母も古い実家を壊さずにアトリエとして改造したのを喜んでいた。
140年前の今は貴重な古民家だ。
思い出だって沢山ある。

この頃の母は家の近くの畑仕事が楽しみとしていた。
畑といっても我が家用の小さなものだ。
土地は飛び地で幾つかあるが、ほとんど他人に貸している。
野菜の収穫時には、我が家では消化しきれないほどある。
貸している人達も持ってくるからだ。
実家も金はないが、そういうものは余るから、更に誰かに配る。

実家は庭にも畑があり、竹林があり、桜があり、柿がある。
珍しいイチイの大木があり、岩山の土手がある。
姉のアトリエは作業用・手びねり教室用・展示用がある。
訪れた人達は皆、古い家と庭をほめる。
いいところね〜
冬の除雪作業を知らないからなぁ・・・

2001年になった。
小泉首相という一見頼り甲斐がある政治家に国民は期待する。
政治家で期待に応えられる人はとてもマレだが心情はわかる。
頼り甲斐と独裁は区別し難いが、心情はわかる。
何しろ、頼りないのが多すぎたから。
だが大きなツケを払うのは、いつも国民になるのだが。

我が家も母も相変わらずで過ごせた。
相変わらずだから生活はとても苦しいのだが、まぁ、いいとしよう。
ところが世界は大きく変化する。
真相は不明だが、アメリカが大きく動く。
9月11日事件だ。

真相は不明でも、某アメリカ国はやりたい方向に動く。
どんな出来事でも、チャンスだ、と動く。
ある意味、前向き・・・
で、戦争にまっしぐら。
某アメリカは複合軍需産業が国の代表だ。
だから、チャンス!

苦しむのは、爆弾を落とされる赤ちゃん、子供、病人、高齢者、その他・・・
だが、正義は某アメリカにあるという。
某日本は某アメリカの奴隷国だから、当然後押しする。
力強い某日本の首相など、大喜びで参加する。
幾年も後になり、某アメリカの言う事は嘘だと発覚する。
だが、誰も責任は取らなかった。
殺された人の恨みは、多分消えないだろう・・・

テロは許さない。
そういいながら、かなり怪しい事件だった。
未だに公式発表より陰謀説を信じている人達が多いとか・・・
離れて観れば、某アメリカ政府の陰謀というのが一番しっくりくる。
そもそも大統領選から陰謀とインチキでなった大統領だった。
正義の国が聞いてあきれるほどの、お粗末な選挙だった。
それなのに、その後は皆さん口を閉ざしてしまった。

史上最低と評された大統領と何故かとても仲良かった某日本国首相。
テロはアルカイダだといえば、盲信して戦争に参加する。
アルカイダは某アメリカの悪名高いCIAが設立したのを無視しているし。
散々にアフガニスタンとイラクの国を破壊してから、間違いに気づいた。
いや、最初から知っていたのだろう。

無能がバレて低迷していた某アメリカは戦争すると支持率が上がる。
軍需産業が代表の国だ。
戦争は儲かる。
石油も手に入る。
経費は奴隷国の某日本国などに援助させればいい。

アメリカの国が良くなる為に、遠く離れた国の人々や自然は破壊される。
アメリカが侵略すれば、それ以前より桁外れの苦しみが生まれる。
正義を口にするモノ達は、悪魔の行為を平気で行う。
正しさを主張すると、不幸と苦しみを生むことは歴史が証明している。
2001年は、世界的規模で苦しみを生み出した年となった。

2002年になった。
正義の国、某アメリカに問答無用と攻撃されたアフガン。
あっけなく国が潰れたので物足りない(儲けも足りない)某アメリカ。
次はイラクに難癖をつけた。
アメリカに従わないなら、覚悟しろ!
と国連で言い切るんだものなぁ・・・
無法者とはこういう国をいうのだろうなぁ・・・

大量破壊兵器を所有している。
それを世界一所有して使用しているアメリカがいうかぁ?
だが、そういう指摘をする国はない。
個人的に、小さな声で言う人は多い。
大きな声で言うと、某悪名高いCIAに殺されるし・・・
私も何か言われたら、すぐ考えを変えます・・・
正義の国は、何をしてもいいんです!

この年も、一番苦しんだのはアフガンの一般市民だ。
赤ちゃん、子供、高齢者、病人たちだ。
正義の為には、いつだって犠牲になる人達だ。
爆弾落とされ、殺されてもモンク言えない人達だ。
卑怯だよなぁ・・・正義って・・・

いずれ世界の主要国について書こうと思う。
日本の国の実態を書こうと思う。
書いてはならない事を、冗談で書こうと思う。
知っているのに書かない人達の気持ちはわかる。
私だって巨大なモノから虐められるのは嫌だし・・・
でも、私は時々、口が滑るからなぁ・・・

無法者で無能者の某国大統領が世界に向けて煽る。
簡単にバレてしまったが、平気で嘘をつき続けた。
某奴隷国の政府は当然ながら、嘘を指示した。
ついでに、小型なら核兵器をもっても問題ないと言っちゃった。
原爆を落とされ、未だに苦しむ国民がいるのになぁ・・・
その後、その政治家は首相にもなっちゃった。

それでも地球は回っている。
責任とか恥とかを超越している人達が代表の人間社会。
どんなに混乱しても苦しんでも地球は回る。
人類が滅亡しても、地球は回る。
そして、2002年も過ぎ去った。

2003年。
やはり戦争で幕が上がった。
言掛かりを無理やり進めて侵略した。
大量破壊兵器をテロ組織に将来売るかもしれない。
テロ組織はそれをアメリカに使うかもしれない。
そういう無茶な理屈で一つの国を滅ぼした。

イラクの大統領はロクデナシかもしれない。
だが、ロクデナシなら某アメリカも某日本も負けないぞ。
そういう理由で侵略するのは、ロクデナシを超えている。
何しろ犠牲者は一般国民なのだ。
そして、大前提の大量破壊兵器は無いことが証明された。
国を滅ぼした後だったが・・・
まぁ、石油利権は手に入れたから真の目的は果たしたようだ。
経費は某奴隷国日本が20兆円も支えてくれたし・・・
戦争は美味しい、と正義の国は高笑いしていた。

そして、SARSという未知の伝染病が世界中に広がった。
実質被害より、精神的恐怖の被害はとても大きく多かった。
人類は戦争などしている場合じゃないのになぁ・・・
阪神タイガースが18年ぶりに優勝という嬉しい出来事もあったが・・・

2004年になった。
2002年末からブログを書き始めている。
基本的に日常や世相や時事を書かないようにしている。
これは後から読んでも、少しも面白くないからだ。
本気の日記代わりなら公表しない。
だから、物書きの意識で毎日書いている。

それでも、たまには出来事も書いてある。
2004年は氣功師になって10年目だったのだ。
故御師匠様が10年前に私に言った。
「10年間は食えねぇぞ」
治療の道に進んでもいいか、と許可をもらった時だった。

10年後には食えるのかぁ・・・
ノーテンキな私はそう思ったものだ。
その10年目になった。
これで自動的に生活が出来る。
安心だぁ。

ところが、話が違う・・・
全て自分次第?
そ、そんな、殺生な・・・
私は根性が無いのだから、努力は続かない。
だから自動的に食えるようになるのを夢みてたのに・・・

10年前の5月に氣功師の体質に変えられた。
あっ、という間に変わった。
だから私の自覚が出るまで、2週間くらいかかった。
氣功能力は今も問題ない(性格に問題があるのは別だ)。
あっ、で18年間も、多分この先も変えたのだ。
そんな度外れの故御師匠様が言うことだ。
そのまま信じてきた10年だった。

5月。
イキナリ九州から依頼があった。
東京くらいまで出張することはあっても九州は初めてだ。
飛行機で出張も初めてだ。
10日間だったが、その後も窓口になってくれた人から依頼が続いた。
2週間の間に仙台から依頼が入った。
四国からも入った。
だが日程が合わず、四国は見送った。

広島に訪問する用事があり、広島空港から仙台空港へ飛んだ。
こ、これは!
ついに、私の時代が来たのか!
故御師匠様の言ったことは実現したのか!
正しく、ちょうど10年目の5月から変わるのか!

長くしていると、そういう時期がある。
波に乗るとかいうほどでなく、そういう時期もあるのだ。
その時は、何となく、勝手に、これからは忙しいぞ、と思っていた。
仙台も実に簡単に激変してくれ、とても感謝されて新幹線で帰ってきた。
その後何度か出張治療で乗る東北新幹線も初めてだった。

飛行機と新幹線で日本中を飛び回り治療する。
故御師匠様は世界中だったが、私もいよいよか・・・
翌月も九州へ。
九州を代表する九大病院内での治療だ。
そして、いろいろな出来事があった。

九州にいる時に龍村師匠から連絡が入った。
夏合宿にヒーリング講師としての要請だ。
とても嬉しい。
いろいろな事があるが、私の仕事は、いい流れだ。

やはり九州にいる時に依頼が入った。
今回も四国は見送りとなった。
大阪と東京から急ぎの依頼だった。
新幹線で新大阪、泊まって東京。
東京も泊まりで、最後は東京駅待合室で氣功した。
そこしか時間と場所がなかったのだ。
私は売れっ子になったのか?

普段ヒマな私だ。
厳しい状態のクライアントを続けて治療した。
相手に氣功し、自分に氣功(セルフヒーリング)して一つの治療だ。
そのセルフヒーリングが充分でなかった。
本来は「自分の氣」を使わないが、心が動いて無理をした。
そして、氣を失ったこともあった。

心臓が痛い。
毎日自分で氣功するが、ダメージは大きかった。
この仕事は、本当に命懸けなのだ。
嘗て故御師匠様が言った。
「命懸けだぜ」
私はノーテンキに、一生懸命やれという意味だと思っていた。
だが、ストレートに命懸けだった。

回復するまで、毎日しても二週間もかかってしまった。
私としては重病の類だ。
それでも、回復するのだ。
ある意味、かなり無理しても回復する自信がある。
母も安定しているし、充実は、まだ続いた。

茨城県の龍ヶ崎市から講演の依頼があった。
そこの小学校のPTAの総会のイベントのようだ。
テーマは「親子関係」
九月初旬だ。

龍村合宿が八月下旬なので、セミナー・講演が続いた。
新潟、東京、神奈川、名古屋へも出張があった。
や、やはり、時代は私?
って、それほど忙しくはないが、私的には仕事が続いた。
インターネットを通じての付き合いも広がった。
(今はコメント等、意識して不精にしている)

母は米寿を迎えた。
短命と言われ続けたが、平均寿命を超えた。
そして、この年も安定していた。
私は安心して、アチコチ飛び回れた。

ブログからでも、この2004年は充実している。
書いてあるテーマの内容が、今読み返しえも納得できる。
基本的に私の頭ではなく、手が勝手に書くからだろう。
いろいろが、結構深く観えていたのだろう。
8年後の今は、それほど深く観ようとはしていない。
今が充実していないわけじゃないが・・・

人前に立つ。
セミナーや講演をする。
必然的にテーマを掘り下げて、見直す。
人前に立つのは、自分の内部を見つめ直すチャンスなのだ。
そういう意味でも、この年はありがたかった。

10年経てば、自動的に生活が楽になるわけじゃない。
勝手にクライアントが増えて、忙しく働けるわけじゃない。
そんなのは商才に長けた人なら数ヶ月で達成する。
私の仕事は、収入や経営とは関係無い次元でする。
10年経てば、プロ側の世界に入れるようになるのだ。

一つの仕事の一つの段階。
それが10年だろう。
ただし、自覚しないでしていれば100年でも素人だ。
私は私の仕事(ライフワーク)だと自覚した。
だから努力や根性無しでも、入り込んで出来た。
(傍からみて、ここを努力家だと勘違いする人が多い)
好きな仕事をするのに、努力や根性はいらないだろう。
好きでしていれば階段は上がってしまう。

10年が経って、やっとプロ側に入れた。
するとアマチャア側との違いが判る。
どの世界も同じかもしれないが、プロは少ない。
アマチャア側の時は、プロ側との違いは判らない。
仕事をしていれば、皆プロと思ってしまう。
何年、何十年もしていればプロだと思ってしまう。
一定の技術があれば、プロだと思ってしまう。

プロとは何か?
それが、プロ側になって判る。
アマチャア側でも段階も階段もある。
だが、どんなに腕が上がっても、階段を上ってもアマチャアの世界。
プロ側とは次元が違う。

技術や能力じゃない。
評判や資格や社会的な認定でもない。
ましてや稼いだ額ではない。
そんなものは、アマチャア側の仕事の話だ。

説明しても仕方が無い。
入った人だけは、判る。
私流に強いていえば、存在が懸かっている事。
そんなプロ側だが、もちろん一人歩きとはいえヒヨッコだ。
それからは、いつでも、今でもヒヨッコのままだが・・・
プロにも段階は無数にあるが、頂点などあるわけがない。

人の死に出会う機会も多くなった。
厳しい状態から依頼があるのだ。
一日しか治療できない時もあった。
最後の数日間を看取る時もあった。

そういう人は病院の個室。
痛み止めだけの段階が多い。
何とか回復したいから私に依頼しているのだ。
ワラをすがる思いで依頼しているのだ。

ワラのような私でもプロだ。
生命は計りきれない事を知っている。
最後まで希望はあるし、実際に回復に転じる事もある。
故御師匠様と出会い、奇跡といわれる事は日常にあると知った。
ならば、依頼されたなら、精一杯向き合うのが当たり前だ。

とはいえ、亡くなったら終わりだ。
だから、こんな私でも落ち込む。
結構、ショックなのだ。
引きずりは短い方だが、痛い・・・

更に8年過ぎた今(2012年)は少し変わった。
死と、生きる事に対する観方が変わった。
変わったというより、やわらかくなれた。
それも、多くの死に接する立場でいられたからだ。

今は、死に出会うような大切な時間を依頼してくれた事に感謝している。
綺麗ごとの言葉じゃない。
死の時間、空間に関わるのは重要な事だ。
生きる事の中でも、とても濃い時間と機会だ。
生きる事を、新に気づかされる。

だが10年目の時期は、自分の役割も半分しか解っていなかった。
もちろん、今も全て解ってなどいない。
今は解っていないことが、判るようにはなった。
当時は、何とか回復させる事だけが役割だと思い込んでいた。
プロ側とはいえ、不相応な気負いもあった。

私は生きる事を応援するのが仕事(ライフワーク)だ。
病気治しが仕事じゃない。
故御師匠様が言ってたのに、意味が少ししか理解していなかった。
この氣功は、そんな小さな事だけに限定するものじゃない。
(病からの回復は大きな事だが、生きる事は遥かに大きい)
もっと、もっと様々に応用できる氣功だ。

2005年になった。
10年以上、母には、ほぼ毎朝氣功をするのが続いた。
幸いにして、寝込む事がないどころか、昔より遥かに安定していた。
ちょうど、この年から一週間以上の出張が時々依頼されるようになった。
母が安定しているので、長い間も安心して出かけられる。

長く依頼する人のほとんどは癌だ。
それも、厳しい状態からだ。
痛みが出てからの状態だ。
一日8時間くらい氣功する。
それを一週間続ける。
痛みは一日目から変化する。
一週間後検査すると、数値も良くなっている。
もちろん、個体差はある。

そのまま安定すればいいが、そんなに簡単ではない。
早い段階なら癌は怖いとは思わない。
正常に戻りやすいとさえ思う。
だが、厳しい状況からは、何度もしていかないと戻るのだ。
更に治療しないと、一度良くなった数値も、また悪化する。

とはいえ、いろいろな事情がある。
その全てが、その人の生きる道、生き方だ。
だから私から、アレコレ指図はしない。
(気功治療)するも、しないも本人の決める事だと思う。

戦争好きな無法者、某アメリカにもかげりがみえた。
何事も某無法者の腰巾着の某日本だ。
何とか簡単に戦争加担できるようにしたかったようだ。
だが、顔色を見てからだから、何事も遅れる。
政治家だって戦争好きばかりじゃない。
お粗末ではあるが、一応政治が荒れた。

散々壊してから、イラク・アフガン開戦は間違いだと認めた。
ある意味、アメリカらしい。
それでも日本は認めなかった。
従国日本は無法者ではなく卑怯者だから・・・
自然は綺麗な国なのにねぇ・・・

泊まりがけの出張治療が増えた。
それだけ、厳しい状況と向き合う機会が増えた。
この仕事は真剣勝負。
ナマケモノの私だが、否応なく真剣勝負。
否応なく、濃い経験を積み重ねられる。
努力と根性の才能がなくても、前には進めるのだ。

盛岡に長期出張があった。
しかも厳しい状況でないクライアント。
気持ちに余裕がある出張だった。
どういうわけか、盛岡にも数人の知り合いがいる。
それらの人と数年ぶりで会えた。

遥か昔に東北を巡ったことがある。
あれから30年以上も経ったのか・・・
年月は、過ぎると本当に速いと思う。
光陰矢のごとし、が実感できる年齢になった。

人生は長いようで短い。
恋せよオトメ。
(オトコはオナゴを大きく愛しむのが役目だろう。
だから、応援すればいいのだ)

この言葉の深さも解るようになった。
生命と関わるようになると、いい言葉だと解る。
生きる事に向き合うと、大切な事だと解る。
年齢を重ねても、理解しない人も多いが・・・

依頼が多くなると、当然仕事をする。
当たり前だと思うかもしれないが、一般的には違うぞ。
社会的な仕事は、こなしてしまう作業だろう。
それまでの経験や能力で、一定範囲まですれば仕事になる。
私は常に初めてのケースだ。
だから仕事をする、というのは初めての作業だ。
こなして出来るような仕事ではない。
一定範囲が無い仕事なのだ。

仕事になると、常に手探り状態になる。
手で探るから、本当に手探りだ。
頭を使ったら間違う確率が高くなる。
手の感覚の方が頼りになるのだ。
自動的に手が動いたら、それで何とかなる。
そして、結果的にいろいろ学ぶ。

学ぶというのは、やわらかくなることだ。
知識や判断力が増すことじゃない。
未知と対応しやすくなることだ。
毎回が未知と出会うと、こんな私でも充実する。
この年のブログも、読み返すと面白い。

2006年になった。
この年、母は90歳代になった。
母の昔を知っている人は、誰一人予想もしなかったろう。
どころか、昔の母を知っている人達は次々と去ってしまった。

近くの小さな畑より遠くには行けない母だ。
だがお蔭様で、母を訪ねて来る人は少なくない。
足が悪いとはいえ、耳も目も頭も普通だ。
物覚えの良い母だった。
長老として、昔の事は母に聞きに来るのが最適になった。

当人は物忘れが酷くなった、と言うが。
私など、もっと酷いぞ・・・
人の名前、顔、出来事、様々を忘れている。
というか、憶える気力が最初から欠けている。
この雑記「母のこと」も、私の記憶を思い出すのが目的だ。
自分の半生、今のうちに書かなくては全て忘れてしまいそう・・・。

性格や能力など、単純に父母からだけ受け継いだわけじゃない。
母は勉強好きな頭の良い人だった。
父は勉強嫌いな職人だった。
母は社会常識や正しい事を基準にして生きてきた。
だから心的には無理があったと思う。
父は常識外れの人だった。
だから、やはり社会常識との摩擦はあったろう。

母の母(祖母)は社会常識より心の趣く事をしてしまう人だったらしい。
そういう意味では、母方の祖母は父と似ているともいえる。
私も社会常識を簡単に踏み外す性格のようだ。
だから、こんな仕事を天職だと歩んでいる。
どちらの血を引いたのかは判らない。

A型の母とB型の父。
血液型で性格を判断できるほど人は単純じゃない。
だが話としてはできる。
私は明らかにB型特有の性格だった・・・
自分勝手ともいう・・・

この年も遠方への出張が多かった。
数日から10日間の出張治療だ。
重なる時もあり、残念ながら断ることさえあった。
10年経ってから、次第に多くなっていた。

もちろん、そのまま現在(2012年)にならない。
私のような性格は、順調という言葉が似合わないのだ・・・
波乱万丈というほどでもないが、不安定な綱渡りの道を選んでしまう。
大船に乗るのにアコガレがあるし、そう思っているのに。
足は私の心を裏切って、綱の上に進んでしまうのだ。

今までで、この年(半年くらい)が一番忙しかった。
忙しいと私は嬉しくなり、より元気になる。
母も安定しているから、安心して出張に出かけられた。
半分以下しか家に居ない月もあり、家族も新鮮だったろう・・・
子供達は勝手に大きくなり、二人とも中学生活(主に部活)に夢中だった。
つかず離れずの関係で、我が家は親子の諍いが無い。

岩手に出張治療に行った。
その時、UFOの大群を見た。
50〜100個(機?)くらいいた。
造園作業員が3時の休憩で見つけた。
全員で10名くらいで見ていた。

快晴の中、少し目を凝らすとウヨウヨしている。
そういう動き方なのだ。
ウニウニとかウヨウヨとか、生物的?
顕微鏡下の精子とかバイキンのよう・・・

私はカメラを持っていたので写した。
肉眼では丸い白光のようだが、パソコンで拡大すると縦三角だった。
肉眼では見えなかった黒縦三角も幾つかあった。
当然、三沢基地などでは大騒ぎだろうと思った。
だが、どこにもニュースにもならなかった。

何かの陰謀で秘密にしていたのか・・・
私がブログで書いたら、次ぐ日は行方不明になるのか・・・
取るに足りないゴマメだから、無視してくれるのか・・・
真相はわからないままだった。
それにしても、何故、私は二枚しか写さなかったのだろう?

2011年の福島原発事故時に、UFOの動画がネットであった。
数は10個くらいだったが、動き方は同じだった。
きっと、もっと誰かは見ていたろう。
そして、その人は行方不明になったかも・・・

忙しい時は、俄然積極的になる。
何しろ普段がヒマなのだ。
アチコチ飛び回っているのだから、ついで、というのがある。
久しぶりに龍村師匠セミナーに申し込んだ。
今まで行けなかった天河神社だ。

その様子は2006年7月のコラムに書いた。
やはり天河(地名は天川村)は特殊だ。
いつものように、ありえないサプライズが幾つもあった。
龍村セミナーが特殊なのか、そういう機会に恵まれる。
たまたま私が参加する時には、特に恵まれるようだ。

ちょうど例大祭(れいたいさい)という最大の行事に参加した。
天河神社も龍村一行は特別贔屓してくれる。
師匠の兄の龍村仁監督や和子先生も特別な関係だからだ。
柿坂宮司とも数年ぶりにお会いした。
天河のような(マトモな)神様に贔屓されるのなら、とてもラッキーだ。

ラッキーサプライズ続きの天河セミナーだった。
その後、希望者だけ京都の龍村光峯氏の工房見学。
龍村師匠の実兄だ。
(ちなみに父は二代目龍村平蔵氏だ)
日本の伝統織物の姿。

伝統織物は総合工芸だ。
そこの使われる部品や素材が多種の専門職人によって成り立つ。
総合芸術まで高めることは、多くの職人の技を高める。
それによって、日本の技術の土台になっていた。
世界のトヨタも紡織機からだ。
織物だけでなく、多くの職人が日本の質を高めていた。

日本のアホな政経系の政治家は職人を切り捨ててきた。
自分で自分の首を締め続けているのが現状だ。
商人では国を高めることは出来ない。
当たり前なのだが、当たり前を理解する行政家はいない。
目先の損得勘定では土台が崩れるなど、当ったり前だろう。

たまにはマトモなセミナーに参加するのもいい。
セミナーは非日常だから。
日常だけだと概念が固定されやすい。
固定は生命力を衰退させる。
たまに非日常と接すると、固定概念は融ける。
すると生命力が活性し、日常が軽くなる。
毎日疲れている人は、たまにはセミナーがいいよ。
ただし、マトモなのは少ないかも・・・

私はつくづく恵まれている、と思った。
故御師匠様との縁も超ラッキーだった。
その御蔭で、現在の自分がいる。
天職と巡り会えた。
こういう身体に変えていただいた。

もう一人の龍村師匠。
御蔭で超偉大な方々と出会えた。
超ラッキーな出来事が、やたらと起こる。
今なら理解できる。
あんなラッキーは一生でも、そうは出会えない。
そのラッキーを活かしているか?
というと・・・
耳が痛いぜ・・・

忙しく仕事をこなしている人の半分くらい。
それでも私としは忙しいと感じていた。
よくよく考えれば、一日平均4時間くらいなのに・・・
この倍は充分仕事が出来るのになぁ・・・
だから、忙しいと充実している、なんて言ってられる。
実は、まだ忙しい部類ではなかったのだ。

多少でもお金が入った。
多少じゃない。
少ないけど、収入があった。
すると、それを見越したかのように・・・
私と本妻の車が壊れた。
というより、限度がきたのだ。
もともと中古で買って、目一杯使用していた。
だがなぁ・・・何も同時に二台はないだろう・・・

私の地区は車が無ければ暮らせない。
仕事にならない。
仕事にも行けない。
二台代えるより仕方が無い。
もちろん、二台とも安い中古だ。

それなのに・・・
貧乏丸出しで暮らしていると、世間は好意的だ。
なのに、安い中古車でも二台同時に代えると邪推する。
好事魔多し、というほど好事でもなかったのに・・

自慢じゃないが、私はすぐ図に乗る。
(仏教用語で、難しい調子に上手乗れることだった)
ついでに、翌年からの入学を決めた。
私の仕事は厚生省が認めていない民間治療だ。
いつ、お上から圧力があり潰されるかわからない。

故御師匠様は、嘗てイキナリタイホされたことがある。
最初は医師法違反だったが、証明されなかった。
次に治療詐欺といわれたが、何万といた患者さん誰一人訴えなかった。
それどころか、裁判所に何万という嘆願書が届いた。
それらは、御師匠様に治してもらった患者さんからの生の手紙だった。

次に治療器具が薬事法違反だと主張を変えた。
ところが、これも事前に厚生省と協議済みだった。
結局、全て無罪になったが、訴えの原因はある県の医師だった。
自分達で治せなかった患者が元気になった事が医師のプライドを傷つけた。
プライドなんて、コンプレックスの別面なのになぁ・・・

医師も自分の心を治せよなぁ・・・ こんなこと、世の中には、よくある話だ。
政府御用達の免状が無ければ、弾圧なんて簡単にする。
私は一生この仕事をしたかった。
だから、形だけでも国家試験免許を取得しておきたかった。
私の仕事は、一切の危険性が無い。
刺激療法ではないからだ。
物理的、化学的療法ではない。
赤ちゃんでも妊婦でも高齢者でも副作用はない。
それでも、政府の横暴の恐れはある。
だから、国家試験を受ける為に3年間の学校にいなければならない。

思い返せば、せっかく波に乗ったのに・・・
ついでにとばかり、図にも乗ったので波から落ちた。
性格というか性癖というかアホは死んでも治らないというか・・・
以後、今日(2012年)まで、またもや苦しい日々を送っている。
苦しいといっても経済的だけだ。
ワガママをまた一つ通した心は、結構満足していた。
特に入学前はワクワクする。

私は学ぶのが好きだ。
アチコチ学び歩くのが好きだった。
だが一応の段階が終わると、アッサリ身を引く。
いつまでも同じ所で学ぶ気はない。
私はワガママだから、私なりのモノが出来てしまう。
すると、そこからは道がズレてしまうのだ。

組織や群れにいつまでも居られない。
最初から孤立や個立しているわけじゃない。
対立などしない。
順応している。
ある程度、ある期間までは。
そこからは、出るより仕方がない。
何しろ、ワガママなのだ。

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鍼灸師



2007年になった。
母は91歳。
風邪で半分寝込むことはあるが、心配ない程度だ。
さすがに冬は出歩けないが、雪が消えれば畑に出る。

私は四月からメディカル専門学校に入学した。
夜間部だが3年間は同じだ。
科目は鍼灸。
3年後の国家試験受験条件なのだ。

群馬県では唯一の鍼灸科だ。
6時から9時半までの授業だが、治療院から往復110キロはある。
毎日高速道路を使うわけにもいかない。
もちろん不便な列車は論外。
したがって、4時過ぎには治療院を出なくてはならない。
最大の注意事項は、交通事故だ。
ついでに・・・息子も高校に入学した。

中学生の娘、高校生の息子、専門校生の父。
そして、単なるパートの母。
これで暮らしていくしかない。
だから・・・借金だ。
困った時の借金頼み。
返済は出世払い、っても出世の予定は無いが・・・

ええい、未来はどうにかなるだろう。
考えるより一歩踏み出すタイプのアホのB型だ。
そして、長い期間を窮屈に暮らす。
わかっちゃいるけど、やっちゃうんだなぁ・・・
もしかしたら、宝くじだって当たるかもしれないし・・・

学校が終わり、一度治療院に帰る。
メールチェックなどしてから家に帰ると12時近くなる。
それから夕食だ。
私は一日一食か、時には二食で済む体質になっていた。
結構、経済的だ。
ついでに、睡眠時間も4時間くらいで済むみたい。

メディカル専門学校だ。
教わった事が全て役に立つわけじゃないが、ありがたい。
実技の鍼灸にしても、技としては私は素人だ。
だが治療師としてなら、いろいろツッコミ所がある。
だから、それは封印。

単なる学生として3年間を過ごす。
何しろ、教えてくれる先生の方が年下だ。
治療年数も私より浅いのだ。
単なる学生としてでないと、やっていけない。
目的は卒業と国家試験だけなのだ。

それでも基礎として、解剖学、生理学、病理学はありがたい。
診立てや、治療効果に関しては・・・
それを私が言ってはいけないのだ。
平均年齢が30歳くらいの同級生達。
私と同じ50代が一人、40代が一人。
同じ教室なら、全て同じ学生だ。
一応最年長の私が級長だ。

某アメリカの言いなりになったツケが回ってきた。
いいがかり戦争のツケだ。
某アメリカは石油がある。
だが従国日本は無い。
それなのに、何でもアメリカ様の言いなりになった。
結果が、この年の石油ガソリン高騰だ。
もちろん某アメリカは計算ずくだろう。
従国だから、日本の政治家に未来を考える力は無い。
どうせ苦労するのは税金を出す国民だし・・・

私は往復だけでも110キロ。
一日150キロくらいは走る。
経済的なコンパクトカーとはいえ、週二回は満タンにする。
稼ぎが無いのは自分の甲斐性の無さとはいえ、とても痛い。
心は折れないが、懐は壊れそう・・・
丁寧に乗るとはいえ、中古車だってキツイだろうなぁ・・・
ワガママを通すのは、結構大変なのだ。

長期の出張が入ったら、学校は休むつもりだった。
だが、昨年までの上り調子は何処にいったのか。
こういう時に限って、またまたヒマになってしまった。
ダブル、トリプルで暮らしがキツくなってきた。
まぁ、日頃の行いの結果かもしれないなぁ・・・
い、いや、日頃の(キチンとした)行いをしない結果かも・・・

以前から、いつか書こうと思っていた。
般若心経の私なりの解釈。
ヒマだし、何かもう一つ始めないとダラケる。
いや、いつもダラケているから言い訳用でもある。

私は書き出せば何とかなる。
最初の一行が出ればいいのだ。
準備はしてない。
構成なども考えてない。
考えるより、まず飛び出す。

で、8月から書き出した。
以後266日間、毎日解説していた。
心経266文字と同じ日数を書いた。
今、何度読み返しても面白い解説だと思う。
私は、書くのではなく、書かされている。
日本で、このような解説は無いと思っている。
「迷訳般若心経」
誰か出版してくれぇ〜

学校の授業も楽しめたが、般若心経の迷訳はもっと楽しめた。
毎日書いて、読んで、納得していた。
人生で納得できる事が毎日あるなんて珍しいんだぜ。
これほどの迷著が世に出ないなんてもったいない。
ワルノリの好きな出版社の編集長、ぜひ売り出してくれ。
きっと、ベストセラーになる、かも、しれないから。

そして9月になった時、義父(本妻の父)が亡くなった。
この義父も時々ではあったが、氣功治療してきた人だ。
最初は10年前に大腸ガンの疑いがあるポリープが見つかった。
再検査の3日間前から義父は私に依頼した。
この義父は氣を感じ、反応が良い人だった。
そして検査の結果は、何も無し、となった。

以来、時々氣功療法するようになった。
何しろ病巣を幾つも抱えている人だった。
高血圧、高脂血症、食道動脈瘤、腹部動脈瘤、前立腺癌、片肺。
特に動脈瘤は両方とも50mmを超えていた。
血管がボロボロなので手術は危険性が高く、しないと決めていた。
いつ破裂してもおかしくない、といわれていた。

前立腺癌はホルモン剤を飲んでいた。
他にも山ほど薬を飲んでいた。
メインは前立腺癌の治療をした。
氣功に反応する義父は尿の出が楽になるようだ。
夜中に何度も起きなくても済むようになる。
だが、動脈瘤は中々小さくはならなかった。

氣功療法はかなり幅広く多くの病気などに対応できる。
だが、もちろん万能ではない。
そもそも病気は本人が主体なのだ。
特に日常生活で作った病は本人の日常の改善努力無しには回復しない。
毎日治療しても、毎日タバコ、過食、偏食、不規則な生活ではなぁ・・・
血液、血管系の病の多くは、本人次第で方向が決まる。

義父の動脈瘤、肥満なども本人の改善行為にかかっている。
遺伝的な高血圧だって、本人次第で改善できるのだ。
癌などの腫瘍は氣功療法で変化する。
段階にもよるし、日常生活も大きく係わるが、変化はする。
前立腺癌は、消滅まではしなかったが楽にはなった。

血管が脆くなっている状態での動脈瘤だ。
飲んでいる薬も血管を柔らかくすると同時に破れやすくもなる。
病院からは、いつ破裂するかわからない、と数年前に宣言されていた。
毎年、正月が来ると、また一年持った、と義父は言っていた。
そして、それは、本当に突然だった。
腹部動脈瘤の方だった。

長年通っていた病院は受け入れてくれなかった。
破裂したら来ても無駄だから、と。
病院の姿勢は、こういう時にあらわれる。
受け入れてくれた病院も手術は出来ないから見守るだけと宣言された。
モルヒネ等で苦しまないようにはするからと。

徐々に体内に漏れ出した血液。
子供達にも事情を説明し、きちんと見守ることにした。
もちろん氣功をしたが、こういう時には自分の氣も入ってしまう。
数時間して、私はヨレヨレになってしまった。
本当の家族に見守られながら義父は穏やかに逝った。

その夜のうちに家に運び、葬儀の手続き等。
本妻の家は姉妹二人だけで、姉は東京。
だから私が喪主代(名目上は義母)となった。
ちょうど、前期試験の最中だった。
後日、再試験をした。

義父は若い時から何度も生死をさまよう怪我と病気をした。
いつか私に言ったことがあった。
残りの人生は、他人の為に生きよう。
そうして義父は、お人好しと言われるほど他人の面倒をみた。
他の人が避ける役を何年も続けて引き受けていた。
ワガママな私には、とても真似ができない生き方だった。

義母は義父に頼って生きてきた人だった。
ケンカもするが、基本的にはいつも一緒だった。
老夫婦で民宿をしていたが、家屋も老朽しお客も来ない。
義母一人では(本妻が手伝いにはいくが)閉ざるをえない。
本妻は、当面何かと子供達を連れて泊まりに行くようにした。
元々、週一回は戻っていた習慣だった。
私は一人で過ごすのは楽なのだ。

今までもそうだったが、結局本妻一人で面倒を見る。
幸いに、週一回の病院通いはあるが、元気だ。
更に幸いに、治療院のある地区だから近いのだ。
義母は、精神的に一人ではいられないだけだ。
それでも、少しずつは義母も一人生活で大丈夫になった。

とはいえ、経済的には生活は成り立たない。
今の日本の状態だ。
国民年金だけでは、とても生活出来ない額だ。
話題になる年金額は、サラリーマンを基本としている。
自営業者、その他の国民年金だけの人達を対象としていない。
これが、長年国を支えてきた国民に対する政府のやり方だ。
税金で生活してきた行政関係者は、悠々自適の老後だが・・・

2008年になった。
私も息子も2年生になった。
息子は私と同じ男子高。
私達の頃はバンカラという気風が辛うじてあった。
硬派きどりではないが、私も三年生時は下駄で通った。
一応、質実剛健、文武両道の進学高校だった・・・

同級生は上履きのまま通ってるようなのもいた。
女物の下駄で通うのもいた。
時々マイカーで来るのもいた。
(内緒で)先生と酒を飲んでいたのも・・・
私も同級生と18禁の映画館に入ったら、前の席に同じクラス生。
しかも級長で、酒を持ち込んでいた。
ツマミまで用意してあり、四人でまわし飲みした記憶が・・・

みんな・・・バカだったなぁ・・・
だが、とても、活発な時代だった。
今は、皆眉毛まで剃ってるようなツルンとした生徒ばかりだ。
そして、おとなしい・・・
息子も今風・・・

4月の末に「迷説般若心経」が書き終わった。
私が書いたけど、私が書いたのではない。
本当に最後まで書けたことに、少し感慨深いものがある。
自分の力ではないが、大したものだと思っている。
今での解説書の中では、特別賞を貰ってもいい内容だ。
出版社は何をしているのか。
ベストセラー作品があるにになぁ・・・

この年も、何件かの死に出会った。
少しでも係わった人が逝ってしまうのは辛いものがある。
私は意識をかなり割り切れる方だと思う。
そうでないと、こういう仕事は出来ない。
前のクライアントを引きずって、次には向かえない。

氣功中は別の意識になれる。
だが、そうでない時、思い出すこともある。
必要以上に親しくしないようにしている。
それでも、死は、辛い。

人は(その人にとって)精一杯生きる事。
内容なんて二の次なのだ。
何をしたか、なんて三の次だ。
とにかく、生きること、生き続ける事が最優先だ。
生き続ける事が、この世に存在した意味と意義なる。
(単純に長生きの話じゃないぞ)

母は92歳を迎えた。
膝が悪いのは40年以上。
一時期は腫れて、シップ薬ばかり貼っていた。
腫れは落ち着いたが、不自由なままだ。
とはいえ、ゆっくりゆっくり畑まで歩く。
100メートルくらい離れている。
そして、小さな移動式の台に座って草取りなどする。

無理しないで、と何度も言うが、少しやりすぎる事もある。
すると次の日は調子が悪い。
そんな事の繰り返しはあるが、基本的には問題ない。
それでも、徐々に体力は衰えている。

かなり記憶力が良い母だが、物忘れ、言葉忘れも多くなってきた。
もっとも私も同じようなものだ。
たまにガスの火を止めず、ナベを焦がすこともある。
火事だけは特別に気をつけて、と姉と私で何度も注意する。
注意はするが、家事仕事を取り上げるようなことはしない。

昔の記憶はしっかりしている。
同じ話を何度も聞かされる。
きっと、その時代は生命力が活性していたのだろう。
いろいろな出来事はあるが、しっかり生きていたのだろう。
記憶と生命力は同じ曲線上にあるのかもしれない。

2009年になった。
差別の国アメリカに初めて黒人大統領が誕生した。
アメリカは変わる、かもしれない、と期待された。
平和方向に変わるなら、世界からの苦しみも減る。
核兵器を保持しているアメリカが、核の無い世界を目指すと公言。
ますます、期待した。

日本も、自民党から民主党に政権が渡った。
日本も変わるかもしれない。
少しはマトモになるかもしれない、と半分くらい期待された。
今年は、世界がマトモに変わる節目かもしれない。

政治の影響力は大きい。
決して政治家だけが政治を動かしているわけではない。
政治家を操る存在があることは知っている。
官僚といわれる傲慢な組織や、金第一主義の利権組織だ。
それでも少しでもマトモなら、と3分の1くらいは期待した。

どんなに汚く、腐っていても人間だもの。
少しは良くなる、かもしれない。
僅かでも変わるかもしれない、と5分の1くらいは期待した。
私は結構楽天家だ。
未だに、政治家もマトモに変わる、かもしれないと思っている。
国民の期待はやがて失望に変わるが、私は失望ほどではない。
世の中、何が起こるかわからないのだ(良い意味で)

私と息子は3年生になり、国家試験と大学受験の準備になった。
とはいえ根性も計画性も極少な家系だ。
まぁ、だいたいで何とかなるだろう。
一年前から計画など出来ようはずもない。
それよりも火の車から資金が出るわけがない。
無ければ様々な手段を用いて借りるより仕方ない。
その準備や計画だけは必死で頑張った。
我が家が頑張るのは、こういう場面だけだ・・・

娘は今年高校生となった。
娘は女子高校だ。
3人が学生で、本妻一人パート・・・
綱渡りで、今年も渡りきれるのだろうか・・・

母は93歳になった。
少しずつの衰えはあるが、問題はないままだ。
長兄は70歳前からマラソンを始めた。
そしてこの年はホノルルマラソンに出かけた。
日本百名山もほとんど制覇しつつある。
兄弟中、一番大人しい長兄だが運動大好きだ。
そして、私にはない根性もある。

基本的には毎朝実家に行く。
30分から1時間くらい氣功治療する。
居間で仰向けに寝てもらい、母の頭部にする。
初期の頃のような痛みは無い。
眠ってしまうことも多い。

毎日が一定しているわけではない。
朝一番の顔で判断する。
パッと見た瞬間だ。
顔色や張りや表情が前日とは極端に変わる。

生命力が旺盛な人は、そう変わらない。
よほどの事が無い限り、昨日と今日は変わらない。
多少の違いがあっても、病人のようにはならない。
だが、深い病いを患っている人は大きく変わる。

天気、湿度、前日の動きの量などで変わる。
生命に余裕がある場合は、それほど敏感に反応しないのに。
長い病い人は、僅かの違いが顔や動作にハッキリ表れる。
思いのほか調子良い時は、母は話しが多くなる。
調子悪い時は、もちろん話もあまりできない。

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終期



一昨年、昨年と全体的な生命力が低下している。
病が強くなったわけではない。
その他の原因もない。
本当にゆっくり、ゆっくり母は衰えていた。

私は、私の扱う氣功の姿を観たように感じた。
それが、姿の一面である事もわかる。
その他の面が多数あるとも感じていた。
やっと、一つの面ではあるが境を感じたのだ。
それまでは、どこまでが限界なのか不明だった。
だから、つい、自分の氣を使ったりしたのだ。

母がきっかけで目覚めた道だ。
その能力は不明だった。
そして、母に毎日行うことによって一面が観えた。
理屈では、もちろんわかっていたことだった。
だが、姿は理屈では感じられない。
例え、理屈通りの姿であっても。
同時に、姿は一面でしかない、とも感じられた。

「この氣」は自分の氣ではない。
最初から故御師匠様が言っていた。
何度も何度も認識した。
それなのに、やはり理解しきれていなかった。
理屈では解っていたつもりだった。

生命力そのものではない。
だが、深くかかわり大きく影響する。
生命は自然であり、計り知れない。
発生の場所も、仕組みも計り知れない。
想像はできるし、理屈では何とでも言える。
だが、やはり計り知れない。

一面の境は、自然。
当たり前なのだ。
ならば、私がすることも決まっている。
最初から変わらないのだ。
私の氣ではない。
私の氣で、邪魔をしないようにする。
精一杯、自然に扱う以外にすることはない。
そして、その結果は、自然に、なる。

母を17年見て、観て、診て、看てきた。
そして、生命の一面を感じた。
自然の一面だった。
私が扱う、氣の一面でもあった。
17年間かかって、感じるモノもある。

実は、この2年前(2009年)から感じていた。
いつかは来る日だが、実際に感じると目の前だ。
その、いつか、は判らない。
心情として、最長になるように氣功する。
最適の自然になれるように、氣功する。

もちろん、誰にも言えない。
身内にも言えない。
私が感じたことだ。
この道に入ってから、感じることが度々ある。
心臓に直に何ともいえない感覚が起こるのだ。
生命の最後を感じてしまうことがあるのだ。

通常は、一週間前程度だ。
長く診ている人は、一ヶ月前からのこともある。
だが、そう思い込むことはない。
常に自分にいいきかせている。
私の判断など、当てにならない。

生命を人間が見極められるはずがない。
だから予知、予測ではない。
未熟な私の感覚だと、その都度戒める。
私の氣ではなく、私が理解できるものでもないのだ。
世の中、何が起こるか、解らない。
奇跡は、日常の中に幾つも転がっている事を知っている。

この年から「迷説シリーズ」を書き始める。
「迷説般若心経」ほどではないが、解説論をしたくなった。
「迷説恋愛論」
「迷説幸福論」
「迷説若返り論」と続く。
どこかの物好きな出版社から、と秘かに思っているが・・・

授業は国家試験対策が中心となった。
過去問題やテスト形式だ。
このほうが憶えやすい。
つまらない授業より、ずっといい。
実技はなんという事も無いままだ。
可もなく、不可もなく・・・
鴨鳴く、鱶(ふか)も鳴く・・・
愛人無く、本妻も泣く・・・

試験などで悩むことはないが、切実なものがある。
ノーテンキで、悩みが持続できない私だった。
だが悩みの元が毎日だもの、持続する以外に道はない。
その悩みを解決する能力は、私が苦手のことだった。
悩みで頭痛、胸痛、腹痛を体験するとは思わなかった。
特に月の最終週は、毎日が悩みだった・・・
心の片隅で生命保険を意識する自分がいた。

2010年になった。
年が明ければ、息子共々試験だ。
息子は残念ながら11月の推薦入試に落ちた。
国立大学は推薦枠が厳しい。
年明けから入学金のバイト三昧の計画が崩れた。
センター試験と前期試験をしなければならなくなった。
私は模擬試験や卒業検定試験などの後、国家試験。
大雪による交通と風邪が問題だが、特に障害はなかった。
で、一応父子共々合格できた。

何とか複数からの借り入れ目途がついた。
私はともかく、息子のアパートや引越し準備。
我が家は大学からは、自分一人で独立する。
奨学金その他とアルバイトで卒業を目指すのだ。
某国立だから何とかやってもらう。
それでも、足りない部分は私の借金となる。

世の中は一層の不景気。
資格があるから仕事がある時代ではない。
それまでの依頼より、更に少なくなっていた。
その為、旅館三軒と契約し、宿泊客の依頼を引き受けることにした。
今までは病人相手だったが、今後はお客相手もすることになった。
だが、以前のような難病だけ引き受けたい、というような気負いはない。

人間、病い人も(一見)健康人も同じく疲れている。
いずれは、旅立つわけだし、それほどの違いはない。
私がすることも、違いはない。
目指すのは回復ではなく、生命が喜ぶことだ。
ならば、同じだ。
どんな年齢、立場、状態でも、依頼されれば同じだ。

同じ県内だが、息子は独立した。
夜中まで働き、一人で煮炊きし、洗濯する。
細い身体だが、芯は丈夫だ。
優しい性格だが、社交性もあるから心配ない。
子供達は勝手に成長していた。

母はゆっくり衰えていた。
この年は、100メートルもない畑まで行けなくなった。
庭先の畑をいじるのがやっとになっていた。
洗濯、掃除は姉が全てするようになった。
それでも煮炊きは半分する。
自分のことは、何とかできる。

物忘れが多くなったとはいえ、ボケはない。
耳も正常だ。
テレビも楽しみにして、好きなだけ見るている。
毎朝、私との会話も欠かさない。
それでも衰えたと感ぜずにはいられない。
いろいろな仕草、言葉、態度で感じる。
きちんと、老いている。

姉は四国88ヶ所巡礼に出かけた。
車で2週間。
仕上げに高野山まで行った。
いろいろな思いがあったのだろう。

いつか旅立つ母用に朱印用白衣も用意した。
姉なりの母への恩返しの一つだろう。
この期間、母の調子は良い状態だった。
ほとんど自分のことを自力でできた。
私は様子を見に行くだけだった。

そして姉もとても良い状態で帰ってきた。
長年の念願だったという。
私も時がくれば巡るだろう。
空海とは繋がっていると感じたことがある。
そのことは、2005年9月のコラムにも書いた。

1995年の出来事だった。
その後も僅かにだが、繋がったままだ。
私はバカだから、超優しい空海は見捨てない・・・
上等と下品の違いは、出会いとは関係ないのだ。
もっと、わけのわからない事で人と人、波動と波動は繋がる。
それが、この世の存在理由でもあるのだ。

7月の母の誕生日で94歳になった。
少し離れた畑は長兄が野菜をつくっている。
私と違い、長兄は何でも出来るし働く。
治療院の草刈りも長兄がしてくれている。
20キロほど離れた市に住んでいるが、週に何度も来てくれる。

長兄の孫達も好んで来てくれている。
母にとっては曾孫達だ。
母にとって孫の私の子供達も何かと行く。
母の作る団子や煮物は大好きなのだ。

母は特に社交的ではない。
だが、身内びいきだ。
子(私達)、孫、曾孫大好きなのだ。
幸いに自然な形で、子、孫、曾孫も寄り付いている。
親戚の人達も、長老となった母に会いにきてくれる。
特にこの年は、珍しい親戚が何組か来てくれていた。

身内や親戚だけでなく、母を知る懐かしい人達が訪れる。
何年ぶり、十数年ぶりの人達も来てくれた。
もちろん地域の人達も何かと来てくれる。
畑を出来なくなった母に、それぞれ野菜などを持ってきてくれる。
そして昔話を楽しんでくれている。

姉も気さくな性格だし、陶芸工房が隣にある。
人が訪れるのは日常茶飯の家になった。
この年、家から出ない母には来てくれる人が多いのは有り難い。
私や姉は、それだけでもボケ防止になると喜んだ。
身内とはいえ、一日中話相手になるわけにもいかないのだ。

私はこういう雰囲気、状況から思うことがあった。
母のような状態を観ていると、どうしても「人生」を考える。
考えるというより、思ってしまう。
それも、最終章を感ぜずにはいられない。
社交的でない母に、やたらと人達が訪れる。
それぞれが意識しているわけではないが、自然と挨拶に来ているようだ。
そして、それは一年後に事実だったと知る。

12月だった。
妹の命日だった。
兄、姉、私の家族が集まった。
母が玄関先で座っていた。
今、庭先で転んだという。
尻餅をついたという。

足の付け根が痛むようだ。
私は大腿骨骨折だと思った。
それは、当たっていた。
内側骨折で、ズレや出血はない。

動かさずに安静以外に方法がない。
長兄は入院をすすめた。
母は絶対に病院には行かない、と言った。
行ったら最後だと。
私は私の見解として、家で安静に一ヶ月。
姉も賛成し、兄も納得した。
母の性格では、入院したらボケてしまうだろう。

今年は、年初から母の足がおぼつかなくなった。
そのため廊下、トイレ、浴室と手すりを取り付けてある。
それをベッドから起きる、ドアを開ける用に部屋内にもつけた。
出来るだけ動かさないように、ポータブルトイレもベッド脇に置いた。
足を動かさないように、練習し、姉がサポートした。

当初の母は気落ちして、少しウツ傾向があった。
自尊心がしっかりある母だ。
子供の手を借りてトイレをすることに大いに抵抗があったのだろう。
それ以外は下半身を動かさずに、安静状態にした。
動かさなければ痛みもない。

年齢が高いから回復も遅れると危惧した。
だが、さすがに昔の人だ。
病弱とはいえ、骨はしっかりしている。
予想より遥かに早く回復へと向かっていた。

転倒してから二週間目に2011年となった。
多少動かしても痛まないが、再転等されたら今度は入院だ。
更に慎重に、それでも、ゆっくり動けるようになった。
手すりにつかまり、部屋を少し移動できるようになった。
1月も終わる頃には、少しずつリハビリの準備に入った。
骨はしっかり、くっついたようだ。

外は大雪。
ベッドで横になっても見られるように部屋にもテレビを買った。
小さな家だが、居間まで移動できないからだ。
だが、日中はできるだけ腰掛けて見るようにしてもらっている。
生命力、気力が落ち気味の人は、横になったままだと更に衰える。
横になったまま、何でも出来ると元気にはなれない。
少しの距離でも(気をつけて)動くようにしてもらう。

若い人でもリハビリは辛い。
気力の落ちた母は少しリハビリすると挫折する。
筋肉も気力も寝ていると簡単に落ちる。
辛いだろうが動かさないと、動けなくなる。
何とか奮い立たせて、口うるさくても、少しずつでも歩く練習だ。

あれほど気力は強い母だったのに。
根性は人一倍ある母だったのに。
簡単にあきらめるような母ではなかったのに。
身近で見てきた私や姉は母の急速な衰えを感じた。

それでも冬が抜ける頃、部屋から一人で出られるようになった。
調子の上下はあるが、風呂に一人で入れるようにもなった。
手すりにつかまりながらでも、歩けるようになってきた。
動けたら、とても喜ぶ。
だが、動けない時もある。

朝、私が母に治療に行く時、姉はスキー場へのアルバイトに出てる。
長兄も除雪や様子見に頻繁にきてくれてはいる。
それでも、昼間はほとんど一人だ。
食事や飲み物は用意して、不便の無いようにしているが一人が多い。
どうしても母の気力次第なのだ。

雪が消え春になる頃、徐々にではあるが、更に調子は良くなった。
朝私が行く頃、寝巻きから着替えていることが多くなった。
それで調子がわかる。
話や表情も明るいことが増えてきた。
大腿骨骨折による不調は、ほとんど無くなってきた。
全体的な衰えは感じるが・・・

山菜採りが好きな長兄と姉。
山から採ってきたばかりは他の葉などが混じる。
大きさなどもバラバラだ。
だから、始末をする。
グレードを整えるのだ。
母は、玄関先でそういう作業もするようになった。
順調だ。

生命力が少なくなると、日によって調子は大きく変わる。
厳しい状況のクライアントを長期で診るとよくわかる。
ほんの少しの気温や湿度、前日の無理などが大きく影響する。
健康人は、その差が少ないから通常は他人からはわからない。
この状態の母も、日によって大きく変わっていた。

調子がいいからと安心はできないのだ。
次の日は、うって変わって動けない場合がある。
だから、作業も控えめにしてもらう。
頑張ると、次の日は調子悪くなってしまうからだ。
この状態のリハビリは、とても気を使うのだ。

顔色がいい時は話もはずむ。
少しずつ慣らせば、庭先の畑仕事もできる、と希望が出てくる。
調子が悪いと、ベッドから起きない。
一日中、部屋から出てこない。
そういうことの繰り返しだった。

6月になり、梅雨時は調子が落ちる。
母だけでなく、病持ちはほとんど調子が落ちる。
湿気が病を重くするようだ。
多少調子の良い日もあるが、全体的に悪い日が多くなった。
食も細く、残すことが多くなった。

毎朝の氣功をしながら感じることがある。
やがてくる、この夏。
それを乗り越えれば、来年まで持つだろう。
寒さより、暑さの方が母には厳しく思えた。
そして、梅雨が明けた。

人と人の係わりは多重の意味を持っている。
その全てに気づけるほど、人は完成していない。
たった一つさえ気づけないのが普通だ。
人は、とても、未熟で欠陥品だ。
だから、この地球上で人として生まれてきた。

この世は、宝の山。
自と他。
人だけでない。
あらゆるモノが宝。
自も宝。
自と係わる全てが、宝。

その一つに身内がいる。
必ず、親がいる。
あるいは、いた。
そこには、多くの、多くの意味がある。
多くの、多くの、気づきがある。
だが、残念ながら、そのほとんどに気づかない。
それでも、少しだけ、気づく場合がある。
その、少しだけ、を体験する為に存在する自。

特に衰えを感じてきた、この一年。
私は生命の一面を見せていただいた。
見せてくれたのは、母だった。
生命の一面であり、生命そのものでもあった。
私には、アホな私には、天職を見つけた私には必要な一面でもあった。

嘗てブッダが出家した原因。
人が避けられないモノとして「生老病死」がある。
その中の「病」が私にはシックリこなかった。
超優秀なブッダだもの、間違いではないのだろう。
だが「病」は人により避けられるのではないだろうか?
どうして一つの言葉の中に入れたのだろう?

この仕事を10年以上続けて、思ったことがある。
病は、避けられないかもしれない。
病は必ず出現するようだ、と気づきだした。
(この説明はとても大変なので、そのうちにしようと思う)
ブッダは、(当たり前だが)正しい事を言った。

そして今回、母を観ていて気づいたことがある。
「生老病死」は、一つのモノだ。
生・老・病・死は、それぞれの面だった。
その一つとは、「生命」そのもの。
(生きている)人の生命のことだった。
老(衰え)と病(怪我も病の一面)も同じモノ。
もちろん、成長と衰弱も同じモノだ。
そして・・・

病は一生に幾つも起こる。
何の為にに病があるのか?
生命の為。
単純に衰退の為にあるわけじゃない。
生命を本来の寿命に延ばす為にもある。

苦しみを伴うからといって、不要なモノではない。
苦しみから一段上がることもある。
一段下がることもある。
生命の変化を起こすキッカケとしてある。

ブッダでさえ、消化器系の病で旅立つのだ。
生命は変化する時のキッカケが必要なのだ。
だから病も生命の一面となる。
そして、最後の変化の為の病がある。
病は直接だけでなく、間接、事前にもある。
人の時間感覚だけで生命の変化は語れない。

母の昨年、一昨年。
そして昨年末の転倒。
今年の梅雨。
そして、猛暑を引き金とする。
その全てが(病名は付かないが)病だった。
最後の変化の為の、病だった。

一週間くらいだろうか。
衰弱が進んだ。
私が氣功しながら、後ろから支える。
姉が口まで食べ物、飲み物を運ぶ。
一応、介護の真似事をさせてくれた。

その間に誕生日になった。
満95歳だ。
東京の兄嫁から大量の花が届いた。
花に囲まれた写真を撮った。
笑顔で病み人には見えない。
その写真が、遺影となった。

前の日。
とても母の顔色が良い。
動きも良い。
話しもスムーズに、普通にできた。
なにより、本人の意欲が湧いていた。
このまま元気を取り戻し、来年は畑仕事をしたい。
私も、母があまりに良い状態なので、いけるかも、と思った。

遺影は私の勘違いだった。
花に囲まれた遺影は前年の誕生日の写真だった。
この年は部屋に沢山の花を持ち込んだだけだった。
母はベッドから、大好きな花を眺めていた。

5日後の16日、土曜日。
朝から呼吸が苦しそうだった。
昨日の調子良さが180度変わっていた。
氣功しても、ほとんど楽にならない。
姉と相談して、医者に往診してもらうことにした。

往診してくれる地元の医者は自宅が東京だった。
来週、往診してくれることになった。
長兄も来ていたので、その旨を伝えた。
医者嫌いの母だが、今日の様子では来ていただくより仕方ない。

この日は、私の娘の誕生日。
土曜日だが模擬テストがあり学校だった。
学校まで迎えに行き、ケーキ屋で皆の分まで買った。
母や姉の分を持ち、とりあえず娘と実家に戻った。

母は天寿を全うした。
最終の時期も、理想的かもしれない。
子として至らぬ点を数え上げればきりがない。
ああすれば、こうすれば、と思う事柄もきりがない。
だが、かなり満足な最後を家族として出来たと思う。

それなのに一年経った今、最後の日を書こうとすると・・・
痛いのだ。
私は、幾人かの最後に立ち会った。
毎年、係わる人との別れが幾人かいる。
重病や末期のクライアントさんと係わる仕事だ。
でも、痛い。

生命の最後の形。
無くなるのではなく、最後の形。
言葉遊びではなく、本当にそう思える。
それでも
痛いなぁ・・・

バタバタとした時間が過ぎた。
直後の顔は口を少し開け、少し驚いたような表情だった。
それが、実に優しい笑顔に変わった。
とても、とても優しい笑顔なのだ。
「なに笑っているんだよ」と何度も声をかけた。

痛みと共の人生だった母が、完全に痛みと離れた。
だが、それだけの理由ではない。
人生を全うした満足の表情だった。
まいるよなぁ。
親にそういう顔されては、降参だ。
子の自分のだらしなさが浮き彫りになる。

子としては末の私が喪主となった。
多分、母もそれを望んでいるだろうという兄姉の意見だった。
17年間、ほとんど毎日治療した区切りの印だろう。
特に絆が強い母子ではない。
私は誰に対しても、絆の強さを求めない。
それが親や子であろうとも。
だから、いい関係でいられたのだろう。
だから、喪主として最良かもしれないと自分でも思った。
私より、他の兄姉の方が母への想いは強いと思う。

大正5年(1916)7月11日誕生。
約一世紀の人生だった。
人はいつか必ず肉体から離れる。
長い人、短い人。
生命が最終形態に自然に変わる人。
突発的に離れる人。

どれが正しいなんてあるわけない。
それぞれが、それぞれの人生だ。
母は、生まれながらに病弱な肉体だった。
だが、最終の生命まで、この世にいた。
頑強な肉体でも、突然逝く人も多い。

この世では生命の器として肉体がある。
肉体を維持することは、この世に留まる為には必要だ。
私流なら、心より魂より肉体を大切に、という。
この世に、いる間は、だ。

その先は、私には、わからない。
想像はできるし、理屈も言える。
だが、本当のことは、わからない。
今、私はこの世にいるからだ。
それは、この世を離れてから気づけばいい。
母は、次の世界に行った。
だから、母のことは、もうわからない。

この世から旅立つ人がいる。
残った人は、旅立った人との関係の濃淡で供養する。
関係深い人、濃い人、心残りがある人は特に忘れない。
とりわけ肉親、近親者は何らかの供養をする。

命日、月命日に墓参する。
仏壇に手を合わせる。
線香を焚く。
写真を飾る、持ち歩く。
常に、忘れないようにする。

私の母に対する供養は、このブログだった。
毎日書き続けること。
母の本当の人生などわからない。
私から観た母の人生しかわからない。
しかも表現は一部しかできない。
それでもいい。
これが、私なりの供養だった。

そして、一応のケジメがついたと思っている。
母は、多分、この世にはいない。
子や孫に特別愛情深い人だったが、もう済んだと思う。
この世で充分したから、もう離れたと思う。
私もそれに対応して、サッパリとしている。
一応、書き通して、あらためて思った。
厳しい時代と環境だったろうが、充実した人生だったろう。
母ではあるが、立派な人だった。



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あとがき



書き終えたのは2012年7月27日。
それから8年経った。
「母のこと」を書きながら、私の半生を書いていた。
私にとっても貴重な記事となった。
読み返してみても濃い内容だと思う。
書き始めから最後まで、生命を意識していた。
人生を意識していた。
そして、最後、を意識していたからだと思う。

ここには書けなかった事も多々ある。
当たり前だ。
母のことだけではない。
私のことだ。
そこまで整理がついていない。
そこまで深く理解できていない。
そこまで表現する力がない。

それでも、こんなことを書けるのは一生に一度だ。
母の人生、最後を提供していただいたからだ。
17年間私の治療の基になってくれたからだ。
言葉にすれば、ありきたりになる。
だが、他に表現できない。

ありがとうございました。
本当に、ありがとうございました。




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