第九章
  無眼界乃至無意識界 

一応直訳するのだけど、その前に・・・。
仏教用語の説明だぁ。
これを先に説明しないと解説にならない。
(話す時はこんなメンドウな説明はしないだろうなぁ)

第八章の「六根」と「六境」で「十二処」という(らしい)。
それに、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の「六識」を加える。
それが「十八界」という言葉だ。
順番も「六根」「六境」「六識」で整列している。
勝手にアチコチになったりしないルールらしい・・・。
その為、一番最初が「眼界」(界をつける)
(最初からゲンカイ(限界)かよ!)
最後が「意識界」となる。

「六根」が五感覚器官とそれを認識する脳。
「六境」が「六根」の対象相手。
「六識」は「六根」で認識した後の心の動き。
つまり「六根」が感情抜きの心。
「六識」は、それに基づいての感情有りの心。

例えば「眼界」で桜の花を認識。
「色界」は桜の花という物質。
「眼識界」は「わぉ〜、なんて綺麗なんだろう!」
という心の動き。
「ぁぁ・・・儚く散る運命なのね、まるで私のよう」
と嘆く人もいるかもしれない、心の動き。

この「十八界」が我々から知る世界だ。
それにしても・・・感心するなぁ・・・。
「六根」「六境」「六識」という区別。
感覚器官と対象物と心を分けた洞察力。
冥想という方法無しでは観えないだろうなぁ。

まぁ、通常の我々が知る世界観だ。
だから、これを「煩悩」と表現する事もある。
つまり、我々は煩悩の世界で生きているのだ。
煩悩、万歳なのだ。
煩悩を否定するのなら、存在も否定する事になる。
煩悩は、気づきを含めて、とても大切な土台なのだ。

「無」を「なし」と訳すと、煩悩を否定する。
「この世には煩悩など無い!」などと言ってしまう。
言った人は心の中で煩悩が渦巻いているのを知っているのに。
あるいは、無理やり「ない!ない!」とする。
だから、少しも幸せになれない。
煩悩を否定すれば、幸せにはなれないのだ。
こんなの、当たり前なのになぁ。

「眼界」から「意識界」までが十八界。
十八界は我々が認識できる世界。
我々だから世界というのは「煩悩世界」だぜ。
そう理解できれば「無」の訳が活きる。
「こだわるなよ」という訳が、より活きるのだ。

「こだわるなよ」を更に深く観る。
すると「愉しめよ」という意味が底にある。
「十八界を愉しめよ」
「この世界に生きる事を愉しめよ」

ブッちゃん(仏陀)らしい言葉だ。
優しさに満ち溢れた言葉だ。
ここは話し言葉の部分だぜ。
ブッちゃんが誰に、何を、どんな風に言ったか。
同調(シンクロ)してみれば、わかるだろ。
ブッちゃんと同調するのは難しくないぜ。
ブッちゃんは、我々凡人に合わせてくれているんだ。

話し言葉は易しく、優しい。
だが経に記すと、こうなる。
しょうがないじゃないかぁ。
だから訳は元に戻す必要がある。
経の字を、そのまま訳したのでは意味が無い。
ブッちゃんの心を伝えられない。
(と、独善家のワシは思っている・・・)

ブッちゃんは確かに高度な話をしている。
高度な話というのは広く応用できる話だ。
一部の人しか理解出来ない話ではないぞ。
階段の上からは下の段も見渡せるのだ。
心経を小難しい理屈話と誤解しないでね。

ブッちゃんは確かに優れたオッサンだ。
だから凡人や凡人以下の我々に判るように話す。
ケモノや妖怪が納得できるように話す。
心経は誰でも理解できるように話した内容なのだぜ。
優れたという字は、優しいという意味になる。

十八界(眼界から意識界)にこだわるなよなぁ。
自分の世界(十八界)を愉しみなよ。
苦しむ為の世界じゃねぇぜ。
苦しみは「こだわり」で生まれるんだ。

不確かな感覚。
不確かな対象。
不確かな心。
だから、どうにでもなる。
歩き方は自分で決められる。
不確か(空)は、選択肢が多いのだ。

決まっている事なら、説明などいらない。
説明しても同じだ。
知っても知らなくても同じだ。
だが、不確かなら、知る事が活きる。
選択する事が、生きる事となる。
ブッちゃんは、生きる勇気を与えてくれている。

毎日、生活している。
暮らしている。
それが、生きている状態だ。
日々の営みがあって、生きている。

それは、病床にある状態でも同じだ。
健康で働く事も、悩みで閉じこもる事も生活だ。
その人が生きているなら、それが現状の生活だ。
生活は同一ではない。
その本人だけしか認識できない世界だ。

十八界というのは、日々の生活の事だ。
つい、眼根と色境と眼識を同一だと思ってしまう。
それは、他のモノ達とも同一だと思ってしまう。
だが、生活は一人一人違う世界だ。
そして、その全てが、とても不確かな世界だ。

自分の世界(十八界)の基準で他を判断する。
すると、考えが違う。
行動も違う。
同じはずなのに、何故だ!と思ってしまう。
自分の世界観は確かだと思っている。
だから正しく直さなくては、と思ってしまう。

摩擦が起こる。
衝突が起こる。
争いが起こる。
ここに、苦しみの多くの原因がある。
愚かな争いで、残酷と不幸が生まれる。

自分の世界が不確かだと気づく。
すると、他のモノ達の世界も不確かだと知る。
不確か、と、不確か。
なんだ、同じアイマイな世界の住人かぁ。
ならば、いろいろが違っても当たり前だ。
そこに「思いやり」が生まれる。

世界は一つ!
人類、皆家族!
ま、まぁ、観方によっては、そうもいえるなぁ。
観方を変えれば、一つも同じ世界は無い。

親子でも違う。
恋人同士でも違う。
夫婦が違うのは当たり前。
隣の家とは違う。
他の国とは違う。
ネコや鳥とは違う。

違う世界観のモノ達同士。
地球上では一緒に生きている。
生きていくには、智恵が必要。
とはいえ、特別高級な智恵ではない。
誰にでも当てはまり、応用できる智恵だ。
それを「般若」といった。

「般若波羅蜜多心経」だ。
どの部分をとっても「般若」を顕している。
その「般若」は、誰にでも理解できるモノだ。
そして、誰でも活用できるモノだ。
そうでない理屈など「般若」の名に値しない。

眼界から意識界までの十八界。
「無」を付ける事で「般若」となる。
「こだわるなよ」という訳で「般若」となる。
「愉しめよ」という意味で「般若」となる。

経の文字は実に簡潔だ。
簡潔だからこそ、意味は広く深い。
相手によって、話し方が違う。
表現が違う。
違って、当たり前なのだぜ。

心経の文字だけ見ると難しそう。
直訳する前の解説も難しそう。
六根や六境や六識。
それらを合わせて十八界。
仏教用語の決まり事だけで難しそう。

だけど、中身は易しく優しい。
話し言葉まで難しかったら仏教の意味が無い。
ブッちゃん(仏陀)の意図した事。
誰にでも、どんなモノにでも救いとなる言葉だった。
だから、難しくしたら、その時点で失格・・・。

心経の大部分は話し言葉だ。
相手は例えれば・・・
落語の長屋横丁の八っつぁんや熊さんだ。
否定の否定は即ち大肯定、などという話はしないぜ。
大丈夫だぁ、何とかなるから。
いつも、そんな言葉が付いてくる。

ワシ的訳。
「毎日の暮らしがあるだろ。
見たり、聞いたり、感じたりしているだろ。
嬉しかったり、辛かったりするだろ。
まぁ、辛い方が多く感じるかな。
苦しむ事が多いかなぁ。

嫌なモノは見るな、っていっても無理だよなぁ。
辛い事を感じるな、っていっても感じるよなぁ。
毎日、実際に苦しいもんなぁ。
だけどな、
見た事を引きずる事ぁ、無ぇんだよ。
辛い事を思い出して、苦しみ続けるのは余分だぜ。

つまりな、
見た事や聞いた事や感じた事は無くせねぇけど、
いつまでも、こだわる事は無くせるんだぜ。
苦しむ元ってのは、見た事や感じた事じゃねぇんだ。
いつまでも、こだわった事なんだぜ。
嫌な事があっても、苦しみは無くせるんだぜ。」

もう一つの訳。
「生きているってのはよ、
いろいろ見て、聞いて、味わって、感じて、思ってるんだ。
実際は、心がどう思うかで、見方や感じ方が違う。
つい、受身で生きているけどな、変える事が出来るんだぜ。
なにも苦しむ為に生きてるわけじゃねぇんだ。

楽になるには『コツ』ってのがあるんだ。
苦しみを無くすだけじゃねぇ。
更に愉しめるんだぜ。
見る、聞くなどは受身だけど、
思う、は自分で自由に出来るんだ。
その『コツ』が、こだわらない事だ。

こだわらなけりゃ、いろいろな出来事は面白れぇぜ。
生きている時間は限られているんだ。
いろいろな体験は貴重なんだ。
同じような出来事でも、一つ一つは違う。
少しづつでいいからよ、変えてみようじゃねぇか。
大丈夫だ。
心はイイカゲンだから、変える事が出来るんだぜ」

 

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