「迷説幸福論」   HPトップに戻る

 


これは2009年8月31日から2010年3月31日まで、

毎日ブログに書いたものです。

自分のホームページ、楽天、ヤフー、goo,mixi,アメーバ等

複数のブログです。

著作権は私、水上陽平にあり、転載、引用する場合は連絡下さい。(iiki8@ybb.ne.jp


   

好の項

康の項

交の項

行の項

興の項

光の項

江の項

恋の項

功の項

口の項

幸の項・1

幸の項・2

幸の項・3

幸の項・4

幸の項・5

幸の項・6

幸の項・7

幸の項・8

幸の項・9

あとがき


 

はじめに

 

幸、高、功、効、行、交、好。
まだまだあるぞ。
香、孝、恋う、康、恒、興、昂。
ただ同音の文字ではない。
生きる指標になりうる「こう」だ。

 

ワシは青臭い年代ではない。
だが、青臭い想いは常にある。
想いはあるが、毎日に流される。
元々、流されるのは好きなほうかも・・・

 

それでも、青臭い想いに呼び戻される。
人生を楽しみに歩くには・・・
せっかく生きているんだ。
漠然と流されるだけっていうのもなぁ・・・

 

幸に生きたい。
だけど、幸ってアイマイすぎる。
範囲が広すぎる。
個の感覚や考えで違うかも・・・

 

もっと判りやすい「幸」があるだろう。
日本語は同音に同意味の文字を用意している。
音が同じなら、意味も同じところに根ざす。
例えば、神と上と守。
火と日と陽。

 

幸も同じ意味や方向の文字があるだろう。
もし無くても、デッチ上げればいい。
どうせワシは口から出任せで書いている。
言葉遊びも人生の愉しみの一つだ。

 

いろいろな「こう」の文字。
それで「幸」の道標にする。
まぁ、それが今回の指令だ。
(指令だったのかぁ・・・)

 

考える。
おっ!これも「こう」だ。
だが、何を考えるかが問題だ。
ワシは、考える。
如何に楽をして愉しく生きられるか。

 

消極的な選択がある。
努力しない。
根性出さない。
頑張らない。

 

消極的なモノはノリが悪い。
同じ方法でも消極的にしなければいい。
堂々と努力しない。
でも、気まぐれで、時々する。
好きな事には根性出す。
たまには、頑張る。

 

考える事も、持続しない。
考えから空想へ。
更に妄想へ。
ゆったり夢想へ。

 

脳があるなら、考も愉しもうぜ。
コツは「こだわらない」だ。
考える、って、愉しみの一つだ。
ということで、考も幸。


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「好の項」(以降全て、こうのこう、です)

 

好き。
女の子が好き。
ワシの趣味ではないぞ。
漢字をバラすと、女と子になるのだ。
(注:ワシはオナゴは敬うし好きだが、
女の子はワシ的にはオナゴじゃない。
オンナと女の子は差があるのだ)

 

好きという段階。
オンナではなく、女(オンナ)の子。
未だ成熟していない。
軽い段階の惚れ。
楽な段階の感情や方向。

 

ついでに嫌いという字も考(こう)する。
嫌いは、女を兼ねると書く。
この場合の「兼ねる」は「合わせもつ」ではない。
推しはかる、という意味だ。

 

女を推しはかる。
・・・解らない、推測不能・・・
女は推測不能の生物なのだ。
女は生命とダイレクトに繋がっているからだ。
生命は(人間の段階では)推測不能。

 

解らないモノに対する感情。
まぁ、性格によるけど・・・
そこに嫌いという感情が生まれる。
理解できないモノは嫌い。
そういう人達は結構多いぜ。

 

ワシは節操の無い方だ。
更に節操の無い生き方を目指している。
だから嫌いなモノが少ない。
好きなモノは多いし増えている。

 

嫌いを無くそう。
それが正しい生き方だ、なんて思ってない。
正しい生き方は・・・苦手な方だ。
正誤にこだわると、自他共に不自由になる。

 

ワシは根性が無い。
嫌いがあると、克服なんてしない。
避ける。
すると、その分、自由になれない。
だから節操の無い生き方になる。
嫌いを克服するのではなく、薄くする。
まぁ、いいかぁ。

 

好きを増やす。
多分、幸の方向だろう。
だが、嫌いも増えたらメンドウだ。
好き、嫌いがハッキリしている。
そういうのは、結構不便だ。

 

好きが増えるのはいい。
好きは、生きていると、勝手に増えるようだ。
嫌いを濃くすると、嫌いも勝手に増える。
心は焦点を当てると増え、広がるようにできている。

 

ならば、コツは簡単だ。
嫌いを薄めればいい。
苦手を薄めればいい。
無くそうとは思わなくていい。
この世にあるものだもの。

 

好み。
何故だかわからないが、いい。
何となく、いい。
好き、は固定されてない。

 

だから、好き同士も別れる。
気分で変わるのだ。
それが、いい。
幸は固定されないところに有るようだ。

 

好きは増やせる。
固定されないから、増やせる。
一夫一婦制じゃないのだ。
縛られないから、幸になる。


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「康の項」

 

この字は意味深いぞ。
やすらか。
たのしい。
おおきい。
五方に通じる大きな道。
そして、むなしい。

 

幸の指標になりそうな意味が多い。
まず、やすらか。
これは「健康」の康だ。
身体は「健やか」に。
心は「康らか」に。

 

落ち着いている状態。
静かで、楽な状態。
安定している状態。
やわらかく、温かい状態。

 

とりあえず落ち着くのを小康状態という。
良くなりそうだ、という場合も小康状態という。
小さくても、安心できそうな「康」だ。
吉兆字の一つだろう。

 

そういえば「家康」というオッサンがいたなぁ。
家(徳川家)を安心させる為、何でもしたなぁ。
犠牲になった方は「康」じゃなかったけど・・・
安定の時代(江戸時代)が長かったのは事実だ。

 

たのしい、という意味があるのもいい。
幸はたのしい(楽しい・愉しい)が付きモノだ。
安心より、愉しいを目指すタイプがいる。
ワシもその一人だ。
落ち着かなくても愉しければいい。

 

五方に通じる大きな道。
何やら、深〜い意味がありそう。
五方とは、四方プラス一方だ。
方は方向、方角を指す空間。

 

地球上では東西南北が四方。
宇宙的や精神的なら、上下左右。
上下も左右も自分の位置からだ。
元々上下も左右もないから、自分を中心とする。

 

その中心が残りの一方とする。
東西中南北。
上中下中左中右。
つまり五方とは、全ての空間を意味する。

 

全ての空間って、いわれてもなぁ・・・
広すぎて想像がつかない・・・
康は見えない世界を表現している。
やすらか、とか、たのしいなどだ。
ならば、物理的な空間ではないな。

 

物理的な意味でなければ、精神的意味になる。
五方(全て)に通じる大きな道だ。
ならば道は、生き方とか方向だ。
全てに共通する生き方。
全てに内蔵されている方向。

 

それこそが、幸せってヤツだろう。
どの道からでも通じている。
目指している、という表現もできる。
何処にいても、幸せに通じている。
この世の創造主は、超優しいなぁ。

 

五方に通じる大きな道。
この表現はいい。
幸せの性質や機能を上手く表している。
五方を生きるのは、全ての生き物達だ。

 

生き物だけじゃない。
全ての存在が五方を生きている。
生きているのは、生き物だけじゃないのさ。
まぁ、この説明はメンドウだからしないけど。

 

そして、全ての存在に康(幸)はある。
最初からある。
青い鳥は、最初から家に住んでいるのだ。
不幸もあるかもしれないが、無幸はないのだ。

 

全ての生命に最初から康(幸)がある。
生命の内に仕込まれている。
それが五方に通じる大きな道。
グレちゃん(創造主)は優しい。

 

だが、ただ優しいだけじゃない。
同時に仕組まれているモノがある。
それが、もう一つの康の意味。
むなしい、ってヤツだ。

 

幸の性質の一つか。
幸のある面なのか。
それとも、表裏の関係なのか。
わからないが「むなしさ」も最初から付いている。

 

むなしさ、が何故康(幸)なのか。
一般的な理解では、マイナス的なイメージだ。
だが、仏教用語としてなら理解できる。
空しい、虚しいは、大きな道なのだ。

 

通常の、むなしいという感情。
それも空や虚の一部だ。
大きすぎるモノ。
理解の範囲を超えるモノ。
それを空しい、虚しいと表現した。

 

幸の一部分。
幸の一面。
むなしさはツマラナイのではない。
大きすぎるのだ。
むなしさ、は最初から生命に付いている。

 

虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)。
虚しさ、空しさの本質をあらわす菩薩だ。
大宇宙、無限の広さをあらわす言葉だ。
むなしいとは、本来そういう意味なのだ。

 

康に意味する、むなしさ。
幸の一面や一性質を表している。
物質(肉体)界においては、諸行無常でもいい。
万物流転でもいい。
肉体生命は限りある。
だから、むなしい、という意識が大切だ。

 

むなしい、は慈悲に通じる。
自他共に、あらゆるモノに、むなしさがある。
感じる心は、慈悲となる。
慈悲は幸に通じている。
康は、五方に通じる大きな道なのだ。


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「交の項」

 

交わる。
同種が深く接触する事。
ただの接触は交わりにならない。
ちなみに、異種だと混になる。
ワシは混乱も乱交も混交も好きだけどなぁ。

 

生きていると、何かに接触する。
何かに縁がある。
モノや機会や人や人以外の生物。
だが、縁は深浅がある。

 

袖触れ合うだけの縁もある。
肌触れ合う縁もある。
もっとアレコレ触れ合う縁もある。
そして、心に触れる縁もある。
魂に触れる縁もある。

 

この世は物質(肉体)界だ。
仏教的には色界という。
見える、触れる、聞こえる世界だ。
だが、多重世界でもある。

 

見えないモノ。
触れられないモノ。
聞こえないモノ。
それらも、重なっているのだ。

 

交わる、とは、二つ(以上)の世界に触れる。
見える(触、聞、香なども)世界だけじゃない。
見えない世界だけじゃない。
見える世界を通じて、見えない世界にも関係する。
つまり、心や魂や霊や過去や未来にも影響する事だ。

 

この世に生まれる。
特徴は一つの肉体。
その肉体の限度までが、この世での生命。
最初から最後まで、一つの個なのだ。

 

その個が生涯を過ごす。
その個の生涯が道になる。
どんな生命体にも独自の道ができる。
振り返ると道がある。
先(未来)にも道はあるが、見えない。

 

道は独自だが、幾つもの他の道と交わる。
方向が同じ道もあるだろう。
だが、一つの道にはなれない。
接する事もあるだろう。
だが、溶け合う事はできない。

 

心は解け合う事が可能かもしれない。
遥か遠く、魂も一つに解け合うかもしれない。
だが、肉体は一つになれない。
この世の存在理由の一つだ。
個が個として体験する「場」だからだ。

 

どんなに愛し合っている二人でも無理なのだ。
まぁ、大抵は時間が経てば身をもって知る・・・
母体の中の胎児も解け合っているわけじゃない。
個が個として生きるから、貴重な世界なのだ。

 

解け合えない。
一つになれない。
だが、交わる事はできる。
それが、縁というヤツだ。

 

交わる。
個と個だから交わる事ができる。
交わる点、あるいは面に違和がある。
違和はそれぞれに影響する。

 

それまでの自分(個)と違うモノ。
違和を受け入れる。
あるいは拒否する。
それにより、道の幅が広くなる。

 

相手(他の個)と解けるわけじゃない。
だが、違和は解ける。
その分、自分が広がる。
柔らかくなれる。
交はこの世の存在理由の一つなのだ。

 

誰かと出会う。
何かと出会う。
お互いに影響を受ける。
お互いの違いに影響される。

 

人と人の付き合い。
人とモノとの付き合い。
この世での出会いの理由。
相手を理解すること、という概念があった。

 

それは、固定概念だった。
相手は理解しきれない。
自分も理解しきれない。
理解ではなく、解だけなのだ。
違いを解かす為の出会いだった。

 

交の意味。
交の目的。
交の存在理由。
交の効能。

 

違いを体験する。
その違いを受け入れる。
違いが解ける。
解けた分だけ広がる。

 

広がりは自由度と比例する。
自由は幸の一面。
解かす能力は柔らかさ。
柔らかさも自由度だ。
交は自由に貢献していたのだ。

 

他と交わる。
他と接触。
違いの認識。
それらは自由に向かう。

 

ならば縁も同じだ。
何故、縁があるか?
因果との関係だと思ってしまう。
まぁ、それでいいけど・・・

 

因果を過去、現在に絞ってしまう。
すると、自由に結びつき難い。
因果は未来の為に存在する。
すると、自由に関係する事がわかる。
縁は、自由になる為のシステムなのだ。

 

わる方法。
交わる型がある。
良悪はない。
それぞれの状態、立場、目的による。

 

ワシ的にオススメの方法はある。
理想というほど遠くない。
いつでもできるわけでもない。
だが、楽なのだ。
お互いが楽なのだ。

 

「交淡如水」という。
交わりは淡く、水のように。
この意味は深い。
淡い、に意味がある。
水の如く、に意味がある。

 

淡の交わり。
お互いの個を尊重する。
お互いの生き方を尊重する。
すると、淡という交わりになる。

 

水の如く。
淡ではあるが、水の如く。
相手の邪魔はしないが、表面の交わりではない。
尊重というのは、深い理解があるからだ。
理解していても、淡の付き合い。

 

大切だからこそ、淡の交わり。
水の如く交わるから、深い。
いつまでも、仲間。
必要なら、いつでも傍にいる。
だが、特に何もしない・・・
それが、交淡如水だ。


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「行の項」

 

行。
「こう」とも「ぎょう」ともいう。
行く、という意味だ。
進む、という意味だ。
道に関係する。

 

道は歩いた後に出来る。
だが、歩く先にもある。
見えないが、方向はある。
未来という未知の道。
(ダジャレじゃないぞ)

 

未来の道は意思で決まる。
導かれて決まる場合もある。
いずれにしても、行かなきゃ道はできない。
諦めて止まれば、道はそこで途絶える。

 

幸せは、歩いちゃ来ない。
だから、歩いて行くんだね。
どこかの歌詞だが、本質だろう。
幸は行によって、実現できる。

 

受身で幸が舞い降りる。
そんなイメージがある。
幸をある状態だと思うからだ。
幸を静的な状態だと思うからだ。

 

幸は歩いた行により育つのだ。
当たり前だが、意外と忘れがち。
幸は動的なモノなんだぜ。
幸を感じるのは、そこまで歩いたからだ。

 

幸への道。
最初から持っている。
最初から付いている。
そういう表現もできる。

 

だが、それに気づくまで道を行く。
気づいてからも道を行く。
青い鳥は、自分の家にいる。
だが、一度外に出ないと色の区別が出来ない。

 

色々な色を観て、色は判断できる。
そして、気づく。
な〜んだ、青い色なら家の鳥だぁ〜
道は、自分の中心につながっている。
それは、宇宙の中心でもある。

 

自分に戻る。
自分を観る。
それを行(ぎょう)ともいう。
修める為の行を修行という。

 

だが修行と称する事は多分にアヤシイ。
修行を口にする者はアヤシイ人が多い。
修行は個人的な内部の行だ。
アレコレ他人に指図するようなモノじゃない。

 

また精進と修行を混同する人も多い。
しかも、それが正しい道のようにいう。
稚拙か詐欺か勘違いか無知だと思う。
そんなことは、他に言うべきことじゃない。

 

人間の判断は間違いが起こる。
間違いは間違い無く起こる。
それも、かなり起こる。
日常茶飯で起こる。

 

だが、間違っている間は間違いだと思わない。
だから正当を主張する。
違いがあれば、相手が間違いだと思い込む。
自分に正誤や善悪の判断ができていると思い込む。

 

精進する。
努力して、精妙に進む。
だから、間違いなど更に無いと思い込む。
方向に間違いがあるなどとは思わない。

 

ワシは精進や努力する事を勧めない。
精進は悪い事ですか?
努力はいけないのですか?
・・・だから、勧めないのだ。


努力や精進は趣味だ。
好き好きだ。
しようが、しまいが、勝手なのだ。
そこが理解できないみたい。
立派な行為だと思い込むみたいだ。

する、しないは好き好きでいいのだが、
良い行い、立派な行い、と思い込むと弊害がある。
努力や精進で得るモノより、弊害の方が大きい。
そんな事も解らないで、他人を煽る人達が多い。
胡散臭いんだなぁ・・・

 

全ては行(ぎょう)になる。
日常生活全てだ。
行は自分の内を観る行いだ。
だが、精進や努力じゃない。
自然の行いだ。

楽になる為の行だ。
苦行であったら本末転倒。
楽とは自由になる事だ。
心身行が柔らかくなる事だ。

自分を観る、なんて難しくない。
慣れてないだけだ。
自分だぜ。
そんな大した内容じゃない。

 

楽なはずの行が苦行になる。
自分を素直に観るのを忘れる。
理想の自分を追いかける。
そりゃ、無理も出てくるさ。

精進だ、努力だ、聖なる行だ。
誤魔化す言い訳はある。
誤魔化すのは他を気にするからだ。
自分の内を観るのに、誤魔化す必要はない。

行は幸への歩き方の一つ。
ならば楽に歩こうぜ。
自分を観るのに、力はいらない。
肩の力は抜かなきゃ、瞳は開かない。

 

努力精進推進派は異論があるだろう。
行は精進の為の行いである、と。
そんなこたぁ、無ぇ。
精進は趣味だぜ。
行は行だけだ。

立派になる為に存在しているんじゃない。
魂を磨く為に生まれたわけじゃない。
生命を謳歌し、様々を体験する。
そして、やわらげば、上出来。

目指すとすれば、幸。
正しさでもなく、聖でもない。
純でもなく、頂点でもない。
優しさ、やわらかさ、嬉しさだ。


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「興の項」

興(こう・きょう)。
力を合わせて何かを興(おこ)す。
同時に協力する。
そして、心に感じる、という意味もある。

生物は個で存在する。
そして、お互い協力して生きている。
存在は個だが、個では生きられない。
それぞれが影響し合っている。

ただ影響しているだけじゃない。
協力する事で、新たな出来事が始まる。
個と個が協力する。
個の集まりが協力する。
社会という世界が始まる。

 

社会は個の幸に関与する。
個の苦にも関与する。
個だけでは変化が出来ないからだ。
他との摩擦や刺激があって、個が変わる。

社会が幸をもたらすわけじゃない。
幸は自分で観つける(気づく)ものだ。
だが、関与はする。
大きく関与する。

興という共同力。
それは社会を創る。
多分・・・苦と喜を比較したら・・・
喜の方が多いし大きいのだろう。
だから、社会は続いている。

 

興によって創られた社会。
社会によって個にもたらす苦と喜。
興が幸の一面ならば・・・
苦と喜も幸に内蔵される。

興は共同力。
そして、心に感じる作用。
誰かと、あるいは、何かと興する。
すると、新たな何かが出来る。

一人では出来ない何かが起きる。
それは、同時に、個の心にも起きる。
興の意味は深い。
知が「心に感じる」意味ならば・・・
知行一致という言葉が当てはまる。

 

興するには、他と会わなくてはならない。
そして、心に感じる何かが生まれる。
個のまま閉じこもっていては興にならない。
それでは、心に感じる何かは生まれない。

個の世界はとても大切だ。
自分が自分に向き合う世界だ。
自が回復する時間だ。
だが、個の世界だけでは生命は萎む。

他と出会う。
出会うだけでは足りない。
一緒に、力を合わせる。
すると、個の世界では気づけない何かが生まれる。

 

生命の為に世界がある。
この世(肉体界)とあの世(精神界)がある。
どちらも生命の為の舞台だ。
そして、我々は、この世にいる。
あの世の事は、一時棚上げだぜ。

この世は、個と社会で成り立っている。
全ての個が何らかの繋がりに加わる。
個だけでは、存在できない世界だ。
多分・・・あの世は、個だけで存在できるだろう。

個が基本なのは、当たり前だ。
個の集まりと、個の支え合いが社会だ。
この世での生命は、個と社会で活性する。
生命の活性が幸となる。

 

力を合わせる。
1+1だ。
結果はどうでもいい。
2でも5でも1.2でもいいのだ。

結果ばかり求める風潮がある。
ツマラン風潮だ。
そんな事ぁ、どうでもいいのだ。
合わせるところに、何かが生まれる。
それが、合わせる意味だ。

結果は、常に変わるものだ。
意味も価値も無い。
そんな事も判らなくなったのかなぁ。
日本人は、退化しているんだなぁ・・・。

 

和の国・・・。
日本の真髄は和・・・。
真髄が何か知らないが、和は得意だった。
そして、和の意味と価値は大きい。

他と和する。
すると、問題が解決する。
新たなる、何かが生まれる。
生命力が増える。

日本は和によって、繁栄できた。
それは結果を求めたからではない。
和する事に意味と価値があったのだ。
興は和の一部分だ。
だから、日本は力を合わせるのも得意だった。

 

一緒に力を合わせる。
表面の力だけ合わせても和にならない。
興にもならない。
1+1=2になるだけだ。

興する。
それは「氣」を合わせる。
「氣と氣」が合うと何かが生まれる。
2にならないのだ。

数字以外になる事もある。
絵になる、形になる、未来になる。
興の可能性は、予測不能だ。
だから、興は面白い。
面白いところに、幸はいる。

 

氣を合わせ、力を合わせる。
それには個の確立が必要なのだ。
個の自立があってこそ、他と協力できる。
足りないから力を合わせるのではない。

個性ある個を自覚するから興になる。
それが出来なければ、興とはならない。
どちらかが一方的に寄生する。
あるいは、両方で寄生する。

欠陥品はお互い様だ。
人間の段階で欠陥品以外は存在しない。
そんなこたぁ、どうでもいい。
欠陥品を自覚した上で、興するのだ。

 

個の自立と興。
螺旋状に進む。
自立があり、興となる。
興により、気づき(自立)が起こる。

この世の仕組みだ。
個と社会の関係だ。
個の自覚と他との共栄。
お互いが、それで楽になる。

社会が個を滅す。
個が社会を荒らす。
その先は。
共倒れの滅亡。
今の日本は、何処に向かう?


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「光の項」

光は種類がある。
光、洸、晃、恍、昴。
光は、元は火の輝き。
太陽も火の輝きだ。

自ら、光る、輝く。
他を、照らす。
勢いがある。
美しさがある。
そういう意味もある。

明るいから、昼間、という意味もある。
陰陽の陽だ。
陰は夜、闇。
大きい、広い、という意味もある。

 

洸は水の光。
湧いて出てくる水の輝き。
勇ましい、強いという意味もある。
海のように、広く深いという意味もある。

晃は日の光。
一番、光として正当・・・
だから、あきらか、という意味もある。
ちなみに、光は音と表現する場合もある。
つまり、日の音が晃となる。

胱という字もあるが・・・
これは月の光・・・じゃないぞ。
肉月だから、臓器を表すのだ。
膀胱は、月の光じゃないのだ・・・。

 

恍は心の光。
心は物質的な輝きとは違う。
奥深く、味わいがある光だ。
単純に明るい意識じゃないぞ。

心の光の表現。
例えば、気抜け。
例えば、うっとり。
例えば、かすか。

常識のイメージと違うだろう。
心の光は、淑やかなのだ。
そっと、かすかに、光るモノだ。
心の世界は、それが至上の光なのだよ。

 

幸は心に関係する。
外にある物質でなく、内の心。
ならば恍は光の種類の中で、幸に一番近い。
誰が恍を観つけたのか知らないが、凄ぇな・・・

うっとり。
微か。
穏やか。
やわらか。

幸は、眩い光じゃない。
はっきりの明るさ、でもない。
しっかりの正しさ、でもない。
幸は、そっと、ある、らしいぞ。

 

幸のヒント。
恍は大きなヒントとなる。
幸せは、微かなモノ。
これは、とても深いヒント。

幸せは、穏やかに存在する。
これは、すごく大きなヒント。
ワシの専門は生命力の活性だ。
大きい、強いというイメージが固定されている。

幸せは生命力の活性に比例、同調するのだ。
だから、生命力は、穏やか、で、活性する。
固定概念では、ガンガン元気が活性だと思ってしまう。
実は、生命は、穏やか、やわらか、で最大活性となる。

 

虹は空の光の色だ。
そして、綺麗で大きい。
しかも、儚い。
幸のヒントになる光だ。

虫は昆虫じゃないぞ。
竜を意味している。
空にかかった竜。
それが虹だ。
(ちなみに雄の竜)

微かの時。
空に姿現す竜。
誰もが、綺麗だと思う。
見つけた時、地上を忘れる。
虹は、幸せの色と形かもしれない。

 

虹は太陽の光からだけじゃない。
月の光で現れる虹もある。
これが更に穏やかな光だ。
夜の虹。

見たら幸運と言われる。
祝福との出会いと言われる。
更に、幸のヒントとなりそうだ。
出会うだけで、祝福・・・。

この世は「出会いの場」だ。
全てが、出会いの相手だ。
だが、普段は中々自覚できない。
夜の虹は、祝福の気づきを示している。

 

光というと、眩い、明るいを想像する。
聖なる、正大、立派を想像する。
それも、あるだろう。
だが、夜にも光はある。

自らが輝く光もある。
他の影響で浮かぶ光もある。
全てが光だ。
夜の虹は、光の本質を示している。

光は、何処にも、ある。
それは、いつでも、綺麗なまま。
微かな月の虹。
幸は、光と同じ。


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「江の項」

江は中国の揚子江を表す。
広く大きな川の意味だ。
川は、いろいろな意味を持っている。
いろいろな役目を持っている。

ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。
諸行無常、万物流転の言葉として知られる。
だが、ワシは独善解釈家である。
これは、幸の一面をあらわしている。

幸は絶えることがない。
だが、同じ幸は二つとない。
しかも、水のように透明だ。
見えるモノだけ追いかけると、見逃すぞ。

 

幸は全てオリジナル。
だが、集まれば江。
大きく、広く、長い。
そして、常に流動している。

アナタの幸と私の幸は違う。
だが、方向は同じ。
性質も似ている。
見えないし、動いている。

しかも、水同士は溶け合う。
一粒同士の水も、集まれば江。
幸は様々でも、仲はいいのだ。
方向や性質が違う幸はない。
他と相容れないなら、幸ではない。

 

幸と幸感の違いがある。
幸は集まれば江になる。
幸感は幸もあれば、エゴもある。
エゴの幸感は、集まれば争う。

それぞれの幸。
それぞれの幸感。
この違いは、似て非なるものだ。
江になるか、ならぬか。
それで幸がわかる。

見えるモノは幸感になりやすい。
他と比べるモノも幸感になりやすい。
自我だけの幸も、実は幸感。
他が幸に染まるのが、ホントの(自の)幸。

 

流れる水は浄化の作用も持つ。
水自体がどんなに綺麗でも、流れる事に意味がある。
綺麗な水も、留まったままでは腐る。
幸も同じだ。

一つの幸が見つかる。
その時点では、幸だ。
だが、それにこだわったら、幸でなくなる。
幸自体が、流れる性質なのだ。

つい、幸というモノがあると思ってしまう。
手に入れれば、そのまま、あると思ってしまう。
常に流れるから、幸でいられる。
自分のモノにしてしまうと、幸ではなくなる。

 

流れる水は、邪を包み動かす。
動く事で邪は邪でいられなくなる。
それが浄化という仕組みだ。
特別聖なる力で消しているわけじゃない。

万物流転の世界だ。
留まれば澱になる。
澱が集まり、更に留まれば邪になる。
そして、苦を生む。

幸は邪を浄化する。
浄化しない幸はない。
できないのは幸感であり、幸じゃない。
だから、幸は常に流れている。
幸をつかまえたままなら、幸は澱になる。
澱は、苦を生む・・・

 

幸の性質の一つ。
江のヒントで明らかになる。
幸を留めると、苦が生まれる。
そんな例はアチコチにある。

幸は固定されてない。
固定すると、幸でいられない。
だから、幸のままの人は少ない。
幸のままの人は、幸を捕まえない。

幸せは、歩いちゃこない。
だから、歩いて行くんだね。
見つけても、止まったら幸は変化する。
いつでも、歩いている途中で出会うモノ。

 

幸(水)は融合する。
そして流れ続けて江となる。
私の幸とアナタの幸。
決して対立しない。
融け合える仕組みだ。

幸でない、幸モドキ。
私が金持ちになると、アナタは貧しくなる。
富む国が出来ると、貧困の国が生まれる。
物質の裕福は、幸モドキなのだ。

まぁ、モドキも少しは欲しい・・・
欠陥品の人間だもの・・・
だけど、欲張りは凶となる。
欲張りは、苦も集まるからだ。

 

水は変化する。
水蒸気という気体。
氷という固体。
通常は液体。

液体も常に同じじゃない。
温度も濃さも違う。
様々なモノを溶かしているからだ。
溶かして、水。

幸も常に変化する。
そして、常に流れる。
固定すると、幸は幸でなくなる。
流れる水は、少しだけ利用するのがいいようだ。

 

必要な水は僅かな量でいい。
大量に集めても活用できまい。
下手に囲えば、溺れ死ぬ。
成り上がりが自滅する例は多いぜ。

空気に溶ける水。
いつでも水に包まれている。
つ、つい、忘れてしまうんだよなぁ・・・
生まれてから、死ぬまで包まれているのに・・・

私は不幸だ。
幸せが欲しい。
あれば、もっと欲しい。
更に、欲しい。
どれだけ多くても邪魔にはなるまい。
そう、勘違いしてしまうんだよなぁ・・・
欠陥品の、人間だもの・・・

 

幸は水。
そして、幸は江となる。
この二つは同じだ。
勘違いすると、溺れる。

自の幸と他の幸。
同じだ。
対立すると、幸は苦に変わる。
常に、江になる性質を忘れず。

ゆったり、広く、長く。
自分の分は、小さくて充分。
集まれば、凄い大きさになるのだ。
幸は、欲張らなくて充分なのだ。


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「恋の項」

名詞の恋は「こい」と読む。
動詞の恋は「こう・こふ」と読む。
意味は、心が惹かれる動きだ。
幸にも、心が惹かれる動きがある。

代表的は男女の間だが、それだけじゃないぞ。
い、いや、男同士をいっているのじゃないぞ・・・
対象は様々なのだ。
動物、物質、芸術、運動、格闘、仕事・・・
恋は、あらゆるモノに秘しているのだ。

恋の状態。
冷静に他から見ると、変に似ている。
マトモじゃない
恋は狂いにも似ている。

 

恋うの時、幸と接触する。
だが、恋がそのまま幸にはならない。
恋は個人的のみの動きだ。
他が同調するわけじゃない。

江の項で書いた。
幸は他の幸と解け合う。
恋は他の幸と単純に解け合わない。
解け合う要素も少しある・・・

恋の時、心は優しくなる。
対象相手だけでなく、優しくなる。
一概ではないが、優しくなる傾向がある。
優しさは、幸への通路だ。

 

子孫繁栄。
そして、生命力活性。
恋の存在理由と効果は大きい。
個と種を存続させるアイテムだ。

幸は生命力活性の効果がある。
しかも、底からの深さもある。
恋は個の生命力活性の効果のみ。
幸は(個から発生しても)全体に拡散する。

それぞれ別次元だが、扉はある。
行き来できる扉はある。
ここが、この世の仕組みのオチャメなところだ。
個と全体の接点部分は、面白い仕組みなのだ。

 

男女間の恋(こう)は特殊だ。
対象が雌雄間以外の恋が解り易いかも。
例えば、自分の仕事を恋う。
すると、仕事は進化する。
進化した仕事は他の幸に貢献する。

例えば、自然を恋う。
恋う対象には優しくなる。
いろいろ研究する。
自然が活性するのに貢献してしまう。
それは、地球に暮らす生物の幸となる。

恋う、という感情と行為。
男女間以外なら、かなりマトモだ。
男女間以外なら、幸に近い。
何より、自分は幸だろう。

 

恋という行為(ダジャレじゃない)。
恋を感情レベルで止めると役に立たない。
恋うという行いで、自他の役に立つ。
男女間においては、迷惑になる場合もある。

幸も感情レベルでは自己満足。
幸福感であっても、幸ではない。
幸は行いが伴うのだ。
当然、行いは見返り無しのモノだ。

恋も見返り期待では、先が無い。
見返りを意識するなら、恋うとはいわない。
一般的な恋(こい)は、恋モドキなのだ。
恋う、とは優しさの別面みたいなものだ。

 

人を恋う。
特定の異性ではなく、人を恋う。
その行為は、とても優しい。
人の為に何かを行う。
その時、自分はいない。

言葉に出して言うと胡散臭い。
「人の為に一生懸命努力します」
そう言う政治家はゴマンといる。
でも、自分の利に成らない人の為にはしない。
自分を消して、何かを為す政治家はいないのだ。

口に出す人達は信用できない。
そんな事は、黙って、そっとするものだ。
○○の為に」は、ほとんど信用できない。
大抵は、自分の為の誤魔化しだ。

 

故郷を恋う。
生きとし、生けるモノを恋ふ。
宇宙に浮かぶ青い星を恋う。
地球か、何もかも、皆懐かしい・・・

特定の人の為ではない。
遥か彼方のイスカンダルまで。
困難は承知。
青い星を恋う行為だ。

特定の異性に恋する。
当事者以外は関係ない。
冷静に観れば、滑稽が多い。
だが、もっと大きく恋うと・・・
かなり、素敵だぜ。


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「功の項」

公(工)に力をつくす、という意味だ。
だが、公は固定概念がある。
ほとんどが、人間社会。
そして、現状の国家社会。

戦時中などで、都合よく使われる。
公の為に、力を尽くそう・・・
国の為になる人になろう・・・
社会に貢献しよう・・・

一見、良さそう。
でもなぁ・・・
煽るのは、誰かに都合がいいからだ。
こんな事が声高に言われる時代は怖いぞ。
公は、もっともっと広く深く大きいのだ。


功の前に公(工)の説明だ。
その前に工の説明だ。
あぁ、メンドウになってきたなぁ・・・
まぁ、いいか、適当にするから・・・

工は優れた技。
その技と力が合わさって「功」となる。
だが、それは表面の表現だ。
工が公を意味すると知ると、目的がわかる。

功は「いさお」と読む。
手柄、功績、勲という意味だ。
公に力を注いだ結果だ。
工(技)と力の合作での結果だ。

 

通常は工に公の意味はない。
だが、功の工は公の意味になる。
(こうのこうはこうのいみになる)
だから「いさお」であり、手柄になる。

ここでの公は、特定の国などを指す。
すると、公が狭い意味になってしまう。
公の意味。
「分け隔たりの無い」事だ。

特定の国にすると、他国との隔たりがある。
人間社会に限定すると、他の生物と隔たりがある。
分け隔たりの無い世界。
そこなら、力を尽くしても手柄にはならない。
元々、手柄など意識しない世界だ。

 

本当の公なら、どんなに貢献しても手柄にならない。
貢献するのが、生きとし生けるモノの当たり前だからだ。
お互い様で生きていられるのだ。
技と力を使うのは、普通の出来事だ。

その本来の「功」の意味。
幸の一面を表している。
ちょっと綺麗事のようだが・・・
公に貢献するのは当たり前だ。
公は自分の生きる世界だもの。

国の指導者達が言う「公」はアヤシイ。
公を地球全体、あるいは宇宙全体としてない。
功は公の為に使うものだ。
成功者、などと狭い姑息な言い方には注意しようぜ。

 

生きていれば、全てが成功者だ。
今、この地球にいられる貴重な生命体だ。
成功者以外は存在しない。
そんな当たり前が判らない世の中。
近代以降の自称先進国の常識は少し変だぞ。

特別な功績。
高い地位。
高額なお金。
そんな、つまらんモノで有頂天になるなよなぁ。

欲はいい。
誰でももっている。
個人的な趣味もいい。
だが、「だから成功者」はないだろう。
評価するほど、人間、小さくなるんだ。

 

ワシは「氣」を扱う。
だが、ワシの技じゃない。
ワシの力でもない。
ワシは仲介者なのだ。

だから正確には氣功が出来るわけじゃない。
(まぁ、それが出来るという表現なら、それでもいいけど)
「ある種の氣」を扱えるだけだ。
でも、そんな説明してもメンドウだ。
だから氣功師としている。

氣の技と力を使う、という表現。
いつも、違和感がある。
他のフンドシで相撲をとる。
そんな感じだ。
他(宇宙だか何だかわからない)が使わしてくれるのだ。
許可があるようだから、一応プロとしている。

 

そして思う。
「功」が公の為にあるなら・・・
氣功は全てに使う為にある。
全ての幸に貢献する為にある。

多分、故御師匠様はそうしていた。
人の病気治しじゃないぞ。
そう言っていた。
ワシは狭い意味にとっていた。

病をキッカケとして生き方を変える。
話だけじゃ意識は変わらない。
病が変化する事を実感するから、話を聞く。
その為の氣功療法だ。
そう、狭くとらえていた。

 

治療が目的じゃない。
生き方を変えるキッカケとしていただく。
それでいい。
人間相手に限れば、それでいい。

最初から人間相手しか対象としてない。
ワシは節操無しだから、人間以外も相手にする。
それでも、かなり狭かった。
全て、を対象にはしてなかった。

もちろん、ワシは神様じゃない。
当然、ワシは万能でもない。
かなり狭く、小さな心の持ち主だ。
勝手で、歪な意識を持っている。

 

公に尽くす。
とはいえ、身体は一つ。
能力は僅か。
縁のある対象は少ない。

公に尽くす。
それは、縁のある対象だけでいい。
それしか出来ない。
縁の無い相手にすると、無理が出る。

ただし・・・
全ての内の一部なのだ。
狭い対象が全てではない。
この意識の違いは大きい。
氣は、意識の広さ深さ柔らかさで変わる。

 

氣を公に尽くす為に使う。
とはいえ、ルールがある。
勝手に、侵入しない。
正義や良事を押し付けない。

どんな生物もモノも独自に存在する。
価値観は違うのだ。
生き方、生きる速度も違うのだ。
気づき方、気づく時間、体験も違うのだ。
自分の判断を押し付けない。

具体的には、依頼があってから。
相手が望んだら。
それが、お互い地球上にいるルールだ。
どんな理由があれ、戦争はルール違反なのだよ。

 

故御師匠様は言った。
勝手に治すんじゃない。
見守るのは大切だ。
だが、頼まれないのに手をだすな。

最初は解らなかった。
苦しんでいれば、手をだすだろう。
そう、浅く思っていた。
病を治すのに遠慮はいらない。
そう、狭く思っていた。

今は理解できる。
生きている事を尊重する。
お互いのルールだ。
その人の歩き方を尊重する。
それが、当たり前という事なのだ。

 

気功が出来る能力ではない。
氣功師の体質になってしまったのだ。
出す、のではない。
常に、止めているのだ。

必要時にストッパーを外す。
というより、スイッチの切り替えだ。
能力で出す中国気功とは違うのだ。
だから「見守る」のが鍵となる。

これは、ヤッカイだった。
手を出す方が、簡単なのだ。
依頼された、今でも同じだ。
全てを開放しない。
セーブして対応するのだ。
それが、お互い、歩く、という事だ。

 

功。
公に技と力を貢献する。
だが、全力は出さない。
相手に合わすのだ。
これが「見守る」と、観える。

一生懸命しなさい。
一所懸命しなさい。
社会は、ひとくくりでモノを言う。
それは、ありがた迷惑。
大きなお世話にもなる。

相手を観る。
そして、合わす。
今、必要な分だけ技と力を使う。
いや、必要に、少し足りないように使う。
それが、相手を尊重する事になる。

 

相手を尊重する。
相手とは人に限らない。
生物に限らない。
当然、自分も含む。

功の生き方。
幸のヒントになるだろう。
幸を自の内部と思ったら間違う。
そして、迷う。

幸は公に尽くす事で触れる。
公は国家や人間社会や組織ではない。
公は自然界の全てであり、具体的には目の前の相手だ。
そして公は、自分の内の自分も含むと知る。
自も他も同じ。


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「口の項」

「こう」は、口を使っている漢字が多い。
ならば、幸の入り口のヒントがあるだろう。
「くち」と読む場合も多いが、意味は同じだ。
口はいろいろな意味を含んでいる。

口は開閉するものだ。
開けば、そこから何かが変わる。
開けば、何かがやって来る。。
そこから入れば、別の世界だ。

普段は閉じている。
何かの条件で開く。
開いている時間も不定だ。
一生開く場合もあるだろう。
一瞬で閉じてしまう場合もあるだろう。

 

口というと肉体の口を想像しがちだ。
口の熟語も肉体の口に関係するのが多い。
肉体の口も興味深い意味が幾つもある。
だが、ここでは扉のイメージがいいだろう。

幸の扉。
幸への扉。
この世は多次元世界。
精神的世界は超多次元世界。

一つの世界と別な世界を隔てている。
そして、それらには必ず扉がある。
段階的な扉もある。
跳躍的な扉もある。
多くの扉を持つ世界や、少ない扉の世界もある。

 

扉に気づく。
気づけば、扉(口)は開く。
そういう仕組みだ。
開けば、自動的に交流する。
そういう仕組みだ。

それぞれが、それぞれの世界にいる。
だが、どの世界にいても扉はある。
扉の数は違うかもしれない。
大きさも違うかもしれない。
それでも、必ず扉はある。

探しても見つからない。
気づけば、目の前に開く。
こだわると、肩に力が入る。
肩の力は「気づき」を邪魔する。

 

口は最初からついている。
誰にもついている。
生きているなら、ついている。
口は生命を維持する入り口。

あまりに当たり前で気づかない。
自分の外に口を求める。
他の口が気になる。
他の口が欲しくなる。

だが、他の口は合わないのだ。
アナタにはアナタの口しか合わない。
それでも、外に求める。
口(幸)は内に最初からあるのに・・・
ついている口しか、合わないのに・・・

 

超美人の女優さんの口。
どんなに素敵でもワシの口には合わない。
モンタージュ写真を想像してみればいい。
ワシに素敵で綺麗な女優の口は・・・

なのに・・・
つ、つい、多くの人は他の口(幸)を求める。
社会的基準、その時代の風潮、他の情報から・・・
幸は普遍的な宝だと思い込んでしまう。
高級車とプール付きの家。
美人の奥さんと可愛い子供。
有り余るお金。

ワシも立派ではないが、一般庶民だ。
高級車やプール家や美人奥は遠慮するが、
有り余るお金には惹かれるなぁ・・・
それが幸とは思わないが・・・
幸は自分に最初から付いていると知っている。

 

幸とは何か?
大きなヒントが口にある。
求めるモノと幸の違い。
欲しいモノと幸の違い。

幸は求めるモノではなかった。
幸は欲しがるモノでもなかった。
最初から付いている。
オリジナルで付いている。

オリジナルなのに、共通した性質。
オリジナルなのに、共通した働き。
そして、自他に働く。
自には入り口。
他には出口。

 

どんな状況下でも口(扉)は付いている。
どんな状況下でも幸は付いている。
とても、そうは思えなくても事実だ。
そして、出口も入り口も付いている。

八方塞なんて、無いのだ。
とても、そうは思えなくても事実だ。
必ず、出口はある。
必ず、何かがやって来る入り口がある。

幸とは、そういうモノらしい。
特別な宝ではないようだ。
最初から付いている宝だ。
ピンチに気づくのが口であり、扉であり、幸だ。

 

それぞれに世界がある。
人間、ケモノ、魚、鳥。
虫、植物、菌、ウィルス。
宇宙人、妖怪、幽霊、神。
それぞれに、世界があるようだ。

人間も一人一人に世界がある。
ケモノも虫も妖怪も個々に世界がある。
神様(八百万神)だって、それぞれに世界がある。
世界は、個々に用意されている。

しかも、一生に幾つもの世界を渡り歩く。
いきなり、ワープする。
他の世界に入り込む。
もう、わけがわからん・・・

 

わけがわからん世界にいる。
当たり前だ。
それが解ったら、人間でいられない。
この世にいられない。

それでも決まっている事もある。
どの世界にも口(扉)がある。
どの世界でも幸がある。
気づくか否かは本人次第。

わけがわからん世界。
だから、一つでも気づくと嬉しい。
気づきと幸は兄弟姉妹みたいなものだ。
わからん世界だから、生命は続く。

 

入り口と出口。
自に入ってくる幸がある。
他に役に立つ幸(出口)がある。
入れば幸せ。
出れば(他の)幸せ。

口(幸)が無いと勘違いする。
無い口(幸)はありえない。
この世は、存在に必ず口(幸)が付く。
(あの世にも必ず付いているようだ)

ポイントは気づき。
気づけば、常にそこにある。
でもなぁ・・・
解っていても、気づけないんだよなぁ・・・

 

簡単に気づけるなら、人間やってない。
簡単に気づけるなら、この世界はいらない。
物質(肉体)界は、気づきの為の世界だ。
だから生命を有限の肉体に押し込めた。

限られた時間で体験する。
時間が凝縮されているわけだ。
気づきの促進要素だ。
それでも、簡単じゃない。

それでいいのだ。
この世は気づきの為の世界。
だが、それは結果だ。
過程は、ただ体験する。
つまり、生きていれば合格なのだ。

 

肉体の生命が消えるまで。
生きとし、生きる。
それだけで意味がある。
あまり欲張らない方がいい。

だから最初から、幸は付いている。
課題をクリアした賞品ではないのだ。
幸は努力した褒美ではないのだ。
生命を大切にして生きればいいのだ。

幸が感じられないのは、生命を感じてないからだ。
生命を意識すれば、口に気づく。
不幸と感じるのは、生命の意識が薄いからだ。
生きとし、生きる。
それだけで、充分なようだ。


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「幸の項・1」

さて、いよいよ幸の項だ。
幸とはなんぞや。
よく、わからない。
だから同音の漢字を解いてみた。
ヒントがあるだろうと。

書きながら気づいた事がある。
仮に幸が理解できたとして・・・
幸になるか、なれるか、いられるかは別だ。
幸が最初から付いていると知ってもだ。

幸は気づきと兄弟姉妹。
幸は生命と同根。
幸は自他に遠心ベクトルを持つ。
幸は自他の和に求心ベクトルを持つ。

 

幸は独自であり共通でもある。
幸は自を含めた公に尽くす。
幸は愛(大きな恋う)の意識。
幸は常に流れ、常に包む。

幸は他との交わりで生まれる。
幸は自の行で生まれる。
幸は康らぎに通ず。
幸は光り、明るさに通ず。

解明できても幸せになれるわけじゃない。
自分が、そして、特定の他が幸せにれるわけじゃない。
ましてや、全ての存在が幸せになれるわけじゃない。
まぁ、最初から幸せである、という言い方はできるが。

 

大きな意味では、すでに幸せだ。
深い意味では、幸せに包まれている。
全ての存在が、幸せに包まれている。
幸せで無いモノなど、存在できない仕組みだ。

だが、全ての存在が幸せを実感できない。
ほとんどの存在が、幸せを実感できていない。
一時的には、幸せを感じるだろう。
無上の幸せを感じる時もあるだろう。

幸福感と幸福の違い。
それもある。
今の段階の人間には、幸福感で判断する。
幸福と幸福感の違いは大きいが、問題ではないのだ。

 

本当の幸福とは何か?
真の幸せと幸福感の違い。
真の幸せでなければ、意味がない。
ワシは嘗て、そんな風に考えていた。

今のワシは違う。
この歳になっても、本当がわからない。
というより、判断できない。
真実はあるだろうが、判断できないのだ。

もちろんワシは欠陥品だ。
だが、真実を判断できる人間はいないかもしれない。
例え、いたとしても・・・
例外ってヤツだ。
ほとんどいないだろう。

 

人の段階で真実は判断できない。
これを知ってから、求める方向が変わった。
幸福だけじゃない。
あらゆる事がそうだった。
自分で判断できないから、他の言う事に左右する。

偉そうな人が言えば、そうだと思ってしまう。
手軽に新聞やテレビが言えば、そう信じる。
教祖が言えば信じる。
経典に書いてあれば信じる。
判断できないから、信じる。

だが、判断できないのなら追いかける事が間違いだ。
この世に生まれたのは、真実を追いかけるのが目的ではない。
何故なら、肉体に宿る生命は有限なのだ。
(生命は無限かもしれないが、この世では有限だ。)
有限で真実を追いかけろ、というのは無理があるだろう。

 

今の自分では真実を判断できない。
すると、真実を追いかけなくなった。
すると、他の人の言う事に左右されなくなった。
すると、自分の生き方が自分で決められるようになった。

この世を創ったグレちゃん。
いつも書くが、オチャメ・・・
真実を追いけぬ世界を創ったようだ。
追いかけぬと、意味が生じるようだ。

幸福も同じかもしれないぜ。
追いかけると幻になる。
ホンモノが判断できないのだ。
追いかけなくてもいい。
それでも、一緒になる方法があるようだ。

 

幸の幾つかの性質。
幸の幾つかの顔。
それらは解る。
解っても手に入るわけじゃない。
追いかけても捕まるわけじゃない。

本当の幸。
真実の幸。
それらと、この世での幸は違いがあるようだ。
真の生命と、この世での生命の違いのように。

この世は仮かどうか知らない。
だが、あの世とは違う(当たり前だ)
真の世界(実相界)とも違う。
もちろん、反映し影響しているだろう。
仮かどうか知らないが、この世という世界ではある。


今、この世に存在している。
だから「幸」も「この世の幸」が対象だ。
「真実の幸」は、持て余してしまうだろう。
活用しきれないだろう。

自分が真実でないのだ。
毎日、毎秒変化しているのだ。
そして、いつかは消滅するのだ。
もちろん、この世の自分だ。
本当の自分は消滅しないらしい。

この世は真実を追究する場ではない。
真実は無限で不変だ。
この世は有限で無常な世界だぜ。
有限で無常な幸なら、適合するだろう。




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「幸の項・2」

真実の理。
真実の愛。
真実の幸。
真実の○○・・・

真実を語った人は多い。
真実を騙った人も多い。
真実を書いた本も多い。
真実を売り物にした人や組織は最も多い。

それらに接して、真実になった人はいない。
真実の○○を手にした人はいない。
一瞬の幻ならある。
だが、真実は永遠で不変なのだ。
地球上の人間に扱えない・・・

 

真実の幸と感じた人はいる。
幸福感は誰でも感じるようにできている。
それが無ければ、生きる力も半減する。
だが、幸福感は真実の幸ではないのだ。

幸福感は、そのまま一生続かない。
心は揺れ動くし、状態は変わる。
時は止まる事なく動いている世界だ。
色界(物質界)は、時の変化とセットなのだ。

今、生きている事が幸福。
これが真実の幸である。
そういう言い方もアリだと思う。
アリだけど、不変理屈の世界だ。
現実は、変化している世界だ。

 

幸が掴めなかった理由。
宗教が口先だけだった理由。
信者が幸になれなかった理由。
信者となって、苦が増えた理由。

それは宗教が真実を求めていたからだ。
金儲け目的の宗教は別だ。
真実を最初から相手にしていない。
信者を利用する事だけが目的だ。
何しろ、信者だもの。
こんな優良なユーザーはどこにもいない。

問題は既成宗教だ。
立派な教祖と立派な経典がある大宗教だ。
仏教、キリスト教、イスラム教等だ。
立派である故に、誰も救えない・・・
この世は真実と適合しない世界なのだ。

 

偉大な宗教の欠陥。
立派故の落とし穴。
真実に迫った功績。
その功績は、落とし穴になる。

教祖といわれる偉人。
彼等は、どうやら知っていたらしい。
真実は人々を救えない事を。
だから、無理は言わなかったようだ。

真実を欠陥にしたのは弟子達。
組織を作り上げた人達だ。
教祖は組織を望んでなかったろう。
マジメで熱心な弟子達。
真実を求める「こだわり」が欠陥にした。

 

この世は舞台。
舞台上で本名は通じない。
演技上で本職は通じない。
舞台では舞台用があるのだ。

キマジメな弟子達。
舞台なのに真実を迫った。
本名を求めた。
本来の仕事を求めた。
真実を求める事を煽った。

不幸なのは信者達。
自分の人生を他(宗教)に求めたからだが・・・
真実の幸福を求める。
真実の天国を求める。
現実(この世)を無視して・・・

 

ホンモノの幸せを求める。
それが間違いだった。
ニセモノの幸せを求める。
それらは、結構つかんでいる。

安易に使われる言葉がある。
「夢は叶う」
この場合の夢は現実的だ。
だから、叶いやすい。
主軸を成すのは金だ。
幸せの代名詞としても使われる。

そういう幸せならつかめる。
現につかんでいる人達が大勢いる。
もちろん、条件があるだろう。
ワシもニセモノの幸せが欲しいのだが・・・
その条件にも当てはまらないようだ・・・

 

この世では真実の幸はつかめない。
自分が真実でないからだ。
真実とは変わらないモノ。
だが、この世は自分を含めて無常である。

この世での「幸」は、この世専門の幸だ。
それならある。
だだし夢や(欲)望と混同しないでくれ。
夢や望みは、心が求めるものだ。
心は非常に不安定で不規則だ。
それは、それでいいものだけど・・・

真実の幸を求めると、不幸になる。
有限の時間を無駄にするからだ。
この世での幸は「有限の幸」なのだ。
有限だから、肉体に付いている。
生まれた時から、死ぬ時まで付いている。

 

最初から幸に包まれている。
そういう表現でもいい。
ただし、宗教関係者は誘導する。
(この宗教の)神様が包んでいる・・・

神の概念により、その表現でもいい。
だが、全て包んでいるのだから言わなくてもいい。
その宗教を信じている人だけ特別は無いだろう。
信じる者だけを救うような神は、インチキだ。

幸は神や神様と別次元だ。
神や神様が幸を運ぶわけじゃない。
宗教組織は神や神様の名前を利用している。
幸は神に関係なく、アナタに付いている。

 

この世でアナタに付いているモノ。
最初から最後まで付いているモノ。
それは肉体だ。
心は移ろいだり、変わったりする。
だが、肉体だけは最後まで専用だ。

本体が魂だと仮定する。
魂は永遠だと仮定する。
魂は死なないと仮定する。
実相界では、そうかもしれない。
(誰も確かめられないけど・・・)

この世では魂は物質に宿る。
生物においては肉体に宿る。
この世が物質界だからだ。
物質には限度がある。
物質は有限な約束で存在するからだ。

 

つまり、この世では魂が主体ではない。
この点を多くの精神世界解説が間違う。
宗教関係者が間違う。
この世は真実を語る場ではないのだ。

この世での主体は肉体だ。
当たり前なのだが、気づけない。
肉体より心が上等だと思ってしまう。
肉体より魂が上等だと思ってしまう。
そして、人はミエを貼る。

上等も下等もないのになぁ・・・
あるモノは全て同じだ。
役割が違うだけだ。
この世では、主人公が肉体となる。

 

幸は何に付くか?
当然、主人公に付く。
主人公以外に付いてらマヌケだ。
主人公は肉体。

心や魂は脇役。
脇役に幸を求めるから繋がらない。
難しいことではなかった。
勘違いしていただけだ。

肉体は誰でもある。
無いのは霊だけだ。
霊を魂ともいう。
(この世の)幸は霊には付かない。




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「幸の項・3」

この世は見えるモノと見えないモノがある。
見えるモノと見えないモノが合わさっている。
見えるモノに見えないモノが付いているのだ。
この世は、そういう風に創られている。

心は見えない。
魂も見えない。
肉体は見える。
だから、肉体に心が付く。
肉体に魂が付く。
肉体に生命が付く。

幸は見えない。
だから、肉体に付く。
心や魂に付くのではない。
ここが勘違いしやすいところだ。

 

固定概念。
コイツが厄介なのだ。
幸は気持ちの問題だと思っている。
幸は心で感じると思っている。
幸は魂に関係すると思っている。

ワシもそうだった。
これを書くまでは・・・
ワシには御筆先様が付く。
だから内容は考えてない。

確かに自分で書いてる。
でも、勝手に手が動く。
何も考えて無いのだ。
内容は後から読んで知るのだ。

 

ワシに付く御筆先様。
多分にへそ曲がりのようだ。
予想を裏切るのが好きなようだ。
常識をひっくり返すのが好みらしい。

幸は心の問題だろう。
あるいは、精神的な哲学かもしれない。
生きる目的かもしれない。
魂の進化に関係するかもしれない。
そう思っていた・・・

まさか、肉体の問題とは思わなかった。
だが、成程とも思う。
生きている主役は精神じゃない。
魂じゃない。
心じゃない。
この世では、肉体が主役なのだ。

 

肉体が生きている。
それを「生命」という。
この世では生命は有限なのだ。
(この世の)生命は永遠ではない。

つまり、幸は生命に付いている。
心や魂じゃないのだ。
精神世界の話じゃないのだ。
日々の暮らしに直結している話だ。

机上論では間違う。
頭の中で考える事とは違う。
肉体が動いて感じて体験する事だ。
生命が実感する事のようだぞ。

 

何故この世に生まれたか?
それは解らない。
諸説諸々ある。
偉い人が解説する。
巨大宗教の経典に書いてある。
だが、本当は判らない。

何故生まれたかは解らない。
でも、生きる目的は解る。
「生きとし、生きる」
当たり前なのだ。

いつ、何処で、どんな理由で死ぬのか解らない。
誰にも判らない。
生まれた理由と同じく判らない。
だから、死ぬまで生きる。
生きとし、生きる。
当たり前なのだ。

 

幸になる為、得る為の条件。
そんなモノがあるとしたら、この世ではない。
条件があるなら、あの世だろう。
あの世が真実の世界という意味なら。

あの世が無限なら条件付きでもいい。
いつか、誰でも条件を満たせる。
真実の幸は真実の世界(実相界)で得られる。
(と、予想できるが、ホントはわからない)

ところが、この世は有限なのだ。
条件を付けては、当てはまらない。
いつ、どこで死ぬのかわからない世界だ。
条件の途中で「残念でした」はないだろう。
そんな幸福は(この世では)インチキだ。

 

幸福の条件。
幸になるには。
こうすれば、幸せになれる。
幸福への道。

それぞれが立派なことを主張する。
モンクのつけどころがない。
そうかもしれない、と思ってしまう。
でもなぁ・・・

立派なんだけど・・・
理としては、そうだと思えるけど・・・
この世では理が半分しか通じない。
この世という舞台の特殊性を忘れている。
真実を求めると、間違うのがこの世の特殊性なのだ。

 

この世だけの幸。
そうでなければ意味が無い。
舞台上での幸せだ。
本名と芸名は共通ではない。
当たり前なんだけどなぁ・・・

立派は真実の世界だろう。
ホンモノも真実の世界だろう。
そういうモノを、この世に当てはめては間違う。
この世は、有限の世界なのだ。

偽ではない。
仮でもない。
有限という特殊性の世界だ。
有限は物質界の特徴だ。

 

真実世界とこの世は別次元。
この世は物質(色)界。
幸は物質(肉体)に付く。
幸は有限である。

この世からは、真実世界は幻世界だ。
真実世界からは、この世は幻世界だ。
今、自分が何処にいる?
この世にいるなら、この世のルールがある。

幸は肉体に付く。
ここに気づけば、求める方法が判る。
立派な幸の道は、実用的でないと判る。
精神(魂)の進化は、あの世ですればいい。

 

素直になれば、当たり前に気づく。
物質界にの特徴。
人間という肉体の特徴。
有限で、一方通行の変化。

成長し、熟成し、老衰する。
それぞれの変化の体験。
いつ、どのように終わってもいい。
固有の体験となる。

ならば、幸はどうなる。
それぞれの肉体に固有に付く。
そして、ある方向で感じる。
物質界の幸は、幸福感でいいのだ。
真実、不変の幸ではなかった。

 

幸の役目。
単純に嬉しいだけじゃない。
幸福感という感覚だけじゃない。
それは方向を示すシグナルなのだ。

そうかぁ・・・
幸は方向探知機なのかぁ・・・
だから、この世では幸福感でいいのかぁ・・・
有限の生命に、永遠の幸福はそぐわない。

有限の生命だから、下手すると切れてしまう。
予定より早く終わってしまう場合がある。
いずれ終わるが、全うするほど意味が多くなる。
それには、全うする方向がある。

 

幸は目的だと思っていた。
しかも、最終目的地かと思っていた。
天国とカブっていると思っていた。
方向探知機、方向指示器とは思わなかったなぁ。

この世では、ある意味、あやうい生命だ。
肉体が故障や壊れると、生命は危機になる。
そうならないように歩く方向がある。
それが、大きく広い意味での「健康」だ。
それにより、生命は全うできる。

だが、大きすぎて方向がわからなくなる。
それぞれが、勝手な健康を主張する。
その為に、誰でも判断できる仕組みが肉体に付いている。
自分で判断できる仕組み。
それが、幸だ。




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「幸の項・4」

生きている肉体は単なる物質ではない。
見えないモノが肉体と重なっている。
心、意識、感覚、精神、魂、志、等々・・・
見えないモノは、見えるモノ(肉体)に付くのだ。

幸は見えないモノの代弁者となる。
生命が光る、温まる、やわらぐ時に出現する。
出現しても、見えないけどねぇ・・・
だが、本人は自覚できる。
あぁ、幸せ・・・・

幸せ感がある方向。
それが生命が全うできる方向。
何も特別な条件が必要なわけじゃない。
方向は、誰でも向くことができるのだ。

 

幸になる条件は無い。
強いていうなら、生きている事。
この世の幸だ。
生きている事が前提だ。

それなら、誰にでも当てはまる。
どんな状態でも当てはまる。
余命一ヶ月と宣告された患者さんでも。
意識不明の重病者でも。
爆弾が降ってくるガレキの下で暮らす人々も。

明日の生命はわからない。
だが、今の生命はある。
ならば、幸になれるのだ。
グレちゃん(創造主)は生命に平等だぜ。

 

言葉にすれば違和感がある。
それでも言葉でしか表せない。
幸が出現する方向。
「生命に感謝」

生きているモノなら出来る。
誰でも、何処でも、どんな状況でも。
今、生きている事に感謝。
それで、幸が出現する。

幸が出現すれば、方向が適している証拠だ。
生命が全う出来る方向だ。
それが、この世に生まれた意味になる。
全う出来れば、体験できる。
方向が適していれば、体験は濃くなる。

 

生命への関わり方。
この世に存在する大きな鍵だ。
生命が基本であり、全てとなる。
だから、生命賛歌は全ての解決への道でもある。

生命への感謝で幸は出現するが、
感謝は言葉じゃない。
態度でもない。
意識でもない。

意識を超えた所。
あるいは、意識を静めた所。
生命を感じた所。
生命と一つになった所。

 

感謝は一方通行じゃない。
一体感に近い。
共通した生命を感じる事。
自と他の生命が同じだと知ってしまう事。

自分の望みが叶う事ではない。
欲が満たされる事でもない。
自他の境が消える事。
そこに幸が出現する。

何かを得る事ではない。
「こだわり」が消えると幸が出現する。
夢や望みとは違うのだ。
夢が叶っても幸は出現しない。
幸は生命に関与する。

 

この世に生また役割。
誰でも共通の役割。
唯一の役割。
「生きとし、生きる」

最後が何時だか、わからない。
何処だか、わからない。
どんな理由か、わからない。
わからない事は、わからない。

だが、明確なことがある。
生まれてきた。
そして、生きている。
最後まで、精一杯生きる。

 

何かを成す為に生まれた。
よくいわれる言葉だ。
立派そうだし、そうかなぁと思いがちだ。
だが、大きな間違いだ。

いろいろな生き方がある。
何かを成す為に生きる場合もある。
成し遂げる人もいる。
途中で亡くなる人もいる。
何をするか見つからない場合もある。

それどころか、生まれてすぐ亡くなる場合もある。
様々の人生が、一瞬で消える場合がある。
広島や長崎のように・・・
一晩で大勢が亡くなった東京空爆のように・・・

 

何かを成す為に生まれた。
そんな言葉は薄情というものだ。
あるいは、思い上がりというものだ。
その台詞は自分が何かをしたからなのだ。
偉ぶって言っている台詞だ。

一瞬で亡くなった人達。
志の途中で亡くなった人達。
満足して亡くなるのは一部。
生命が消えるのは、いつだかわからない。

この世を創ったグレちゃん。
そんな無理な生き方を押付けないぞ。
生きたなら、死ぬまで生きる。
それが生まれた意味と役割だ。
これなら、誰でも当てはまる。

 

生まれたのは神様任せ。
死ぬのも神様任せ。
だが、その間は自分で管理する。
生きる管理は自分に任せられている。

不完全な生物だ。
管理もキチンと出来ない。
しょうがねぇなぁ・・・
グレちゃんは超優しい。
対策もしたのだ。

生命を宿す肉体に装置を付けた。
生命管理の方向が判断できる装置だ。
それが「幸」というヤツだ。
「幸」なら誰でも判断できるやろ。

 

わざわざ自分から探しに行くモノではなかった。
最初からグレちゃんが付けてくれていた。
全ての生物に付けてくれていた。
個々に専用に付けてくれていた。

幸は探すモノではない。
追いかけるモノでもない。
得る為の条件もない。
目的でもなかったのだ。

全ては、生命の為。
よく考えれば、当たり前だ。
生きている事が重要なのだ。
それだけが、唯一大切にする事なのだ。

 

この世にいられる条件。
生きている肉体がある事。
いつかは卒業する。
それまでは、肉体に宿る。

ならば、答えは出ている。
肉体を維持する。
それが、この世にいる基本的条件。
管理は任されているのだ。

幸せを求め、ひたる世界ではない。
時間は限られているのだ。
いつ、その時間が来るのか予測できない。
早めてしまう事はできる。
管理は任されているのだ。

 

早く肉体を壊してしまう。
早く肉体を衰弱する。
早く肉体を老いさせる。
これは可能だ。

早める事は可能だけど、本来じゃない。
自然でもない。
自然とは、他との調和だ。
早く肉体と別れるのは、調和が歪む。

多種多様な生命が一つの場にいる。
一種でも多々の生命が同時に存在する。
この世はそういう世界だ。
だから調和はマナーでもある。
早く肉体と別れるのは、マナーに反する。

 

せっかく任された肉体管理。
でも、マトモに出来ない人間。
つ、つい、終了を早めてしまう。
だって、人間だもの・・・

グレちゃん(創造主)は超優しい。
失敗しても叱らない。
もちろん、罰なんてするわけない。
ただ、ちょっとなぁ・・・
もったいないから、もう少し何とかしようぜ。

と、いうわけで「幸」をオマケした。
これで、気づけよなぁ・・・
幸が出たら、そっちの方向に進むだろう。
そうすれば、肉体生命を全うできる。

 

ところが、そう甘くない。
とても未熟な人間だもの・・・
付けてくれた「幸」を求めだした。
追いかけだした。

幸だけを取り出したいのだ。
それが目的になった。
幸が何故あるのか、なんて考えてもみない。
宗教も幸を謳い文句にした。
幸の為に、我が宗教に入りたまえ・・・

どうせ求めるなら「夢」も・・・
夢はいつしか「欲」に変わる・・・
幸より具体的だし、そっちにするかぁ・・・
欲という名の「夢」を追いかける。

 

夢を追いかけるのはオマケでいい。
メインにすると本末転倒・・・
幸を追いかけるのも間違いだ。
そもそも、追いかければ逃げる・・・

幸は元々肉体に付いている。
出現するか、しないかだ。
出現したら、その方向。
その生き方をしてみる。

そうやって、生命を養う。
養生というのは、幸の方向なのだ。
そして、養生こそがメインとなる。
それだけが、与えられた責任でもある。

 

ワシは今まで勘違いしていた。
養生すれば、幸になると思っていた。
生命を大切にすれば、幸になると思っていた。
幸は御褒美だと思っていた。

生命即神。
生命への敬い。
生命への畏れ。
生命への祝福。
それらの御褒美だと思っていた。

そうだよなぁ・・・
不出来な人間だもの・・・
敬い、畏れ、祝福の対象はコロコロ変わる。
判断の間違いが特徴の人間だもの・・・
方向判断装置が先だよなぁ・・・




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「幸の項・5」

人が一番望むモノ。
それが「幸」だ。
最近は欲しいモノ。
幸より欲しいモノ。
それを優先するみたいだけど・・・

ま、まぁ、一応「幸」が一番・・・
幸せならば、いろいろ解決する。
争いは起こらない。
他を制圧しない。
生命を大切にする。

グレちゃん(創造主)は優しい。
道の方向まで教えてくれていた。
まさか、人間が、こ、これほど・・・
ア、アホなままとは・・・
ちょっと、計算違い・・・

 

幸より欲。
生命より金。
生き方は自主制だ。
グレちゃんも、何も言えねぇ・・・

生き方は自主制だ。
グレちゃんでさえ、指図はしない。
お互いに指図はしない。
しないけど、仕組みの理解はあった方がいい。

幸は生命の為にある。
生命を活かす為にある。
生命が全うする為にある。
全うするのが、存在の最適条件だ。

 

一番大切なモノ。
それに気づく為に「幸」がある。
だから「幸」を、一番望むモノにした。
グレちゃんは、超優しいのだ。

肉体に宿る生命。
だから肉体に付けた「幸」。
感じる意識も心も肉体に宿る。
精神も魂も肉体に宿る。

こんな、当たり前。
ワシは別々にとらえていた。
肉体と心と精神。
別々にとらえるから、苦が生まれる。
この世では、肉体が全てを包括する。

 

真の世界。
実相界。
本当の世界。
そこで肉体を語られる事はない。
真は永遠で、肉体は有限だからだ。

誰が、何を語ろうが自由だ。
これが真実だ。
これが真理だ。
真を語る人はゴマンといる。
ほとんどは、真を商材にしているが・・・

語る人。
聞き入る人。
信者となる人。
全員が、この世(肉体界)の舞台上にいる。

 

真実を至上のように語る人。
精神世界を至上のように語る人。
それは、舞台の上で舞台以外の世界を語ると同じ。
自分の役を忘れている。

本人は至ってマジメだ。
だから始末が悪い・・・
肉体をまとっている意味を忘れている。
真実は、永遠だぁ・・・みたいな。

ついでに、愛も永遠だぁ。
魂も永遠だぁ。
神も永遠だぁ。
幸福も永遠だぁ。
それを語る、自分は永遠じゃない・・・

 

立派なモノを追いかける。
真実を追いかける。
趣味としてならいい。
だが、人生の指標にはならない。
そこを忘れている。

毎日の生活。
土台はここにある。
正直に言えば・・・
立派はアナタ(人間)に不釣合い。
当然、真実は、無理・・・

こんな、当たり前を忘れている。
ワシもそうだった・・・
つ、つい、真実を追いかけた。
この世(舞台)では、真実は幻なのに。

 

舞台上で真実を追いかける。
それは、マヌケだ。
舞台を降りてからならいい。
舞台(この世)を降りれば、時間はある。

舞台上は上演時間が決まっている。
役も決まっている。
(役は自分で決めた、というウワサもある)
真実など、追いかけているヒマはないのだ。

舞台での仕事。
幕が降りるまで、いる事。
最後まで、いる事。
それが、生命を全うする事だ。

 

夢。
幸せ。
健康。
平和(調和)。

それらは、この世の事。
現実の世界の事。
全て、物質(肉体)界に必要な事。
実相界(元の世界)には必要ないのだ。

夢が何故あるか?
幸せが何故あるか?
平和を何故求めるか?
全ては、この世の仕組みに関係する。

 

この世での仕事。
存在の条件。
仕組みの理由。
たった一つだけだ。

生きとし、生きる。

その為にアレコレがある。
夢や幸せや平和や愛。
遠く離れたモノじゃない。
遠くまで追いかけるモノじゃない。
生命を全うする為にある道具だ。

 

生きるのに応援するモノ。
生きる希望。
生きる目的。
今まで、ワシはそう思っていた。

それが・・・
逆だった。
生きる事が目的だった。
その為に用意されたグッズ。
夢も希望も愛も幸せも・・・

生きとし、生きる。
それだけが目的であり、役目。
生きるとし生きて、体験してくれ。
グレちゃん(創造主)の深い深い仕組みだ。

 

「人はパンのみで生きるにあらず」
こう思う人も多いだろう。
何しろ、言った(かどうかはアヤシイが)のはキリちゃんだ。
超偉人のキリちゃん(キリスト)だ。
ワシの「生きるだけでいい」は、見劣りする・・・

だが、ワシはキリちゃんと相性がいい。
ワシはキリちゃんが好きだ。
もっとも、固定概念のキリストは少し違う。
キリちゃんは、もっと自由の人だったろう。

キリちゃんの言葉と矛盾しない。
というか・・・続けての言葉。
「人は神の口から出る言葉で生きる」
この言葉の訳が間違っていると思う。

 

神の言葉。
何を指すのか。
教会などの組織は大喜び。
これを、言葉と訳すからだ。

言葉なら、教える人が必要。
言葉なら、意味はどうとでもなる。
教える人がいれば、信者が増える。
宗教組織は、貢ぐ信者で太るのだ。

ワシは常々思う。
信者は始祖の教えから、一番外れているのではないか?
仏教信者もキリスト信者も同じだ。
宗派組織や教会の言葉を信じ、始祖と直接繋がらない。

 

信者は善男善女。
信じる意味を理解していない。
だから騙される。
騙されている事にも気づかない。

神は言葉を話さない。
こんな当たり前が理解できない。
この世に最初にあったモノ。
生命の元。
人間(生物)の言葉じゃない。

生命の元は、何処から?
神という概念、あるいは存在は、ここで必要だ。
神の一部。
神の愛。
神の言葉。
表現は何だっていい。

 

神の口から出る言葉。
それは、生命そのもの。
それ以外の意味はない。
だから、生物は皆生きられる。

パンで生きているわけじゃない。
パンは維持するのに必要だけだ。
死んだら、パンをあげても生きられない。
こんな当たり前を、いたるところで忘れている。

キリちゃんは重要で当たり前を言った。
生きる、は、生かされている。
神の口から出る言葉。
聖書の言葉にすり替えるのは、ボウトクというものだ。
まぁ、神はそんな事ぁ気にしないけど・・・

 

人間だけじゃない。
イヌ、ネコ、タヌキ。
鳥、魚、微生物。
木、花、キノコ。
(無機物も生物なんだけど・・・)

皆、神の口から出る言葉で生きている。
人間の言葉じゃないのだ。
当たり前だけど・・・
生きる事は、生かされる事。

だから、生きている事に意味がある。
生きているだけで、意味がある。
全うに生きる事が最高の生き方になる。
その為に、様々なグッズを用意してくれた。
その中で、大きなグッズとして「幸」がある。




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「幸の項・6」

生命の方向に幸が出現する。
幸を重要視するのは意味がある。
ここの仕組みが理解できると・・・
幸せが人生で指標となる。

幸せに生きる。
それは、とても意味深い。
とても重要な事。
生きる役割など二の次だ。

ひたすら生きる。
幸せに生きる。
それは、同じ生き方だ。
人を含めた全ての生物。
幸せに生きるように創られた。

 

幸は個人の満足の為ではない。
幸せに生きるのは、魂の為ではない。
生きる目的でもない。
生きる指標なのだ。

生命があるから、生きる。
生きるから、生命がある。
この世での生命は、体験の為にある。
この世は肉体に生命が宿る。

幸せに生きるのは、生命の為。
幸せに生きるのは、肉体の為。
幸せに生きるのは、体験の為。
幸せに生きるのは、存在の意味の為。

 

何故、幸せを求めるのか?
答えが、やっと見つかった。

それは、本能に備わっていたからだ。
本能は、理屈がいらない。
幸せを求める。
幸せになりたい。
理屈なしで、幸せに惹かれる。

人間としての理屈はないが、
この世の仕組みとしては、理由があった。
幸せは、生命の指標だからだ。
指標が無いと、迷うからだ。

 

生物は幸せを指標に存続できた。
そして、存続している。
この指標が無かったら・・・
生物は存続できなかったろう。

幸せは何処にも、あった。
いつでも、あった。
誰にも、あった。
気づくか否かは、本人次第。

何しろ、本人に付いているのだ。
生きている肉体に付いているのだ。
実体の無い存在以外は、幸せが付いている。
気づくか否かは、本人次第。

 

幸福論の多くは、幸福になる方法だ。
何故、幸があるか、は問われてない。
何故、幸を求めるか、は問われてない。
幸の解明はしても、その背景はない。

何故、幸があるのか。
何故、幸を求めるのか。
何故、幸が必要か。
それが理解できれば、方法は楽になる。

何の事はない。
全ての事柄は、一つに集約される。
この世では、全てが一体になる。
いつでも、大元に繋がる。

 

生命。
この世は生命の為に存在している。
万物は全て生命に繋がる。
事象は全て生命に関係する。

この世では、生命は有限だ。
だから、全うする生命が最高となる。
その為に、様々な事象が用意されている。
最優先は、全うする生命。

幸福になる答えは簡単だ。
生命(肉体)が全うする状態。
精神(魂)の為じゃない。
まして、心の満足ではない。

 

幸を心や精神の分野だと勘違いする。
心や精神などは、見えない世界だ。
見えない世界の解説は多種多用。
立場によって、説明が変わる。

そして、見える世界への応用は難しい。
いい話、立派な話はゴマンとある。
だが、実行は難しい。
一度なら出来る。
だが、実行し続けるのは難しい。

幸が肉体の分野なら話は変わる。
見える世界だ。
実行も判りやすい。
見える世界だから、曖昧が少ない。

 

幸は見える。
確かめられる。
判りやすい。
肉体に付いているモノだから。

精神論だと曖昧になる。
綺麗事で誤魔化せる。
人の煽動に利用される。
謳い文句で、金儲け・・・

今まで、幸は勘違いされてきた。
だから、言葉で釣られた。
でも、実際に幸になった人は少ない。
幸であり続けた人はマレ・・・

 

幸が目的ではない。
幸を優先して求める必要もない。
だが、幸になるのは難しくない。
幸の存在理由が解れば、難しくない。

幸になる方法。
幸を求めなくてもいい。
勝手に、幸になれる。
主体は肉体だ。

本当の意味の健康。
それを求める。
それを目的にする。
幸は勝手に付いてくる。

 

健康を浅くとらえると間違う。
身体や心が健全なのが健康じゃない。
そんな人はいないのだ。
この世は、生まれ、育ち、衰える。
最後は死ぬ。

身体も心も必ず病む。
そういうことを体験するように生命がある。
健康は、健全が土台ではない。
生まれつきの心身の障害だってある。

その個体なりの健康。
平均も基準もない。
生命は個性として存在しているのだ。
健康も全て個としてある。

 

この世(物質界)は諸行無常だ。
万物流転の世界だ。
生物も当然、例外ではない。
衰え、死なない生物は無い。

健康が健全という基準にあるなら・・・
誰一人、当てはまらない。
ほんの一時なら、健全はありうる。
だが時は流転し、肉体も心も常に変化する。

この世での真があるとするなら・・・
それは絶対のモノではない。
常に流転し、無常のモノだ。
健康然り、幸も然りだ。

 

全ての生物にある健康。
どんな状況の生命にもある健康。
だから、全ての生命に幸が付く。
どんな状況下でも幸が付く。

ホンモノとはそういうものだ。
健全な肉体。
健全な精神。
そんな幻を本気で信じなでね。
本気で口車に乗らないでね。

今の状況から健康になれる。
今の状況から幸が現れる。
全て、個々に対応したものだ。
だから、大丈夫。




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「幸の項・7」

誰でも、どんな状況下でも幸は出現する。
だが、それを出すのは本人だ。
もちろん、他が応援はできる。
お互いの助け合いもあるだろう。
自は他と関わり、生きていける。

それでも、生命は個にある。
どんな深い関わりがあっても、
最終的な決断と行動は個にある。
幸も健康も本人が決める。

難しくはない。
固定概念の幸は難しい。
固定概念の健康は難しい。
だが、本人専用なら難しくない。

 

他との比較基準は無い。
この世での生命は独自なのだ。
唯一の存在理由がある。
生きとし、生きる。

その個として、生命を活かす。
それだけが、存在の理由。
そして、役割。
社会的な役割じゃない。

個々の幸。
生命を活かす。
生命は肉体に宿る。
肉体を活かす。

 

幸の仕組みが解れば活用できる。
幸は求めない。
肉体を労わる。
そして、活かす。

その生活、その方法が適していれば、
幸は出現する。
幸が出なければ、方法が間違いだ。
見えない世界の話じゃない。
肉体の話だ。

誰でも肉体がある。
だから、誰でも確かめられる。
適していれば、幸が出現。
だから、誰でも、幸になれる。

 

幸になる生き方。
それは、とても重要な事だ。
幸の仕組みの理解。
それで、幸になる生き方が指標となる。

幸になる生き方で生命が活かせる。
生命を活かす事で、存在の意味が活かせる。
この世に生まれた理由が達成できる。
幸せは、生命の為にある。

生きとし、生きる。
それは、幸せになる生き方。
力みは必要ない。
力みは生命の邪魔になる。

 

幸せに、努力も必要じゃない。
幸せに、精進も必要ない。
必要だとすれば、自然と自然体。
肉体への労わり。

幸せに、夢は必要じゃない。
幸せに、生きがいも必要じゃない。
必要だとすれば、優しさ。
そして、明るさだ。

いつでも中心は肉体。
肉体の養生優先。
心はほっといてもいい。
心は、肉体に引っ張られるから。

 

幸福論は脇役。
脇役だけど、中心でもある。
幸福を目指さなくてもいい。
それでも、幸福が指標になる。

正しさなんて、わからない。
健全なんて、わからない。
正道なんて、わからない。
でも、幸せは誰でもわかる。

嬉しい、愉しい、気持ちいい。
理屈じゃない。
身体でわかる。
その人が、その人の幸せなら、わかる。

 

幸の基準を固定概念で判断。
社会的基準で判断。
他の人の言う事で判断。
心で判断。

だから、幸が出現しない。
幸になるのじゃない。
出現するか、否かだ。
幸は最初から付いている。
ただ、現れないだけだ。

キミを幸福にするよ・・・
成功(お金が入る事)すれば、幸福に・・・
感謝すれば、幸福になる・・・
それは、詐欺か無知かの言葉。

 

一時的な幸は様々で現れる。
好きな相手から、好きと言われる。
その時は、シ、ア、ワ、セ。
だが、十年後はどうだろう?

幸の質がある。
元々付いている幸は、違うのだ。
誰でも気づく。
これが、幸というものかぁ・・・

だが、哀しい人間だ。
ホンモノより、ニセモノ(一時的)に惹かれる。
人間だもの・・・
生命を忘れて、惹かれてしまう・・・
まぁ、後で必ず後悔するけどねぇ・・・

 

せっかく用意してくれた幸。
今の段階では、活かしきれない。
地球を我がモノとしている段階。
生物の王と自惚れている段階。

共生共栄の意味を理解できない状態。
自他の意味も理解できない状態。
目の前の感情欲望に煽動される状態。
(ワシなど、正にコレだなぁ・・・)

幸と生命の関係。
生命は自他の共生で成り立つ。
幸も生命も個々にあるが、
全てと繋がっている事の理解が前提だ。
個と全ては、一体という感覚。

 

誰でも出現する幸。
簡単なのに難しい。
いつでも、何処でも出現する幸。
優しい事が、続けられない。

だから幸福論は、語り続く。
目の前だが、消える。
手の内だが、潜る。
大切なのに、忘れてしまう。

心は肉体に対抗する。
肉体の属性なのに対抗する。
肉体優先に対抗する。
幸の出現を邪魔するのは、心。




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「幸の項・8」

肉体は大人しい。
だが、心は子供だ。
いつでも、注目されたがる。
優先して、かまってもらいたいのだ。

幸は心の分野ではない。
肉体の分野だ。
だから、心が関係する。
幸は心次第だ、と主張する。

意思(魂)は心に傾く。
心に踊らされる。
肉体の声を聞かない。
届いているのになぁ・・・

 

意思と心(主に感情)と身体の関係。
自分の内を観ないでいると・・・
心が自分だと勘違いする。
心は超雑多なカケラの容器なのだ。

その規模は大きい。
子供の頃からの、あらゆるモノが入っている。
あらゆる感情も入っている。
あらゆる記憶も入っている。
あらゆる知識も入っている。

しかも、整理されてない。
しかも、正確でない。
記憶も知識も正確でない。
当然、付随する感情は不正確・・・

 

多くの人が勘違いする。
心が大切だ。
心が主人公だ、と。
心は単なる容器。
しかも、間違いだらけのカケラ入り・・・

主人公は魂(精神・意思)だ。
だが、この世では主人公が最重要じゃない。
最重要は、肉体なのだ。
主人公は無くならないが、肉体は無くなる。
肉体は時限があるのだ。

ここまで理解できれば、幸は観える。
幸は肉体を全うする為に用意された。
最重要な肉体の方向指示器だ。
だから、幸せになるのは、重要なのだ。

 

肉体は神からの借り物。
こうも言える。
生命はナニモノかから伝わっている。
その生命は、時限付きだ。
肉体の限度という時限付きの生命だ。

心は容器。
使う魂(精神)は自分。
肉体も心も使うのは自分。
ただし、使いこなせるかも自分次第。

自分の確立が先になる。
自分の目覚めが先になる。
肉体と心の管理者だ。
管理者がいないと、無理が出る。

 

心は勝手に遊走する。
しかもネガティブに偏る。
刺激が強い方に引かれる。
一瞬の感情に左右される。

身体は大人しい。
だから言う事を聞く。
管理者がいなければ、
しっかりしていなければ、
心の気まぐれに従う。

結果、身体は故障しがちになる。
怪我をしがちになる。
本来の生命を全うできない。
やはり、管理者(魂)の自覚だな。

 

肉体の労わりを優先する生き方。
それを意識し実行すると・・・
魂(精神)が自立する。
魂をコントロールするのじゃない。

当然、心のコントロールなど無駄だ。
心は、放っておくのが最良なんだ。
ブッちゃん(仏陀)も言った。
放っておけ、放っとけ、ほっとけ。
それで、ホトケとなったんだ・・・
(仏陀とは、心を解放した人の尊称)

この世では、魂を直接精進できない。
肉体があるから。
そんな事もわからない精神世界スキスキ人間が多い。
肉体を愛しむと、魂は目覚める仕組みだ。

 

この世の鍵は物質。
生物においては、肉体。
当たり前だ。
物質界(色界)だもの。

肉体を最優先する。
魂(精神)が目覚める。
幸せが実感できる。
調和に向かう。
当たり前だ。

この世での障害。
それは、心に従う事。
あらゆる不幸や苦しみ。
心に従ったから起こった。
戦争、環境破壊、争い、病、事故の多く。

 

幸の存在意味は解った。
出現条件も判った。
幸の勘違い原因も分かった。
幸は肉体(生命)に貢献する。

勘違いは心の分野だとした事。
同時に、幸の障害も心。
多くの幸福論が勘違いしていた。
心や精神の世界を論じていた。

心に立派な言葉。
心に優しい生き方。
他に感謝する生き方。
それは、それで価値あるモノだ。
だが、幸福とはズレが出てしまう。

 

幸は、魂の成長に直接関与しない。
この世は、魂の修行の場ではない。
この世は、肉体体験の場なのだ。
有限、という意味がここにある。

生まれて、すぐ亡くなる生命がある。
それでも、肉体体験をしたのだ。
体験の最終段階という説もある。
不自由な肉体で生まれる場合もある。

魂の修行としたら、無理がある。
修行の場、なんていうのは、薄情な言葉だ。
他を思いやれない、浅はかな言葉だ。
中身の薄い、自己満足の言葉だ。

 

心が強いわけじゃない。
精神が正しいわけじゃない。
なのに、心の修行、魂の修行を主張する。
自分は対応できるからだ。

人は様々だ。
すぐ挫ける心もある。
(心の挫ける部分を使っているのだが)
すぐ誘惑に負ける精神もある。
(ワシは誘惑に負ける事を信条にしている)

なのに、修行の場はないだろう。
この意味もわからない人達もいるし・・・
だから、正しさを主張する人達は薄情なのだ。
自分の心(の部分)を隠して、抑えて・・・

 

正しさを主張する。
正しさを追い求める。
すると、生命を全うできない。
身体と心を偽るからだ。
身体と心を抑えるからだ。

幸は正しさを求める人に出現しない。
多くの宗教が人を救えない原因だ。
皮肉にも、宗教が道を迷わせる。
生命を全うする道を迷わせる。

立派な人は幸が出現しない。
もちろん、デタラメも出現しない。
自然体なら、出現する。
素直なら、出現する。

 

この世の構成。
多種多様な物質の集まり。
そして、調和・共存・共栄。
調和に勉強も努力も精進も必要ない。

個の心を強調すると崩れる。
心を優先すると、調和が狂う。
心は静めてこそ役に立つ。
自然体とは、心が動かぬ状態だ。

自然体は調和体。
調和体が、生命の最良状態。
生命が最高に活かされる状態。
素直が、一番なんだなぁ・・・




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「幸の項・9」

幸は生命が活かされる道標。
個の生命が活かされることを調和という。
個の生命は同時に、全ての生命に係わる。
調和とは、個と全ての調和だ。

幸は個の道標。
同時に、全ての道標。
幸の生き方は、重要な生き方。
そして、当たり前の生き方となる。

当たり前とは、心が関与しない。
生命が素直なままの状態と行い。
素直が最高最強最良の活かし方。
幸は当たり前になると、出現する。

 

幸は、当たり前。
幸があるのは、当たり前。
誰でも、何処でも、いつでも。
幸は、特別に求めるモノではないのだ。

幸の求め方を実践しても幸になれない。
当たり前なのだ。
一時的な似非幸福感はある。
ほとんどの幸福になる方法だ。

幸は、当たり前。
当たり前は、誰からも教わらない。
個々の内に最初からある。
特別な条件で幸福になるわけじゃないのだ。

 

言葉での説明は段階により違う。
生命をどう理解しているか。
肉体をどう理解しているか。
精神をどう理解しているか。

感謝という言葉がある。
感謝をどう理解しているか。
それにより、幸への関わりがある。
感謝の持つ、深さへの理解。

感謝すれば、幸になれる。
ワシは、一応否定する。
だが、一定の深さを理解しているなら、
感謝は幸と同一でもあるのだ。

 

何かしてもらっての感謝。
ありがとう、の言葉。
それは、それで何らかの変化がある。
どんな種類でも、感謝は効力がある。

ありがとう、の言葉は強い。
言霊として効力がある。
真言(マントラ)としても効力が強い。
意味も対象も関係なく強い。
ただ、言葉にすればいい。

だが、それで幸になるわけじゃない。
だが、それで幸になる。
幸は肉体(生命)への賛歌だ。
だから、生命(身体)への感謝なら幸が出現する。

 

自他の共通の生命。
あるいは、自他を超えての生命。
それは、神という概念と一致する。
生命即神。

感謝の対象は様々だ。
多くは特定の人だろう。
親、恩師、偉人、知人、友人、恋人。
自分にとって、何らかの影響ある特定の人。

人と人の繋がり。
縁。
それらは、大きな意味がある。
感謝すれば、意味は深まる。
だが、生命への感謝とはレベルが違う。

 

生命への感謝。
神への感謝と同じ意味だ。
それは、生命への賛歌でもある。
神への賛歌と畏れ。

すると、幸は出現する。
生命の存続に感応するのだ。
感謝はそれなりの効力があるが、
生命(神)への感謝は特別なのだ。

感謝は「気持ち」ではない。
感謝は「心」でもない。
感謝は「行い」なのだ。
その後の「生き方」なのだ。

 

幸の出現。
最適な方法は「感謝」だ。
生命への感謝だ。
神への感謝だ。

この世における自他の存在。
それは生命の存在でもある。
存在させてくれるモノ。
それを「神」とよぶ。

神は安っぽい宗教ではない。
宗教の道具ではない。
生命そのものだ。
生命賛歌は、生命への感謝。
神賛歌は、神への感謝。
幸出現は、難しくないのだ。

 

生命への感謝。
感謝は言葉の上皮ではない。
自分が変わってこそ、感謝になる。
生き方が変わってこそ、感謝となる。

表現は感謝。
実体は、生命への労わり。
生命への尊敬。
生命が全うする為の行い。

いつでも生命優先。
自他の生命優先。
それにより、幸は出現する。
幸は、この世の存続への道標でもある。




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「あとがき」

ワシは計画性がない。
文章はいつでも、何も考えてない。
その時、勝手に手が動いた文章だ。
手が動いて書いているから、後から読み返す。
ワシは最初の読者となる。

最初は「こう」という題だった。
そのうちに「迷説幸福論」と題名が変わった。
幸福論を書き出したわけではなかったからだ。
ただの言葉遊びだったのに・・・・

幸というのは解りにくい。
だから、同音の「こう」から解こうと思った。
その時は、固定概念の幸があった。
手もやる気が無かったのだと思う・・・。

 

書いているうちに、何かが変わった。
幸の解説は本末転倒ではないか。
その前に、幸が何故存在するか?
ふっ、と思った。

幸は何の役目があるのだろう。
もちろん、考えても解らないモノはゴマンとある。
ワシだって、何の役目があるか解らない。
役目なんて、無いのかも・・・

でも、まぁ、この世に存在している限り、
何らかの役目があるだろう。
役目があるから、存在できる。
存在=役目、という大前提で話は進む。

 

正誤という考えはアブナイ。
正しい役目、間違った役目と区別する。
やがて、区別から差別に変わる。
いつでも自分側が正しいと主張する。
正義という名の、暴力に変わる。

役目に正誤はない。
幸も何かの役目がある。
幸だから、モンクなしに良しでは意味が無い。
幸が良いのは、大きな役目があるからだ。

大きな役目は決まっている。
生命を活性する役目だ。
それ以外は、大した役目じゃない。
一つの国に貢献しても、大した役目じゃないのだよ。

 

多くの人が勘違いする。
社会が勘違いを煽る。
生きている役目をすり替える。
社会的に貢献するのが役目だと教える。

立派に生きる。
それは、社会に貢献する事じゃない。
他人の為に生きる。
それも、大きな勘違いだ。

世の為、人の為・・・
なんて、人間は自分勝手な酔い方をするのだろう。
世の為にといいながら、人類以外は含まない。
人の為にといいながら、区別がある・・・

 

役目はある。
存在しているのだから。
ゴキブリも腐敗政治家も役目がある。
変質者も高級腐敗官僚も役目がる。
それぞれが、何らかの役目をしている。

だが、立派な役目は共通している。
我等生物皆兄弟姉妹。
生きとし、生きる。
立派な役目は、この事だけだ。

他の為に生きる。
これは、言葉が足りないだろう。
自他の為に生きる。
共存、共栄は、地球上の生物の基本だから。

 

立派な役目。
だが人間は、未だ目覚めてない。
(程度によって、半開きは人もいる)
だから方向が見えない。

見えなくても、わかる方法。
それが「幸」だ。
正誤はわからない。
聖邪もわからない。
それぞれが、自分勝手に主張する。

だが、「幸」ならわかる。
誰でもわかる。
生物は「幸」と「苦」がわかるように創られている。
幸に向かえば、立派な役目が成せる。

 

この世に生まれた(存在)役目。
多くの人がいう役目は、二次的な役目だ。
大前提の最優先役目がある。
それが、立派な役目だ。
誰でも共通の役目だ。

生命を最も活かす。
それが一次的な役目だ。
これをしないで、二次的役目ウンヌンは無い。
死んだら、二次的な役目など果たせない。
身体を壊したら、二次的役目は務まらない。

立派な役目は生物に共通だ。
人間以外は、本能で何とかしている。
人間は、頭でっかちだから、迷う。
迷ったら、幸の方向に進めばいい。
幸(こう)は光(こう)だ。

 

幸の分析はしなくていい。
幸になる方法も追いかけなくていい。
生命を最優先すれば、幸は姿を現す。
社会、人としてのアレコレなんて二の次だ。

極、素直。
生命を大切に。
ただ、それだけ。
それで、幸は出現する。

だが、素直になりきれない。
素直が難しいのではない。
アナタの心が難しくしているのだ。
生命に素直になるのは、簡単なのだよ。

 

幸は簡単に出現する。
生命を愛しむだけでいい。
いつまでも幸が出現するのは難しい。
心は生命より、思いを優先するからだ。

幸は心が出現させると思われてきた。
だから、幸福は難しかった。
心は邪魔する力だったからだ。
心を鎮め、生命を優先すればよかったのにねぇ。

まぁ、ともあれ、
ワシの浅はかな考えは当然ながら崩された。
幸は肉体が舞台。
幸は生命に付随する。
幸せな心ではなく、幸せな生命が鍵だった。

 

ワシは嘗て精神世界に足を踏み入れていた。
とてもアヤシイ世界だ。
氣功師の身体に変化して、現実に戻った。
現実の患者さんと接して、戻れたのだ。

生命は現実の世界だ。
精神世界では、この世の苦しみは救えない。
大きな勘違いをしていた事に気づいた。
幸せも、精神世界では幻となる。
幸せは、現実世界のものだ。

肉体が主で、魂は従。
この世は、そういう仕組みなのだ。
宗教で救われないのは、仕組みを理解していないからだ。
宗教の教えは、肉体を超えた世界なら通じるだろう(予想)。

 

宗教に関わる人から異論があるだろう。
宗教で多くの人が救われている。
心の部分で、一時的に救われるのも事実。
心だから、基準が不安定。
不安定だから、救われる事もある。
だが宗教で争いが起こり、苦しむ人の方が多いのも事実。

心は一時的に晴れる。
そして、曇り、闇にもなる。
変化が急すぎるのだ。
だから、幸は心に属してないのだ。
身体も変化するが、実体がある。

この世で魂はゆっくりしか変化できない。
だから、幸は魂に属していない。
この世では、肉体(物質)の変化に幸が対応する。
時間(有限)が肉体に対応しているからだ。

 

幸は誰にでも付いている。
幸はいつでも出現する。
幸は何処でも出現する。
幸は、この世で必要なモノだから。

あの世では、幸は必要でない。
精神世界では、幸は関係ない。
天国は、幸と関わらない。
幸は、肉体と関わるのだ。

書き終わってみれば、当たり前。
今まで、大きな勘違いをしていた。
全ては、生命の為にある。
幸を書いて、途中から書かされて有難い。

やはり、
ありがとう
それしか無いなぁ

      合掌



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