「迷説若返り論」   HPトップに戻る


これは2010年4月1日から2010年9月30日まで毎日ブログに書いたものです。
自分のホームページ、楽天、ヤフー、facebook,goo,mixi,アメーバ等複数のブログです。
著作権は私、水上陽平にあり、転載、引用する場合は連絡下さい。(iiki8@ybb.ne.jp)
        

第1章
若返りの定義

第2章
生活の中で

第3章
身体と心

第4章
老化

第5章
活性

第6章
回復

第7章
日常

第8章

第9章
排出

第10章
青春

第11章

第12章

第13章

第14章
寿命

第15章

あとがき




はじめに

ワシの本職は治療家だ。
天職だと思っている。
が、転職を余儀なくされそう・・・
原因は、ワシの特技の貧乏暮らしにある。

氣功療法も特技で、才能もあると思う。
だが、貧乏暮らしの才能はマスタークラスだ。
天職ってのは、出会ってしまったら最後だ。
どんな理由があっても、転職はできない。

妻と引き換えに、愛人を得るのは普通だが、
ワシは貧乏と引き換えに、天職を得た。
愛人は飽きるが、天職は飽きない。
妻も飽きるが、貧乏は飽き飽きだ。
ワシは、天職だけでいいのになぁ・・・

治療家だが、病を相手にしているのではない。
健康を相手にしているのだ。
元気を相手にしているのだ。
生命を相手にしているのだ。

見えない相手だが、ワシは「氣」を扱うプロだ。
「氣」は見えないモノを感じるモノに変える。
生命の状態を感じる事ができる。
そして、状態を調和方向に変える事ができる。

結果として、病が回復する。
心が静まる。
元気が湧いてくる。
そして、若返りが始まる。

若返りは美容ではない。
結果として美容になる。
生命力の活性だ。
生命がイキイキすれば綺麗になる。

見た目の綺麗さではない。
結果として、見た目も綺麗になる。
どっちだっていい。
綺麗になれるなら・・・とオナゴ達・・・

ワシもどっちだっていい。
ウケれば・・・
天職でもウケなければ無芸と同じだ。
ワシはゲイではないが、芸(能力)が仕事だ。

生命が相手だ。
理解しきれる相手ではない。
だから魅力がある。
解ってしまう相手は、つまらない。

一生理解しきれないだろう。
範囲が広すぎる。
奥が深すぎる。
頂が高すぎる。

人間風情が理解しきれない。
だが、人間も生命を共有している。
その分くらいは、理解可能範囲だろう。
それでも、深すぎるし、広すぎる。

生命の広さは宇宙なみ。
人間の理解範囲は狭い。
それでも海くらいあるだろう。
とても一度の人生では、海も理解できない。

その広い海の特徴の一つに、若返りがある。
それでも海だから広い。
一つの特徴の更に一部分しか紹介できない。
ワシが理解しきれてないのだ。

海の一部の更に極一部分。
それでも広く深い。
人間の意識は小さいからだ。
自慢じゃないが、ワシの意識だって小ささなら負けない。

ワシは意識が小さいだけじゃない。
結構偏っている。
ヒネクレている。
ある程度、自覚してヒネている。

ワシの持論がある。
生命はヒネクレている。
ヒネクレは素直と同じでもある。
だから、ワシのヒネクレ意識は適している。
生命を語るには、ワシのようなのが適している。

もちろん我田引水だ。
当然、独善解釈だ。
それでも、ワシに縁のあった人に役にたてばいい。
独善なのは、生きていれば当たり前なのだ。


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第1章
若返りの定義


若返りとは、元の姿に戻る事。
元の姿とは、本来の今の姿だ。
過去の姿ではない。
また、過去に戻る事でもない。

時間を遡る事は不可能だ。
タイムマシンという手もあるが、一応不可能だ。
この世では、時間が一方向に流れている。
時間は、この世の存在意味に関わる。

時間がアチコチの方向になるなら、時間の概念はない。
もちろん、物質の変化もない。
物質(肉体も)は、時間があるから存在できる。
変化のない物質は、存在できない。
変化のないモノは、物質ではないからだ。

肉体の本来の時間変化に戻る。
無理をするわけじゃない。
本来の姿に戻るのだ。
今の肉体が無理をしているのだ。

無理をした結果が、病や怪我となる。
更に努力しろ、というのは無理の上乗せ。
無理を止めよう、というのが自然体。
自然体が若返りとなる。

無理は変化を速める。
老化を進めてしまうのだ。
自然体は、変化速度を元に戻す。
無理な老化からみれば、若返りとなる。

細胞学者の話だ。
学者は専門家だ。
専門家は、立場で言う事が違う。
専門家というのは、統一ではない。
だから、学者も様々・・・

ある細胞学者の話だ。
細胞は一定回数の再生後死滅する。
遺伝子にその回数が記憶されている。
それが、細胞の寿命だ。

ある細胞学者の話だ。
人間の細胞は160歳まで大丈夫だ。
ある細胞学者の話だ。
人間の細胞は130歳まで大丈夫だ。

学者、政治家、官僚、詐欺師、ハンサム。
信用おけない連中だ。
経済学者が何百人いても不況のまま。
政治家が大言壮語しても、この世の中。
官僚は、石器時代から、あんな程度だ。
異論があるなら、もっとマシな世の中にしてみろ。

だが、ワシの言う事はもっと信用おけない。
だから、不本意ながら細胞学者の説を使う。
信用おけないが、ワシよりマシだ。
ハンサムも信用おけないが、ワシより見た目はいい・・・
ワシだってハンサムに生まれたら、詐欺師という天職につくぜ。

ともあれ、何も無理な負担をしなければ・・・
160歳くらいまでは生きられそうだ。
ところが現状は、約その半分。
つまり、みなさん、生き急いでいるのだ。

細胞のピークがある。
生物的に成物となる時期だ。
人間なら成人。
虫なら成虫。

そこまでは成長だから問題ない。
生き急ぎ、老化促進するのは成物後だ。
無理をして、何かをするのも成物になってからだ。
特に人間は、何かを成す事に価値を置く。

人間的、社会的、国家的には無理すると評価される。
何らかの結果がでやすいからだ。
無理は成果となりやすい。
頑張ろう、一所懸命やろう。
そうすれば、早く老化できる・・・

勘違いしないでくれ。
正誤や良悪の判断はしないでくれ。
社会的には、頑張れば評価される。
生命的には、頑張れば老化を早める。
単なる事象だ。

生き方は様々。
故御師匠様は、生き急ぐ生き方をした。
ワシが尊敬する人達。
そういう生き方をする人が多い。
自分の命を削って、何かを成す生き方。

知った上での生き方なら、何も言えない。
知らないのなら、知ってから選択すればいい。
若返りは、総合健康法だ。
本来の姿の元気に戻りたい場合に実行すればいい。

人間の場合の成長頂点。
これも学者によってマチマチだ。
学者は、それぞれの理由から説を主張する。
理屈があるから正しいと主張する。

理屈など、屁のようなものなんだけどなぁ。
マトモに受ければ、かなり臭い・・・
だが、学者は権威があるから信用される。
といってもマチマチだから、結局好みの説になる。

見た目の成長が止まる年齢がある。
そこから、それほどの差はないだろう。
もちろん、個体差はあるだろう。
だが、個体差は無視して決めた。
25歳に、決定した。
ワシの説だから、理屈は無い・・・

つまり、若返りの対象は25歳以降だ。
成長頂点からの老化スピードが対象となる。
今のスピードが倍速度だ。
本来の姿は、25歳以降半分になる。

具体例で示そう。
今65歳とする。
25歳が頂点だから、65−25=40。
40÷2=20。
本来の姿は、25歳+20歳で45歳くらいになる。

今の65歳の姿が45歳くらいになるのだ。
比較すれば、若返りとしか言いようがないだろう。
本来の姿は、そんなくらいだ。
皆さん、頑張って老化を早めているだけだ。

老化を早めている原因。
それは様々だ。
大気、水、自然環境。
食べ物、着る物、家。

電磁波、放射線、石油系製品。
人工薬、ストレス、生活パターン。
数え上げれば、かなり多い。
それらが合わさって老化を早める。

ならば、それらの一つ一つを改善すればいい。
幾つも改善できれば、相乗効果となる。
一つでも、一つ分は若返るのだ。
やれば、必ず若返る方法だ。
暮らしの中での改善は、最強最高最上なのだよ。

若返りはアイマイではない。
アヤシイ商売でもない。
それぞれが暮らしの中で行う。
すると、必ず若返る。

本来の姿に戻るのだ。
生命は「戻る」のには素直になる。
より発展させようとすると、苦労する。
元に戻るのは、楽なのだよ。

戻る(若返る)方向も見つけやすい。
楽になれる。
軽くなる。
明るくなる。
つまり、誰でも判断できるのだ。

元に戻る。
それを健康という。
発展増強増長が健康ではない。
本来の姿が健康なのだ。

若返り法とは
総合的な健康法でもある。
だから誰でも出来る。
新しい姿を作るわけじゃない。
本来の姿になるのだ。

無理な事は不都合がでる。
歪みがでる。
だが、本来に戻るのは自然体だ。
自然体は、楽になる方法だ。

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第2章
生活の中で


生活。
毎日の暮らし。
毎日生きる事。
生活は存在。

生命を活かす。
それが生活の意味だ。
生き続けるから、生活だ。
明日に繋げるから、生活だ。

ワシとワシの家庭は、その日暮らし。
明日に繋げるより、今日を生き延びる。
原因は、もちろん、ワシの甲斐性無し。
それも生活の一種だ。

生活を重視した先達。
特殊な場や特殊な方法は底が浅い。
暮らしの中で活かせないモノは、どうでもいいのだ。
ブッちゃん(仏陀)もそう言った。

中途半端な自称教祖。
精神世界解説者や自称成功者。
(ワシも半端解説者だけど、半端すぎ!)
特殊な方法や特殊な場や特殊なモノを使う。
そして、底が浅いと指摘すると・・・怒る・・・

本当に魅力ある先達は普通だ。
普通の生活を愉しむ。
普通を愉しむ方法を教える。
誰でも、何処でも、いつからでも出来る方法だ。

生活は24時間。
朝起きてから夜寝るまで。
生命は生活の中にある。
消耗するのも活性するのも生活の中にある。

意識しないで暮らす。
生活は基本的には生命の消耗。
食と睡眠で補給と回復する。
だが、徐々に消耗傾向になる。

いい暮らしがしたい。
その為に、アレコレする。
働く、趣味をする、学ぶ。
暮らしは豊かになる。
生命は消耗する。

生命が消耗するのは普通だ。
この世では、生命は肉体に宿る。
物質(色)界は、主役が物質(肉体)だ。
生命自体は永遠かもしれない。
だが、この世に限ると有限になる。

生命は、肉体の衰退と歩調を合わせる。
この点を勘違いする人が多い。
生命の衰退が、肉体を衰退させると勘違いする。
違うぞ。
肉体が主役なのだ。

この世は、物質(肉体)界。
この事実を受け入れれば理解できる。
主役は、物質。
だから、時間があり、空間があるのだ。

時間が存在する。
それは、有限だという意味だ。
物質(肉体)は有限だから存在する。
無限の物質は存在できない。

時間は物質(肉体)の変化。
時間は常に動いている。
それは、物質は常に変化している意味だ。
この世は、諸行無常なのだ。

この世は物質(肉体)界だ。
だから、万物は流転する。
流転し続けている。
ただし、変化の速度は一定じゃない。

物質の変化は個々で違う。
生物、鉱物で違う。
生物の中でも、界で違う。
門、綱、目、科、属、種で違う。
同じ種でも、個々で違う。

変化速度は時間速度だ。
つまり、時間は同時に二種ある。
外の時間と内の時間がある。
他(外)時間と自(内)時間だ。

時計の時間は、外の時間だ。
一定基準でほぼ同速度だ。
地球の自転に合わせてある。
他の変化を知る時間だ。

大切な事なのだが、誰も教えてくれない。
大切な事は、アイマイになっている。
それが人間の社会の特徴だ。
詳しく掘り下げると、国家が成り立たないからだ。
決して誰も知らないからではない。

生命とは何か?
愛とは何か?
存在の意味、等々・・・
そして、時間とは何か?

時間は、物質の変化。
同じ意味だが、空間の移動距離。
(この説明はパス!)
すると、個々によって違ってしまう。
統一でないと、社会的に困るのだ。

社会的には時間は同じ速度。
だが、個的に速度は違う。
そこにズレが生じる。
だから、若返りは可能なのだ。

例えば同級生。
社会的には同じ年齢。
何十年ぶりでの同窓会。
すると、それぞれが違う事に気づく。

とても同い年に見えなくなっている。
変化の速度が個々で違うからだ。
通常は倍速度で変化(老化)している。
それ以上で変化する人もいる。

個々の生活。
それによって変化の速度が違う。
変化(老化)は、生活の中で起こる。
対外的な24時間(一日)の連続で変わる。

生活習慣。
食生活。
仕事関係。
家族関係。
その他の関係。

消耗する生命力。
休息する生命力。
回復する生命力。
増幅する生命力。
全て、生活の中が鍵となる。

特別な場所。
特殊な方法。
それらでも、若返りは可能だ。
だが、一時的だ。

当たり前だ。
人は生活の中で生きている。
特別な事や場所は、一時的なのだ。
生活の中での若返りでなくては、意味がない。

特別な人だけが出来る能力もある。
あるが、生活の中で活用できなければ一時的だ。
特殊能力は、生活に応用できるか否かで存在意味が違う。
能力を自慢しても、ミエと同じで下らないのだ。


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第3章
身体と心



身体と心の扱い方がある。
それにより、老化か、若返りか方向が分かれる。
具体例は後に記す事にして、概論からだ。
身体と心の正体と関係だ。

まず身体。
肉体(物質)だから主人公だ。
この世は「物質(肉体)界」「色界」などという。
物質が主体となる世界だ。

精神世界スキスキ人間は、勘違いをする。
「魂こそ主人公だ。」
「見えない世界が本当の世界・実相界」
「この世は仮の世界・偽りの世界」
「この世は修行界」などと、のたまう・・・
素直に観られなくなったのね・・・・

有限の肉体。
いつ、何処で、どのように亡びるか不明。
今かもしれない。
明日かもしれない。

この事実を無視したら、机上論か想像論だ。
修行の場などと、寝ぼけた事は言えないだろう。
魂が主人公では変だろう。
いつ、界が変わるか不明なのだよ。

素直に観れば簡単だ。
必ず亡びる肉体を経験している。
生命を体験している。
無限では、自覚できないのだ。
修行ではなく、体験だ。

肉体を主として、魂は従と成す。
有限の体験を何度も味わう。
すると魂は多種多様を認め、柔らかく(自由)になる。
魂は清浄に向かうのではなく、自由に向かっている。

この世界を離れれば、魂が主人公だろう。
個の魂が自由になるために、この世が存在している。
だからこそ、この世では肉体が主人公となる。
魂の為に用意された肉体でもある。

例えば、車が肉体。
運転手が魂。
この世は、車でしか進めない世界だ。
運転手はタイヤも足もないのだ。

魂を本質体とした場合は運転手だ。
それでも、この世では幽霊みたいなものだ。
外に向かって、手も足も口も出ない。
車内では、多少動ける。

心はハンドルだ。
基本的に車(肉体)の付属だ。
魂の付属じゃないんだよ。
ここを勘違いする、多くの人がいる。

通常は、車(タイヤ等)の影響でハンドルは動く。
運転手が動かしているわけじゃない。
運転手(魂)は、この世では半寝呆け状態だ。
車をしっかり運転してないのだ。
この世では、ほぼ、自動車・・・

運転手(魂)が寝ていても車(肉体)は動く。
燃料(生命)は太陽電池。
常に発電しながら走る(生きる)。
だが、徐々に電池は磨耗する。

ハンドル(心)は曲がり癖がある。
車からの影響と運転手からの影響がある。
いずれにしても、癖がある。
どのハンドルも歪んでいる。

運転手が目覚めていれば、ハンドルを操れる。
眠っていたり、寝呆けていれば、ハンドルは勝手に動く。
目覚めている人間はマレだ。
それほど気にしなくていい。
車は自動的に動ける。

この世では車(肉体)は自動車だ。
自動で動ける。
道の環境に反応して、勝手に曲がる。
元々曲がり癖があるから、勝手に曲がる。
車が壊れるまで、勝手に動く。

運転手(魂)の目覚めは別な目的だ。
この世では、目覚めを目的にしない。
目覚める段階の魂だけが目覚めればいい。
この世の目的は、道を体験する事なのだ。

それには、車が不可欠なのだ。
車が調子いい方が、深く体験できる。
長持ちしてくれる方が、多く体験できる。
体験は、寝呆けている運転手に直接伝わる。
寝呆けている運転手の為に、道を走るのだから。

目覚めるのが目的なら車はいらない。
多くの道もいらない。
有限の時間も空間もいらない。
つまり、この世は必要ない。

この世にいるのだ。
目覚めが目的でないのだ。
車が大切なのだ。
道を体験する事が目的なのだ。
当たり前なんだけどなぁ・・・

そこで、曲がり癖のハンドル(心)の登場だ。
癖があるのは、都合が悪い。
思うように体験できない。
ハンドルの遊び(余裕・自由)も少ない。
これは、この世で修正したい。

心の修正を勘違いする。
正しく直すわけじゃないぞ。
正しさなんて、人間では判らない。
それぞれが、勝手に正しさを主張するから。

修正の目的。
それは、自由になる事だ。
やわらかくなる事だ。
間違いを正すのではない。
間違いを認める事だ。

別の表現もある。
心を鎮める。
心を無くす。
心を安定させる。

とはいえ、心の修正が目的でもない。
やわらぐと、走りやすくなる。
すると、いろいろな道を体験しやすい。
車(身体)が動きやすくなる為の修正だ。
目的は体験なのだ。

心が中心になりやすい。
ところが、心は気まぐれなのだ。
というより、心は単なるモノの集まり。
思い込みや感情や歪んだ記憶のカケラの集合体だ。

歪んで、間違えているから正すわけじゃない。
歪んでいるカケラも真っ当なカケラもある。
どれを選ぶかは、生き方や性格による。
だが、鎮めるのが一番素直になる。

この世での存在意味。
車で、いろいろな道を体験する事。
有限を知る事。
多種多様と共存(交流)する事。

だから、主体が車(肉体)になる。
運転手(魂)もハンドル(心)も二の次だ。
車が動けなくなったら、この世にいられない。
その為には、車を最良好状態にする。

車がいつ、どこで、どんな風に壊れるかは不明だ。
計算が出来ない。
だが、壊れ易くは出来る。
故障しやすくも出来る。
車の状態管理は運転手の意思による。

運転手は運転が下手でもいい。
いや、良くはないなぁ・・・
上手い方がいい。
だが、運転よりも優先する事がある。
運転手は運転以前に管理者なのだ。

車の状態を見て、ケアする事。
これが、基本であり最優先の仕事だ。
運転は二の次なのだ。
車は自動でも動く。

大切な優先順位。
身体が一番。
それだけでいい。
体験が重なれば、後は自然に変わる。


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第4章
老化



生老病死という宿命がある。
生物はほとんど背負っている。
背負ってない生物もいる。
分裂して増殖するタイプだ。

性を持つ生物。
オスとメスがある生物。
オスとメスにより、新たな生命が出現する。
すなわち「生」だ。
生と性は、同じ意味を持つ。

「生」があるモノは「死」がある。
そして、その間に「成」がある。
「成」は成長から衰退に変化する。
「成」を「老」ともいう。
身体の変化を指し示す。

老化は性を持つ生物の宿命だ。
例えばアメーバのような生物。
オスもメスもない。
性がないから、生もない。
生がないから、死もない。

適当な時に分裂すればいい。
全て自分だ。
幾つ潰れてもも、死にはならない。
自分は残っているから。

アメーバは不老不死ともいえる。
だから成長しないでいる。
進化しないでもいいのだ。
有限でないから、体験しても実にならない。

絶大な権力者。
古今東西の帝王、皇帝、王様。
権力者が望むのは決まっていた。
唯一つ、手に入らないモノ。
不老不死。

その為に莫大な費用と人を使った。
国内、世界中に求めた。
研究所、学問所、その他モロモロ。
秘薬、秘術、秘法、その他モロモロ。

アメーバになれば、夢は叶ったのにねぇ。
欲の行き着く先は、アメーバ。
生老病死も悩みも無い。
全て、自分だけの世の中。

生物が生まれる。
同時に成長する。
肉体的に、ある点まで成長する。
その後は衰退する。
最後は死に至る。

成長速度は、生物により異なる。
衰退速度も異なる。
だから生死の寿命も異なる。
そして、生死の間(はざま)に存在の意味がある。

つまり、不老不死では存在の意味がないのだ。
意味は間の老化(成長と衰退)にある。
もちろん、何かを成す事に意味があるわけじゃない。
間にあるのだ。

この世は体験を重ねる為に創られた。
体験は生と死の間でしか出来ない。
体験は老化(成長と衰退)でしか味わえない。
いつまでも、同じ状態ではいられないのだ。

老化は、この世で必ず付いてまわる。
時や空間と同じく、必ずあるものだ。
老化を止める事はできない。
また、止める意味もない。

若返りをする。
その為には、老化を知る。
老化の必要を知る。
若返りと老化は矛盾しないのだ。

若返りは、老化(成長と衰退)に含まれる。
老化の中の衰退に含まれる。
成長を急ぐ事は出来ない。
(多少は出来る)
だが、衰退は簡単に急げるのだ。

自然衰退と、急速度衰退がある。
もちろん、急速も個々で差がある。
急いで衰退する原因が様々だからだ。
意識から環境まで様々にある。

人間の衰退速度は、急速になっている。
自然衰退は、もっとゆっくりなのだ。
ゆっくり変化するように肉体は創られている。
それなのに、早く変化するのが趣味なのかなぁ・・・

衰退速度が増している。
速まっている要素は様々だ。
だが、速まっているのが常識になっている。
だから、自然衰退速度は、とてもゆっくりになる。

若返りの正体。
実は、若返りではない。
相対性理論ってヤツだ・・・
簡単に訳すると・・・
時空連続体は均一ではなく、物質変化や時間も変化する。

アイちゃん(アインシュタイン)が言ったのだ。
だが、100年以上も経っているのに理解されてない。
一般常識は、アイちゃんより100年送れている。
でも、まぁ、いいか・・・
天才は変人と同じで、理解されないのが当たり前なのだ。

世間常識という同速度で老化する。
アイちゃんの理論では、同速度内では違和感がない。
だが、異速度(本来の自然衰退速度)が混じると
物質(肉体)変化も違和感となる。
それが、若返りだ。

アイちゃんは、重力が光を屈折させると解いた。
同じく、若返り人の周りは、衰退速度が遅くなる。
若返り速度の人に接すると、接した人の肉体変化も起こる。
若返りは、若返りを誘発するのだ。

アイちゃんのような超天才理論は、様々な分野に応用がきく。
ワシのような出来損ないは、同じく枠外という意味で気が合う。
ワシの迷説若返り論は、アイちゃんの理論に裏付けされている。
モンクや異論は、アインシュタインに言ってくれ。

というわけで、衰退速度が鍵となる。
衰退速度は、主に生き方で変わる。
世間常識にとらわれない生き方。
本来の寿命は150歳はある、という生き方。
急がない、あせらない生き方。

それが難しい場合もある。
それでも大丈夫。
若返る手段は幾つもある。
老化(衰退)速度の変化は複合的だからだ。

老化を止める事は出来ない。
だが、速度を変える事は出来る。
というより、今が変化しているのだ。
本来の速度に戻す事はできるのだ。

老化を防ぐのではない。
本来の老化に戻るのだ。
ゆっくりの老化(人生)を愉しむのだ。
すると、今よりは若返る。

老化の中に若返りがある。
その事に気づくと、何故若返りが大切かが理解する。
そうでないと、嘗ての皇帝のように本末転倒を求める。
不老不死のアメーバを求める。
大切なのは、人生経験だ。

老化の期間が人生体験になる。
ならば、一番適した速度で衰退しよう。
それは、現在の速度より、もっとゆっくりだ。
それが、若返りの目的になる。

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第5章
活性



活性とは、生命エネルギーが高まる事。
外からの刺激や影響。
内からの刺激による影響。
刺激ではない、共鳴による影響。
わけがわからない、何かによる影響。

外からの刺激は様々だ。
自然環境、人工的環境、人為的刺激。
人為的も様々だ。
直接的、間接的な刺激がある。
これらは活性が起こる要素だ。

もちろん、減性になる、外からの刺激もある。
現代は、減性刺激の方が圧倒的に多い。
生命エネルギーが滅却して、衰退速度が増す。
一時的な見た目は誤魔化せるが、生命力は落ちている。

生きている事は、常に刺激がある。
ストレスといってもいい。
例えば、重力。
ストレスが無いと、生物は生きられない。

ストレスが強大なら、生命力は減性となる。
適度なら活性となる。
つまり、ストレスが問題ではなく強度なのだ。
そして、強度は個々の生命力により違ってくる。

赤ちゃんの鳴き声。
母親と隣のオジサンとは、ストレスの強度が違う。
母親には適度のストレスで、生命力は活性する。
生命力が活性すると、相手は可愛く思える。
隣のオジサンには、イライラが起こる。
同じ泣き声でも、相手により違うのだ。

ストレスは受けて側の問題だ。
もちろん地球規模の環境は別だ。
オゾンホールによる紫外線は生物全てに強大となる。
人工環境の騒音も、一定レベル以上は全て減性になる。
だが、通常のストレスは受けて次第なのだ。

ストレスは最初からある。
多種多様にある。
それらを、減性か活性かに分けるのは自分。
同じストレスで、正反対の影響となる。

ポイントは氣合い。
氣が合うか、合わないか。
それにより、ストレスは活性か減性かに分かれる。
多種多様のストレスがあるのだ。
多種多様に氣合いが出来ればいい。

氣が合った対象は受け入れる。
自との違いを受け入れる。
そこに刺激が生まれる。
その刺激は生命力活性に働く。

意識は受け入れると柔らかく広がる。
柔らが和らぎになる。
すると、生命力は活性する。
活性すると、更に受け入れる。

そうして、遠い未来に魂は大きく広がる。
広がった魂同士は、当然融合する。
我々は、何処から来て、何処に向かうか?
その答えが、仕組みの中にある。
生命力の活性に、方向がある。

生命力を活性させる意味がある。
生物は元気でいる事に意味がある。
より元気を目指す事に意味がある。
活性方向に歩く事に意味がある。

頭や理屈で道を歩くと間違えやすい。
心で歩くと、間違える。
人間は、頭も心も未完成だ。
歪んでいるままなのだ。

だが、生命に狂いはない。
生命は預かりモノ。
人間より、遥かに偉大な存在から預かっている。
生命活性を優先すると、生きる意味が観える。

生命即神という言葉がある。
とてつもなく偉大なこの世の仕組み。
それを、神と名づけた。
生命はこの世の仕組みから直接繋がっている。
それが、生命即神という意味だ。

この世での生命は肉体に宿る。
あの世での生命は魂に宿る。
この世での魂は脇役となる。
主役は肉体(物質)になる。

生命の活性は、この世での本道。
それは、肉体の活性でもある。
肉体は、神の分霊だからだ。
この世では、魂が分霊ではない。
この世は、魂が分霊に近づく舞台なのだ。

活性とは、性を活かすという意味でもある。
この世では、性は生命と同根だ。
性が無ければ、生命とはいえない。
生命を活かすと、性も活きる。
性を活かすと、生命も活きる。

だが、この話は理解しない人も多い。
誤解する人も多い。
イチャモンする人も多い。
性事は、じっくり説明しなければならないのだ。
ワシは、メンドウだから話さない。

生命を活かす方法は幾つもある。
本道は性を活かす事だが、それ以外も多い。
生命は肉体に宿るから、肉体の活かし方となる。
また、肉体以外も生命は影響し合っている。
だから、生命を活かす方法は幾つもあるのだ。

この世では、主役は肉体だ。
肉体の活性が中心となる。
肉体に付随して心がある。
宿命がある。
運命がある。

宿命は決まっている生命。
例えば、オスである事。
ん?
生物によっては、オスとメスが変換するのがいるなぁ・・・
ん?
人間も、時々変換するのもいるなぁ・・・

ま、まぁ、物事は例外が付き物だから・・・
例えば、時代。
例えば、生まれた地域。
海とかアフリカとか南極とか・・・
例えば、種。
ゾウリムシとか人間とか・・・

宿命は決まった生命だが、運命は動く。
自ら動ける。
宿命の上に乗っている道だ。
しかも、とても広い道幅の道だ。
宿命上だから、大まかな方向はある。
時代とか、国とか、種とかの方向がある。

道幅が何十キロもあれば、端と端では違う。
何百何千キロもあれば、風景だって違う。
ぐるぐる同じ所を巡ってしまう事だってある。
道の中に川も山も谷も大穴も舗装道ある。

挑戦するヤツ、落ちるヤツ、避けるヤツ。
挑戦する時、落ちる時、避ける時。
運命は生き方で違ってくる。
宿命と運命で、生命は個々に分かれる。

同じ時代、同じ国、同じ種で生まれても違う。
同じ道を歩いても違う。
道は同じでも、道幅がありすぎる。
歩き方が違いすぎる。
そこで生命の違いが出てしまう。

活性の歩き方がある。
減性の歩き方がある。
歩き方は、毎日の事だ。
毎日の意思と行動だ。
毎日の身体と心の使い方だ。

変えられない道でも、歩き方で生命は変わる。
生命活性の工夫は出来る。
それが「智恵」という言葉だ。
智恵は、世渡りに使うモノではないぜ。
智恵は、自分の生命活性に使うモノなんだ。

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第6章
回復



身体は毎日疲労する。
使うと疲労する。
使わないと衰える。
だから回復も毎日する。

主たる回復は睡眠だ。
毎日寝るように創られた。
身体は、疲労の必要がある。
だから身体は、回復の必要がある。

睡眠だけが回復じゃない。
疲労しながら、回復もしている。
生物は、螺旋行動で生きている。
老(成長と衰退)は巡りながら進む。

動物は特に動いて存在する。
動くと疲労する。
疲労して、何かを体験する。
体験が存在の証。

疲労だけでは、すぐ滅亡する。
それでは、いろいろな体験が出来ない。
だから回復とセットになった。
回復は存在の証。

運動系を休める。
消化器系も休める。
脳もかなり休める。
休んでいる間に回復改善も出来る。
個の生命は限度があるのだ。

動くのも個の生命。
回復改善するのも個の生命。
一つの生命を使っている。
そして、その生命が使う出力、量は限りがある。

動く方が優先して生命を使う。
その為、回復時には動きを止める必要がある。
それが睡眠というわけだ。
睡眠は、とても大切な生命の使い方なのだ。

活動にも回復にも生命を使う。
活動に使った生命は減る。
回復に使った生命も減る。
だが、回復に使った生命は使った以上に戻ってくる。
回復は、戻ってくる通路を広げる作業も含まれるからだ。

例えば食事。
食べる、消化する、代謝する。
それぞれ生命力を使う。
使うから一時的には減る。
だが、それにより、生命力を増やす。

身体の回復復元は、損して得を・・・
ち、ちょっと違うかぁ・・・

効力が高まるコツがある。
生命力は不器用なのだ。
回復時は、回復に専念する。
○○しながら、というのは効率が悪い。

仕事なら掛け持ちも効率がいい場合がある。
どうせ生命力は減るのだ。
同じ減るなら、効率よく仕事する。
掛け持ちで仕事する。

活動に使う生命力は減るだけだ。
だから、幾つもの仕事を掛け持つのは効率がいい。
同時に仕事を進行するのもいい。
同じ時間で疲労するなら、仕事は多くてもいい。

回復に使う生命力は仕組みが違う。
掛け持つと、回復効率が下がるのだ。
ブレーキとアクセルを同時に踏む。
せっかくの回復が阻害されてしまう。

片手にピザを食いながら仕事をする場面。
外国ドラマなどに多い。
あれは・・・アホだ。
栄養素を体内に入れるのが、食だと思っている。
食が何か、少しも理解できてない、アホだ。

回復時は、出来るだけ活動しない。
大病後、術後は生命力が低下している。
通常の底以下に落ちている。
だから、安静が必要なのだ。
回復時に、回復以外の生命力を使わない。

消極的だが、回復は若返りの基本だ。
通常レベルまで、速やかに回復させる。
残ると、過労から病へ進む。
過労や病は衰退(老化)速度を速める。

更に過労・病は衛氣(えき・守る氣)の低下を伴う。
すると、大怪我も起こしやすい。
怪我は偶然に起こるわけじゃない。
その前に、生命力の低下か乱れがあるのだ。

毎日活動している。
だから、毎日の回復は大切なのだ。
回復が不足すると病や怪我の元になる。
不足すると、老化は加速する。
睡眠不足は、老化の加速なのだ。

若返りは、衰退速度を本来に戻す。
回復が出来て、そこから若返りが始まる。
基本は、そうなのだが、若返りはもっと自由だ。
先に若返りが起こる場合もある。

回復が出来てなくても、若返りは可能だ。
だが、若返りがあれば、回復は必ず起こる。
だから、若返りは回復以上に役に立つ。
回復以上に重要でもある。

病を意識しなくていい。
先に若返りだけを求めてもいい。
これは、結構大きなことなのだ。
発想の転換は、深い病から脱却する方法の一つだ。

治さない治し方。
そういう治療法もある。
ワシは生命力の活性を縦軸にしている。
方法は治療と健康増進。
目的は、人生を愉しむ事。

直接、病と向き合う。
それも一つの方法。
直接、健康を目指す。
それも一つの方法。
直接、若返りをする。
それも、一つの方法なのだ。

病や怪我からの回復を目的にしない。
回復は過程。
回復は当然。
回復は当たり前。
目的は、その先にある。

その為に、毎日の回復を意識する。
回復だけを意識するのではない。
日常は、回復が含まれている事を意識する。
活動と回復で一日が成り立つ事を意識する。

日々の、当たり前の回復を大切にする。
それが、病や怪我からの回復に大きく影響する。
ポイントは、日常にある。
いつでも、大切なモノは日常の暮らしに有る。

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第7章
日常



一日の始まりは?
こう問われた事がある。
故伊藤真愚先生からだった。
1996年頃だったろうか。

0時。
夜明け。
目覚めた時。
そんな答えが多かった。

意味の無い一日を問題にしない。
意味有る一日の始まりを問うている。
そこに気づくのが、一つの答えでもある。
意味ある一日、幸せになる一日、健康への一日の始まりだ。

一日の始まり。
若返りへの一日の始まり。
それは、前日の寝る時からだ。
目覚めが調子悪くては、その日に期待できない。

適度の睡眠時間。
充分の睡眠深度。
気持ちいい目覚め。
それらは、前日の就寝にかかる。

回復の基本として、睡眠がある。
だから一日の始まりは、前夜の就寝時となる。
ここからが、若返りへのスタートとなるのだ。

では、寝方からだ。
まず布団の中で、ゆっくり身体を伸ばす。
手を頭の上に組んで裏返す。
息を吐きながら、8割程度の力で伸ばす。
同時に足指を身体方向に、足裏を下方に。
つまり、アキレス腱を伸ばすことになる。

コツは、息をゆっくり吐きながら。
全体的に8割程度で抑える。
次第に、更にゆっくり同じ動作を繰り返す。
3回したら、身体はそのまま。
手を、そっと布団に戻して寝る。

たったこれだけで違いが出る。
就寝前の身体の伸ばし。
就寝前の呼吸法。
だが、一年は365日もある。
実行する、しないでは、大きな差が生まれる。

活動のほとんどは、筋肉の収縮を伴う。
繰り返しとしての伸張はあるが、充分ではない。
だから随時の伸張行為は肉体回復の基礎でもある。
特に、一日の終わりの就寝時は最良の時間だ。

身体が縮こまったままで睡眠する。
身体を伸ばしてから、睡眠をとる。
とても大きな違いだ。
それは、次の日に繋がる。
次の日が、気持ちいい日になる準備でもある。

息を吐く。
息をゆっくり吐いてからの就寝。
これも、心と身体に大きな意味がある。
そして、続ければ、大きな効果となる。

目が覚める。
数時間は無意識の世界だった。
身体の管理も自律神経に任せてあった。
目が覚めてからは、意識して動かせる。

まだ布団の中。
就寝時と同じ動作をする。
息をゆっくり吐きながら、身体を伸ばす。
手を組んで裏返し、頭の上で伸ばす。
同時にアキレス腱を伸ばして、足を下方に。
朝は、7割程度の力だ。

これから始まる活動の朝。
一度身体を伸ばす。
息をゆっくり意識して吐く。
それだけで、生命力は活性しやすくなるのだ。
生命に、とても大きな差ができてくる。

起きて、すぐトイレに行く人。
洗顔が先の人。
どちらでもいいが、仕方がある。
作法と一致する場合もあるが、不一致もある。
生命力の活性優先の仕方だ。

朝一で、排尿排便の習慣があればいい。
なければ、習慣にするように。
息も身体も、出すのが先になる。
入れてから出すと、循環が小さくなる。

生命は循環で活性する。
循環量が小さければ、活性も少ない。
便秘が、若返りの阻害になる意味はここにある。
特に老廃物や毒素は滞在させると害になる。

排便は食物の老廃物。
排尿は血液の濾過液。
どちらも出すモノだが、内容は正反対。
老廃物は毒素となりうる。
濾過液は、最も浄化された液だ。

人体の仕組みで、ここがスゴイ。
浄化物も老廃物も出すのだ。
綺麗も汚いも出すのだ。
そして、循環させる。
循環で生命力が活性する。

老廃物、毒素だけを出すのではない。
綺麗なモノも出すのだ。
重要なのは、循環する事。
生命力の大きなヒントだ。

つい、好いモノは集めたがる。
綺麗なモノは取っておきたがる。
役に立つモノを留めたくなる。
そこに、落とし穴がある。

循環で成り立つ世界だ。
多種多様が巡り合って、一つの世界だ。
好いモノは、出す。
綺麗なモノは公開する。
役に立つモノなら、他の役に。

常に、流れてこそ活性する。
常に、流してこそ活性する。
良いも悪いも同じだ。
留めたら、衰退しかないのだ。

生命の仕組みから気づく事がある。
生命から教えていただく事がある。
生命は(当たり前だが)生き方を導いている。
生命を全うする為に、この世に存在しているのだ。

精神的には、善悪を基準にしたがる。
肉体的には、良悪を基準にしたがる。
それは、善い生き方。
それは、良いモノ。
ところが、生命の基準は違った。

善悪と(勝手に)考えた事。
良悪と(狭く)判断したモノ。
その区別よりも、循環する事を基準にする。
いいもわるいも両方とも、出し、入れる。
大切なのは、大きく巡らす事だった。

循環については、別に書こう。
それだけで、一つの章になる。

洗顔。
動物のほとんどが顔を洗う。
虫や魚はわからない・・・
本能的な行動なら、生命活性に関係あるだろう。
洗顔は、結構重要な行動かもしれない。

若返りは生命全体の活性だ。
だが、特に気になるのは顔と体形だろう。
それが、洗顔の仕方で改善する。
洗顔は、顔の若返りの基礎になるのだ。

何故、朝に顔を洗うのか?
汚れているからではない。
それなら、夜の風呂が適している。
一日の汚れを落とすのは風呂の準備段階だ。

顔は誰の為にある?
顔は他の為にある。
他が、自を判断する大きな一つだ。
顔の表情から、多くの情報を得る。
それによって、その場の交流方法が決まる。

洗顔は誰の為にある?
洗顔は他の為にあるのだ。
自分で自分の顔は見えない。
(鏡という間接グッズを使えば見られる)
自分で自分の表情は見えない。

見栄で洗顔するのではない。
洗顔と化粧は全く違うのだ。
他の為に洗うという生き方。
他と自の良い関係の基礎。

ただ洗顔してもいい。
洗顔の意味はある。
だが、若返り法としての洗顔なら仕方がある。
毎日の洗顔だ。
工夫すれば、大きな違いとなる。

人間の体温は36度程度だ。
皮膚は冷温度差が大きいと、締まる。
北方に暮らす人は肌理細かいのだ。
ならば、当然、洗顔は水がいい。

石鹸類は使わない。
皮膚は薄く守っている膜がある。
外からの邪気を守る。
東洋医学では「衛氣」という。
石鹸類は膜を溶かしてしまう。

冷たい水で顔を洗う。
汚れ落としではない。
禊とか浄化に近い。
温水で石鹸では、浄化にならない。

できれば、幾度も洗う。
禊だと思えば理解できるだろう。
すると、その日の心がクリアになる。
顔が引き締まり、クリアになる。
朝の洗顔は、一日を決める事さえあるのだ。

毎日、水で幾度も洗う。
一年365日。
数年で、見違えるようになる。
温水で、ちょっと洗うのとは違ってくる。
もちろん、若返りの方向だ。

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第8章



本来の老い方が、若返りです。
本来は今の基準の半分のスピードです。
若返ると世間的には、長生きになります。
長生きは、長息からの転用です。
息は、生きと同じ意味です。

生物によって総呼吸数が決まっているという説がある。
それにより、細胞再生回数が決まっている。
それにより、おおよその寿命が決まっている。
だから、息の仕方が重要になる。

呼吸は特殊な立場にある。
運動神経と自律神経が同時にあるのだ。
意識してもできる。
意識しなくても、できる。
人間以外は、ほとんど意識しないようだ。

意識しない呼吸。
一分間に約15〜18回。
睡眠時は少なくなるが、一日約2〜2.5万回。
もちろん個人差がある。
そして、一生に5〜7億回。

意識する呼吸。
一分間に5〜6回
つまり三分の一になる。
睡眠時は意識できないから普通呼吸。
すると、一日約半分になる。

単純計算上の話だ。
意識した日は、老化が半分ですむ。
計算通りに人生は歩けない。
それでも、意識すれば確実に老化速度は遅くなる。

様々な呼吸法があるが、日常で普通に応用できるのがコツだ。
呼吸は、吐く、吸う、止めるの三種類。
止める、は特別の場合に使う。
状態を一段広げたり、強めたりする時に使う。
だが、キチンとした指導の下でするのが望ましい。
だから、日常では使わなくてもいい。

吸う、は気にしなくても自動でいい。
吐いた分だけ、自動的に吸ってしまう。
つまり、呼吸で意識するのは、吐く事だけだ。
日常で応用できる呼吸法は、吐くだけでいい。

吐く息がポイント。
それも少しの工夫で出来る範囲。
努力や根性のいる方法は万人に向かない。
ましてや、病み人には向かない。
何より、ワシは努力と根性が苦手だ・・・

生命の回復や増強時は特徴がある。
身体がゆっくり。
余計な活動をしない。
そして、呼吸がゆっくり。

保健気功法で生命が増強する。
それは、ゆっくりの動き。
呼吸を動作に合わせる。
当然、ゆっくりの呼吸。
そして、イメージで気を動かす。

調身(型)調息(呼吸)調心(イメージ)。
これらを、三蜜、三位ともいう。
どれも大切だが、あえていうなら・・・
呼吸であり、息の吐き方だ。

息は「生き」であり「生命の鍵」でもある。
そして、息=吐く、と思ってもいい。
長生きは、長息であり、長く吐く、でいい。
長く吐くと、老化速度がゆっくりになる。

だが、無理して長く吐いても意味がない。
生命は根性比べではないのだ。
(余計な)力を抜いて、吐く。
それにはコツがある。

コツというのは、誰でも出来る。
一部の名人しか出来ないのは、コツとはいわない。
万人に出来て、コツとなる。
だから、決して難しくない。

息のコツ。
それは、他の何かのコツのコツとなる。
様々なコツをする時のコツ。
肩の力を抜くコツでもある。

息を吐く。
それだけの意識動作だ。
呼吸しているなら、誰でも出来る。
出来ないのは、幽霊だ。
だから、幽霊は肩の力(こだわり)が抜けない。

プロは身体で覚えている。
吐いて、(余計な)力を抜く。
吐いて、下半身に氣を下げる。
すると、最高の技と力と心を使える。

意識への信頼を高める方法にイメージがある。
身体の邪気が、息を吐く事で出て行く。
自分の良い気を、吐く息に乗せて周りに出す。
邪気と良気では正反対だが、イメージでは可能だ。

優しく吐くのもイメージを使う。
シャボン玉を壊さぬように膨らます。
そっと、静かに、優しく。

誰でも出来るコツだ。
だが、簡単な方法は実行しない傾向がある。
簡単なのが、効果が高い方法だと知らないのだ。
難しくないと、効果が無いと思っている。
だから、誰でも出来る呼吸を軽んじてしまう。

優しく、少しゆっくり吐く。
優しく、少し深く吐く。
それだけだ。
だが、効果は広く深く大きい。

若返り法の中でも最重要。
そして、土台でもあり、大黒柱でもある。
誰でも、何処でも、何時でも出来る。
それだけで、あらゆるコツに応用出来る。

簡単な事は、広い。
重要な事は、単純。
優しい事は、深い。
普段の中に、特殊が含まれている。

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第9章
排出



身体から出るモノ。
心から出るモノ。
生命は息を含めて排出が鍵になる。
納入よりも排出が大切なのだ。

デトックスという言葉が最近多い。
デトックスは老廃物や毒素の排出だ。
確かに老廃物や毒素は、速やかに排出する方がいい。
だが、生命の排出はデトックスだけじゃない。
デトックスだけでは、生命力の活性が半端なのだ。

良いも、悪いも排出する。
生命は循環で活性する。
地球は多種多様と混ざり合って活性する。
良いモノを出すというのは、とても重要なのだ。

人間にとっての老廃物や毒素だ。
微生物にとっては食料となる。
毒素も微量鉱物として、触媒となったりする。
排出は他の役に立つ事でもあるのだ。

この世は全て、他の役に立つ。
ならば、良いモノも排出する方がいい。
ゴキブリだって、政治家だって何らかの役に立つ。
カメムシだって、官僚だって多分役に立つのだ。

良いモノを取り入れるのはいい。
だが、排出しなければゴミになる。
この世を大宇宙とするなら、人体は小宇宙だ。
全て、循環により存在できる。
生命力は、排出(解放)で活性する。

汗。
汗腺から出る。
大汗腺、小汗腺があるが、出る腺だ。
熱、水分、老廃物、毒素だけじゃない。
身体を護るモノも出る。

ポイントはスムーズに出る事だ。
汗腺の開閉が上手く機能する事だ。
その為に、身体を洗う。
その為に、皮膚の元気を優先する。

身体は基本的には石鹸を使わない。
水、温水だけで軽く洗う。
その方が皮膚は健康になる。
身体の汚れは表面に浮くのだ。

痰。
自動的に出てくる痰だけじゃない。
うがいで出す痰が大切だ。
喉の奥に溜まっている痰だ。

痰は最初から汚いヤツじゃない。
粘る門番なのだ。
口鼻は体内と体外を直接繋いでいる。
だから、害物も簡単に入る。
その為に門番がいるのだ。

アヤシイヤツは通さない。
とりあえず、捕まえておく。
そして喉の牢屋に置いておく。
それが、痰なのだ。

とてもアヤシイヤツは、すぐ出す。
だが、とりあえずアヤシイヤツは牢屋。
その牢屋がいっぱいだと、そのまま体内に流す。
粘る門番付きだから、まぁいいかぁ・・・

だが、本当は良くない。
痰が体内に流れると、消化器系の能力が落ちる。
身体は全て影響し合っているから、他の能力も落ちる。
だから昔は、どの国でも痰は出すのが常識だった。

現代の日本などでは、痰壷などもちろん無い。
代わりに洗面所がある。
うがいは、痰を出す重要な行為なのだ。
風邪の予防時だけじゃないのだよ。

うがい法。
冷水は喉を収縮させるから温水。
紅茶、煎茶、番茶なら、更にいい。
出す時は、共通して力を入れない。

出そうとしないで、浮き上がらせる。
コロコロと時間をかける。
ガラガラ、ペッ、ではないのだよ。
ゆっくり、喉の奥に下ろしてみる。

途中で嘔吐反射の部位がある。
うがいでも起こる場合がある。
だが、そのうち慣れる。
胃の吐瀉物とは違うので、傷はつかない。

うがい法は、単なるうがいではない。
2・3回すればいいわけじゃない。
徹底してやる、という感じだな。
30分する、という意気込み。

あるプロの歌手は30分するそうだ。
洗面器いっぱいの痰を出す。
人間の身体は懐が深い。
出せば、そのくらい出るのだ。

やや上を向くので、首が疲れる。
これが、欠点かもしれない。
だが、その後のスッキリ感と比べられない。
簡単だが、それだけする人は少ない。

大きい便り。
お通じともいう。
日本語は綺麗で意味がある。
通って、体外に出る事が大切。

詰まっている状態を便秘という。
日本では軽く扱われているが、大きな問題なのだ。
様々な病を誘発し、回復を遅れさせ、老化を促進する。
もっと真剣に対処する方法を実践して欲しいのになぁ。

口から入ったモノだけじゃない。
身体中の老廃物も混ざっている。
その仕組みは、今の西洋医学では説明不能かも。
アーユルヴェーダなどでは、当たり前に説明している。

排出は大腸の役割だ。
この大腸は奇妙な位置にある。
下行結腸やS字、直腸はいいとして。
わざわざ重力に逆らって上がる上行結腸。
真横に移動する横行結腸。

意味のない仕組みは作らない。
四本足時代の名残りという説明がある。
だが、それでも納得できない。
小腸から大腸、直腸に並んでいるなら納得できる。

意味のない仕組みを生命はしない。
だから大腸が小腸を取り巻き、多分な蠕動をするには意味がある。
意味は生命を維持し応援する為にある。
老廃物を一周させる蠕動には、それだけの意味があるのだ。

食物残渣を含む老廃物。
その半固形物を約1.6メートルも動かす。
小腸を囲んで、大きく一周する。
蠕動という大きな運動を必然的にする。

つまり、大切な腹に大きな力を使う必要があった。
自動的に体内の氣(生命力)を巡らす事になる。
それにより、体調を整える。
必然的に、自動的に整える。

大腸の蠕動は、体調調整の意味がある。
排出には、体調調整の意味がある。
毎日の排便は、とても大切な理由があるのだ。
いらないモノを排出しているだけじゃない。

大腸が停止している場合。
外から大腸に沿って氣を巡らす。
具体的には、自分の手で時計回りに撫でる。
撫でる優しさと意識にコツがある。
それで大腸は同調して蠕動しやすくなる。

その他、幾つかの方法がある。
とにかく、便秘は生命力の活性を妨げる。
軽く考えないで、早急な対処が必要だ。
若返りに、スムーズな排出は必需なのだ。

食の質、量、食べ方も重要なのは、当たり前。
大腸では、水分の調整も当たり前。
普段の身体の動かし方、動かす量も影響する。
そして、睡眠が大きな影響になっている。

小さい便り。
お小水ともいう。
日本語はやわらかい。
日本語はやわらかいが、意識は狭い。

大小便と一括りで話す場合が多い。
ところが、大便と小便は天地ほど違う。
大は、食物残渣と老廃物と菌だらけ。
小は、血液を生体内で高度濾過した綺麗な無菌水。

排出は、汚れも綺麗も出すところに意味がある。
意識の狭さで、小水まで汚物と勘違いしている人が大部分だ。
人間から出るモノで、最高に綺麗なのが小水だ。
戦時中などの非常時で、消毒として使われたくらいだ。
ただし、無菌状態は、空気中の菌に容易く染まる。
純粋無垢は、ひ弱なのだよ。

大は汚物で小が浄水。
どちらもキチンと排出して生命は活性する。
排出されたモノは、他の何かの役に立つ。
そして、この世は循環している。

小と汗は、元が血液から出ている。
ただし、汗は濾過してない。
老廃物や不要物が混じる。
その代わり、身体を護る「衛氣」も混じる。

小は浄化されているが、血液の余分なモノが含まれる。
主に塩分、香り、色素、尿素などだ。
汗は汚れがあるが、小は汚れは無い。
汗は衛氣で護るが、小は無垢だから弱い。
心も似ていると思わないかぁ?

感情。
社会的動物の人間だ。
素直に全て出すと、いろいろメンドウが起こる。
乳児、幼児なら許される。
生命的には、素直に出す方がいい。

時、場所、場合で適当に出す。
基本は出す。
感情は抑えると障害を起こす。
ガマン強い人は、老化しやすいのだ。

コツがある。
あっさり出す。
出した分、増幅させない。
つまり、引き止めない。
これが、あまり出来てないようだ。

感情は出しても抑えても残してしまう。
ネガティブだけではない。
ポジティブな感情も残すと害になる。
感情は残さないのがいいのだ。

感情は生命活性の刺激になる。
だが、使い切ってしまうのがコツだ。
残すと阻害になる。
心は、空っぽの方が生命は楽なのだ。

感情の出し方、残さない方法。
それは、若返りの一つのコツでもある。
いつでも、あっさりと出す。
後に引きずらない。
朝になれば、新たに始まるのだ。

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第10章
青春



青春。
春は人生を春夏秋冬に分けた場合の春時期。
成人前の時期というわけだろう。
青は未成熟、あるいは成長期を表している。

だが、ワシは迷説の達人である。
通常の説明では、美しい美人みたいで変だと思う。
春は「生命」「性」「生きる力」だろう。
青は、未熟故に真っ直ぐで純でもある。

肉体の若さではなく、心の若さ、という有名な詩もある。
だが、肉体と心はかなり影響し合っている。
心だけでなく、肉体の若さでもあるだろう。
ただし、社会的な若さではない。
その個における若さだ。
80歳の青春は、心と肉体的の両面にある。

青春は若者時期だけじゃない。
幾つになっても、生命を謳歌する時。
だからといって、心だけというのも違う。
肉体と心はセットで青春だ。

青が、ある心の状態。
春が、生命力活性時の肉体。
青春状態が若返りになるのは、当然なのだ。
ある程度の年齢から活用するのがいい。
若者時期は、単なる未熟時期でもあるのだ。

青春は、活用してこそ意味がある。
受身の状態ではない。
自分で使いこなす状態だ。
意識して、青春を活用するのがいい。

多くの人が受身だと勘違いしている。
過ぎ去った一時期だと勘違いしている。
初期の年齢と関連付けてしまう。
固定概念ってヤツだ。

青春状態は社会的常識から外れがちになる。
生命活性より、社会的常識を優先する。
だから、青春を自ら実行するのを止める。
固定概念の大人は青春状態にならない。

何歳になっても、心はそれほど進化しない。
心は進化しないが、立ち回りは学習する。
社会的常識から外れると、ヤッカイが多い。
ヤッカイを起こさない生き方は、青春を過去のモノとする。

青春状態は冷静な社会的大人からは、未熟な青。
自分だけの世界で、社会を認識していない。
だから、大人は青春を避ける。
いつでも、青春状態になれる要素はあるが、避ける。

生命の活性は人間社会と関係ない。
青春状態が人間社会から外れても、生命活性にはなる。
人間社会を外れても、この世の仕組みからは外れてない。
何を優先するのかは、その人の生き方の選択だ。

アホでみっともない生き方かもしれない。
だが、他の目を気にしないなら、青春できる。
それは生命を活性して、若返る。
何を優先するかは、個人の生き方の選択なのだ。

ここで面白いヒントがある。
生命力の活性に関してだ。
生命力活性の土台。
当たり前だが、生命力は個の管轄だ。

社会的活動では、消耗する。
社会的活動は、他に生命を使うからだ。
そこに個の存在意味も意義もある。
あるが、生命力は消耗する。

生命力活性は何故必要か?
個が出来るだけ、長く健康であるように。
それは、この世で多くの体験をする為に。
そして、次世代に生命を繋ぐ為に。

生命は個人的なモノなのだ。
もちろん、多種多様と絡み合っている。
多種多様なモノと活かし合っている。
だが、個の生命力は個による。
ワシが亡くなっても、世界は変わらない。

青春が社会的な役割でないのは意味がある。
個人的な行動も意味がある。
生命力の活性に関与するからだ。
個人的だから、個の生命は活性する。

若返りは、個人的な現象だ。
個的な出来事なのだ。
青春は良悪ではない。
役割の違いだ。

結果がどう出ても関係ない。
青春は過程で生命が活性する。
表現の方法も関係ない。
秘めた青春でも生命は活性する。

ただし、特徴がある。
活性が期間限定だ。
刺激剤なのだ。
一時的なのだ。

本質的に増大するわけではない。
器が大きくなるわけでもない。
停滞する生命の活性剤だ。
上手く活用するのが、青春だ。
何でも青春では、社会が困る・・・

青春が素晴らしいというのは間違い。
素晴らしいという対象にならない。
個の世界だから、評価できない。
あえていえば、・・・愚か・・・

評価できない出来事に、生命は刺激を受ける。
個的な出来事に、生命が燃え上がる。
生物に何故、個性が備わっているか?
その理由の一つがここにある。

考えや行動の正しさは、生命を活性しない。
青春など、間違えだらけだ。
自分勝手の思い込みの考えと行動だ。
それが、生命を活性にしている。
もちろん、他の要素があるからだが・・・

生命の活性は、正誤に関係しない。
関係するのは、性と光。
そもそも正誤は人間の概念だ。
生命は人間の考えなど、どうでもいい。
むしろ、考えは生命活動を阻害する。

ワシは社会破壊を望んでいるわけじゃない。
常識破壊を推薦しているわけじゃない。
社会も常識もそれぞれ役割がある。
ただ、生命活性の役割とは関わり無いのだ。

青春などは、まさに社会や常識から外れる。
そして、生命の活性をする。
正しくはないが、生命には役立つ。
幾度も青春するのは、生命には結構いいものだぜ。

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第11章



青春をカブるところもあるが・・・
恋は青春だけじゃない。
青春は恋だけじゃない。
だが、確実に生命力の刺激になる。
そして、若返りの効果がある。

恋は青春のような勝手が多い。
だが、冷静な恋もある。
生命力の旺盛な若い時期は、生命が恋を起こす。
恋は性を起こす。
そして、生命を繋ぐ役目となる。

相手を好きだと勘違いさせる役目がある。
異性を意識させる役目がある。
その挙句に・・・生物は次世代を作る。
その仕組みの為に、恋という勘違いを起こす。 

詩や小説、演劇、歌、アレコレ。
恋を素敵に表現する。
素敵だろうが、愚鈍だろうが、ウドンだろうがいい。
表現の自由は大切なのだ。

素敵に表現するのは自由。
だからといって、恋が特別に素晴らしいわけじゃない。
生命存続への属性の一つだ。
仕組み上、付いてるのだ。

美男美女だけに付いてるわけじゃない。
充分標準以下でも、安心装備なのだ。
詩や小説、演劇は偏った人選をしているのだ。
読者、観客、リスナーに受けるように人選する。

自分一人。
あるいは、相手と自分。
その範囲で素敵な恋となる。
だが、他から見れば素敵ほどじゃない。
時には、アホ丸出しとなる。

生命力は自分のみ。
他が、どう感じようが関係ない。
自分、自分達が素敵なら、生命力は活性する。
それは、必ず若返りを引き出す。

有頂天。
どんどん上昇している(と勘違いする)。
世の中、バラ色。
世界は二人の為にある。
・・・・元気になるわけだなぁ。

だが恋には欠陥がある。
一つは失恋状態。
有頂天からどん底へ。
生命力が一気に下がるのだ。

もう一つが勝手に思われる側。
ストーカーされる側。
迷惑であり、やはり生命力が下がる。
恋は困ったチャンなのだ。

元々、恋は正気の沙汰じゃない。
一時期の刺激剤。
冷静になったら恋にならない。
酔って、勢いをつけるようなものだ。
やがて醒める。

いろいろ欠点もあるが、恋は必要だ。
正気の沙汰でないから、生命は続く。
生命の大きな流れのオチャメな仕組みだ。
生命の仕組みなら、生命の応援だ。
上手く活用すれば、かなり使える。

活用のコツがある。
受身じゃ使いこなすとはいえない。
勝手に起こる感情に使われているだけだ。
若い時なら仕方ないが、若返りは熟年から必要だ。

恋は能動的に使いこなす。
計算通りにはいかない。
この世の出来事は、全て計算通りにはいかない。
だが、ある程度なら意識で動かせる。

恋は熟年からのグッズだ。
若年時は自動的に起こる。
活用できるのは熟年からだ。
ある程度、意識が使えるようになってからだ。

受動的でも効果はある。
だが、振り回される。
振り回されるのが好きな人もいるだろう。
ヒマな人・・・

若返りに活用するのだ。
能動的に活用するのだ。
計算は出来ないが、予測して使おう。
受動的を純粋な恋と勘違いしないでくれ。
無知を純粋と勘違いしないでくれ。

恋に幻想を抱く。
清い恋、忍ぶ恋、情熱の恋。
純粋であり、ホンモノだと思ってしまう。
それは片面の受身であり、勘違いだ。

純粋がホンモノではない。
多くの純粋は未熟であり、無知でもある。
純粋も不純も複雑も混乱も淫乱もホンモノだ。
当然、打算もホンモノだ。

恋の活用は打算を使う。
もっとも、多くの恋は打算が混じる。
本人が意識しなかったり、認めないだけだ。
容姿、健康、将来性などなど、一瞬の打算が混じる。
純粋だと勘違いしているけど、それは言い訳だ。

打算が混じるくらい何でもない。
生命力が刺激されるならいい。
元々個人的な出来事だ。
他の評価など関係ない世界だ。

老齢に伴う痴呆。
老齢だから痴呆になるのではない。
生命力の低下による痴呆だ。
老齢で生命力が低下した場合に起こる。

だから、老齢でも生命力が活性すれば痴呆にならない。
痴呆であっても、回復する。
老齢、加齢が原因ではないのだ。
生命力低下が原因だ。
そこを活性する一つに、恋がある。

恋は二つの目的がある。
一つは熱病的勢いで相手を意識する。
恋は性から湧き起こる感情だ。
性の刺激は、アレコレがある。

そして、つ、つい、ツガイになる。
まぁ、だいたい次世代が作られる。
冷静に戻っても、もう遅い・・・
若年、青年時の恋だ。

若返り目的の恋。
当然若年、青年は対象外だ。
熟年、老年の為の恋だ。
ツガイにならなくてもいい。
性は刺激されても、子供はつくらない。

ツガイ目的、次代作りにならない恋。
熟年、老年からの恋。
それが主体性の恋だ。
生命力活性の為にある。
青年期の恋は種の維持の為にある。

ワシは元々恋愛感情が苦手だった。
先達と言えるような方々の恋に関する話。
曰く、本当の恋は熟年からだ。
曰く、若い時の恋は、恋の真似事。

ワシは生命力活性からの観方だ。
幾つもの恋を実践してではない。
だが、熟年からの恋が大きな価値があると判る。
生命短し、恋せよ生物達よ。


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第12章



夢も様々な切り口がある。
医学的意味も詩的意味もある。
ここでは「個人的な憧れに向かう事」とする。
よく「オトコのロマン」などという意味に近い。
他からすれば「タワゴト」である。

ところが、このタワゴトも役に立つ。
まぁ、前章の恋も同じだ。
他からすれば「タワゴト」だ。
タワゴトは、個的な生命を活性させる機能がある。

オナゴは恋に生き、オトコは夢に生きる。
日々の生活疲れから抜け出る生き方みたいだ。
だが、それでは拙いタワゴトだ。
生活から逃避しても、ツケは払うものだ。
活用法は、生活の中に恋や夢を入れればいい。

自分の夢を追いかけて生活できる人は少ない。
何とか成った人は言う。
夢は叶う。
叶った人だけが言える言葉だ。

夢に向かう事は出来ても、叶うかどうかは不明だ。
追いかければ、その分近づけるのは間違いないだろう。
実行しなければ、叶う可能性はなくなる。
だが、叶うのはそれ以外の要素が必要なのだ。

それ以前に、生活が破綻すれば夢どころじゃない。
生活を離れて夢を追うのは、とても大きな賭けになる。
だが、生活の中に夢を取り入れれば活用できる。
タワゴトも使い方次第なんだなぁ・・・

恋も能動的なら活用できる。
夢も生活とすり合わせたら何とかなる。
夢は届かないから夢、などと幼稚な理屈を使わない。

夢は幾つも持てるのだ。 届かないほど遠くの夢。
もしかしたら届くかも、の夢。
充分実現可能な夢。
ささやかな、小さな夢。

一つのパターンだけじゃないのだ。
一つだけだと思うのは固定概念。
こだわった夢は、叶った時だけ報われる。
だが、挫折する場合が圧倒的に多い。
せっかく夢を持ったのに落ち込むのは、考えが狭いからだ。

夢の持ち方、使い方。
固定概念を外せば、どうにでもなる。
持つだけで生命力は上がる。
叶う前に活性する。
夢の効果は結果じゃないのだ。

だから結果にこだわると生命力は上がりにくい。
不安があるからだ。
夢の使い方は、結果にこだわらないで持つ。
結果が出る前までが、効果なのだ。

叶ってしまうと、生命力は少し下がる。
次の夢を持てば、上がる。
持ち、維持するのがコツとなる。
結果は単なるオマケと意識できるならば・・・

現実に沿って夢を持つ。
生活の中で夢を追いかける。
生命力を活性する夢の使い方だ。
若返りになる夢の持ち方だ。

現実を離れた夢もある。
生活を離れた夢もある。
それを追いかけるのも、一つの生き方。
僅かに成果となる夢もある。
それらは、結果として多くの人の役に立つ。

だが、生命力は活性しない。
若返りにもならない。
夢は持ち方、使い方で意味と成果が違うのだ。
夢なら何でもいい、というのは無知の言い方だ。
目的により、多くの夢から選択するのだ。

ワシも考えが狭かった。
今でも極狭だ・・・
夢を単一に考えていた。
書いていて、気づかされた。

煽動言葉の、夢は叶う、は幼稚だ。
特に組織が意図して言う時は、確信犯だ。
あるいは、言ってる本人も幼稚を信じている。
だから、ワシは異を唱えていた。

組織の煽動言葉に反応しすぎた。
夢の多様性と活用範囲まで思いやれなかった。
叶う夢もある。
夢に向かう意味もある。

夢は大きいほどいいのではない。
大きな夢もある、という事だけだ。
小さな夢もいいものだ。
手ごろな夢もいい。
夢は多いほど、いいのだ。

多くの夢があれば、楽しみも増える。
幾つもに同時にチャレンジできる。
可能な夢は実現する。
挫折した夢があっても、他に夢がある。

全ての夢が叶うのではない。
世界征服を夢見た指導者は多いのだ。
一攫千金を夢見る衆生は多いのだ。
その夢だけに固執するから、変になる。

多くの夢を持つ。
百でも千でも万でもいい。
持つと生命は活性する。
夢が途絶えると、生きる意欲が減少する。

一つだけだと危険すぎる。
途絶えた反動があるからだ。
遠くの夢だけだと、生命は疲労する。
届かぬ夢だけでは、生命の補給にならない。

夢が増えると生命は活性する。
更に増えると生命は若返る。
通常、生命は質に関係して活性する。
だが、夢は量に関係するのだ。

未来に嬉しさがある。
それが夢だ。
だから生命は未来に向かおうとする。
夢の内容は問わない。

正誤は関係ない。
良悪も関係ない。
夢がある、事が生命を活性する。
その間は生命を活性する。

夢を持てば若返りになる。
持てなければ老化する。
絶望すれば衰退が加速する。
決めるのは、自分次第だ。


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第13章



氣で若返るのは間違いない。
誰でも可能だ。
どんな状況からでも可能だ。
だが、説明も応用も難しい。

種類がある。
天の氣、地の氣、人の氣。
全て、誰でも使える。
だが、応用は難しい。

見えないモノはインチキが多い。
騙されやすい。
占いとか、霊とか・・・
結果がわかりにくいからだ。
だが、氣は結果が出やすい方だ。

生命力を応援する氣ばかりじゃない。
阻害し、衰弱させる氣もある。
例えば、病気。
荒れた氣もある。
例えば、殺気。

この章の氣は、応援する側の氣だ。
正氣、真氣、神氣、元氣などといわれる氣だ。
いずれも生命力を活性し、若返り作用がある。
どんな生物にもあるし、他からの恩恵も受けられる。
事実、受身の恩恵は、どの生物も受けている。

自由に応用できる可能性も誰にでもある。
だが、自由に応用できる生物は少ない。
そこには「意識」と「感性」が必要となる。
人間にとっては、とりわけ「意識」が鍵となる。

恩恵は受けていても、不随意だ。
随意で活用できるにはコツがいる。
感覚も自覚できないと難しい。
感覚は個体差が大きい。

随意は意識で扱う。
意識は基礎に確信が必要。
その上でイメージを使う。
イメージは多様で進化できる。

しかも、イメージは多重でも使える。
体内、対外も同時に起こせる。
コツがつかめれば、だけど・・・
コツは言葉では教えにくい・・・

もちろん意識だけで使えるわけではない。
イメージだけで呼び込めるわけではない。
応援の手段がある。
呼吸が大きく応援する。
そして動き方、あるいは型。

これらは三蜜、三位ともいわれる。
調心、調息、調身だ。
三つがそろうと、氣が動きやすい。
だが、絶対必要条件ではない。

絶対必要は調心。
意識だが、中でもイメージが使いやすい。
絶対ではないが重要なのが、調息。
特に吐き方。
まぁ重要なのが、調身という型や動きだ。

氣をコントロールする方法。
必ずしも練習が条件にならない。
ワシがそうだった・・・
そしてプロの氣功師になった。

プロとして練功はする。
毎日動かす。
そんな事は当たり前だ。
だが、練功してプロになったのではない。

氣の感覚も、ある日突然だった。
いつの間にか、身体が変わっていた。
磁石と鉄の関係。
故御師匠様と同調しただけだった。

氣をコントロールできるようになる。
基本的には誰でも出来る。
だが、期間は個体差。
程度も個体差。
範囲も個体差。

出来てもプロにはなれない。
だが、自分と家族に出来れば上等だろう。
それも維持していくのは、その人次第。
資格免状とは違うのだ。
今日は出来ても、明日はわからない。

氣の活用とは、氣のコントロールではない。
自分でしてもいい。
だが、メンドウならプロに任せればいい。
時にはグッズでも活用できる。
マレには、場所が活用できる。

もちろん氣が理解できなくてもいい。
例えば、太陽の仕組みや大きさ等知らない。
だが、受ければ暖かい。
理解しなくても太陽で植物は成長する。

活用するとは、理解ではない。
感謝に近い。
お日様に感謝できる方が活用できる。
恩恵が受け易くなる。
氣も同じだ。

日の光はコントロールできない。
できなくても、活用はできる。
氣も同じだ。
活用は感謝に近い。

氣は万物の元。
氣の活用が生命力の活性になる。
氣の活用は感謝に近い。
コントロールより感謝。

生命力の活性が若返りに繋がる。
ならば・・・
全ての元が感謝ならば・・・
若返りは、感謝で起こる。

ワシのとっても意外な気づき。
そんな安易な教条的な言葉に・・・
スピリチャル系なら、必ず使われるワンパターン。
だが・・・仕方ない。

氣は応用の方法が多種ある。
感謝という精神的な方法は大きい。
だが、いろいろな方法がある。
今まで、紹介してきた種類も氣が大きく影響する。

氣が乗るか、乗らぬか。
それによって、影響が違う。
結果も違う。
身体も心も氣が乗るか、乗らぬかで違う。

生命力と氣。
切っても切れぬ関係だ。
同じではないが、一緒にいる。
生命力にとって、氣を抜きには動けない。

生命力にとって氣は必需。
だが、氣は生命力以外でも存在する。
多種多様な氣が存在する。
生命力を脅かす氣も存在する。
ここでは、生命力の必需の氣を指す。

氣がないと、生命力を活かすことはできない。
生命を育て、運び、変化させるのが氣だ。
その氣によって、生命力は更に増える。
より活性する。

若返りに必要な生命力の活性。
その鍵となる氣。
それが源氣、元氣、正氣、真氣とよばれる氣だ。
生命力の増大も大切だが、氣の補充も重要なのだ。

若返りにとって、生命力と氣は両輪にあたる。
若返りの方法は幾つもあるが、目的はこの二つだ。
生命力の活性。
氣の充実と補充だ。

生命力の活性は何とか理解できる。
だが、氣の概念が一般的でない。
戦前なら、もう少し理解していた。
明治以前なら、一般的に更に深く理解していた。

日本人は愚かにされた。
西洋的思考が導入された事はいい。
だが、それまでの思考や意識まで捨てたのは間違いだ。
それにより、感覚まで鈍ってしまった。
そして、知識は増えたが、愚かになった。

氣が日常で当たり前に意識されていた日本。
氣が関係する言葉が何百もある日本。
それが現代では、ほとんど意識されなくなった。
その為の弊害はとても多くなった。
多くなったが、そうとは気づかない。

日本人は愚かになった。
知識が増えるのが、利口と勘違いしている。
智恵の活用は利口だが、活用できなくても愚かではない。
全ての大元の氣を意識しなくなった事が愚かなのだ。

全体的な生命力の低下。
それは、生命力の活かし方の低下でもある。
低下の原因の半分は、氣の意識を捨てた事だ。
もう一度、意識し直せば大きく変われる。


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第14章
寿命



人間は、意識、無意識で寿命を設定している。
寿命を幾つに設定するか。
それによっても若返りが起こる。
設定に合わせて、心身が準備するからだ。

実際の死はわからない。
人間は、何時死ぬかわからない。
何処で、かわからない。
どのように、かわからない。

だが、100%死ぬとわかっている。
事故や病気がなくても、必ず死ぬ。
それを寿命として設定している。
ほとんどは、固定概念で設定している。

発表される平均寿命。
あれは0歳児における平均余命だ。
日本人、男79.6歳、女86.4歳。
固定概念に刻まれる。

父母の亡くなった年齢。
その原因。
今の環境との差異。
それらを適当に混ぜ合わせて考える。

あまり突飛な数字は考えない。
ほとんどが、似たか寄ったか・・・
固定概念って、独創的にはならない。
もちろん、真実にも迫れない。

0歳児の平均余命を今の自分の平均寿命と勘違いする。
その分だけでも少なめな設定値だ。
寿命を意識しても、養生は意識しない。
養生を意識するだけでも、生命は延長するのに。

寿命を短くする条件は増やす。
寿命を本来の長さにしようとは思わない。
寿命を長くする工夫はしない。
でも・・・元気で長生きは生命の声なのだ。

若返り現象が起きる。
すると、寿命が延びる。
寿命と若返りは太い通路で繋がる。
だから、寿命の設定意識だけでも若返りが起こる。

本来の寿命を知る。
最長に設定する。
最長に意識する。
心身はその予定で変化する。

例えば寿命を80歳に設定する。
すると、80歳に亡びるように変化する。
80歳になったらイキナリ亡びるのではない。
徐々に衰退するのだ。

80歳に間に合うように変化する。
60歳で衰える。
65歳で病になる。
70歳で痴呆になる。
75歳で寝たきりになる。

寿命を最長にする。
例えば130歳にする。
110歳でも足腰がきく。
100歳までは病知らず。

90歳で60歳台。
80歳でも50歳台。
若返りとしか思えないだろう。
寿命の意識は、心身を変える。

コツは意識の深さだ。
深くまで確信できればいい。
それには、生命の本来の姿を知ればいい。
本来は160歳くらいまである。

細胞の寿命説はいろいろある。
各器官で違うという説もある。
だが、やはり本来は160歳くらいまでみたいだ。
古代エジプトなどの王は数百歳の記録ある。
真否は誰にもわからない。

だが、本来から短く生きているのは間違いない。
環境を悪くして、生きる力を落としているのも間違いない。
未熟な科学信者になって、その場の寿命を信じている。
その為、自分で寿命を短くしているのも間違いない。

今、信じている寿命は間違いだ。
短く短く見積もっている。
それを信じている。
早く老化したいとしか思えない・・・

一番大切なモノ。
幾つか候補があろう。
だが、自分の生命が最大切だ。
生命が無ければ、家族も国も夢も守れない。

その生命をおろそかにしている。
神様、仏様次第・・・
自分で養生する人が少ない。
頭では大切と言いながら行動はしない。
受身の使い方なのだ。

寿命もそうだ。
誰かの発表を鵜呑みにして、自分を当てはめる。
世間の常識内に収める。
自分の生命を世間に合わせる感覚が変だろうに・・・

本来の寿命は160歳。
だが、マイナス要素がある。
産業革命以降の人間は愚かになった。
科学文明と引き換えに、自然環境を壊した。

分析好きになり、自然食から離れた。
電気好きになり、電磁波に囲まれた。
各種電波の渦中で暮らすようになった。
生命を信じなくなった。

本来の160歳からマイナスする。
まぁ、130歳くらいに減ったろう。
その生命を信じなくなった。
80歳くらいで終わろうとしている。

若返り法は本当の若返りじゃない。
本来の年齢に戻るだけだ。
今の2倍の寿命に戻るだけだ。
つまり老化速度を半分にする。

それには寿命の意識を改める。
生命の寿命を理解する。
生命の力を信じる。
生命は信じる相手なのだ。

人は信じられない。
信じる相手ではないからだ。
人は愛する相手だ。
だが、人の生命は信じる相手だ。

信じるに足るモノ。
それを神という。
宗教組織の言う神じゃないぞ。
アレは組織の人間の言葉だ。
人間の言葉は神じゃない。

自然の仕組み。
宇宙の仕組み。
この世の仕組み。
そういうモノを神というのだ。

だから生命は神でもある。
だから生命は信じるモノ。
人は不出来で誤るモノ。
だから、人は愛するモノ。

完成されたモノは信じる。
未完成なモノは愛する。
簡単な事なのになぁ・・・
どうして逆にするんだろう・・・

人の言葉や心を信じる。
当然、違う事が起きる。
裏切った、と勘違いする。
裏切ったのではないのに・・・
無理を信じたのは、己なのに・・・

神を愛する。
必要ないのに・・・
おこがましいのに・・・
愛されてはいるが、愛する対象じゃない。
例えていえば、神に失礼だろう。

生命即神。
生命は信じるモノ。
信じる以外はない。
生命を信じなくて、何で生きられる?

生きるという事。
それは、生命が続く事。
今有る生命を信じる事。
すると、本来の生命に戻る。

生命は自然の仕組み。
だが、その寿命は個が管理する。
毎日暴飲暴食睡眠不足なら、短くできる。
短くていい、と意識すれば、期待に応える。

自然は干渉した分影響する。
不自然を加えた分変化する。
素直な仕組みだ。
正誤はない。

自然の中での生物の生命。
その時の自然状態が最長となる。
干渉した分、短く影響する。
不自然を加えた分、短く変化する。

ただし、生命の自然状態は何もしない事ではない。
個が寿命を管理しているのだ。
生命を信じ、最大限に大切にする。
それが生命への自然状態となる。
当たり前だけど・・・

生物における生命。
最良に管理する。
養生する。
それが、自然状態となる。

動物の生命は受身じゃない。
能動的なのだ。
生命を維持し、伸ばす為に生きる。
最良の生命を次世代に繋げる。
基本であり、目的でもある。

人間は変に思惟する。
生まれた目的は?
どう生きるべきか?
魂の進化を・・・
肝心を忘れる、アホなんだなぁ・・・

立派な目的の為に生命を短くする。
あるいは、何もしないで生きていく。
本末転倒。
基本を外すと、台無し。

下手な努力をしなくていい。
無理な根性もいらない。
生命は優しさで伸びるのだ。
だが、優しさは能動的な行いなのだ。

寿命を本来に戻す。
それは、能動的な動き。
だから、人間は動物なのだ。
すると・・・若返る。


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第15章



生命活性の最大要素。
笑。
それにより喜びが生まれる。
心身が喜ぶ。

笑いは、受身も能動もある。
生命は能動の方が効果が高い。
誰でも使える。
安易に使える。
それでいて、効果は高い。

笑いは通常、受動だと思われている。
悲しい時は笑えないと思われている。
そんな事はない。
どんな感情状態でも笑えるのだ。
笑いは、特殊な行いなのだ。

つらい時に喜べない。
悲しい時に喜べない。
怒りの最中に喜べない。
だが、笑いは出来る。

つらくても笑える。
悲しくても笑える。
怒りながら笑えるのだ。
笑いは感情じゃない。

通常、反対方向の感情は同時に二つできない。
感情と行動は同時に出来る。
つらくても食べる。
悲しくても歩ける。
笑いはそういう行動と同じなのだ。

感情のほとんどは不随意だ。
行動は随意で起こせる。
運動神経の範囲だ。
笑いは不随意と随意の両方で起こる。

呼吸は随意と不随意の両方でする。
両方にまたがるモノは生命の鍵を握る。
受身の不随意ではなく、能動の随意が鍵だ。
変わるコツは、ほんの少しの意志だ。

笑いも受身だけでは変化が少ない。
随意で、いつでも笑えれば変化は大きい。
固定概念で、笑いが感情表現だときめつけている。
固定は、ひっくり返してみるモノなのだ。

可笑しくなくても笑える。
どんな状況でも笑える。
感情が入ってなくても笑える。
声を出して笑える。

そして、笑いは笑いを呼ぶ。
笑いは可笑しさを呼ぶ。
笑いは喜びを呼ぶ。
行ってみれば、解る。

固定概念では逆を想像できない。
出来ないから、出来ない。
心が先だと思ってしまう。
可笑しくもないのに笑えません!
本気でそんな事を言うのだ。

芝居なら出来る。
笑う事も泣く事も出来る。
見せる行いなら、心がどんな状況でも出来る。
それは、誰でも出来る。

泣く事は、少しのコツで出来る。
一部のオナゴは上手い。
十代の学生でも充分出来る。
涙を出すのは、コツで可能だ。

笑いは、もっともっと簡単だ。
小学生でも出来る。
幼稚園児でも出来る。
可笑しくなくても、笑いは可能だ。

誰でも、というのは比喩じゃない。
実際に誰でも無条件で笑っていた。
可笑しくなくても笑っていた。
全人類が笑っていた。
赤ちゃんの時。

赤ちゃんの時に基本がある。
生命のヒントが沢山ある。
人の生き方のヒントがある。
誰でも自分が行った事だ。
忘れていただけだ。

エラソウな本を読む必要はない。
エラソウな指導者の言う事を聞く必要も無い。
誰も教えてくれなくても大丈夫なのだ。
嘗て、自分が行った事だ。

若返りの一つに心の開放がある。
それも赤ちゃんの時に経験済みだ。
赤ちゃん時には、心をいじらない。
心の解明などしないのだ。

この世の仕組み。
つかむと、縛られる。
追いかけると、逃げる。
放すと得られる。

ヒネクレた仕組みだ。
だが、ワンパターンでもある。
単純でもある。
心の悩みは、心をかまわない方がいいようだぜ。
すると・・・笑いが生まれる。

可笑しいから笑っていたのではない。
何でもなくて笑っていたのだ。
笑いが基礎だった。
すると、楽しさ、嬉しさが生まれた。

楽しさ、嬉しさは生命を活性する。
赤ちゃんは生命力旺盛の仕組みの中にいる。
自然と生命力活性できるようになっている。
笑いは、仕組みの一部だ。

だから、誰でも笑える。
いつでも笑える。
どんな状況でも笑える。
忘れているだけだ。

笑いから可笑しさが生まれる。
可笑しさから喜びが生まれる。
喜びから細胞の悦びが生まれる。
細胞の悦びから、生命の活性が生まれる。

生命が活性すると、細胞が活性する。
だが、笑いは逆の方向から元へ影響する。
生命を活性する方法として、細胞を活性させる。
その具体的行動が、笑いなのだ。

多くの細胞学者が確かめている。
笑うと細胞は再生する。
活性する。
脳細胞も再生する。
抵抗力、免疫力も増える。

生命の不可思議な仕組みだ。
特に人類への偏りがある。
生物としての人類の特殊性がある。
もちろん意味がある。
意味のない仕組みはないからだ。

笑いが人類だけに可能なわけではない。
だが、人類が使いやすい仕組みになっている。
笑いが生命を活性し、心身を回復改善する。
もちろん、意味がある。
種の方向性を示唆する行いだろう。

誰でも出来る。
簡単である。
いつでも出来る。
何処でも出来る。
しかも、効果は生命という根本に働く。

故御師匠様が言った。
「笑っていりゃあ、いいのさ」
心身その他の不都合不具合に対してだ。
「笑えば、何とかなる」

最初はわからなかった。
そんな簡単な問題じゃないだろう。
それで解決すれば苦労はない。
苦しみの最中に笑えないだろう。
アレコレいろいろ疑問だった。

だが、今は解る。
その通りなのだ。
だが、理解されるかどうかは・・・
だが、その通りなのだ。

本当の事に説明は無用だ。
説明して解る事じゃない。
理解しなくていい。
実行すればいい。
副作用はないのだ。

理屈で判断しようとする。
それは浅いモノが対象の場合だ。
深いモノ、複雑なモノ、広いモノは無理だ。
笑いは、それらの仲間なのだ。
理屈で笑っても意味がない。

赤ちゃんに笑いの意味を聞けない。
理屈で笑わない。
理由で笑わない。
笑いは自然体で発生する。

自然体で笑う。
意志で笑う。
同じなのだ。
笑う行いがあればいい。

笑えば変化する。
身体が変わる。
心がやわらぐ。
運命が変わる。

大きな笑い。
小さな笑い。
激しい笑い。
静かな笑い。
どれでもいいぞ。

いろいろな若返り方法がある。
生命力の活性法だ。
それぞれが生命の元に関係する。
肉体、意識、精神、生き方に影響する。

どんな方法も深浅がある。
広狭がある。
高低がある。
面白い。

食一つとっても、奥は深い。
幅も広い。
深く、広くなるにしたがって影響も比例する。
肉体だけでなく、意識にも広がる。
精神にも、生き方にも、運命にも影響する。

その中でも「笑い」は特殊だ。
通常の生命力の活性法は個が対象だ。
個の生命力を活性するのだから当然だ。
ワシが美味いモノを食べても、アナタは関係ない。
ワシの夢は、アナタの夢と違う。

ところが「笑い」は場に影響する。
個と同時に場に影響する。
自と他に同時に影響する。
場は遠隔地まで飛び火する。

百一匹目の猿現象。
ある一定量の波動は、遠隔地に影響する。
「笑い」による影響は、それに当てはまる。
「笑い」は、効果と影響力が特殊なのだ。

笑いは、個の生命活性から始まる。
そして、種の生命活性へと広がる。
笑いは、世界を救う・・・かどうか知らない。
が、種を救う潜在力がある。
人間種を救う潜在力がある。

笑いから争いは生まれない。
笑いから戦争も起こらない。
笑いから助け合いは生まれる。
笑いから未来は開ける。

生命活性は若返りにもなるが、
種の規模では繁栄となる。
肉体的だけではない。
生き方としての繁栄となる。

笑いは人間種に特化した行為だ。
特別な事には、特別な意味がある。
特別な意味は、大きな意味がある。 深い意味がある。
それが、笑いという行いだ。

人間種は、今の精神的状態にふさわしくない力がある。
文明とか文化と勝手にいう開発力だ。
自然界を大きく変える力だ。
幼児に核ミサイルと発射ボタンを持たせたようなものだ。

この地球に人間種だけなら問題ない。
誰もモンクない。
地球上に生物が無くなるだけですむ。
やがて、別なモノが繁栄すればすむ。

ところが地球は多種多様な生物で構成されている。
地球交響曲。
優れた比喩が物語る。
全てが、生命を助け合う世界。

人間種だけが、未だ立場を理解できない生物なのだ。
オマケに困ったことに、力だけはある。
理解力と協調性は劣ったままなのに・・・
こんな不完全な欠陥生物はマレなのだ・・・

自分の土台を壊すアホは癌と言われるが、
ホンモノの癌はもう少しマシだ。
ともあれ、創造主は一応神だ(なんて不遜な発言・・・)
神は優しいから、一応道を用意している。
人間がどんなに欠陥品であっても・・・

バカ(人間)とハサミは使い様。
人間も使い方(生き方)次第で役に立つ。
だが、教条的では長続きしない。
何より、ノリがわるい・・・

人間は性格が悪いから、利得で動く。
利得の為なら一生動く。
時には、命さえ削る・・・バカだねぇ。
(まぁ、政治家タイプばかりじゃないから・・・)
だから創造主は誰でも恩恵になるエサをつけた。

その行為(生き方)が「笑い」だ。
エサの効果が生命活性であり、若返りだ。
そして、エサの目的が共存共栄の世界だ。
創造主はオチャメだから、欠陥品の人間に世界を託した。

人間の基礎に笑いを付けた。
赤ちゃんは、いつも笑っている。
不快以外は笑っている。
泣いても、すぐ笑う。

基礎に笑いがある。
だから、何歳になっても笑える。
どんな状況でも、笑いは付いている。
笑う行いで、人間は道を歩ける。
多くの生物の一つとして導かれる。

笑えば若返る。
病は軽減する。
時には、消滅する。
ボケも治る。
イキイキする。
当たり前だなぁ・・・


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あとがき



若返り法はまだまだある。
というより、生命の回帰法だ。
本来の自然体だ。
幾つも幾つもあるのが当たり前だ。

特別ではない。
だから、書いているうちに飽きた。
当たり前の解説だ。
少しアホらしくなってきた。

人間は欠陥品だ。
それは間違いないだろう。
歴史が証明している。
各国の現在が証明している。
アナタが証明している。
そして、ワシが自信を持って証明している。

欠陥品だから、当たり前が出来ない。
証拠は山ほどある。
未だ戦争で同種族を殺しあっている。
立派な宗教、道徳、法律が出来ても変わらない。
むしろ、宗教で殺しあう。

当たり前という自然。
その自然が出来ない。
理解も出来ない。
ついでに、自然を壊す努力をする。
壊す発明もする。
それらが、文明だと威張る。

欠陥品だから、自分達を王と呼ぶ。
生物の頂点と自分で言う。
欠陥品だから、恥を知らない。
知らないのは政治家や官僚だけじゃないのだ。
多くの、ほとんどの人間が傲慢に暮らしている。
他の生物に対して傲慢に暮らしている。

若返りは個の生命力活性だ。
生命の回帰法だ。
そのつもりで書き出したのに・・・
いつの間にか人間種の役割へシフトしている。

ま、まぁ、元々計画とは無縁だ。
だが、面白い。
ワシ的には面白い。
自分が面白ければ充分だ。
どうせ書いても売れるわけじゃなし・・・

個の生命力活性が、種の生命の在り方を示す。
生命のあり方は、種の生き方を示す。
人間が何故存在するか?
何故、地球に存在しているのか?
面白いなぁ・・・

生命を充分謳歌して生きる。
生命を充分活性する。
自然に生きる。
それが、なにより優先する。

発明も文明も文化も目的じゃない。
生命を活性するのが目的だ。
生物は全て同じだ。
生命を充分活かす。
すると、種により役割が自然と出来る。

若返り論ではあるが、自然回帰法でもある。
若返り論ではあるが、人間反省論でもある。
若返り論ではあるが、楽に生きる方法でもある。
生きるのは、自然に、精一杯、愉しく生きる事。

何だかまとまりが出来ないまま。
中途半端な終わり方になってしまった。
いずれ、書き直したいと思っている。
若返り論は、まだまだ書ききれない・・・
まぁ、いいかぁ・・・

というわけで
いつものように

合掌

笑い

で「迷説若返り論」は幕を引く。
(あるいは、煙に巻く・・・)


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