第二章
  観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時 

いよいよ本文だ。
最初に出てくるのが観音様。
通称カンちゃん・・・。
女性のイメージが強いがオナゴじゃない。
といって、ニューハーフでもない。
カンちゃんは人間じゃない。
というか・・・姿が無いのだ。
その事をゲンちゃんは心経で示した。

通常は観世音菩薩という。
「観」は見えないモノを「観る」意味だ。
世(この世とあの世)の音(震動・波動)を観る。
あらゆるモノと動き、働きを観抜く存在。
略して観音様。

ところがゲンちゃんは観自在菩薩と書いた。
人間は進化して菩薩になる(らしい)。
だが菩薩と付いてるが、観世音菩薩は別なモノだ。
観世音をイメージしやすいように、菩薩に例えたのだ。
それが広まってしまった。
そこを混同しないように示した。
当時から混同し、混同を教える人達もいたのだろう。
未だに観音様という擬人化を本気で教える人達が多い。

見えない世界を伝えるのは大変だ。
だから観世音を菩薩に例えるのはいい。
だけど意味が誤解になったのでは元を失う。
最初からつまずくなよなぁ。
ゲンちゃんは優しいから、心配りで観自在菩薩とした。

「自に在」る「観」の能力。
全てに在る「観」の存在。
観自在の言葉は意味があるのだ。
すると「観音」の意味が理解できる。
観自在は観音を活かす言葉だ。

仏教に限らず、優れた経典は例え話だ。
理解度によっては、そのまま受け取ってもいい。
だが、例えを解いていくと、更に面白いのだ。
優れたモノは優しくできている。
優しいモノは面白くできている。
経典がツマランと思うのは、伝え方が未熟だからだ。

「蓮華経」の一品(第二十五)にある観世音菩薩経。
尊称の「妙法」を付け、妙法蓮華経という。
更に尊称の「南無(オン・オームと同じ)」も重ねる。
南無妙法蓮華経となる。
どこかの宗教組織が好んで使うがワシは関係しない。

あらゆる組織は人の組織だ。
当然、欲が絡む。
某キリスト教も某ナントカ教も同じだぜ。
「経」に一番無理解なのは宗教組織かもしれないなぁ。
ま、まぁ、組織はともかく、経典はマトモだ。

妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五。
通称「観音経」だ。
そこでは、観音様はスーパーマン(男じゃないけど)だ。
グレート、ウルトラ、ミラクルマンだ。
名を唱えれば、何処からでも駆けつける。
そして解決してくれる、と書かれている。
観自在が理解できれば、この意味が解る。

ゲンちゃん(玄奘)は優しい。
優しい人は隙が無い。
あるいは・・・隙だらけだ。
自然体といってもいい。
そんなゲンちゃんの心経だ。
本文の最初に「観自在」を持ってきたのも優しさだ。
何度も何度も心経(の意味)を繰り返す内容だ。

「観自在」だけでも心経を説明している。
「観自在」は心経の意味と方法でもある。
般若波羅蜜多(とっても楽になる)への方法。
でもゲンちゃんは優しいから、更に続けた。
心経は何度も何度も意味を教えてくれている。
題字を入れて276文字が意味の多重説明と方法だ。

「観自在」の三文字で心経を理解できる人もいる。
それは決して頭のいい人達の事ではない。
条件無しで、理解できる人はできるのだ。
強いて条件をあげれば・・・力の抜けた人。
だって、観、自、在、と優しく書いてあるんだもの。

それでも誰にでも理解できるように、更に言葉を重ねた。
いくらなんでも三文字じゃ格好がつかない。
あるいは、格好よすぎる。
ゲンちゃんはサービス精神も持っていた・・・。
つ、つい、蛇足を何本も付けていった。

「自」の「在」を「観」る事を「冥想」という。
「在」は「自」の底にある。
底には扉がある。
扉は「全」と繋がっている。
「観自在」は「冥想」なのだ。

心経は「冥想」で解くモノなのだ。
「冥想」というと、難しく感じる人がいる。
それは大間違いだ。
誰でも扉があるし、誰でも出来る。
優しいゲンちゃんが書いたのだ。
頭デッカチの理屈屋が書いたのじゃない。

新たな能力を持て!と言ってるのじゃない。
感覚を磨け!と示しているわけじゃない。
息を吐いて、力を抜けばいいよ、といってるのだ。
力を持つのは一部の人。
だが、力を抜くのは誰でも出来る。
冥想は誰でも出来るようになっている。

(「冥想」とその一方法の「瞑想」を混同しないでね)

「観自在」は自分を観直す事じゃない。
自分を深く見つめる事でもない。
「自」が「在る」事を認めるだけでいい。
「在」が底にあるからといって、底までいかなくていい。
深く潜らなくてもいいのだ。

「行深」を「深く行をする」と訳すから間違う。
深く行こうとすると「力」が入る。
「更に力をぬいてごらん」と訳すのだぜ。
「冥想」は力を抜くこと。
だから、誰でもできるのだ。

「観自在(菩薩)行深」は誰でも出来る。
観音様という超スーパーウルトラマンが行ったのではない。
「観音様とはアンタ(観自在)の事だよ」
「アンタ(観自在)は普通に出来るんだよ」
ゲンちゃん(玄奘)は本文の最初にそう教えてくれている。

「般若波羅蜜多」は題字で説明したままだ。
「とても楽な状態(智恵)」の意味だ。
「時」は「その時」でいい。
何も難しくない。

力を抜くと楽になる。
もっと力を抜くと更に楽になる。
とても、とても楽な状態になれるぜ。

当たり前の事を易しく優しく書いた。

ブッちゃん(仏陀)が最初に説教したのは鳥やケモノ達。
幸せに生きる事を示したのだ。
説教というのは、誰でもわかるように示す事だ。
字が読めない鳥やケモノ達が理解できるのだ。
それは知識で理解する分野じゃない。

ゲンちゃんもホンモノの高僧だ。
だから、とても優しく示す。
易しく示す。
それが心経なのだ。

題字も大事だったが、一行目も大事だ。
高僧は似たタイプになる。
高僧とは優秀な僧をいう。
優秀とは優しさが秀でている、という意味だ。
優しくない高僧なんてありえない。

魂や精神の進化という表現をするなら、
優しさが基準になるだろう。
当たり前なのだ。
そして、他に教える事があるなら、
優しさは易しさになる。
これも、当たり前なのだ。

優しいから、題字で(中)心を表す。
一行目だけでも心(しん)を表す。
ワシのように根性無しもいる。
題字と一行目で力尽きる・・・。

それでも大丈夫だぁ。
とりあえず、題字が読めればいいよ。
一行目でも読んでくれれば、いいんだよ。

ホンモノの高僧が書けば、こうなるのだ。

観音様はアンタの中にいる。
自(分)に在るモノが観音様だ。
自に在るなら、他にも在る。
だから、全てに観音様はいる。
観音様とは「観自在」なんだ。

その「自在」を認めてごらん。
それが「観」という事だ。
「認める」とは「力を抜く」事だ。
「力を抜く」事が「観る」という行いだ。

力を抜けば、気持ちいい。
楽になる。
もっと、力を抜けば更に気持ちいい。
もっと、もっと力を抜いてごらん。
すると自を突き抜けて楽になるぜ。
超、気持ちいい状態になるんだ。

「観音(観世音)」を「観自在」と書いた。
ゲンちゃん(玄奘)はポイントをここに置いた。
だから、本文の最初にもってきた。
超優しいから、素直なのだ。

「観自在」をどう訳すかで、心経全体が変わる。
「偉大な観音様が、アレコレ・・・」
と訳すと、一部のマニア心経になってしまう。
心経は幅広く、奥や底が深く、上も高い。
どんな訳も間違いではないけど・・・

「観音」は偉大とか、聖なるとかは関係ない。
「自在」という事実を「観る」行いだ。
誰でも、どの中も同じに「在る」モノだ。
妖怪や夜叉や鬼の中にも同じくある。
三十三化身という言葉で「観音経」に書いてある。

ワシ的訳。
「力を抜いて楽になろうぜ。
もっと力を抜けば、
超楽な状態(時)になるぜ」

超偉人のブッちゃん(仏陀)やキリちゃん(キリスト)。
何を伝えたかったか?
難しい「悟り」を伝えようとしたのか?
そんなはず無いでしょ。
誰でも幸せに生きる方法のヒントを伝えたのさ。

超偉人だから、超優秀。
超優秀は超優しい人の事。
人々やケモノや妖怪達が苦しむのが辛かったのだ。
他の苦しみは、他人事じゃない。
ならば、その逆もアリ。
それぞれが、自分から楽になればいい。
その方法のヒントが経典にある。
(といっても、経典を書いたわけじゃないけど)

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