第三章
  照見五蘊皆空 度一切苦厄

前の文(第二章)。
「超楽な状態(超力が抜けた状態)の時」の続きだ。
「照見」は「よ〜く見えちゃったぁ!」
それは、秘密にするような事じゃない。
よく見れば当たり前だったぜ、という意味だ。

何かを解明する方向が二つある。
一つは、自分から探求する。
もう一つは、対象が勝手に姿を見せる。
ほとんどは努力と精進で自ずから答えを見つける。
・・・・エライ!

何度も言うが、根性や才能のある人ばかりじゃない。
ナマケモノだって、結構いる。
いる、と思う・・・
きっと、いるにちがいない。
ワシは(自立した根性無しの)ナマケモノだ。
だから他の人の事まで調べない。

だが、ナマケモノだって「知る」方法がある。
「見る(解明する)」方法がある。
相手(対象)が勝手に明らかになってくれればいい。
「照見」の意味は、この方に近いと思うぜ。

「五蘊(ごうん)」は「五つの集まり」の事だ。
だけど仏教用語だから決められた意味がある。
色・受・想・行・識の五つだ。
一応、(認識する)この世の五つの要素だ。
この後の文にも重複して書いてある単語だ。

しょうがないけど、従うかぁ・・・。
ワシが勝手に五つ集めるわけにもいかないのだ。
もし、ワシが勝手に集めるとしたら・・・
色恋・甘受・妄想・乱行・非常識・・・。
おぉ〜!意味は繋がったなぁ・・・。

色は「いろ」じゃなく「しき」だぜ。
「いろ」は見えない世界側。
「しき」は見える世界の全て。
つまり「物質」のことだ。
色界とは物質世界のことになる。

色恋沙汰は、感情世界(見えない世界)。
アレコレ、うっとうしい事柄らしい・・・。
メンドウクサガリ屋には苦手の世界だ。
「いろ」と「しき」は同じ字でも正反対なのだ。
混同しやすいよなぁ・・・。

「(この世の)全て」と書いたら曖昧すぎる。
ゲンちゃんは優しい。
この世とは何か?
ついでに、そんな事も解説してくれているのだ。
心経は、サービス満点の経なのだ。

この世は「色」と「受・想・行・識」だぁ。
色は見える世界で共通。
受・想・行・識は見えない世界で個人的。
この世の認識は(通常は)個人の認識なのだ。
認識は更に四つ(受想行識)に分別される。

この世とは。
五蘊だぁ。
み、短けぇ・・・。

ゲンちゃんは優しい。
だから更に易しく説明する。
更に続けて五蘊を解説するのだ。
心経はしつこく、しつこく、同じ事を解説する。

「皆空」は「ぜ〜んぶ空だぁ」だけど・・・。
「空(くう)」の解き方が、ちょっと重要。
解説者によって様々。
まぁ、大きく分けて二つ。
「何も無い」と「空という構造」が二大派閥。

ワシは独善、独自、ユニークが身上(身下?)。
当然、二大派閥には属さない。
そして、何かわからなくなった時、
基本的な解き方を知っている。

迷った時、どうするか?
基本に戻る。
わからない時、どうするか?
基本に学ぶ。
基本は深いけど、難しくはない。

「空」の意味がわからない。
ならば基本に戻り学ぶ。
基本の戻り方。
素直になればいい。
力を抜けばいい。

ゲンちゃん(玄奘)はここでも宝物を用意した。
経は宝物がアチコチにちりばめられている。
どんな人でも見つけられるようになっている。
その人が見つけられる宝物がキチンと用意されている。
心経なら、更にそれが濃い。

その人は自分が見つけた宝物が心経の宝物だと思っている。
「こ、これは!!」
他の人にも教えようとする。
「心経の隠された宝物(意味)」と思い込んでしまう。
だが、それは、その人用の宝物なのだ。
心経は宝物の宝庫のような経(みち)なのだ。
だから心経の解説は多い。

素直に見れば、観えてくる。
大抵は、そんなものだ。
「空」を素直に見る。
・・・み、見えない・・・
・・・む、空しい・・・
空(くう)は空(むな)しいモノなのだ。

空と対応する心。
それを仏教的には「寂(じゃく)」という。
感情的な寂しさではない。
心の底は知っている。
心の底は「空」に通じている。

本質に寂があるのだ。
それは、何があっても揺るがないモノだ。
素直に心を観れば、寂がある。
寂は不安になる要素ではない。
安心できる基礎となっている。

「空」は頭で理解するモノじゃない。
感覚で理解するのはマレだ。
そういう時には心を使おう。
心は宇宙に匹敵する大きさがある。
心に反応させると「空」は観えるのだ。

誰でも心を持っている。
誰でも宇宙に匹敵する心を持っている。
だから、誰でも「空」を理解できるようになっている。
ゲンちゃん(玄奘)はサービス精神旺盛だ。
心経は幾つもの仕掛けで書かれている。

「空」を理解する事。
それは「冥想」の理解と実践。
それは「この世」の姿を知る事。
それは「自分」の姿を知る事。
それは「こころ」の使い方。

一つが万事。
メンドウクサガリ屋の経典だ。
何か一つ理解できればいい。
理解とは実践が伴う行いだ。
ゲンちゃんは、ホンマモンの高僧だ。
だから、メンドウクサガリ屋なのだ。
心経は短く深い。

更にワシ流に「空」を訳す。
「いいかげん」・・・。
おそらく、日本でワシ一人だけだろう。
「空」を「いいかげん」と訳したのは。
だが、ゲンちゃんは頷いてくれると思うぞ。

この世は全て、いいかげんだぁ〜。
(五蘊皆空)

自分で書いていても、惚れ惚れする訳だなぁ。
多分・・・書かされているのだと思う。
時々、御筆先様が下りるのだ。

「空」が「いいかげん」なら「寂」も同じだ。
誰の心の底にも「いいかげん」がある。
無常、万物流転。
同じ意味だ。
あらゆるモノは「いいかげん」なのだ。

「度」は「渡る」の意味。
渡す、ではなく、渡るのだ。
勝手に渡ってしまうのだ。
ど、何処へ?
な、何が?

「一」は「全て」という意味だ。
始め、初め、という意味もある。
「万(よろず)」を含む「はじめ」なのだ。
「一」は深い意味を内臓している。
ここでは「最初から(始め)から全て」だろうなぁ。

「一」と「一切」は違う。
「一切」を「全て」と訳すのが多い。
「切」を強調字とするのは安易だと思うぞ。

ゲンちゃんはナマケモノだ。
膨大な経を省略して心経を書いたのだ。
「一」と「一切」が同じなら「一」にするさぁ。
そう思わんかぁ?

「一切」は「一」を切る・・・。
全てを切る、という訳でも通じる。
「度一切苦厄」
「苦厄」の全てを切って渡す。
これでも意味は通じる。

だが、ワシはヘソ曲がりだ。
それでは面白くない。
ワシは「切」を「幻」と訳してみた。
すると「(どうせ)全て幻の・・・」となる。
これも、オリジナルの訳だと思うぜ。

ならば「度」も「勝手に渡ってしまう」ではイマイチ。
ここは「どうにか、なるもんだ」と訳そうぜ。
これでこの章の一文の意味が解りやすくなる。
何しろ、ケモノや妖怪などに話しているのだ。

ワシ的訳。
「この世は全部イイカゲンだぁ〜、と解るぜ。
苦しさや辛さは、皆幻みたいなもんだ。
だから、どうにかなるから安心しなよ」

これなら誰にでも話が通じるだろ。
この第二章と三章だけで救われる。
ケモノや妖怪や、ついでに人間にも通じる。
聞くモノ達は嬉しくなる。

難しい話など、誰が聞くか。
そんなの一部のマニアだけだ。
心経は簡潔で、やわらかく書かれている。
救いや安心は「やわらか」にあるんだぜ。

「度一切苦厄」の部分はゲンちゃんのオリジナル。
原文にはない言葉らしい。
ゲンちゃん(玄奘)は何故この言葉を付け加えたか?

膨大な原文の心(しん)を書いているのだ。
余計な言葉など、通常なら挿入しない。
だが、ゲンちゃんは加えた。
それは、この心経が頭で書いたものではないからだ。

「観自在菩薩行深」は「深い冥想」だ。
ゲンちゃんは行深しながら書いた。
すると大元のブッちゃん(仏陀)と同調したのだ。
つまり、この言葉はブッちゃんの言葉だった。
それも抜かす事の出来ない言葉だったのだ。

原文を書いたのも高僧だろう。
だが、ゲンちゃんは原文を超えて心経にした。
直接ブッちゃんの言葉と繋がったのだ。
その証拠がこの「度一切苦厄」の部分なのだなぁ。

次章からは話言葉の部分になる。
何故、話言葉になるのかは、ここにヒントがあったのだ。
このとらえ方はワシの独解だ。
だが、ワシだけのオリジナルではないと思う。

 

第三章は終りです。ご苦労様でした
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