第四章
  舎利子 色不異空 空不異色

第二章、第三章で一区切り。
「まぁ、何とかなるさぁ〜」ということだった。
第四章以降は更に細かく、繰り返しの言葉が続く。
幾ら説明しても、言葉では説明出来切れないからだ。
様々な理解段階があるから、繰り返しは無駄じゃない。

「舎利子」は実在人物名。
でも経だから、もちろん比喩でもいい。
経はマトモに受け取ってもいい。
経は、とてもヒネクレているのも事実だ。
どんな段階からでも活かせるようにできている。

この世を創ったグレちゃんはヒネクレている。
超素直という表現でもいい。
ヒネクレと素直は表現の違いだ。
素晴しい経もグレちゃん(の仕組み)に対応する。
どっちだって、いいんだなぁ・・・。

「舎利子」は呼びかけの言葉だ。
「お前さん・貴殿・アンタ・君」なんでもいい。
一応ここから話言葉に変わるからだ。
場面は、二つ(以上)の世界に重なる。

仏陀が舎利子(シャリープトラ)に話しかけた。
同時に幾つかの場面が重なる。
冥想で同調した玄奘に話しかけた。
心経を通じて、読者に話かけた。
どれでもいい。

「行深」中だ。
2600年前の仏陀と同調する。
仏陀も舎利子も実在人物だ。
丁度、その場面に同調したのだ。
冥想は時間と空間を超えてしまうのだ。


ワシの訳は「お前ぇよ〜」だ。
ワシのブッちゃん(仏陀)イメージがある。
べらんめぇ口調のオッサンだ。
もちろん、魅力的であるのはいうまでもない。

カンちゃん(観音)が舎利子に話しかけたと訳されることが多い。
観自在は各自の内を観る方法(冥想)だ。
カンちゃん(冥想)が話してくれているという表現でもいい。
だが、観音菩薩という特殊な存在が話しているのではない。

ブッちゃん(の観自在)が話している。
それをアンタ達(玄奘も)の観自在が仲立をしている。
舎利子に話しかけていながら、アンタ達にも話しかけている。
ブッちゃんがアンタ達に直接話しかけているんだぜ。
心経って、気分がいいと思うぜ。

「色不異空」「空不異色」の二つ・・・。
ほとんどの訳者は真面目だ。
(い、いや・・・全員マジメかも・・・)
だから、似たような訳を二つ並べる。
心経なのに、それでいいのかなぁ・・・。

心経はこのように似た言葉が多い。
その都度、生真面目に訳す。
・・・それじゃあ、芸がない。
それに心経だぜ。
余計な言葉は重ねない(と思う)。
(後半部分に例外があるけど・・・)

言葉は似ていても、訳は別にしよう。
訳は意味だろ。
言葉にこだわっては、意味の深さが伝わらない。
幸い、日本には俳句・短歌がある。
心経の訳の心構えは、アレだな。

「色不異空」の直訳。
「物質界(色)は実体がない(空)と同じ(不異)だ」
文章としては、何だかなぁ・・・。
禅問答マニアなら喜ぶかもしれんが・・・。

第三章で「五蘊皆空」とアッサリ書いちゃったのだ。
五蘊には色がすでに含まれている。
だから、そのままの訳をすると
「それ、さっき聞いたから」と指摘される。
心経はマジメに訳すと笑われる・・・。

ブッちゃんが静かに話した言葉だ。
「この世(色)は、空しいよなぁ・・・(不異空)」
誰の心にも響く。
苦しんでいる人々やケモノや妖怪の心に響く。
ブッちゃんの話は響くから、聞き入るのだ。

日々、生きているのだ。
いろいろな事がある。
いろいろな苦しみがある。
何故苦しみがあるのか?
ブッちゃんが出家したキッカケだ。

人やケモノや妖怪の苦しみを観てきたのだ。
苦しみがある事を観てきたのだ。
「苦しみは実体がない」という表現もできる。
でも、それだけでは心に響かない。
苦しみを実感しているモノ達がいるのだ。

心経という濃縮した熟字では「色不異空」。
だが、ここは話し言葉だぜ。
そのままの訳では話し言葉にならない。
そのままでは心に響かない。

「生きているって、いろいろあるよなぁ」
「苦しい事も楽しい事もあるし、年もとるよなぁ」
「生まれてくるモノもいるし、病気になるモノもいる」
「川の形も変わるし、村だって変わる」
話し言葉の「色不異空」はこうだったろなぁ。

話言葉だからこそ、優しく説明している。
経に書けば「空不異色」。
実際は優しい目のブッちゃんだ。
全てが愛おしい存在達に話しているのだ。

「ひょっとしたら・・・
空しいというモノがあるとして、
それが、この世にある全てに入っているかもしれんなぁ。
様々な事は実際にあるけど、
常に変化して、イイカゲンだしなぁ」

「苦しさもあるけど、楽しい事にも変わる時がある」
「誰かが死んでも、誰かが生まれ変わる」
「病気にもなるけど、健康になる時もある」
「イイカゲン(空)だからこそ、
この世は(色)救われるかもしれんぞ」

苦しいモノ達は真実を求めているのじゃない。
救い、を求めているのだ。
この世の真実など、どうでもいい。
そんなのにこだわるのは、出来の悪い坊さん達だ。
精神世界に触れて理性を失ったサトリマニア達だ。

ブッちゃんは、優しいから仏陀(目覚めた人)に変わった。
真実を求めての修行は失敗した。
だが、優しさに目覚めたから、仏陀になったのだ。
真実にこだわっていたら、仏陀にはなれなかった。

ゲンちゃん(玄奘)も同じだ。
優しいから(見えない)天竺まで行けた。
優しいから、解りやすく心経を書いた。
優しさが「救い」になる。
真実(を求めるの)は・・・趣味だ。

文字にすれば短く硬い。
だが、話すのは柔らかい。
アイマイな言葉になってもいい。
目的は「救い」なのだ。

ここからの話言葉は優しさに満ち溢れている。
真実に満ち溢れているのではない。
真実は・・・人間では判断できない、と思う。
少なくても、ワシに判断できないのは間違いないぜ。

優しいから言葉が重なる。
似た言葉が続く。
優しさは幾らあってもいいのだ。
真実の言葉なら、似た言葉などいらない。
当たり前だろ。

ゲンちゃんを通してブッちゃんが語る。
ゲンちゃんの書いた心経を通して語る。
心経は優しさに満ち溢れている経だ。
真実などにこだわってない。
だからウソも例え話も平気で語る。
相手が元気になるなら、ウソくらいつくさぁ。

色不異空と空不異色。
何故続けたか?
同じような言葉を何故続けたか?
話し言葉なら納得できるのだ。

「空しいよなぁ(色不異空)」
「だけど、空しさが救いだぜ(空不異色)」
二つの言葉で優しさが溢れるのだ。
これを字面だけで訳したのでは味気無い。
正しいかもしれないが、心が通じない。

この後も同じようなパターンが続く。
優しい話し言葉だから、同じような単語になる。
だから訳を変えてこそ、活きる。
経は、活かして、初めて役に立つのだぜ。

ワシ的訳。
「お前ぇよ〜、この世は空しいよなぁ〜。
だけどよ、空しいって事はさぁ、
苦しさだってイイカゲンってことだろ。
ならば、空しさが救いになるじゃねぇか」

ブッちゃん(仏陀)が舎利子に語った。
同時に多くの苦しむモノ達に語った。
冥想を通じてアクセスしている玄奘に語った。
心経の活用がここにある。
心経はブッちゃんの優しさに直接触れる事ができる。

空しさが救いとなる。
そうでなければ「空」の説明はいらない。
救いにならない「真実」などいらない。
「空」だから、救われるんだぜ。

 

第四章は終りです。ご苦労様でした
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