第七章
  是故空中無色 無受想行識 

「是故空中無色」の直訳。
「それ故、空の中には色(世界)が無い」
そりゃ、変だな。
「色即是空・空即是色」と矛盾する。
マジメに直訳すると、自分で自分の首を絞める・・・。

ゲンちゃん(玄奘)は優しいオッサンだ。
マジメに直訳してはならないよ、と示してくれている。
心に余裕が無いと身動きがとれなくなる、と教えている。
遊び心が心経にはちりばめられているのだ。
それは、大切な宝でもある。
心経を解くポイントでもありヒントでもある。

ここから「無」の連続が続く。
「無」をどう扱うか?
それが、心経を解く愉しさでもある。
ゲンちゃんは、魅力的なオッサンであり、
同時にイタズラ坊主なのだ。

第五章で「空即是色 受想行識亦復如是」と言った。
今度は「空中無色」といい「無受想行識」という。
「無」を「無い」と訳したら、メチャクチャだろ。
無理やりこじつけると、
「空は色ではあるが、空の中には色が無い」・・・
かなり苦しい言い訳で、これでは国会答弁のようだ。

だから「無」の訳し方にポイント(宝)があるのだ。
だからその前の「不」にもポイントがあったのだ。
「不」と「無」を何故使っているか。
心経は全体がとても優しい言葉で綴られている。
衆生が生きる力を湧き出せるように綴られているのだ。

誰が誰に対して言ったのか。
誰が誰に対して何の目的で綴ったのか。
優れた人というのは、優しい人という事なのだ。
それを踏まえれば「不」「無」の訳は解ける。
仏陀達は、決して難しい事は言わないのだ。

「不」を否定語にしない。
「〜もあるよ」という訳し方。
「不良」という言葉。
「悪いヤツ」と否定するよりも、
「良い事もあるよ」「良い子でもあるよ」
という理解の方法だ。

可能性はいつでもある。
決めつけない観方。
この方が深く観ていることがわかる。
否定より肯定の方が深いのだ。
肯定の意味での「不」の使い方もあるのだ。
そのまま「〜にあらず」では、そこでストップする。

「無」も単純に「無い」と訳したら心経が薄くなる。
否定しない訳にするのがポイントだ。
同時にブッちゃんやゲンちゃんの深い教えでもある。

「いろいろな事があるけど、否定すんなよなぁ。
否定すれば、ツマラン人生になるぞ」
心経って・・・優しいから深いのだ。

否定しない訳の表現は幾つもあるだろう。
ワシは「無」を「こだわんなよ」と訳した。
すると意味がとても優しく、わかりやすくなった。
「無」はブッちゃんの伝えたかった事なのだ。
これによって、ブッちゃんは「仏陀」となったのだ。

「こだわらない」という姿勢。
それをブッちゃんは「無」と表現した。
「無」を深く観てみな。
心静めて観てみなよ。
・・・・・・・・・・
「こだわるなよ」という意味になるだろ。

ワシの独善解釈ではあるが、
それは「無」が訴えてきたからだ。
本来の「無」の意味なんだろうな。
無の付く言葉を「こだわらない」と訳してみなよ。
それまでより、ず〜と深い意味になっているぜ。

「無」はどこから生まれたか?
それは「空」からだ。
ブッちゃんが冥想で観たモノ。
全ては「イイカゲン」だった。
それを「空」と名づけた。

「空」は「色と受想行識」全ての構成だ。
ならば、生き方も同時に解る。
仕組みが「イイカゲン」なのだ。
生き方としては「こだわらない」だけだ。
それを「無」と名づけた。

「空」と「無」はセットになっている。
「イイカゲン」だから「こだわらない」
当たり前なのだ。
両方とも楽に生きられる要素だ。
簡単だけど、気づき難い事だった。
ブッちゃんは気づいたから、伝法の行いをした。
伝法は優しく、わかりやすく。

「このように(是故)イイカゲン(空)だからよ(中)、
この世の出来事(色)に、一々こだわんなよなぁ(無)」

20世紀の極東の日本、植木等師が同じ事を言った。
「そのうち、何とか、な〜るだろう〜」
更に600年遡ると、一休禅師も言ってたなぁ。
「大丈夫、何とかなる」
両者ともブッちゃんの教えを正面で受け取った弟子だ。

この世は万物流転の世界。
万物の中には心も入る。
常に動き、変化している。
こだわるの(固定)は不自然なのだ。

絶対法則とか黄金律とか・・・
あるかもしれないけど、本気にしないほうが・・・
因果の法則とか・・・
言霊の法則とか・・・
○○
の法則とか・・・
法則好きな人は「こだわり」が強いと思うぜ。

「ぜ〜んぶ、イイカゲンだったんだぁ・・・」
こんな当たり前に気づくまで、何年も修行した。
ブッちゃんは命懸けで修行しまくった。
死にそうになって、修行を止めた。
真理を追う「こだわり」を解放した。
すると修行への「こだわり」から解放された。

放したら、気づいた。
当たり前に気づいた。
解った時、きっと、大笑いしただろうなぁ。
とびきり素敵な笑顔だったと思うぜ。
その後もず〜と素敵な笑顔のままだ。

全ては「空」だった。
そして、全ての歩き方は「無」だった。
大丈夫。
何をしたっていいのだ。
こだわらなければ、正道だ。
こだわらなければ、中道になる。

「それぞれの感じ方(受)もイイカゲンだぜ」
「考えや思い(想)も揺らいでいるし、変わるだろ」
「身体も変化しているんだ。行動(行)だって変わる」
「受想行が変われば、世の中の見方(識)も変わる、当たり前さぁ」
ブッちゃんは衆生に丁寧に話した。

天気だって、川の水だって変化する。
木や花だって、変化している。
動物も妖怪も毎日、いろいろな事がある。
人が作る村だって、決まり事だって変わる。
人の気持ちも身体も行いも変わる。
そんな事ぁ、当たり前なんだ。

だから、一々「こだわる」と苦しむ。
「こだわり」ってぇのはよ、
変わっているのに、無理して逆らっている事なんだぜ。
こだわっていちゃあ、物事は解放できねぇんだ。
お前ぇ等、楽になりてえんだろ。
簡単だぜ。
手、離せばいいんだ。
それが「無」ってことさ。

元々、判断力は当てにならない。
特に人間の判断は当てにならない。
判断できる、と勘違いしている人間が多い。
マトモな判断ができたら、危機的な現状にならない。
だからブッちゃんは、ここから更に丁寧に話す。
いかに、いろいろが当てにならないか、を話す。

判断できない人間の段階だもの。
真実や真理を追い求めても判断できない。
無駄じゃないけど、捕まえられない。
出来るのは、追い求める事じゃない。
手放す事なのだ。

方向を向く、という事は大切だろう。
楽になれる方向と一致しているのなら。
だが、真実や真理を捕まえられると思ったら、
その時点で方向が狂う。
ブッちゃんは、自らの修行体験で知っている。
そして「無」という鍵を手に入れた。

無(こだわるな)だけでは難しい。
意識は「こだわり」で働こうとするからだ。
だが、空(イイカゲン)を認めれば難しくない。
仕組みが「空」なら「無」は当たり前になるからだ。
心経は「空と無」を示した経なのだ。

無は空で活きる。
空は無で活きる。
「空即生無・無即活空」
「是故空中無・是故無中空」
無と空は強い絆で結ばれた愛人同士・・・。

鍵があれば、経は解ける。
漢字だらけの心経も意味が解ける。
すると、心経は結構オチャメに書かれているのが判る。
ゲンちゃんは高僧だからヒョウキンなのだ。

ワシ的訳。
(第六章からの続きの言葉)
「このように仕組みはイイカゲンだからよ、
この世の出来事に、こだわる事ぁねぇぜ。
自分の心や行いだって、イイカゲンなんだぜ。
失敗や間違いなんて当たり前なんだ。
そんな事にも、こだわらなくて大丈夫だぁ。
苦しみや病だって、こだわるなよ。
大丈夫。何とかなるぜ」

ブッちゃんは衆生達を安心させる為に伝法をしている。
そして、実際に楽になる方法を説法しているのだ。
その大きな鍵が「無(こだわるなよ)」だ。
「空」が仕組みの説明。
「無」が実践方法だ。

この世自体もイイカゲンなのだが、
この世を認識する自分側の感覚や心や考えもアイマイなのだ。
そのイイカゲンは「希望」であり「救い」である。
ただし、希望や救いになるには「こだわらない」事が重要になる。
自分の感覚や心が、つい「確か」だと勘違いしやすい。
だから、この後もブッちゃんは丁寧に話を続けるのだ。

 

第七章は終りです。ご苦労様でした
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